しまのたかしハイブリッド人生心理学 島野隆ブログand掲示板
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●島野の著作そしてハイブリッド心理学に関する感想・質問・ご意見など投稿して頂けます^^。
●心の悩みのご相談
については、ハイブリッド心理学「取り組み実践」を進めるためのポイントヒントなどを、ここではごく簡潔アドバイスいたします。
*より詳しくアドバイスするとどのようなものになるのかは、
 
メール相談事例集実践編書籍など読んで頂くと参考になるかと思います^^。
返答入れて頂いた順に返していきます。日数がかかることもありますので、ごゆっくりお待ち下さい^^。


新規トピック入力フォームへ 記事検索 過去ログ記事サイトトップの検索の方でヒットします^^) 

円滑な人間関係について / みどり 引用
No.888 2014/05/22(Thu) 13:01:27

しまのさん、はじめまして。3〜4年程ハイブリッド心理学を参考にさせてもらっています。
21歳、女性です。

私は高校卒業後からニートだったのですが、先日からアルバイトを始めました。
デザイン系、2〜3人の少数で仕事をしています(私はその補助です)。環境としては、穏やかな人が多く、ルールもはっきりしているので、健康的な職場だと思います。
そういう職場で、円滑な人間関係を築く方法が知りたいです。
仕事のやりとりがスムーズになるような言葉遣い、声の出し方、ボディランゲージ、親交の必要性、、など。
内面は不安がおおかた占めています。

今まで積極的に人間関係を築いてこなかったので、些細な場面でどう行動すればいいのかわかりません。(分からないことを聞く時の声のかけ方など)よく協調性がないと指摘されます(_ _;)

質問の範囲が広いようでしたらご指摘ください。
それでは、よろしくお願いします。


 
広い視野から「人間関係」にアプローチ^^ / しまの 引用
No.898 2014/05/31(Sat) 09:23:33

広い視野からのポイント^^

>質問の範囲が広いようでしたらご指摘ください。

まあ広ければ広いなりに、広い視野からポイントというのが出てきますね^^。
それで言いますと、一言で、

特定の集団での人間関係を良くしとうとするに当たっては、その特定の集団での人間関係を良くすることだけにとらわれずに、自分の人生の生き方の全てにおいて建設的な対処法を学ぶことを優先させ、その上でその特定集団での人間関係について検討するのが良い。
言えるかと。

まあこれもまた答えを聞く方範囲が広すぎると感じるかも知れませんが、それでもまさにそこにポイントがあるというになると思います。
つまり、とらわれて意識を狭くしないことが重要、ということですね。
とわられて意識を狭くすると、「うまく行かないのでは」という不安心の前面に出てきて、行動もこわばり、実際うまく行動できなくなってくる。で

>協調性がないと指摘されます(_ _;)
ということにもなるかも知れません。

ですので、ハイブリッド心理学からは、まずは「その集団での良い人間関係」にとらわれず「人生の生き方の全ての場面で建設的な対処法を学ぶ」というものから、まず意識して頂く、ということになります。


具体的場面での「建設的行動法」を幅広く学ぶ

とっつき方としては、「取り組み実践」というのは誰の場合も、
・日常的な読書で心の懐を増やす
・具体的場面での検討

2頭立て進めるのが良いというになりますが、

日常的な読書としては、
建設的行動法構成の把握「学びの主要テーマ」など)
・その具体的事例をなるべく沢山
 『実践編上巻』
 この読者広場(と言われても多すぎですね・・^^;)
  例えば 『悪口の回避について』 seroriさん No.583 2013/07/20 のトピック
 みたいに役に立ちそうなの結構ありますので、今後『事例集』として分類整理します。ちょっとまだご不便ご了承^^ゞ

そして具体的場面での検討としては、
まさに

>些細な場面でどう行動すればいいのかわかりません。
という「些細な場面」一つ一つについて、上記建設的行動法としてこうするといい、というのを学ぶというのを、日々積み重ねていくものになります。
そこで言えるのは、そうした「些細な場面」一つ一つについて、我々得てして勘違いなものを教えられて育ってくる面があります。「丁寧な論理的思考」で、一つ一つ検討し直していくことが大切です。
幅広く長い話になると思いますが、まずはそうした広い視点を持つことから始めて頂き、「些細な場面」一つ一つについてはまた何でも質問入れて頂ければアドバイス可能ですので^^。

>仕事のやりとりがスムーズになるような言葉遣い、声の出し方、ボディランゲージ、親交の必要性、、など。

については、そうした「建設的行動法」に応じて、ごく自然にできればいい、ということになると思います。まあそこで「ごく自然に」というのが一番難しい最初は感じるかと思いますが、「建設的行動法」学ぶのがその中自分なりのもの模索することで自然に見つかっていく、という道のり感でまず考えて頂くと良いかと思います^^。

そんな感じで、まずは「些細な場面」一つ一つ検討からになると思います^^。



本心を知って現実に向かいたいです。 / 今野 引用
No.884 2014/05/15(Thu) 03:12:58

はじめまして、相談よろしくお願いします。

私は創作をしています。
漫画、小説、イラスト……わかりやすく言うとオタクです。(オリジナルの作品を作っています)
その、考えている、創っている途中の作品を完成させたいのですが、だいたいにおいて途中で投げ出してしまいます。

なぜなのか、ずっと考えて、どうにかならないかとあれこれ本を読み、感情を見据えようとしたり、自分に声をかけたりしていました。
けれどけっきょく、投げ出した作品に取り掛かることも情熱も取り戻すことは出来ませんでした。

そもそも私は報復のために作品を作っていました。
物忘れがひどく激しいのに加えて、子供の頃のことをあまり覚えていないのですが、思い出せる限りそう強く思ったことをおぼえています。
ただ、純粋にこんな面白い作品を自分でも書きたいと思って寝る間も惜しんで拙いものを書いていたこともあったんですが……なぜこうなったのかは思い出せません。

本当に創作が好きではないのかと聞かれれば、そんなことはないと言える程度には楽しんでいる自分もいる、とはいえ、こんな自分が創作好きと言っていいものなのかという想いもあります。
創作するのに資格も許しも要らないわけですけど……どうしても反射的にそう思います。
誇りや信念はあるんですが、それがまたまんまと自分を苦しめています。

私は、成功して自分をバカにした人間を見返してやろう!とか、この作品で真理を語り愚か者を攻撃、あわよくば目覚めさせてやろう!とか、その程度のクオリティの作品、私が真正面から叩き潰してやる!とか、そんな憎悪と軽蔑、優越感でものを作ってきていたのです。

気付いたいまとなってはあまりにも他者の存在に依存的で、本心のない生産行為だったなあと……
それで、他人からの評価に努力をつぎ込んで燃え尽きて、もう他人のために指一本動かしたくないとなったのが一つ。
そして優越感や攻撃性を端にした一時的な興奮で作っていたものに、批判される恐怖と批判的な自分が反射してきた完璧主義の自己批判で、「こんな面白くないもの書いて何になる」と途中で投げ出してしまうことが一つ。
(他人の作品のあら捜しをして貶す自称目利きどもを黙らせる作品を作ってやる!と怒りに任せて過去に選択してしまったらしいんですが、どうも詳しく思い出せない……)

