物事は必ず始まりがあり、終りが来る。いつまでも続くなどとという贅沢はこの世に存在しない。そんなことが当たり前となっている。つまり社会一般的には、門出にある私は、大学生活を終え、四月に自宅警備員としての新たな一歩を踏み出すということになっている。
しかし、疑問である。この終りは不変の真理でも絶対的な自然法則でもない。あくまで人為的に創出されたものに過ぎない。人間が人為的に創出された終りを認識し、他の人間がその終りの認識を共有している状況に過ぎない。終りが来るのではなく、終りというものを社会全体で肯認しているに過ぎない。
三月や四月には多くの終りと始りがあるとされ、多くの人々はそこで何とも耳触りのいい終りと始りを物語のように語るのである。そして、終りを寂寥感で彩り、始りを期待感で演出する。しかし、そういった人に限って終りを物わかりよく受け入れ、黙示に終りを肯認するのである。
私は頭も物わかりもよくない。でなければ負け犬でも、自宅警備員でもない。だからこそ始りも、終りも、藤原ゼミの物語も、私が語ることはない。私が終りを認めることもない。
俺たちの藤原ゼミは終わらない、そんなことしか私には語れないのである。 |
No.1269 - 2015/03/09(Mon) 10:42:24
|