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今日のわたし
日記・メモ帳がわりに思い付きを書いています

真実の見方 / ぴあ 引用

「なぜ・・?」と言ってはいけない。
と言う人がいます。

「なぜ・・」の後に
責めるような言葉が続くから。
でしょうか。

なぜ、自分に、こんなヒドイことが起きたの〜
なぜ、頭が悪いの・・・
なぜ、言う事を聞かないの!

うーーん。
暗くなるなぁ。

「なぜ・・」を発する、ということは
現実を受け止めたくない。
という意思表示になるんですね。

そして「なぜ」でなく「どうやったらいいか」
という方向に向かわせたらいいです。
と・・・なります。

このヒドイ境遇をどうしよう。
この頭が悪いのを、どう変えよう。
言う事を聞かせるには、どうしたらいいか。

ということになりますね。
「なぜ」では拒否していますが
「どうしたら」では受け止めています。

あったことは、あったこと。なんですね。
ないことには、出来ないんですね。

で。さらに言うと
「どうしたら」も、いらないんじゃないかな。
現実は、もうすでに、受け止められていますから。
「どうしたら」は、結局、現実の否定かも。

あったことは、あったこと。
つまりは、もう過去なんです。
終わったこと。なんです。

そうしますと。
「何が自分に起きたのか」を、ゆっくり
余裕を持って調べられる、んじゃないかな。

原因を究明するのも、結果を変えようとするのも
もしかしたら、本当には受け止めていないことなのかも。

あるべきことが、起きた。
それは、もしかしたら、自分に必要な事じゃないかな。
何か、教えようとして、現れたことなのではないか。

と・・・なりますと。
やがて。
「あって良かった」に到達する。

そんな気がします。

No.368 2010/04/13(Tue) 23:15:23

 
地に足がつく / ぴあ 引用

若いころは「関係ないや」と通り過ぎないと、覚えなければ
ならないことが多すぎて、大変なんですよね。

一度聴いたら「それはもう、知っている」。
新しいこと、知らないこと。。
知りたい、知識を得たい。

で、本道の真ん中を、どんどん通り過ぎる。
急がなくちゃ〜忙しい。忙しい。

だけどねぇ。
「自分には関係ないや」と捨ててきたコトが。
たまりにたまると。
本当の自信は・・・ないんですね。
欠けているトコロがあるから。
うっすらと、自分では、知っているから。

どうなんですか。
と聞かれると・・・困ります。

そこで、覚えることが終わってから、ゆっくりと
「関係ないや」で通り過ぎたことを、学び直す。

そんな時間がきます。

「知っている」「関係ないや」の
あいまいなトコロを丹念に拾います。

すると、パズルの抜けた部分が、ぴったりとハマる。
おおー。これは、こういうことだったのか。と気付く。

部分を生きていた状態から、全体を生きることに反転する。

・・・最近〜ホントに、そんな気がしてます。
やっと、全存在で生きることが大事なんだな。っと。
そんな感じ〜

No.369 2010/05/23(Sun) 00:26:28


今に集中 / ぴあ 引用

恐怖を、どう扱うか。
・・・結論は、無視する。ということになります。
これを扱うと、ドツボにはまる。ように思います。

私は、人前で話をするのはニガテです。
もう恐怖に襲われてガチガチになります。
で「私には無理だ」と引きます。

そのとき。です。
恐怖を無視することにしました。
「いま、することだけに集中する」それだけ。

すると、なぜか。スラスラと話し始めた自分がいました。
あららら。
恐怖は、自分が作っていただけなのだ。
と、気づいたわけですね。

上手い話が出来たかどうかは、別の話。
人前で話をしなければならない状況で緊張する
という事態から逃れている自分の発見。

「できない」のではない。
「しなかった」だけなのだ。
しないから、いつまでも「できない」のだ。

だからね。やっぱりね。
思考が作る恐怖に関わるのは、間違い。
しなければ「失敗」もない。
失敗をしたくない自分が、勝手に恐怖を作っていた。
・・・のですね。

No.367 2010/03/10(Wed) 01:00:06


私の中にある / ぴあ 引用

豊かさとは、私の内側から生まれてくる新しい何かなのです。
それが才能であり、私の本質であり、私の光なのです。
私がそこから何を引き出すか、それが私自身の道になる。