そして、いざ作品を作り上げても自分の努力や成果を全く受け止められず、達成感や自信にフィードバックされないことが一つ。

自分を褒められないせいで私は何も書けていない、できていない、と思い込み、筆の早い人や多作の作者に尊敬と同時に激しい劣等感と嫉妬を覚えています。
これは、私は努力のできない継続性のない人間だ、と思い込んでしまったせいなのでは思っています。

あと、私の人格の問題点は、こちらでお書きになられている基本的不信の離反症状そのままです。とても自分のことを書いていると思いました。
基本的不信、というのはずっと感じていたのですが、それをどうすればいいのかよくわかりませんでした。
そしてイメージの中にいたままでは進めない、と書かれていたのを読み、なるほどと思いました。たしかに私は、問題探しばかりをしていたと思います。

けれど、建設的行動に出たとしても、気持ちは戻ってきませんでした。
この場合は、自分の満足のために作品を書き直すための草案を作り直すなど……、と解釈しています。

ノートを開く気にもなれず日がな別のことをしてしまう、開いてはみたものの何も浮かんでこない、無理に考えようとするとひどい抵抗感と疲労感で倒れてしまう……そしてどうしてこんなにだめなんだと自責が始まる。

それこそ、過去の傷や痛み、怨念を引きずっているせいではないか。
頑張ったのに報われない、評価されない、意味がない……あたりかと。
そう思い、最近はできるだけほとばしる思考を沈め、五感を感じてみたり、胸のわだかまりから湧き上がる感情を手招きしてみたりしているのですが、全く自分の本心が見えません。
そして、過去の感情もちっとも感じられません。いま自分が感じていることもわからず、自意識なのか感情なのかの区別もつかず困ってしまいます。

創作をすること自体も、あまりに評価されること、有能さをひけらかすことにばかり重きをおいてきたせいか、自分が本当はなにが描きたいのか、なにが好きなのかも無視して忘れてしまっているようなありさまで、いませめても心動かされるものを再び感じ取るように心がけ始めたところです。
さいわい少しは描いていて楽しい絵があるのでそれをぼちぼち描いたり、漫画を読んだりしています……

しかし、小説の方は本を読むことすら抵抗がひどく、元は活字の虫であったのに、よっぽど本心から好きなものでない限り読めなくなってしまいました。
これは、私がもう無理だ!!とキレてしまった原因が、小説の書き直しだったからだと思います。
そして、話は思いつくのに、どれもこれも退屈で、すぐに諦めるようになってしまいました。
漫画も小説も絵も、作業は楽しくもありますがとても辛く、今の自分の人格状態ではとても耐えられません。

私はただ、もう苦しまずに創作ができるようになりたいです。
そのために、本心と感情を理性につなげるようになって、建設的な行動に迎えるようになりたいです。
どうすればそうなれるのか、ぜひアドバイスをお願い致します。


 
島野の「創作」論・「本質」「技術」「職業化」^^ / しまの 引用
No.886 2014/05/21(Wed) 14:40:26

ちょっとお待たせしました^^。
「創作とは何ぞや」というちょっと大上段テーマでの、島野の「創作論」など展開してみた次第^^。


「建設的行動」と「創作」

これはまず一言でいうと、一般的「建設的」という話ではなく
・創作活動の技術
というかなり特定テーマになってくると思います。

まず話の始めに、ざっと拝見しての印象を書いてみますと、「すでに答えが出せている感じですね^^」というもの。
つまり今まで
>そもそも私は報復のために作品を作っていました。

と、その結果
>気付いたいまとなってはあまりにも他者の存在に依存的で、本心のない生産行為だったなあと……
>そして、いざ作品を作り上げても自分の努力や成果を全く受け止められず、達成感や自信にフィードバックされないことが一つ。
ということであれば、
そうした要素抜きにして、純粋に自分自身で自らの創作に価値を感じることができる部分において、これからの進め方進み方を考えればいい
これがまず結論序段になりますね。

ところががそれから、
>けれど、建設的行動に出たとしても、気持ちは戻ってきませんでした。この場合は、自分の満足のために作品を書き直すための草案を作り直すなど……、と解釈しています。
>私はただ、もう苦しまずに創作ができるようになりたいです。そのために、本心と感情を理性につなげるようになって、建設的な行動に迎えるようになりたいです。
と、「建設的行動」「本心」といった言葉が出るにつれ、あれっと話がおかしな方向に流れているご様子^^;

もちろん外面において「建設的行動」徹すること、そして内面において「本心」向き合うことは、上述のような過去の振り返り踏まえて、これからの人生の生き方と行動法の基本的方向性と枠組みとするのが良いものになります。

一方、そこで「創作ができるように」というになると、がもう一般的な建設的行動法の問題ではなく、「創作活動」についての技術的ノウハウといった特定テーマになってくる。
一般に、ノウハウを欠いた行動をいくら「これが建設的」だと自分に強いたところで、それはうまく行くものではなく「建設的」見えて実は「破壊的」にさえなりかねません。
「ノウハウを仕入れることの重要性」というですね。これ自体「建設」という行動モード基本です。「建設」にはかならず「技術」が伴います。それがないと、精神論という誤りの方向性になってくる。


「創作の法則」

ということで、ここから「創作活動のノウハウ」「創作活動の技術」という各論、特定テーマになります。
また「職業としての創作はどう可能か」といったでもあるでしょう。
そこで手前味噌ながら、ハイブリッド心理学の執筆多少は「創作」であるという僕自身の経験を踏まえた個人的意見など展開してみると、ざっと以下のような感じ。

それを『概説』での「成熟の法則」といった呼び方にならい(話の内容的には関係なし^^ゞ)「創作の法則」言えるかと。
3つについて言うものになります。「本質」「技術」「職業化」について、答えを言うもの。

創作の法則

1.「創作の本質」 ・・・ 真の「創作」は、「技術」によってではなく、「遊び」によって生み出されるものである。

2.
「創作の技術」 ・・・ 創作ではない定型的なものに「創作」の衣をかぶせるものとして、「創作の技術」がある。
  また、
自分から創作を最大限に引き出すための意識法や作業手順などとしても、「創作の技術」があり得る。

3.
「創作の職業化」 ・・・ 上記2つの法則を踏まえ言えるのは、「創作の職業化」は、「創作の本質」においては本来不可能なものであり、「創作の技術」においてあり得る。ただし実際それが「職業」として成立するかどうかは、自分の努力でどうなるものでもなく、社会の需要とどうマッチするかによる。


職業進路としての創作の考え方

ご質問相談照らし合わせどういうこと手短に説明しますと、

まず言えるのは、「創作」というのは本来

>私はただ、もう苦しまずに創作ができるようになりたいです。
と、「できるようになりたい」と考えてできるものではない、ということです。「創作」なんてのは、できないのが基本^^;
今回の相談が、「創作ができるための方法」聞きたいという主旨になると思いますが、「そんなものはない」というのが答えだということです^^;
「方法」「やり方」分かってできるとは、「創作」ではなく「定型」もしくは「定常」の生産物だということです。
そうではなく、今までのものにはないものがあって、「創作」と言う。ならばそれが生まれるのは、「方法」「やり方」習得の中でそして先にではなく、「こうやれば」「こうやらねば」という「意識」とっぱらわれた「遊び」においてなんですね。

