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今日のわたし
日記・メモ帳がわりに思い付きを書いています

変化 / ぴあ 引用

自分の内面を変えるコトがどれほど難しい事か。
それを考えれば、他者を変えるコトなどいかに難しい事か、、、。
変わる事を期待することは、おろか、でしょう。

変わろうとしない他者にイライラとするは、おろかです。
むしろ、その人が表現してくれているのは、自分の中にある
頑になって、変化を拒んでいる部分なのです。
そこで周りを変えたいと思うのです。
周りさえ、自分の思う通りであったらと、思うのです。

しかし、ゆきづまって、何か囚われるものがあって、
それを怖れているのだと、気づいたら、一歩一歩と
自分から進んで行くことができるでしょう。

No.143 2005/02/25(Fri) 00:33:11


エゴのワナ / ぴあ 引用

わたしたちは、意識しなければ、ひとりとして、エゴの
ワナから、逃れることは、できないのです。

「人より上に立ちたい」
「自分が優れていると認められたい」

あらゆる所に、このエゴのワナが潜んでいるのです。
そして、なかなか叶わないから、傷ついてしまうのです。

世の中の人がみんな、あらゆる所で、このエゴを
吐き散らしたら、この世の中は、怖い所になりますね。
みんなが、みんなを傷つけて廻るでしょうね。

人間味・・・とは、なんでしょうか?
その人の「弱みをつかむ」となぜ、親しみが感じるのでしょうね。
わたしたちは、なぜ「人の弱み」を愛するのでしょう。

No.142 2005/02/18(Fri) 10:31:59


関係の中で生きる / ぴあ 引用

こうしてくれない、ああしてくれない、と怒る人、あり。
で、その人に聞きますと。

「こうしてちょうだい」とお願いしたのに、してくれない、と怒っているのです。
ちゃんとお願いしたのに、聞いてくれないのは、意地悪だと言うのです。
これも、その人の、自分を正当化している現実です。

どうでしょう。その人は、お願いする人を、見ているのでしょうか?
「この人なら、してくれるだろう」という思いは、あったのでしょうか。
「この時なら、してくれるだろう」という判断は、あったのでしょうか。
また、してくれなかったら、仕返ししてやろうという思いは、あるのでしょうか。
期待が裏切られれば、許せないという気持ちになりましょう。

周囲との関係が分るか、分らないか。
ここに、心の教育というものが、ありそうです。
人には、心があります。
人をモノのように扱うのは、間違いでしょう。

No.141 2005/02/16(Wed) 14:53:32


エゴかわいさ / ぴあ 引用

栂尾の明恵上人さまの逸話があります。

上人に仕えていた小坊主さんが、ある日親元に帰って訴えました。
「和尚さまは無理ばかり言われるから辛抱できない。かみそりの柄が抜けたから直すと、なぜ直すと怒るし、味噌汁を作るために味噌をすると叱られる。便所を綺麗にしようと思えば大目玉をくわせるし、とてもやりきれない」

小坊主さんのご両親は憤慨してすぐに上人を訪ね、なぜ自分の子供を痛めつけるのかと詰め寄った。

すると上人はこう答えた。
「そうムキにになずに、わたしの言う事をよく聞いてください。あのこは、かみそりの柄が抜けたと言って私のあたまをでコツコツ叩いて入れ、味噌をするすりこぎがあるのに杓子を使い、便所を掃くほうきがあるのに仏前用のほうきを使う。使うべきものと場所をわきまえず平気でふるまっているから叱るのです」

これを聞いた小坊主の両親は、わがこ可愛さに話半分を聞いて詰め寄った自分の不徳をわび、
「どうぞもっと叱ってわたしの子を世間で使えるものにしてください」とお願いした、という。

どうでしょう。
これは、我が子と両親の話でありましたけれど、よくよく心で聞いていると。
我が身可愛さに、我が身を使い物にしようとしていない、自分自身に思い当たります。

No.139 2005/02/09(Wed) 14:20:15


いきいきと生きたい / ぴあ 引用

自分の考えや生き方を責任を持ってきちんと説明できることを英語の「アイデンティティ」という。
その内容は、ひとつには『現在の自分と過去の自分とを有機的な連続性を持った、同一性のものとして受け入れることができ、それが未来に向かって開かれた存在として、現在いきいきとして生きている実感がある、という実存的な感覚』
ふたつめには『自分と自分の所属している社会との間に、内的な一体感があって、社会から受け入れられているという感覚がある』こと、だといいます。