私に何が起ころうと、私に起きてくることはすべて、
私自身に基づき、原因している。
そのことを理解することがなければ、
人は一生愚かさの中で生きることになる。
そして、そこに自由は、生まれようがないのです。

No.364 2009/10/01(Thu) 12:55:15

 
Re: 私の中にある / ぴあ 引用

そもそも現実と言うのは、見る人の心の中にあるものです。
外に展開されているものではなく。
外にあるモノを見て、あれはああで、これはこうでと
判断しているだけです。その人の判断がその人の現実。

ですから「世界は、自分が作っている」と表現されたりします。
そして「自分が世界を変えられる」と。
その人が、世界をどのように見ているか。なのですからね。
その構造を、はっきりと自覚する。

それで、世界はそのままでも、あの人はあの人のままでも
実際にはなにも変わらずに変わった・・・となる。

No.365 2009/10/23(Fri) 10:18:47

 
Re: 私の中にある / ぴあ 引用

常に、なにかしらの拠り所を持とうとします。
知識とか経験とか情報とか。

しかし。
そんな拠り所としているもの
これらすべてを、脱ぎ捨て、脱ぎ捨て
最後に残るモノは、なんでしょう?

No.366 2009/12/18(Fri) 00:37:27


ゲームを楽しむ / ぴあ 引用

週末は、仕事から帰って全英女子ゴルフの中継を見て。
遅くになって寝て、朝はバタバタして出かける。
そんなこんなで、ネットをする時間もなしで・・・。

特別の贔屓もなく勝敗にこだわらず。
として見ていると、ゴルフというゲームは面白い。
心理がそのままゲームを作っていきます。
面白いと同時に、勉強になりました。

スポーツは好きで、贔屓がないと燃えない〜
というふうの私ですが。

そういう見方もあると同時に、ゲームを堪能しようとすると
波風立たず、常にフェアウエイ・・・そしてパー狙い。
ダントツで勝ち上がる。というゲームは、
あんがい、つまらない。と思えました。

難関のラフに球が撃ち込まれ
入って欲しくないバンカーにつかまって
それをいかにクリアーしていくか。
などなど、プレイヤーと一心同体で一喜一憂しますと
勝とうが負けようが、どうでもよい。
という気分になります。ね。

No.362 2009/08/03(Mon) 19:41:24

 
Re: ゲームを楽しむ / ぴあ 引用

ニンゲンてのは、みんな寂しさを抱えてます。
攻撃性も競争性も、他の人と自分を比較して
つねに何かを求めるのも・・・
寂しさゆえ、なのですね。

絶望的な空虚が、寂しさを作ります。

つねに「何かに成ろう」とする。
愛される自分に「成ろう」というワケで。
愛されないと、なにかが足りないからだ。
と思う。

努力して、努力して、努力して
・・・そして、疲れきる。


ゲームを勝敗を競う。と考えるもの、同じ。
「成ろう」とする心が、それを生み出します。
しかし「在る」場合は、勝敗はゲームの
目的でもなく楽しみでもなくなります。

相手と自分が、今ここにいる。
その瞬間を喜びとする。
そういうことでしょう。

もうそろそろ「成ろう」ではなく
「在る」になっても、いいじゃない。

「在る」こと。
それは「この次に」は、ありません。
「今、ここ」だけしかありません。
だから、今だけに真剣に取り組みます。

失敗も間違いも「今」にはありません。
失敗や間違いは、過去と未来にあります。
過去にしばられ、未来を怖れる気持が生み出します。

唯一、幸福な人とは、努力にとらわれない人。
なのです。

No.363 2009/08/16(Sun) 01:04:30


知覚は投影です / ぴあ 引用

わたしが見ているものは、どれもわたし自身の意識の反映なのです。
いいかえれば、私たちが周囲の人々を見る見方は、
自分の観念体系を反映したものなのです。
ですから自分のもっている観念体系を変えれば、ほかの人に対して与えている枠組みをはずし、成功を自分にさせないための制限を取りのぞくことができます。