一方、一度「遊び」の中で生まれた自分の創作の、特徴的価値を把握し、それを「技術化」することはできます。音楽絵画などの芸術分野は、そうした「技術」かなりの幅広さ奥深さがあり、だから「職業」としてかなり成り立っていると言えるかと。
「技術」としての内実があり、社会的需要ともマッチしているから、ということになるでしょう。

一方ご相談の、

>漫画、小説、イラスト……わかりやすく言うとオタクです。(オリジナルの作品を作っています)

との「漫画」「小説」「イラスト」といった分野での「創作」は、「技術」としてはあまり際立つものはなく、いかに人に受けるかという不確定要素が大きくなると感じます。ま文章うまさという多少あるとして。
ですので、そうした分野でまず職業とすることができるためには、
・若くして鮮明なオリジナリティを生み出し社会的反響を得ることに成功した上で、それを多少とも「技術化」することができた場合
という、かなりレアケース限定されると思います。まず言って、なりたいと思ってなる職業ではない^^;
まあ「イラスト」については「創作」というより純粋な「技術」として扱えば、ウェブデザイナーなどの職業ありえるとして。(これは僕の知る限りもう創作というより力仕事に近くなるような・・)

ということで、「漫画」「小説」「イラスト」分野での「創作」については、まず僕の個人的意見としては、
・若くして成功し社会に持ち上げられる形で職業化するという経緯がなければ、基本は余暇の趣味として続けるのが良い。
というものになります。

そして趣味的に続ける中で、「創作の技術化」にも取り組み人生全体の流れとして「社会での仕事」についてはおおよそ自分にできることが見えてくるという40代50代頃に、残りの人生趣味的に行ってきたものに思い切って身を転じる、という転機向き合うこともあり得る、というものになります。
何かで「賞」を取れるようなことがあれば、もっと早めに検討することもアリとして。この場合も、結局まずは自分で選べるものではなく社会にどう受けるか受け身にしかなり得ない。
こうした人生の流れとしてのは、先日、芸人を目指しておられたmasaさんへのアドバイス同じものでしたので、一読されると参考になるかと。
『進路相談』 masaさん No.871 2014/05/01のトピック


創作の技術化

ということで、まとめると、
・まずは「創作」というのは、やろうと思って早々にできるようなものではないことを受け入れた上で、今まで自分が作ったものについて、まずは人にどう受けるか以前に、純粋に自分自身で自分の創作に価値を感じるのはどんな要素部分かの把握をする。
のがよろしい、ということになるでしょう。

まずはその結果次第ですね。どう進めるかは。
そこで「純粋に自分自身で自分の創作に価値を感じる要素部分」あるのであれば、それについて、多少定型的定常的に、多少バリエーションを変えたものを「創作」の衣をかぶせ作っていく「技術化」取り組みが、検討可能になります。

まずはそこまで話のメインになると思います。「創作」というのは、「建設的行動法」として自分に枠づけできるようなものではないこと、そしてまずは純粋に自分自身で自分のものに価値を感じれる部分どんなところかに、じっくり向き合う
そしてもし価値を感じられるものありそうであれば、そのさまざまなバリエーション自分から引き出すための、引き出しの豊富に持つようにしていくことですね。

それが「創作の技術化」部分になります。
引き出しそのものではなく、その創作引き出しの中というのは、もう「技術」ではどうにもならず、神様に任せるしかないようなもの(比喩表現です^^)になります。自分でできるのは、「自分」を超えて湧いてくる、たとえば言葉メロディ引き出すための、最初の導火線まず作ってあげることです。

そうした技術化できてくると、実際自分にどれだけの「創作」生産性があるのかも、見えてくるでしょう。
これはどんなに高めようとしても、「創作」そのものの話になり自分ではどうにもならないものになると思います。それに合わせるしかない。自分の尻を叩いたところで、創作は湧いてきません。鍵となる導火線用意するためにも時間必要だろうし、それを用意して「創作」本体火がつくのは、もう自分ではあまり努力してどうこうなるものでもなし、「待つ」という姿勢かなり重要になる部分出てくると思います。
先日ブログ5/17『概説』の続きについて「漬け込む時間」なんて表現をしているのもその一例^^。

そうして「技術化」までできると、自分人生生み出せる「創作」というものの全体像、それがどう金にできるものか否かといったことも含めて、おぼろげに見えてくる、という流れになるかと^^。
ちなみに僕の場合は金にはならないでオーケーという形でそれが見えてきた今日この頃^^。

いずれにせよ、まずは純粋な自分の楽しみ趣味として、上述一連の流れ追って取り組んでみるといいのでは、というアドバイスになります^^。


 
Re: 本心を知って現実に向かいたいです。 / 今野 引用
No.887 2014/05/21(Wed) 22:31:03

返信ありがとうございます。
お待ちしてました。うれしいです。

しかし、申し訳ないことをしました。
とても考えてアドバイスくださったのに、私の書き方が悪かったり、私自身、意識の上の方の問題に囚われて、問題の認識を取り違えていたようで、誤解させてしまったというか……

島野さんの言葉はその通りだと思います。
だけど、それはもうすでに自分で一応「頭では」わかってるんです。
創作は楽しみから、遊びから生まれる。技術化についても、すでに取り組んでいます。
「自分が楽しめる小さならくがき」「いままでやりたいと思っていたけど、必要ないと思っていた小さなおもちゃ作り」「他人の作品を見ることによって得られる感動」「感動した時に、自分は何が好きでこんなに感動したのかという自己分析」などです。
(これは建設的行動に含まれると思うんですがどうでしょうか?違うのかな)

さらに言うと、これらに取り組んではいるものの成果があんまり見えません。好きなものの自覚がいくつか出てきてはいるので結果を早く求めすぎなだけかもしれませんが……
ちなみにそれらをやっていて生まれるのは「焦り」「不安」です。

私は創作を仕事にするかしないかは特に問題視していないんです。
それは書き込む前にmasaさんの書き込みとそれに対する返信をみて、「問題の取り違え」をしないように考えた結果でした。むしろ取り違えてた感満載ですけど。
仕事にするにしろ、余暇の趣味にするにしろ、私は物を描き続けます。何度もやめようと思いましたが、それこそ創作はやめたり続けたりといったものではないからだと思います。描きたくなったらどーあったって描いちゃいます。
その程度には自分が創作が好きなんだって自覚はここ数年でやっと出てきました。