そもそも、自分が何者で、何の為に生きているのかを知らず、他者からも信用されず見向きもされず、ならば、むなしく生きていく事になるのではないでしょうか。

No.136 2005/02/02(Wed) 13:02:27

 
Re: 懺悔する心 / ぴあ 引用

某お偉い学者さんが「君主論」なる本の中で、
人間というものは、恩知らずで、移り気で、陰険で危険に出会うと逃げ出し、そのくせ転んでもただでは起きない。いざ犠牲をささげる段になると、たちまち尻をまくって逃げ出すものだ」
と、人間のズルサについて喝破しています。

しかし、実際これは、他人に対して言うことよりも、自分自身に対して言うべき言葉でありましょう。
この言葉を聴いて、他人事のように思える人は、、、。

No.137 2005/02/03(Thu) 15:00:24

 
Re: 表裏ない心 / ぴあ 引用

同じように「人間には、人をCENSOREDおいて平気でオクヤミが言えるズルサがある」と大宅壮一もおっしゃっておりました。
この言葉は、人からおだてられ、奉られていい気になっていると、あとで同じ人から突き落とされ、踏みにじられるから、覚悟しておきなさい、という意味にもなりますね。

このように理不尽な社会を、わたしたちは生きているのです。この世界を突き抜けて、まともな世界を直視してこそ、人として喜びも悲しみも真底から述べる二心ない、人生を生きることができる。
(次につづきます)

No.138 2005/02/04(Fri) 11:36:23


命はだれのもの / ぴあ 引用

自己責任・・自己決定・・というものがあります。
自分の命は、自分で守りましょう。人に御迷惑をおかけしないようにしましょう。
人質問題で、ひとしきり話題に登りました。
では、自分で決定したのだから、それはすべて自分の責任ということで、その人に責任があるということで、いいのでしょうか。また、決定したとはいえ、選択肢のある中で選択したのか。それしかない状態に追い込まれた中で、選択してしまったのか。CENSOREDを選択する人に関しても、自己責任という本人が決めてしまったことなのだから、、してしまったことなのだから、と無理矢理、諦めさせられるような所もあるような気がします。

No.135 2005/01/29(Sat) 10:01:00


受動的な自己主張 / ぴあ 引用

人間には性欲とか本能とかがあり、そういうものの中には、受動的な自己主張もあります。それが変態になるとマゾヒズムですが、受動的な自己主張、、あるいは女性的な本能・・。
女性的な本能は男性にもあります。その要素の多い場合は、誰かにいじめられて快感があるとか、さんざんボロクソに言われたら胸がスーッとした、といった傾向になります。

被害者意識。。。心の中には、人に害されたということに対する憤り、悲しみがある。と同時に、害を与えられるような立場だったということに対しての、自分への同情があります。

No.131 2005/01/22(Sat) 09:54:10

 
自己同情 / ぴあ 引用

自己同情ということが起こると、被害症状は多くなって、いろいろな異常が内攻し、しかもつづいていく。
後になって異常が出てくる後遺症というものの大部分は。自分で自分に同情する心が動くからです。慢性病でも、自分で自分に同情したり、自分が可哀想だとか、なんて自分はみじめなんだ・・とか思うようになると、病気は急に悪くなります。

そうなった頃からマゾヒズム傾向が強くなってきて、続いて行くうちに、可哀想な自分がいよいよ可哀想であることに快感を感じ、みじめな自分がいよいよみじめになって行くことに関心を抱き、同情を持ち、同時にそれが快感に変わって行く・・・ということになります。

No.132 2005/01/23(Sun) 10:08:20

 
そして回復へ / ぴあ 引用

自分への同情というのは、他人は自分のように同情してくれるはずがないから、他人には、むしろ与えられる面を望むようになっているのです。

痛い事、苦しい事、こんなにひどい事をされなければ治らない、、それほどひどい目にあったんだ、、そのために●●が不自由になった・・●●のため寝たり起きたりの生活をしなければならない、とどこかで満足している。

こういう状態から回復して行くには。。
治すのにも、痛い事に満足しながらも逃げたくなり、逃げて行きながら満足するという痛みの与え方が必要なのです。ただ痛いからそういう気持ちが満足するのかと言うと、そうではありません。
心のもうひとつ奥に、その「痛み」が入って行くようにするのです。

