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今日のわたし
日記・メモ帳がわりに思い付きを書いています

よしあし / ぴあ 引用

ある時に、自分を非難する場と出会う。
すると、己が悪いのか、誰が悪いのかと、思いますが。

わたしは、非難を受けた時、その人は、自分の影を見たのだ、と思うのです。もし、私が悪者だとしたら、私は、私でいては、ダメということですね。
もう「生きていて、すみません」という状態です。
心はとたんに、シオシオになるでしょう。

しかし、思うのです。
私を100%、受け入れる人なんて、いないのです。
誰かを100%、受け入れるなんて、出来ないのです。
「私が、生きて居る事で、御迷惑をかけました」。
と、思う気持ちは、100%、受け入れられなければ、
生きていてはいけない・・・ということでしょう。

あなたは、私を、100%、受け入れる必要はありません。
と、私は、宣言いたします。
あなたは、あなたのままで、生きて行ってください。
わたしは、わたしのままで、生きて行くことを、許されますように。と、祈ります。

No.115 2004/12/23(Thu) 15:12:55


どこに置くか / ぴあ 引用

「結局は、生きて行かなければならないから」・・・これは、言い訳です。
わたしのエゴが、そう囁くのは、落とし所を求めて、妥協したのです。

人生の価値を「こころ」に置くか、肉体に置くのか。しかし、価値を肉体に置くと、人生の価値を低く見る傾向があります・・「なんだ、こんなものか」と。人間なんて、こんなものだ、と。
肉体の世界に依存していたら、もう心なんて、どうでもいいのです。ただ生活が保証されたり、世間体が良ければ・・・それは、恐ろしいことです。ベルトコンベアーに乗って偉そうにしているだけですから。

しかし、心に置けば置くほど、人生と言うものは物凄く得難いもの、気高いものになります。深いものだと。

No.114 2004/12/23(Thu) 11:05:26

 
Re: どこに置くか / ABC 引用

>「生きて行かなければならない」
言い訳ではないと思いますよ。当たり前のことだと思いますよ。
全てのことは生きていてこそなのではないでしょうか?
心と肉体は切り離せないと思います。
ベルトコンベアーでもなんでも物質(肉体)的な安定の上に心の余裕、豊かさがあるのではないのでしょうか。

No.118 2004/12/29(Wed) 10:02:01

 
Re: どこに置くか / ぴあ 引用

「生きて行かなければならない」

こう言って、わたしたちは、心を置き去りにしていく。
人の思いを、捨てて行く、ことがある。
ということを、言っているのです。

つまりは、なんのために、生きるのか。ですね。
食べて行くために、生きるのですか?
心を喜ばせるために、、、ではないのでしょうか?

物質的な安定、というものは、ないのです。
だって、常に、変化していくものでしょ?
安定しない物の上に、心を置いていて、いいのかな?

No.122 2004/12/29(Wed) 14:06:29

 
Re: どこに置くか / miu 引用

>生きていかなければならない

そういう時は心が弱くなっている時ではないでしょうか
そんな弱さを認めたくないのかもしれない
だから置いたことにしていく
けれど、沈黙しているだけで心は共にあると思います

私たち自身が不安定な存在であること
安定し続けることはないと
今という一時の安定の中で出来ることを互いにしていくのではないでしょうか?

武田鉄矢さんが江戸時代の人の言葉で、と言って
「揺るぐ大地に驚いて、揺るがぬ大地に何故驚かぬ」
昔の大震災で、苦しみ続ける人ばかりではなく、希望を持って生きる人たちがいたから今の自分、時代があると

そんな感じのお話しでした。

勝手にお話しに便乗しちゃいました。失礼しました

No.124 2004/12/30(Thu) 03:06:33

 
Re: どこに置くか / ぴあ 引用

心が、弱くなっているのかもしれないし。
あるいは、鈍痲して行こうとしているのかもしれない。
鈍くなることで、痛みを感じないように・・と・・。

ただ心無く、生きるより。心をもって、生きる。
本当に、そういう意識で生きると、自分も軽くなるし、
相手も心が軽くなるんですよ。重く、生きないことね。

No.125 2004/12/30(Thu) 10:29:57

 
Re: どこに置くか / ABC 引用

「生きて行かなければならない」から
→「生きていくため」
と言ってみてはどうでしょうか?
食べるのは基本的に生きるためですね。
「何のために生きているのか」は今の私にはわかりませんが、「生まれてきて今生きている」というのが現実、という感じです。