しかし、このままだとどのみちほとんどの頭の中にある作品を描き上げることができない、ということが問題だと思っています。
私は形にしたいのです。それはいまのところ「すべき」も含まれてはいますが、それだけではなく。
頭の中でしかいなかったキャラクターが紙面上を駆け抜けていく感動は本当になにものにも代えがたく、これは数少ない「一応は完結した」作品を書いているさなか、一度だけ味わった、忘れないようにしている感動です。(鮮明に思い出すことができなくてとても悲しいのですが)好きだからこそ、形にしたいのです。
さらに言うと、その完結した作品は「完成してはいません」……途中まで楽しく作画してたんですがあまりの作業量の多さに嫌になり投げ出しました。作業ファイルを開いてもまったく情熱が戻ってきません。ほんの少し進めることができても、手応えがありません。

私は私の作品が好きです。ナルシシズムも多分に含まれていますが、それでも自分の努力や能力の反映、自分自身の反映、長年頭の中で想像を膨らませ物語を紡いできた愛着、好み、それらを含めて自分の作品が好きです。

けれど、それを形にしたとき、冷淡な態度しか取れないんです……
手応えも、達成感もない。仮にそのときあったとしても、忘れてしまって思い出せない。
そしてそれは、自分の中にある悪感情のせいだというのもわかってきたんです。
それは書き込ませていただいた、報復による生産活動の虚しさとか、そういうことだと思うんですが。
そもそも純粋な楽しみや趣味としてなにもできないのは、「私は下手(無能)ではいけない」からです。

……って書いててふと気付いたんですけど、これって鏡に映った自分に見とれる心理なのかもしれませんね。
私は『有能さ』の業を背負っています。自分の作った作品に、他人からの評価を持ち込んで見ては自己陶酔に浸っているんじゃないかと思います。
これじゃいくら他人のために書かないと思ってもダメなんじゃないかなあって。
自分の自分による自分のための視点、っていうのを取り戻せればいいんでしょうが……

そして前置きが長くなったんですけど、
創作ができるかどうかが問題ではなく、この有能さの業からどうやって抜け出すか?こそが本当の問題点なのだと思います。
なぜなら、傲慢さとっぱらうことができれば創作に向かった時に現れる悪感情を解消、そもそも出てこないと思うのです。
頭の中で階層として考えると、
創作について>有能でなければ価値のない自分>傲慢さ>基本的不信って感じでしょうか?

で。

私はつまり、「有能でなければ価値のない自分」というのに起因する悪感情にそもそも苦しんでいるのですが、頭ではすでにそんなことはないとわかっています、一応……。破壊的行為(嫉妬から他人に攻撃したり悪口を言ったり)もほとんどしてないつもりです。

悪感情を生む大元の記憶、傷つきや悲しみ、流せない感情の解きほぐしをしたいんです。
でも、私は自分の本心を探るのがどうもとても苦手です。
なかなか思い出せないし、あまり感じられない……。
ひとりでできるエンプティチェアメソッドとかもやってみたんですがダメでした。
ちょっとだけうまくいったことがあって、親に対する文句を言いながら涙を流したら「大卒」への嫉妬が随分楽になったんですけど……

基本的に自分の思考にも感情にも集中できないというか、なにかに邪魔されている気がします。考えていられなくて、すぐに別のところに考えが流れてしまう。
それでも徐々にいろんなことに気がついてここまで回復しましたが、まだなにか「すりガラスの向こうに重苦しいものが眠っています」。
ずっとひとりで悩んでたんですが、自分での気づきに限界を感じ、こちらに書き込ませてもらいました。
具体的なコツや、導きを得られないかと思って。

やっぱりこういうのって嫌な思い出とか来歴ごと相談するほうがいいんでしょうか?
あ、でも「有能でいなければ」、というのはだいたい父親のせいというか
父親との競争に負けたせいなんだろうなあっては思っています。
私は父にじわじわと馬鹿にされ続けてきたので。
子供の頃の自分は、それをひどく傷ついたと受け止めたんでしょうね。
(いまちょっと悲しさが浮かびました。うれしい)

あんまりだらだらと書いてしまうのもご迷惑かもと思うので、
いちどこれで相談させてください。
よろしくお願いします。


 
創作技術とハイブリッド心理学取り組み^^ / しまの 引用
No.896 2014/05/30(Fri) 12:23:27

う〜んこれはやはり、
1)「創作」なんてもともとそう簡単にできるもんじゃないという素朴な話^^;
と、
2)心の成長一般の話

という2つ視点からになるのではと思います^^。

まず1)については、
「技術化」引き続き取り組みとして、自分で好きなのはどんなところかを把握するのとに、完成できない、形にしたとき自分で冷淡な態度というのは、どんな要素部分においてどう感じるということかを分析する。
「創作要素語」しっかり分析することが大切です。「言葉がうまくアレンジできない」といことか、「ストーリーが尻切れ」ということか。等々

一方、

>創作ができるかどうかが問題ではなく、この有能さの業からどうやって抜け出すか?こそが本当の問題点なのだと思います。なぜなら、傲慢さとっぱらうことができれば創作に向かった時に現れる悪感情を解消、そもそも出てこないと思うのです。

については、ちょっと詳しい状況が良く分からないです^^;
「傲慢さをとっぱらう」について言えば、ハイブリッド心理学からは、
『概説 - 3.取り組み実践 / 「取り組み実践」の3ステップ』
での
2.具体的場面での応用の「学び」
記したように、
 −日常生活、仕事場面、人生の進路選択
 −交友、恋愛、家族などの対人関係
 −心の病の傾向への対処

というように、生活そのもの、人生そのもの、そこでの対人行動や進路選択、仕事場面といった具体的材料ベース取り組むものになります。これはもう創作とは別の「現実場面」でないと取り組めないものになると思います。
そこで「傲慢」の克服というであれば、一言でいえば、
「傲慢さを取り去る」のではなく、それを超える建設的な思考法行動法と価値観を築く
という取り組みになります。
それによって自ずと、「傲慢」心の根底から去っていく、と。
長い取り組みであり、大よそ『概説』詳しく『取り組み実践詳説』説明しているものになります。

ともかくは、
・創作についてはあくまで詳しい具体的創作要素ベースでどんな悪感情妨げが起きているかの分析
・創作以外の生活と人生の場面について、これも具体的場面ベースで建設的行動法と価値観への取り組み

という2つのアプローチがあると理解頂くと良いかと。その2つ合流した時、創作への妨げ取り去られるかも知れない。
ただ創作というのは元々とても難しいものですので、何か妨げを取り去ればできるようになるというようなものではないかも知れず、あくまで
・創作の作り込み過程そのものへの取り組み
・長い人生での成長が、いつかまた創作を豊かにする

という2面への目持つのが良いかと思います。

ちょっと「ハイブリッド心理学で創作への妨げを除去」という感じのアドバイスにならない点もの足りないかも知れませんが、
・創作についてはあくまで創作技術検討
・ハイブリッド心理学については他と変わりない「取り組み実践」の手順検討

という形で、ハイブリッド心理学についてさらに関心持てそうか検討頂くと良いかと思います^^。



喜べる「多少の不運」とは? / (5/16に頂いたブログコメント) 引用
No.893 2014/05/26(Mon) 10:20:16

さてこれもちょっと遅くなりましたがコメント返しておきたいと思います^^。
5/16に、ブログ
写真と言葉 2010-06-21『多少の不運は喜びましょう』
コメント入れていただいたもの。

ブログ記事言葉はこんなものでした。
幸運で生きていられるばかりだと、人間がふやけてしまいます。
多少の不運は喜びましょう^^。



頂いたコメントはこのようなもの。

人間がふやけた状態とは、たとえばどういうものでしょうか?

