この(2009年)11月、57歳という若さで、全身を癌に冒されて、逝ってしまった。 1976年春、私は横浜の北のはずれで、「緑学園」という学習塾を開設した。その夏休みから、カッパさんが講師として来ることになった。彼を見た瞬間、一人の女子中学生が、「あっ、カッパ!」と叫び、それ以来、塾での呼び名は、カッパになってしまった。ちなみに、私はヒマダ(「ヒ」にアクセントをつけて!)と呼ばれていて、今でも「ヒマダ!」と呼ばれると(もちろん呼んでくれる「子どもたち」は、もうみんなオトナだが)、あの時代の雰囲気が瞬時によみがえってくるのである。 カッパさんが塾にいた年数は、今改めて計算してみると、わずか(!)5年ほどであった。彼が結婚して子どもが産まれると、それまでの給料では生活できなくなったのが、その理由だった(と思う)。彼より10歳ほど年上だったが、私も「お一人様」で、「生活」のことなど全く考えもせずに、子どもたちとの「格闘」に、彼と共にすべての時間を費やしていたのだったし、それが私の「生活」だったのである。だから、彼が家族を養わなければならない(しかも、「障害児」をかかえて!)という事情などは、その当時の私にとっては、関心の外だったのである。今から思えば、ほんとうに申しわけないと思う。そんな私に対して、「給料を上げてほしい……」などと、彼は言い出せなかったのだろうし、言ったとしても、それ以上出せない状況であることを知っていたのであろう。 緑学園設立当時の(学校)教育状況は、それまでの「詰め込み教育」の反省期に入り始めていたのであった。 もう知る人も少なくなったようだが、私が高校のころ、「ソ連」が、人類初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げた(1957年)。「米ソ冷戦」の中で、アメリカにとってはもちろんのこと、日本においても、「スプートニクショック」といわれ、「ソ連に追いつけ、追い越せ」と、「科学技術振興」が叫ばれ、それ以来、学校教育においては「学力向上」が目標となっていった。その一方で「落ちこぼれ」が問題になっていったのであった。したがって、「緑学園」のような、「落ちこぼれ」を対象にした「補習塾」も、それなりに存在理由があったのである。 しかし、時代は変わり始めていた。1973年には、「石油ショック」がおこり、一方で、水俣病をはじめとして、さまざな「公害問題」が噴出して、それまでの「高度経済成長」にかげりが見えてきた。そのような社会状況の中で、緑学園開設の少し前(1972年)には、日教組(日本教職員組合)が「学校5日制」「ゆとりある教育」の提起をし、文部省でも 学習指導要領の全面改正をおこない、1980年度から、学習内容、授業時数の削減、「ゆとりの時間」を設けるようになったのである(同時に、1979年の「養護学校義務化」もセットであったが!)。 こうして「ゆとり教育」が始まると、「塾業界」は急速に「進学塾化」へと変身をしはじめた。学校がやらない「受験教育」を塾に求めるという「親の期待」に応えるためである。ちなみに、今の大手の進学塾は、ほとんどこの時期に変身を遂げて「高度成長」したのであった。 かく言う緑学園は、そのような時代の波に乗ることを潔しとせず(といえばカッコいいが、実は「乗り遅れた」だけのこと……?!)、旧態依然として「落ちこぼれ塾」として存在したために、「あの塾はバカが行く塾」という定評をうけて、しだいに生徒数が減少していった。 カッパさんに子どもができて、「退職」せざるをえなくなったのは、そんな時期であった。 緑学園は、彼が辞めてからも「遊び塾」をやりたいという人たちと共に、さらに5年ほど続いたのだが、時代の波には逆らえず、結局は閉鎖することになってしまった。 思えば、カッパさんと共に「塾をつくってきた」5年間の日々が、私にとっても(そして彼にとっても)、もっとも充実した日々ではなかっただろうか。 ところで、最近の(学校)教育状況は、また以前のように「学力向上」のかけ声のもとに、「能力主義教育」が叫ばれ出しており、「時代は繰り返す」といった感がある。 会うたびに「また緑学園のような塾をやりましょう!」と語っていたカッパさん、そのたびに「ぼくがもっと若かったらねぇ!」としか返事できなかったが、「塾」なんて「必要悪」だと思っている私にとって、「またも緑学園が必要とされるような時代になりそうで、喜ぶべきか、悲しむべきか……」などと、彼の死の2か月ほど前にも話したばかりだった。 |
No.124 - 2010/01/09(Sat) 23:17:32
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