私たちが「心」と認識しているもの(観念?)だって常に変化していると思います。
生が終わったら無くなるものかもしれないですし。

No.129 2005/01/18(Tue) 02:08:34

 
Re: どこに置くか / ぴあ 引用

ほとんどの人がね。
生きているから、行き続ける、のでしょうね。
なんのために生きる。。。目的意識は、いろいろ。
実際は、それなりの目標がないと、自分の進路は
決まらないと思いますけど・・・。
何をしたらいいか、わからないから、とにかく
大学は出ておこう、生活しなければならないから
就職しておこう、体裁が悪いので結婚でもしよう。

こんなふうに、流れに乗って、生きていく人。
が、もしかしたら、大半かもしれない・・ですね。

No.130 2005/01/18(Tue) 11:23:30

 
Re: どこに置くか / 迷子 引用

ぴあさん、はじめまして

私には、ぴあさんのおっしゃっていることが
わかるような気がします

『生きる意味』がなんであるのか
私にもはっきりとはまだ言葉にすることができませんが
でも
『生きなくてはならないから生きる』
とは思っていません

『生きなくてもいいから死ぬ』、、と命を絶つ人もいるでしょうが
きっと、そこはものすごく深い悲しみがあると思います

なぜ悲しいのでしょう
なぜ絶望しているのでしょう

肉体的、物質的幸福感を求めたからではないと思うのです
本当は、
心に価値観を置きたかったからではないか
と思うのです

最近になって
『心』の大切さをとても感じます
物質的には恵まれなくても
『心』が豊かであれば
人は幸せに生きていけると感じています

そのためにも、
肉体的、物質的に恵まれないことに言い訳を置くことなく
自分の『心』、人の『心』
生きるものの『心』を
感じることができるようになりたいと思っています

No.134 2005/01/28(Fri) 09:52:32

 
Re: 迷子さん / ぴあ 引用

私たちにとって、確かなのは「こころ」だけです。
いま、あるものは、いつか去り、失われ、変わり行くもの。
それを頼りに生きるのは、不安なのが当然なのです。
「こころ」以外、頼るものは、何もないのです。
だからこそ、大切にしていきたい、ですよね。

迷子さんの言葉が聞けて、嬉しかったです。ありがとう。

No.140 2005/02/09(Wed) 14:37:28


モデル / ぴあ 引用

人間は「自分」の生き方のモデルを作ったことによって、自分が「自分」だと「意識しはじめる」のではないか、と思うのです。私もある日、自分が自分であると、気付きました。

私の中に、モデルが、何人もいます。それが統合され「わたし」という人間になったのです。

私が私であるのは、人間としてのアイデンティティを持つ事ですが、それは自力では、出来ないのですね。人間は、人間関係のなかで、他者の中に自分を見い出すことによって、はじめて、安定したアイデンティティを持つ事が、可能になるのです。

No.110 2004/12/20(Mon) 01:05:48

 
Re: モデル / miu 引用

初めまして?こんにちわ? miuです。

こちらの<今日のわたし>へレスしてもよかったのですね。ここ、好きですよ。ヒントがたくさん。

私は過去、自分の中に分裂したものがたくさんあり、おそらく、ひとつにならないことで苦しんでいました。

仕事で素敵な笑顔をしているのがその人の全てでもなく、嫌な顔をしている人がその人の全てでもなく。
いろんな自分があっていいと。
モデルから役者になりきることがいいのかもと感じるこの頃です。
一番はふとした本音の笑顔が見れる事、自分も出せることなのかな?
誰かがいてこそできることですよね。

No.111 2004/12/20(Mon) 14:07:20

 
Re: モデル / miu 引用

あ、仕事で、という限定は間違いです。

No.112 2004/12/20(Mon) 14:10:53

 
Re: モデル / ぴあ 引用

miuさん、はじめまして。。
わたしたちは、たくさんの人格が集まって、1人の人間が形成されています。オーケストラみたいなもの、ですね。みんなが勝手に演奏したら、雑音になりますね。

自分が「自分」だと「意識しはじめる」のは、「自分」でいられなくなるから、ではないか、と思うのです。社会生活するために、わたしたちは「自分」でいる事を抑えるようになります。いろいろな葛藤、、矛盾した感情・・そして、「自分」でない「自分」を演じるようになる。そのうち、自分でも「演じている自分」が自分だと思うようになってしまう、のかも知れません。

No.113 2004/12/21(Tue) 02:20:27


光りと影 / ぴあ 引用

例えばわたしたちは、他者に自分自身を投影して見ます。
さもなければ、わたしたち自身のこころを、はっきり見る事ができないからです。しかしわたしたちは、時々、それを相手のすがたの実体でもあるかのように錯覚してしまいます。

光がなくて闇だけでは、何も見えませんよね。
そもそも、自分が存在しているか、さえもわからなくなります。見る為には、存在を実感する為には、光が必要なんですよね。そして、光があるということは、必ず影があるのです。ですから、影をしっかり見なければ、自分自身はみえません。