不運にも身体障害を負った私にとっては、不運に遭わなかった人たちがまぶしいです。

不運に遭わない人生よりも、取り返しのつかない不運に遭う人生のほうを選びますか?

「多少」の不運とは、どこまでのことでしょう。


 
答えは「命」が出します^^ / しまの 引用
No.894 2014/05/26(Mon) 10:22:09

「人間がふやけた状態」

まず「幸運ばかりで人間がふやけた状態」というのは、たとえばちょうど今もその某事例騒がしいですが、芸能人の不祥事ニュースです。典型的なのはやはり違法な薬物ですね。
あとはお騒がせセレブなど。海外の資産ウン千億ウン百億円富豪のご令嬢などにおりますね^^;
これらについての詳しい話を書くのは不要かと^^。

そうした人の様子を見た時、「幸運ばかり」というのは実はあまりよろしいことではないのでは?という目線を、そうした「幸運ばかり」ではない我々一般庶民(^^;)としては持てるかも知れない、というになります。
上記の言葉はそれを表現したものですね。

ですので、「喜べる多少の不運」とは、まずはそうしたレベルでの「不運」だというになると思います。アイドルになれなかった、大金持ちの家に生まれなかったという「不運」^^;
ですので、もっとあからさまな不運、たとえば書いて頂いた身体障害のようなものへの向き合い方については、もうこの言葉の範囲ではないことを、ご了解頂ければと思います。


ハンディを原点とした生き方

それでも、その上で、もっとあからさまな不運さえも、後から振り返って見れば実はそれによってこそ自分は幸福を得た、と感じられるような人間の生きざま、人生のあり方もあることを見るのが、ハイブリッド心理学です。だからこそ、「多少の不運」については上記のような言葉が浮かんだ次第でもあります。

ではその「あからさまな不運」さえも、「それによってこそ自分は幸福を得た」後から振り返って喜べるものになる可能性のある生き方とはどのようなものか。
それはもうとてもではありませんがここで短い文章で説明することはできませんので、ハイブリッド心理学とはそうした可能性のある生き方全体探求している心理学ですという紹介に、ここではとどめさせて頂き、ご関心あればまずは『入門編』無料電子書籍版あります^^)など手ごろな読書から始めてみて頂ければと思います。

たとえば関係しそう文章として、こんな部分があります。さわりの言葉だけですが、こんな話をする心理学ですということで。
---------
 「もうこれでは生きていけない」という悲惨な状況に置かれて、逆に人生の喜びを見出した人の話も、示唆に富むものがあります。
---------

『入門編上巻』 P.267

は何よりも、ハンディがあることこそを基準、原点とする人生観ですね。
そうした例先日朝日新聞連載されている患者を生きる』シリーズで見かけたことがあり、健忘録がてら書いておこうと思ったものがあります。

5/17(土)朝刊生後まもなく目にできるガンで、以前なら眼球摘出しかなかったものの、今は温存する治療入退院を繰り返し、片眼の視力0.04程度という13歳の少年言葉
「自分は病気とともに生まれてきて、病気とともに生きてきた。だから、病気が自分の人生を妨げているとは思わないし、何かをあきらめたりもしない」

これを読んだ時は、としてもう〜んこれは唸って感服した次第


取り組み実践・「命」が出す答え

ただしハイブリッド心理学は、そうした言葉引き合いに出して、「こうは感じることはできませんか」「ぜひこう感じるようにしましょう」「感じ方」を変えようとすることに取り組む心理学ではないことを、ご理解頂ければと思います。
上記ブログの言葉にしても、「喜びましょう」とは言っていますが、ハイブリッド心理学そのものは、そのように「こう感じるようにしましょう」「感じ方」枠づけ枠はめするのとは、むしろ逆の取り組みをするものです。

ハイブリッド心理学実際に行う意識実践を、「取り組み実践」と呼んでいます。
これは一言で、
  *   *   *   *   *   *   *
「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解のみする」
という「感情と行動の分離」姿勢実践を携え、
自ら「望み」向き合い「望み」に向かって全てを尽くして生きる
  *   *   *   *   *   *   *
というものです。
『実践 - 3.取り組み実践 / ハイブリッド人生心理学の「取り組み実践」とは』
この
「取り組み実践」全体、そしてそれによる「成長」全体については、今掲載中『概説』などをまずは読んで頂ければと思います^^。

ですので、「不運」実際に出会った場合についても、それについて「こう感じるようにしましょう」ではなく、まずは上記「感情と行動の分離」内面感情側「ありのままに流し理解する」になります。

この点は、ブログ『写真と言葉』カテゴリーはもともとハイブリッド心理学そのものの説明ではなく、付録的手軽に楽しめる言葉集のようなものとして、あまりハイブリッド心理学内容を厳密正確に伝えるものではないことを、ご了承頂ければと思います。
もちろん全く違うことは言うものではなく、ハイブリッド心理学主旨合ったものとして。上記ブログの言葉については上述の通り。

では「あからさまな不運」について、ハイブリッド心理学取り組みからはどうなるのか一言でいいますと、こう言えます。
ハイブリッド心理学では、そうした出来事の一つ一つだけを個別に取り上げて答えを出そうとするようなことは行わず、あくまで、生き方の全体に取り組みます。この点では、いかなる人生の状況においても、取り組みの歩みは同じものになります。
同じ取り組みの歩みとは、私たち自身の中にある「命」を開放することです。
そして、自分が嘆いた「あからさまな不運」とは一体自分の人生においてどんな意味のものであったのかの結論は、この薄っぺらい「自分」ではなく、「自分」とは別のものとして私たちの中にある、「命」が出すのです。


まあこれが、「多少の不運」ではなく「あからさまな不運」をテーマにした時の、「言葉」になるでしょう。
そのようなものとして、関心を持てそうか、上述の通り手ごろな読書などから検討してみて頂ければ^^。

なお「取り組み実践」としては、上記例のような「ハンディから生きた人」情報沢山接することが、基本中の基本になります。
一方で、自分どんな人の姿羨望を感じているのかも、「ありのままに流し理解」することも。それを込みに、生き方の全て取り組むものになります。


次は別の人生を^^

あとこれについては、

>不運に遭わない人生よりも、取り返しのつかない不運に遭う人生のほうを選びますか?