No.133 2005/01/24(Mon) 11:12:34


ある禅僧の話し / ぴあ 引用

禅僧が、若い雲水たちと托鉢しておりました。
すると、1人の幼女が道端の小石をひとつ拾って
コロコロと走り寄り禅僧に差し出しました。
禅僧はなんのためらいも無く、正しい作法で
その石をいただいて、頭陀袋へ納めたまま寺に帰ります。

それを観ていた雲水は
「石など持ち帰らず途中で捨てたらいいのに」
と、思いました。

No.127 2005/01/08(Sat) 00:43:00

 
Re: 機縁に恵まれる / ぴあ 引用

価値あるものだから、いただく。
価値のないものだから、捨てる。
これは、偏執ですね。
受けるものも、施すものも、無心。
そのもの自体も無心。みっつの無心の出会いがありました。

その小石は禅僧の机の上に、大切に安置されています。

No.128 2005/01/10(Mon) 14:22:42


目的 / ぴあ 引用

これまでの人類の生き方。それは「生存の為の闘い」でした。
それが一般的な人生の指針でした。
しかし、これからは違います。
人類全体が「魂の成長を目的」とした人生へと転換して行く。
今、ちょうどその時なのです。

この精神の転換が果たせないと、人類は、この惑星における
生存そのものが不可能になり、死滅します。
人類はもうすでに、このことを無意識で知っています。

No.126 2005/01/05(Wed) 23:27:02


至心 / ぴあ 引用

至心(真実心)とは私達の心の最も深い所に隠れている、真実の感情です。ほとんどの人は、この感情を眠らせたまま、この世を去って行きます。しかし、私達の存在、生きている理由・・本当の人生は、この至心に目覚めた瞬間から、始まるのだと言えましょう。
この真実の感情は、私だけの個人の感情ではありません。この感情と自分がつながったとき、私達は過去・未来、いきとしいけるもの、全てとつながっている実感を、得るでしょう。

No.116 2004/12/27(Mon) 11:49:49

 
Re: 至心 / ぴあ 引用

ここに静かに座って、自分の心を感じようとする時。まず感じるのは瞬時ごとに受け取っている身体感覚でしょう。
それは毎瞬変化し、そして身体全体として起きていることです。また、だから雑事に追われて忙しい日常の意識では、至心を認識することは難しいのです。わたしたちが自らの心が、よく見えていないのは、このためです。
さて、その全体感覚を抜けて、さらに奥に奥にと、自らの心を見るならば、そこに沢山の抑圧された感情が溜め込まれていることがわかります。
孤独、怖れ、悲しみ、無力感、取り残された気持ち、怒り、絶望・・・などです。

No.119 2004/12/29(Wed) 12:09:00

 
Re: 至心3 / ぴあ 引用

怒り、とは何でしよう?それは、理解されないことへの悲しみ。絶望的なまでに理解されたいという感情の転化された心情です。
悲しみ、とは?それは、充分な世話を受けていないことに対する痛みです。
怖れ、とは?生きるに値しない、価値なき存在として、捨て置かれることへの不安です。

層になって澱になって溜まった抑圧された心。わたしたちの抑圧された心に、存在している、これらすべての感情を一言で表現するならば「ただ、泣きたい」という切なさでしょう。そうです、慰める言葉もなく、ただ泣きたいのです。わたしたちは、心の奥底では、いつも、いつも、泣いているのです。
この「泣きたい」という感情は一体、なんでしょう?
この奥には一体どんな感情が隠れているのでしょう。

それは、強い「願い」です。今、自分の味わっているこの痛みを、誰にも、与えたくないという。

No.120 2004/12/29(Wed) 12:10:52

 
Re: 至心4 / ぴあ 引用

心の核にある、わたしたちの心。至心(真実心)。
溢れるような強い心が、躍動しています。すべての人に対して、痛いほどに与えたい。悲しいまでに与えたいという思いが。

安らぎを与えたい。
喜び(愛)を与えたい。
気遣いを与えたい。
幸せを与えたい。
なんであれ、人生の良きことを。
そして、これこそが、すべての人の心の奥底にある隠された至心(真実心)なのです。

そこに至った時、はじめて、わたしたちは「じぶん」として生きはじめるのです。

No.121 2004/12/29(Wed) 12:18:20


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