No.102 2004/12/13(Mon) 13:09:24

 
Re: 豊かな世界へ / ぴあ 引用

自分自身の影(ネガティビティ)を避けていると、自分と同じ影の部分を持っている人を、アタックしますね。「あの人は嫌い」というとき、実は、その人は自分の影を持っています。しかし、その人の別の面をみれば、多分それは、別の面で出会います。
すべて他人が持っている光も影も、自分に内在しているのです。・・・他人の影は自分の影。他人の光は自分の光。
他が持っている全ては、自分に内在しています。たくさんの人との出会いは、たくさんの自分自身を見るチャンスなのです。

もし、自分自身を嫌っていたら、人と出会うのも、怖いですね。見たくないものを、見ますから。常に自分は攻撃されている、否定されていると感じるでしようね。

No.103 2004/12/13(Mon) 13:11:11

 
Re: 光りと影 / kinumoto 引用

 ぴあさん久しぶり!年も暮れてきました。最近は夜に出勤(早朝ね)、夜に帰宅してます。電車に乗っている最中に日が昇って明るくなってきます。
 
 上記のぴあさんの言っていることって、僕は結構すんなり理解できるんですよ。というか、励みになるというか。でもさ、世の中には死ぬまでの間にそのことが全然理解できなくて死んでしまう人っていっぱいいそうな気がするんです。わかる人とわからない人の差って何だろうって時々考えるのだけど、僕の経験則でいうと、人間ってそもそもは全く非常識っていうことがとてもとても理解できないっていう人が、なかなか影を見ることができないのかなって思いますよ。だって、影の部分って非常識であり且つ個性的な側面ですよね?

 年末にしてそんなこと考えてしまいました。

 

No.106 2004/12/15(Wed) 19:27:28

 
Re: いらっしゃい / ぴあ 引用

どうもーー。早くに出勤だと電車は座れますよねぇ。いいなー。
いや、暗いうちに起きるのは、いやだけど〜〜〜

はい。そうですね。わからないまま、死んで行くのでしよう。ほとんどが。
そいう人生は、ドラマの予告を見ただけで、ドラマを見た、と思うようなモノ・・かな。
影の部分にこそ、ウマミが詰まっているのですよね。それこそ「当たり前」が、逆転した世界。kinumotoさんの言う所の「非常識であり且つ個性的な側面」ですね。骨までしゃぶる。皿までなめる、ように人生を楽しみたいですね。

No.107 2004/12/16(Thu) 00:31:17

 
こんにちは^^ / 橘 引用

「光と影」、とても共感しました。

私が今してるバイトは、子ども相手のものです。
時々、子どもを通してそこに自分の姿を垣間見て、どきっとすることがあります。
そして、その姿って往々にして、好ましくないイメージだったりするんですよね。
認めたくない自分の姿、だったりとか。

自分を好きになるって、けっこう難しかったりします。
でも、それが全ての第一歩なんじゃないかな〜と最近思うようになりました。

最近は、あまりストイックになり過ぎないように心がけてますけど。
ま、それもあり、ってことで・・・くらいな気持ちでいこうかな〜と・・・^^

No.108 2004/12/16(Thu) 22:18:40

 
Re: ありがとう / ぴあ 引用

橘さん。こんばんわ。
そうですね。いろんなものに、自分を写します・・・わたしたち。
「好ましくない」というのは、何かの摺り込みがあるのですよね。
「わたし」が勝手に、これはイイ、これはワルイと思うはずがないのですね。
そういう、、気付くこと、、大事だと思います。
「私を見せてくれているんだな」と、思えるか「好ましくない」と責めるか・・・。
自分が嫌いだと、責めますね。自分の姿だと、気付かずに。
「私を見せてくれているんだな」と、「これが自分だな」と思えると、自分が好きになりますよ。ホントに。

No.109 2004/12/17(Fri) 00:07:42


ひとつぶの種 / ぴあ 引用

わたしたちは、生まれてくる時に、人間の力を超えるものによって、備えられた体や、体を育てる力を持って産まれて来ました。
そして同時に、いくつかの徳のひとつを戴いて来ました。
その徳がその人を動かすひとつの聖なる力です。

その力によって桃の種を植えたら桃の木として成長し、菜の花を植えれば菜の花になるように。
その力は、おのおの自分の中に、持っている種のようなものなのです。

No.101 2004/12/10(Fri) 03:18:20


痛みの元 / ぴあ 引用

心の奥の、底の底にある、もともとある、痛み。

この「痛み」というのは、どういうものであるか。

それは。。
この世でどんなに素晴らしいものを、得たとしても、
わたしたちは、それをすべて、捨てて、去らねば成らない。
永遠に、この世にありたいと、願っても、、、
その事実を、だれもが、知っているんですね。
どんなに愛していても、大切だと思うものが
あったとしても、捨てなければならないのです。