最終的に「これがあってこそ自分は今の幸福を得た」と感じられることと、「もう一度生まれ変われるなら同じ人生を」と感じることとは、話が大分別だと考えていいと思います。

たとえば僕自身について言えば、身体の障害ではなかったですが心の面での障害によって結構苦労した人生ながら、まさにそれによって今の幸福があると感じています。
で、もう一度同じ人生を繰り返したいか問われれば、「もういい」というのが正直な感想です^^;
一つは、ほんとに幸福感が増えてきている今日この頃なのですが、そこに至るまで長い灰色の年月同じように、というのはもう面倒、という感^^;
ただまあ人の人生本当の幸福なんてのは、そんなもんだと思うわけです。自分では望まざる困苦先にこそそれはある。それを抜きに、最初から願い通りの境遇で生きることを望んだ時、まさに人間がふやけてしまうことが起きるわけです。
またこれが年齢を重ねる幸福だとも感じています。若さとは未熟であり、未熟とは苦しみです。若さを失うことで幸福が消えていくしばしば人は考えるかも知れませんが、それとはに、老いるほどの幸福がある。だから、今幸福だというのと、同じ人生を最初からまた歩みたいかというのは、話が全然違う

そしてもう一つ言えるのは、どんなものであれ十分に生き尽くせた、満足感のある人生というのは、次に生まれ変われるとしても同じ人生を、と感じるものかどうかは、どうもそうとは言えないように感じる次第です。
一言でいって、今の人生を生き尽くしたなら、もし次に生まれ変われるとしたら、またちょっと違う人生に挑戦してみたく感じるのではと。

これも関連してちょっと関心した言葉があり、某飲料製品でのザッケローニ言葉
「もう一度人生をもらえるとしたら、二十歳の時に病気で諦めたサッカー選手を目指すだろう。でももう一度監督をやる必要はない。何故なら、この人生で私は、すべてを出し切るからだ」
もし生まれ変われるとしたら、同じ人生というのはもういい。それは今の人生満足していないということではなく、全く逆に、今の人生で自分にできること完全にやり尽くした、という、最大限の満足表現している言葉ですね。

ということで、まとめれば、結局今を原点として全てを尽くして生きるしかないと思うわけです。幸運不運というのは確かにある。だがそれが自分の人生で本当にどんな意味を持つものになるのかは、全てを込みにして最大限に生きたにしか分からないということですね^^。



向き合い / こたろう 引用
No.881 2014/05/11(Sun) 10:06:07

あらためて、向き合い、というのが
出来ていなかったなと感じます。

なんとなく理解して、そういうことだな、
じゃあそうしよう。という感じで、
自分の中の既存の価値観や反発を
聞いたふりをしながら
徹底して納得するところまで
新しい考え方や先行きの展望まで
と照らし合わせながら、考えていく。
こういう作業をしないで、感情が悪化するごとに
「人と打ち解けられない」など検索して、
それらしい答えをみつけて少しだけ感情が安定する。
こういうことを繰り返してしまっていました。


一つ一つ論理をおって納得するまで
説明されるという環境ではなかったので、
様々な部分で「こう思っておけばいいんだろうな」
という癖がついてしまっているんだと思いました。
まずはこういう論理をおって選択していくという
部分が土台として必要なんですよね。


疑問に感じた部分はとことん整理して質問
させていただきたいと思います。


向き合い、にかんしてですが、
「いまはこれしかない」という行動なり価値観は
自分の内面の感情が1つの方向に向かうような感覚
ではなく、感情の大きな部分は反発や恐怖感や逃げ出したい気持ちであっても、その底にある「長い目」で先を展望する部分が納得する、という感覚に
なるんでしょうか。


例えば、先のレスで
「打ち負かし自尊心」の話がありましたが、
打ち負かし自尊心と交友は共存できない、
という事を心に提示してみると、
納得しているけど出来ないという感覚なのか、
納得できない、例えばヤンキーであったり、男っぽくて
攻撃性が高いタイプの人は、交遊を持ちながら時に
相手より自分を大きく見せたいとか、競り合ったりとか
しながらそれでも友情を維持しているようにみえる人がいる。


それから破壊から自衛、建設へ、に
関しては、喧嘩するほど仲が良いという言葉が
あり、僕の叔父夫婦はこれを体言している気がします。
実際、やいやい言いあいをしていても逆にそれが
爽やかで、子供もあっけらかんとした性格に育っているケースがよくある気がします。
まあこれは、喧嘩しているからというよりは
お互いが信頼しあっていてリラックスしているのが
伝わるからという部分が、喧嘩している以外の時間に
みえるからかもしれませんが、
こういう例外?的なものが新しい価値観を学ぶ度に
出てきてしまって、心が一つの取り組みの方法に向かない事が多くありますね。
でもこういう細かいひっかかり感をその都度
見つめていかないと、自分の心に対する押しつけに
なるんですよね。


 
Re: 向き合い / こたろう 引用
No.883 2014/05/13(Tue) 23:06:34

●自己の重心、価値観

価値観を見直すという作業で、
そうはいっても人は...から
自分はどう思うのか?
へ問いを深めていく、という事を
してみると、
価値観というのはほとんど
「そう思うものなんだな」
「そういうものなんだな」
で構成されている感じがしました。

本音がはっきりとわかりやすいのは、
それがどうであれあまり他者からの評価に
影響がないもの
(例えば好きな食べ物、虫が好きか嫌いか)


そうでないものは
社会的な客観性というのを自分なりに
解釈した上で価値観にしているものが多くある。

それを好きでいることによって
または嫌いであることによって、
人にどう思われるかという自己イメージに
大きく関わるもの(グロ映画好きとか、
自然好きとか、
動物嫌いであるとか、子供が苦手とか)


好き嫌いを越えて、それについて
どう思うか、というのも
同じく人にどう思われるかという
自己イメージに大きく関わるほど
本音が見えづらいですね。
(原発推進、戦争について、
障害者について、など)


こういったものは
自分はどう思うのか?ととうても、
それが自分の価値観なのか?
他人の価値観なのか?
よくわかりません。


こういった場合、
もしも他人一般(あくまで自分の接した世界から考えているだけですが)が自分の価値観や感じかたを評価するという目のイメージを廃した時に
自分はどう考えるのか?感じるのか?
という向き合い方が
「自己の重心」と考えていいでしょうか?


例えば怠惰な若者に怒りを覚える感情がありますが、
その感情が沸くときに「50代くらいの大人」のイメージがともなって、彼らがけしからん!だらしない!と怠惰な若者を評価するイメージが湧きます。
この時、自己の重心にもとづいて自分はその怠惰な若者をどう考えるのか、と思うと、もしもその50代くらいの大人のイメージが「気楽にやろうよ」といった怠惰な若者たちへの友好的な態度だとしたら、
自分は怠惰な若者に怒りを感じることはない気がするのです。


これは教室の中の依存世界思考そのまま
な気がするのですが、
ようはどう感じ考えるのが
評価される人間なのかという目線で
周りを観察してきた結果ですよね。
その価値観に論理的な根拠や
様々な価値観が同じような構図で自分の中に
あります。


で、先の自己の重心についていうと
もしも自分等の世代しかいなくて、
イメージとして、出てくる50代くらいの大人
が存在しなかったら...
とかんがえると、怠惰な若者に怒りを
感じないかもしれない。

でもこれは現実の社会に存在する
価値観を無視している気がするので、
なんか違う気が...