わたしは、どうせこんな人間だから。
そうやって、自分を決めつけています。
それが周りの人に伝播して、相手にも枠組みを与えます。
「この人は、こういう人だから」と。

自分が経験していることは、すべて自分の意識のなかで
上映されている映画のようなものです。
そのことに自分が気づいて自分の責任として認識すれば、
どんな状況でもパワーを発揮することができるのです。

もし自分の見ているDVDが気に入らないものだったら、
どうするでしょうか。いくらモニターに映し出された
映画に直接手をのばして、それを変えようと躍起になっても
何も変わりません。ね。
映画を変えたければ別のDVDに差し替える必要があります。

自分が経験している現実とは、まさにモニター画面に映し
出されたDVD映画です。そしてわたしの意識はDVD映写機器であり、
観念体系とはDVDのことです。わたしは人生でどんな映画を
上映しているのでしょうか。悲劇ですか、喜劇ですか。
それともラブストーリーですか。冒険ものでしょうか。あるいは本人のわたしでさえ見ていられないような、退屈な映画でしょうか。

人生をどんな映画にするのかを決めるにあたり、自分の知覚
そのものに変化を起こすにはどうしたらいいのでしょうか。

自分がものごとをどう知覚していても、またそれがいかに
複雑なものであったとしても、それを変えることができるのは
「許し」によってです。
また、そんなストーリーをいったいどこで選択したのか、見て
みようとする意志です。

肯定的な出来事であれ、心に深い傷を負わされた事件であれ、
人生で大きな経験をしたとき、わたしたちは人生や人に関して
何かの決断をしました。そして、それにもとづいて自分の
観念体系をつくってきたのです。
ときには、まったく相矛盾する観念が隣りあわせになっていて、
その場に応じていずれかの観念がわたしたちをつき動かしているのです。

こうした問題をさらに複雑にしているのは、動かしている
観念体系に、本人自身さえなかなか気づけない。
ということでしょう。

No.360 2009/06/18(Thu) 12:24:54

 
Re: 知覚は投影です / ぴあ 引用

で。。。ところで。
映画やテレビドラマ。

見ていると、安心できます。
すべてナレーションで、分かりやすく説明してくれます。
誰が何を考えて、どう行動しているのか、分かりやすいです。

しかし。生きている現実は、謎ばかり。です。
誰が何を考えてどう行動しているのか、分かりません。
「あなたの心がわからない」という状態ですね。

振り返って「自分の心がわからない」ということも起きてくる。
…誰も、説明してくれませんし。

そこで、ある場面では「これは、こうであろう」と
推測していきます。合理的な解釈をする。
これも、事実はどうなのか、分かってません。
しかし、仮定しなければ、理解出来ませんから。
仮説をたててみる。のですが。

これも、あくまでも「仮設」なんですね。
仮設ですから、いつでも、壊せる修正できる。
という意識が大切。。

No.361 2009/06/26(Fri) 10:45:00


呼び覚まされる / ぴあ 引用

人が考える愛はとても緊密な結びつきで、お互いが
依存し合っている関係になります。
たとえばキリスト教では、
信徒と神を愛で結び付けているように見えます。
「人が神を愛するから、神が人を愛してくれる」という。
このままを解釈すると、まるでギブアンドテイク。

しかし、人が神を愛するのは、どうしてでしょう。
それはすでに、神が人を愛しているのを感じるからです。
私たちは、愛されることで、愛があることに気づき
それが呼び水になって、相手を愛する。