こんなに、哀しいことは、ないですね。

だから、私達はときどき、愛するのを止めたい。
と、思ったりするのです。
愛されるのを、止めようと、思ったりするのです。

No.100 2004/12/06(Mon) 12:35:52


アレンジメント / ぴあ 引用

自分の中には、真実のココロ、というものがあります。
自分の意識している心よりも、もっと深い所にあります。
心のすこし深い所に入っていくと、いろんな感情が隠れている
ことに、気がつきますね。怖れ・不安・不信・不快・怒りなど。

怒りの感情の奥には、なにがあるのでしょう。
怒りの感情の奥には、理解されない悲しみがありますね。
そしてその理解されない悲しみの奥には、なにがあるのでしょう。
そうやって、認識した感情を、どんどんと、たどって深い所にある
自分の「真実のココロ」に気がついていく。

わたしたちは、それぞれ違う人生のプロセスをたどって来たことで、
それぞれ異なる心の問題を抱えています。

たとえば「子供の頃、自由がなかった」という傷がある、とします。
その「自由がなくて苦しかった」という思いの心の奥にある気持ちは。
「他人に自由を与えたい」という気持ち、です。
「人は自由なのだ」という思いです。

その思いがなければ、自由には、なんの意味もありません。
自由でなくても、苦しいと感じないでしょう。

わたしたちは、自分の苦しみによって「自分の人生のテーマ」に
気づくのです。「わたしは自分の人生で、人に何を与えよう」。
これが、ひとりひとりの、人生の目的です。
哀しい体験も、苦しい体験も、みんな自分が生まれてきた事の
意味を知るために、ありました。

それぞれが、なんらかの使命を持って生まれたからこそ、
それぞれに、別々の辛い体験が、与えられたのです。

No.99 2004/12/03(Fri) 12:30:17


心の本質 / ぴあ 引用

わたしたちは子供の頃から、つねに「良い子でいなさい」というプレッシャーを、親から、社会から受けてきました。しかし、それが自分の内面からの声となって、自らを縛り付けるようになると、自分自身に直面する事を、邪魔するようになります。

親にとって良い子、学校にとって良い子、会社にとって良い子、、社会にとっての良い子。
これは、自分と他人を比較して、周囲の人に対して「よいこ」である、ということです。

No.98 2004/11/29(Mon) 11:52:54


測れないもの / ぴあ 引用

欲望が強いほど、多いほど、満足と言うものに手が届かない〜〜
そして、「不幸だ」なんて思うんぢゃないですか。

まあ、相応の欲望。
手が届く程度の、喜び。
であれば、いつでも「幸せ」を感じられる。
ような気がします。

不幸だと思う人ほど、どでかーい欲望を
抱えていたりするんぢゃないかなー、、
叶うはずのない、望みを胸に〜〜〜
一発逆転を狙って・・。
などと思う、今日このごろ。ぼちぼちーと。

No.96 2004/11/24(Wed) 14:20:13


結心 / ぴあ 引用

結心という心の状態があります。
これは、ひとつは、他人の心の中に入る事です。
もうひとつは、相手の全存在を、まるごと、自分の中に入れる事。
それが、同時に行われている、状態です。

相手の全存在を、まるごと、自分の中に入れる事。
は、あんがい、楽に出来そうです、が。
他人の心の中に入る事は、本来、とても失礼なことです。
なぜなら、相手の心に土足で踏み居る事に、なりかねません。
そこで、どうしたら、入れるか、というと。
相手の魂の成長を願う事が、前提と成ります。

どこを、通じて、相手の心に入ることができるか・・・。
それは、相手の「痛み」を抱えている部分からです。

No.95 2004/11/22(Mon) 00:52:36

 
Re: 結心(2) / ぴあ 引用

人は、誰でも、胸の中に痛みを持っています。
自分自身の痛みの自覚によって、相手の痛みを感じ取る。

相手の痛みが、自分の痛みより、もっともっと
深い所にあったとします。
(もちろん、自分が自分の痛みの深い所まで、自覚していない
自覚の足りなさから、起きてくることかも知れませんが・・。)
わたしには、相手の痛みの場所まで、到達出来ない。
そのとき、どうするかというと。

懺悔の気持ち。
わたしには、ここまでしか、到達できません。
わたしは、ここまでしかありません。ごめんなさい。
すると、、、
相手が、自ら自分の心を開いて、導いてくれるのです。

No.97 2004/11/29(Mon) 11:42:33


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