ようは自己の重心というのが
よくわからないというか、
自分がそう感じている、というのは
自分が受け入れられたい、あるいは
受け入れられることによって育った共同体が
そう感じている、というものばかりに
なる状況なのですが、
これをどう考えていけばいいのでしょう。


 
「本心からの価値観」への道^^ / しまの 引用
No.885 2014/05/16(Fri) 11:20:50

前進への心の土台

>様々な部分で「こう思っておけばいいんだろうな」 という癖がついてしまっているんだと思いました。 まずはこういう論理をおって選択していくという 部分が土台として必要なんですよね。
>向き合い、にかんしてですが、 「いまはこれしかない」という行動なり価値観は 自分の内面の感情が1つの方向に向かうような感覚 ではなく、感情の大きな部分は反発や恐怖感や逃げ出したい気持ちであっても、その底にある「長い目」で先を展望する部分が納得する、という感覚に なるんでしょうか。

大体その通りです^^。ま理論を追ってというか、とにかく「自分にとって本当に確かなこと」積み上げによって「選択」をしていく、というのが土台ですね。今まで「これが本当に確かだ!」と感情で考えたようなことも、いったん解体するようなことも含め
まさにそうした「本当に確かなこと」積み上げをする目が、納得するものということになると思います。

>こういう例外?的なものが新しい価値観を学ぶ度に 出てきてしまって、心が一つの取り組みの方法に向かない事が多くありますね。 でもこういう細かいひっかかり感をその都度 見つめていかないと、自分の心に対する押しつけに なるんですよね。

これもその通り。ずばり、細かいひっかかり感じっくり向き合い分析することこそに、前進への鍵があるといえるでしょー(@_@)/ (←ちびまる子ちゃんに出てくる「まるお」君調で。いやおふざけ失敬^^ゞ)
でここでのひっかかりは、「本心からの価値観」「それとは似て非なるもの」というテーマになると思います。後者が混入すると、ちょっと混乱が生じる。


「本心からの価値観」と「似て非なるもの」の違い

ということで「本心からの価値観」「それとは似て非なるもの」違いについてざっと説明しますと、

まず「似て非なるもの」つまり「本心からの価値観でないもの」について書いてみますと、次のようなものがあるかと。
まず考えられるのは「建前思考」
・自分への建前思考 「こう考えるということにしておこう」
・人に賞賛されるための建前思考
 「こんな価値観の私どう?」

あとこれもちょっと違うというのは、「好き嫌い」「魅力感」ですね。スポーツたとえばスキー好きというのは、「価値観」というのとはちょっと違いますね。単なる趣味嗜好好き嫌い問題。一方「スキーのようなウインタースポーツこそ心身を強く健康にするものであり、誰もがするべきである」といった意見を持つとなれば、それは「価値観」言えるものになってくる。

そのように、「価値観」というのは、どう行動するのが良いかについての「意見」「考え」です。
それが「本心からの価値観」であるためには、やはりまず上述のように「自分にとって本当に確かなもの」を選ぶという心の土台があって、そこにおいて持つものですね。
「建前」でなく。ということは、それは実際自分が人生でどう行動するのかの、自分としての一種の「作戦」「戦法」になるということです。こうした行動法であればきっとうまくいく。それを確かなものと感じ、実際そのように行動する。そしてそれによって、実際「幸福」へと向かうことができる。そうした機能果たすものが、「本心からの価値観」です。
に言えば、そうした機能を果たすことなく、表面上は価値観の衣をかぶったものが、「似て非なるもの」ですね。


まず「似て非なるもの」から抜け出す

ということで、

>打ち負かし自尊心と交友は共存できない、という事を心に提示してみると、納得しているけど出来ないという感覚なのか、納得できない、例えばヤンキーであったり、男っぽくて 攻撃性が高いタイプの人は、交遊を持ちながら時に 相手より自分を大きく見せたいとか、競り合ったりとか しながらそれでも友情を維持しているようにみえる人がいる。
>それから破壊から自衛、建設へ、に 関しては、喧嘩するほど仲が良いという言葉が あり、僕の叔父夫婦はこれを体言している気がします。

これはまずは、「間柄の様子」ですね。多少ともぶつかり合える、喧嘩もできるというのが仲の良い魅力的な姿見える。まこれは理解できる話です。もそうした、互いに全てをさらけ出し合える間柄魅力感じた日々も、以前にはあったかも知れない。

だからと言って、「喧嘩できるのが仲の良いこと」考えるとなると、それは一種「価値観」となり、ホントにそれでうまく行くのかと、「選択」しなければならないものになってきます。
これについて分かりやすいのを「サザエさん」で見たことがあり、「喧嘩するほど仲が良い」という言葉を信じたタラちゃんが、仲良くなりたい相手ケンカをふっかけて嫌われてしまい泣くシーン

そんなものとして、「選択」しなければならないわけですね。「喧嘩するほど仲が良い」ホントウソを。「自分にとって本当に確かなこと」において。
僕の考えとしては、まず言ってそれはウソです。喧嘩ばかりする間柄度を越した時、夕方のニュースで流れる事件起きてしまうわけです。僕の行動法価値観としては、喧嘩もできるような姿理想とする要素は、微塵もなしです。

もちろん「選択」自由です^^。
まあ実際の話攻撃性破壊性多少ありながらも仲がうまく行くというのは、当人同士性格資質その他の条件薄氷のバランス、つまりその相手であれば「楽しみの共有」攻撃性破壊性何とかカバーできるというバランスによって、ごく限定されたその相手とだけはうまく行っているようだが、他の人間関係全般概して悪いということに、どうしてもなってしまうと思います。

あとはやはり、「建前思考」混ざって混乱という感じかもですね。

>価値観というのはほとんど 「そう思うものなんだな」 「そういうものなんだな」 で構成されている感じがしました。
自分への建前

>それを好きでいることによって または嫌いであることによって、 人にどう思われるかという自己イメージに 大きく関わるもの(グロ映画好きとか、自然好きとか、動物嫌いであるとか、子供が苦手とか)
人への建前。これは建前の価値観というより、建前のキャラというテーマですね。こうした好き嫌いの僕ってどう?と。

>同じく人にどう思われるかという 自己イメージに大きく関わるほど 本音が見えづらいですね。(原発推進、戦争について、障害者について、など)
これは「価値観」テーマになってきますね。

いずれにせよ
>こういったものは 自分はどう思うのか?ととうても、 それが自分の価値観なのか?他人の価値観なのか?よくわかりません。
分からないということは、自分の価値観ではない、ということになると思います^^;


「本心からの価値観」への道

ということで、まず「似て非なるもの」について、「本心からの価値観」ではないことを見分けていく。
同時に、自分の「本心からの価値観」はどんなものか?問うのが良いでしょう。
問い方としては、

>もしも他人一般(あくまで自分の接した世界から考えているだけですが)が自分の価値観や感じかたを評価するという目のイメージを廃した時に 自分はどう考えるのか?感じるのか?という向き合い方が 「自己の重心」と考えていいでしょうか?