そういう構造があります。

人が、どんな状態であっても。
神の愛は、平等です。
いい人であろうと、悪い人であろうと、ですね。
愛することが愛されること。
愛されることが愛すること。

そのような構造もあります。

No.359 2009/06/17(Wed) 12:38:16


会話について / ぴあ 引用

「いつでも自分らしく」というのを 推奨されることがあります。

誰と話しても「自分らしい」というのは
ちょっと勘違いしてる。でしょう。

その場で、関わる人によって
声も変わる、態度も変わる、身ぶりも変わる。
これは、チューニング能力が高い。
ということになりましょうか。

「自分らしい」も結構ですが。
エゴの露出では、しょうがない〜
「自分は・・私は・・」ばかりは うるさい。

「自分のことばかり話をする」 という人がいますが。
自己アピールは、しょーがない・ 聴きたい気も起らない。

あなた個人に留まらない
あなたにも私にも関わること
だから興味が湧くワケです。

ところで会話においては 予定することができない
という現象があります。

「こういうことを話そう」と 考えていても、
状況によってどんどん変化します。

ついさっき言ったのとは
反対のことも平気で言っている。
なんてことも起きてきます。

流動性を理解している人には それは矛盾にならない。

「お金なんかねぇ〜 」と言いってはみるものの
お金がないのも困るでしょう。
というのは了解している。

言いたいのは、そこではない。

その前提に乗って 言っているんです。というのが
伝わっていれば、問題ない。

しかし。
メッセージのコンテンツを一貫させねば
と思っている人には、矛盾と聞こえる。

そこを、つっこんでいたら、話は先に進みません。

そこは、流してください。

というのも、伝わっていたら 会話は流動性を得て
流れて流れて〜発展して、どこへゆく。

結局、何を話したのかは分からない
けれども、なんだか楽しかったね
という形で会話は終了する。

自己を主張しすぎない
自分の意見は、ほどほどに〜
相手の話に乗って行く

これ。
日常におけるストレスの残らない会話。

No.357 2009/05/29(Fri) 13:50:57

 
Re: 会話について / ぴあ 引用

たとえば言葉と言うものは
「わたし以外のだれか」が「わたし」の
口を通して語るのを「わたし」が聴く。

という屈折した経験なのです。

自分の言いたいことが予めあって
それを語っているわけではない。

今、自分が何を話しているか
これから何を話すのか
「わたし」は知らない。

だから、自分の声に耳を傾ける。
自分の心が静かでなければ
聴くことができない。

まったくもって
そんな屈折したもの。
なのです。

ほんとうに〜
言葉は、出る端から消えていきますが
書いた言葉を後から読み直してみると
「あー、わたしは、これを言いたかったのか」と
驚いてしまうことがあります。

語っている瞬間。書いている瞬間。
本当に言いたかったことに、対面していない
ことがある。この不思議。

No.358 2009/06/01(Mon) 01:06:42


傷つかない / ぴあ 引用

煩悩は人を傷つける。

そうであるならば
・・人を傷つけないようにしよう。と、心に誓う。

だけど。
そう意識しても、出来ないこともあるから。

せめて「傷つかないようにしよう」と誓う。

「これこれで傷ついた」と嘆くのは、もうやめよう。。


少し踏み込んで考えてみた。

意識的にも、無意識的にも
人を傷つけてしまうことがある。

しかし。そんなとき
相手が傷つかなかったら。

どんなに、傷つけようとしても
傷つかないとしたら。

それは、究極の愛の形。

裏切ったり、苛めたり、責めたり
傷つけようとしているのに・・・

「あーよしよし」と抱きしめる。

どんな貴方でも
愛しているよ。。。と。

本当の愛が、どんなものか知らないけれど
これが、愛なのかも知れない。

No.355 2009/05/24(Sun) 01:32:45

 
Re: 傷つかない / ぴあ 引用

インドの聖者と呼ばれる人に会った。
