初めて書き込ませて頂きます。ジャン・ピエール・メルヴィルの作品は「賭博師ボブ」「マンハッタンの二人の男」「いぬ」「ギャング」「サムライ」「影の軍隊」「仁義」「リスボン特急」の8本しか見ておりませんが、その範囲で長年気付いていて、私にとってメルヴィル作品の大きな魅力となっている点を皆様と共有出来ればと思いました。
メルヴィルは作品中で殺される人物の死体をしつこく撮る事はほとんどありません。むしろ、死者を撮る事を少しでも避けたいと思っているように感じられます。特に、死者の顔をクロース・アップで撮る事は、一部の例外を除き、ありません。 (例) 「いぬ」のモリスとカーン、「仁義」のヴォージェル、ジャンセン、コレー、「リスボン特急」のシモン →息絶えると同時にそのショットは終わるか、死体がフレームから消えます。 「いぬ」のシリアン →倒れると同時にカメラはステットソンを追いかけるので、彼の「死体」は完全に我々の意識から消え、早くも彼の事を偲ばせるステットソンのみに印象が残ります。 「サムライ」のジェフ・コステロ →倒れると同時にカメラはティルト・アップし、彼はフレームから消えます。 「影の軍隊」のマティルド →路上に倒れた死体からカメラが急速に遠ざかり、彼女の体はすぐに、撃たれるショットがなければ彼女であったのかどうかも分からない程小さくなり、しかもこの遠ざかるショットの長さも非常に短いのです。 「リスボン特急」のポール →CENSOREDを遂げたポールをコールマンがベッドに寝かせようとするところでフェード・アウトします。 (例外:死者の顔のクロース・アップ) 「仁義」のプールバーでコレーに(間接的に)頭を撃たれる追手 →追手は2人とも死んだ事を示す情報目的の意味合いが強いショットです。こめかみの血と、見開かれたままの目が確認出来る必要充分な長さで(つまり一瞬で)そのショットは終わります。 「リスボン特急」のコールガール →最も違和感が強いショットです。こういうショットを好んで使う(死体を美化する凡庸な)監督が世の中には結構いますが、私には「メルヴィル的」とは思えなかったショットです。
メルヴィルが死体を撮るのを嫌う理由として、 1) 死者に対して尊敬の念を持ち、その醜い死体を映し続けることによって辱めることをしない(それが犯罪者であろうと誰であろうと) 2) 死んだ瞬間、人は人ではなくなり、単なる醜悪な物体と化すので、それを撮りたいとは思わない の可能性がありますが、私は断然「1」の方であると信じています。
以上、他の文献などで既に言及されている事かもしれませんが、少なくとも私は、このような角度でメルヴィル作品を分析している文章を見た事がありませんので、書かせて頂きました。ありがとうございました。 |
No.856 - 2008/01/11(Fri) 10:03:54
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