と、いうので、、どんな感じだった
と聞いたら。

人間という感じがしなかった。
と言う。

うーーん。

熊に出会ったような感じ?
と聞いたら。そうだ。と言う。

熊に「あーよしよし」と抱きしめられた。
そんな感じだと言う。

なるほど。
愛を抱きしめると、そんな感じなんだ。

No.356 2009/05/28(Thu) 01:58:13


恐怖とともに生きる / ぴあ 引用

危険が外部にあると思うと、怖いのではありませんか?
恐怖というのは、そう言うモノでしょうね。

それを避けようとする。見ないでおこうとする。のように。

しかし。危険そのもののの中に入ってしまうと。
それは当然、あるべくしてあるもの。となりますから。
もう、外部の物として、怖れる必要がなくなります。

危険を無くそうとする。排除しようとする。
その行為が、、問題となっているだけなのだなぁ。と思う。

わたしたちは、みな、一人残らず、死にます。
すべて、持っているものは、借りものです。
そこからこそ。本当の生がある。・・・のでは?

たとえば
親は、子どもから危険を遠ざけようとする。
世間での生き方を教え込みます。

しかし
「この子も、死ぬのだ」と思ったら、
それから遠ざけることは、出来ません。

「死んでいくのが定め」の、その子供に。
なにを与えることが、親に出来るでしょうか。
いや、人間に、何ができるか・・・です。

そうなったとき、本当の、子供への愛が・・生じる。
短い、この一生に、自分は何をしてあげられるか。と。

わたしたちは、

「あーしてほしい」

「こうなってほしい」

と、一生、ほしいほしいと

右往左往なのですが。

じーっくりと考えてみると

親の子供への愛、ばかりではなく。

関わっている人たち全部、みな、やがて死にます。
かならず別れがあるんですね。

そうであるならば。
いま、目の前にいる人に対して、
自分はなにをしてあげられるか。

切ないほどの愛ゆえに。
そこに、本当の生が・・・ある。

No.354 2009/04/23(Thu) 10:55:48


愛というもの / ぴあ 引用

異論反論あるを承知で。

誰々さんが好きーー。
ということがあります。

そうやって彼氏彼女になるのですが。

でも、ここは嫌いなのよね。
変えてほしいの。

と、貴方が思うとしたら。

貴方は、その人を愛してはいない。
のかも知れません。

なぜなら
本来の愛は、一部分だけを愛する
ということが出来ないからです。

好きだけど、
ここだけは、どうしても・・・。

と言うならば。

その「好き」の部分も、
本当は愛しているワケではない
可能性が・・・あります。

何度も言います。
愛は、全体です。

たとえ彼氏彼女にヤクザなオジサンがいても
借金を抱えていても、病気になったとしても

それは、単なる付属品。

この付属品が「困る」と言うなら
好きな部分も、付属品でありますね。
この付属品が「好き」あの付属品は「嫌い」
と言っているだけかも知れません。

そして「好き」も・・・
いつ嫌いの付属品に変わるか、わかりません。

そういう不確かなものを
愛と呼ぶことは、できません。

No.352 2009/04/09(Thu) 16:35:39

 
Re: 愛というもの / ぴあ 引用

「どうしたら人に好かれるんですか」と聞かれて。

そんなこと、私に聞かれても困るのね〜
と思ったけどね。

でも、フッと落ちてきた言葉は
「ただ相手を応援すること」

相手を肯定する。というのでもイイんだけど。
これはもう否定しないだけでも、肯定になるし。
じつは消極的受容なんじゃないかな。っと。
とりあえず、イイ顔をしておこう。みたいなモンです。

で「好かれる」ためには、ですね。
積極的受容が、確実です。

相手が向かおうとする先を理解して
無条件で応援し続けること。

こういう姿勢で相手に対していたら
好かれない、はずはない。


と、私は、断言する。

No.353 2009/04/17(Fri) 04:03:40


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