というもので大よそokです^^。まあ人がどう見るかというのはあるとして、見られもしない自分の安全な心の部屋の中ではどう考えるか、とじっくり考えてみる。
人の手前では表に出さないけれど、実は自分ではこう思っている、とぺろっと舌を出して考えるようなものもアリとして。

そこで「自分の価値観」すぐにははっきりしないこともあると思います。その時はとにかく、「価値観の論理的意味」を自分としてしっかり理解することからです。

>例えば怠惰な若者に怒りを覚える感情がありますが、その感情が沸くときに「50代くらいの大人」のイメージがともなって、彼らがけしからん!だらしない!と怠惰な若者を評価するイメージが湧きます。この時、自己の重心にもとづいて自分はその怠惰な若者をどう考えるのか、と思うと、もしもその50代くらいの大人のイメージが「気楽にやろうよ」といった怠惰な若者たちへの友好的な態度だとしたら、自分は怠惰な若者に怒りを感じることはない気がするのです。

というものであれば、「だらしない」とは何をどのように損なっているということか、それはどのように問題があるという話か、といった論理的な思考しっかり把握する。

ここで「目的思考」vs「目的なしの善悪評価思考」というのが重要なポイントになります。
まず我々「目的を問うことのない善悪評価思考」植えつけられて育つ面がります。働くことが善、働かないのは悪というように。
そうした「目的なしの善悪評価思考」から「目的思考」転換することも、ハイブリッド心理学としては「価値観」への取り組みでの必須実践項目になります。

同時に、「原理原則思考」取り入れる学校の道徳の授業では「目的なしの善悪評価思考」ばかり話されますが、「現実の社会」に出ると「原理原則思考」勝つものになります。正しい「原理原則思考」ができることは、社会を知るということでもあります。
それで言うなら、僕の思考など例に出すと、働くも働かないも基本は人それぞれの自由、どうこう言うのは余計なお世話、働かなくても食えればラッキー、でもそうは問屋が卸さないので必要あらば働くという話ですね。まあ国の仕組みとしては働き手がいないと税の収入も途絶え年金制度なども危うくなりますので、皆が働くのはまあ良いことではありますね。しかし老いていく人間が働かない若者をだらしないと怒るというのは、結局自分の年金が心配だからというエゴかも知れない、といったになる。

そのように、「自己の重心」であり、さらに「目的思考」であり「原理原則思考」といった、今までとは違う思考法学ぶ中で、自分としては本当にどんな価値観を今持つのかに、向き合う
これは結局「自分にとって本当に確かなこと」選んでいくという「自分自身への論理的思考」一番基礎の土台として、その上「全ての学び」つまり

『概説 - 3.取り組み実践 / 「学び」の主要テーマ』
での各種テーマ項目
『概説 - 5.歩みの道のり / 前進への基盤となる意識過程 一覧表』
にまとめた心の土台

といった全ての学びの中で、次第に築かれていくものだということです。

ということで、一言
まず「本心からの価値観」と「似て非なるもの」を見分け、「本心からの価値観」に取り組み始めることが、同時に「成長」の始まりである。
そこで「本心からの価値観」は、「こう考えられればok」というものではなく、自分に問い続けることができることに意味がある。さまざまな視点で自分の「本心からの価値観」を問う歩みの中で、「成長」が目に見えないまま前進し、それによって心のあり方の全体が少しずつ変化する。そしてそれによって「本心からの価値観」として感じ取れるものも、徐々に変化していく。
「成長」とは、最後までこの繰り返しである。

言えるかと。(「一言」よりはちょっと多かった^^;)

それが
>自分がそう感じている、というのは 自分が受け入れられたい、あるいは 受け入れられることによって育った共同体が そう感じている、というものばかりに なる状況なのですが、これをどう考えていけばいいのでしょう。
への、ハイブリッド心理学からのまずは答えですね。

その長い道のり向かうということです^^。



進路について / masa 引用
No.878 2014/05/05(Mon) 23:36:01

アドバイスありがとうございます。
コメントの文字が意味ごとに色分けしてあり、いつも見やすいです。

選択肢の挙げ方もやはり目的思考をベースにしていないからこうなってしまっているのでしょうか?

島野さんがおっしゃるとおり、僕は就職が嫌だと感じていたんだと思います。皆と同じことをして地味に生きたくない、自分は特別だ!という気持ちからなんだと思います。就職していく人を軽蔑していました。今は平凡な人生でもいいのでただ成長成熟したいです。

出来るのは社会を知ることからなんですね。
価値を感じることを探さなきゃと躍起になっていました。


芸人に対してのスタンスもやはり結果残せてから考えたいと思います。今は趣味の範囲でできればいいかなと感じます。
就職経験を生かせる職をピックアップしてみたいと思いますが、経験のあるコールセンター業務はほとんどが受信業務です。問い合わせや受付がメインでほとんど紋切り型に話しているため、人との会話が得意という感覚はあまりありませんでした。
また、電話営業のコールセンターで仕事していたことがあるんですが、商材が(映像コンテンツ)とてもお客にオススメできるものと感じれず(当時詐欺に近い商品だと感じていました)、営業のノルマも毎回越えられず結局会社をクビになり、営業職にかなり苦手意識があります。
そういった状態でも営業は候補に入れるべきでしょうか?


 
Re: 進路について / masa 引用
No.879 2014/05/06(Tue) 01:55:12

すいません、また新規で書いてしまいました。以後レスから入れます。


 
「選択肢見極め思考」・職業選択における「現実を見る目」^^ / しまの 引用
No.882 2014/05/12(Mon) 11:06:36

>すいません、また新規で書いてしまいました。以後レスから入れます。

同じ話でも読みやすい程度適宜新規入れて頂いてokです^^。ま先の僕がコメントする対象の記事離れ離れになってしまったので直した次第

ちょっと間伸び説明っぽく(?)なっていますが「選択肢見極め思考」とはどのようなものかと、
あと「職業選択」における「現実を見る目」からのごく実際的なアドバイスなど^^。


人生における重要場面での「選択肢見極め思考」

>選択肢の挙げ方もやはり目的思考をベースにしていないからこうなってしまっているのでしょうか?

何がいけなくてこうなってしまう、というより、こうならないような、今までとは違う思考法をどのように積み上げる、ですね。かなりの思考法鍛錬に、それができるようになります。

どーでもいい(?)参考話ですが、スキーの技術がうまくなるために、スキーがまだうまくない時ほど「どこを直せばうまく滑れる?」という発想を持つのですが、実際うまくなるほど「これを直せば」といったものとは話が全然違ってきて、今までやったことのない難しい運動要領どう積み上げられるかであるのが分かってきます。
この話どっかで触れたことがあるようにおぼろげに記憶しているのですが、探してもどーも見つからないのでここで書きますと、中にはまるで重力に反するように脚を使う、ありえないと思えたような運動技術出てくるわけです。こうしたのも、「直す」というのとはもう全然違う、新しい技術の地道な積み重ねの先に、そのための運動神経がまず備わってきて、さらにそれにパワーも加えられるといった展開によって、スキー本当にうまくなっていく。
これはバ−ンズ『いやな気分よさようなら』で、コーチが選手のミスを叱ったところでミスは直せないというにしたのと同じですね・・とこれに触れた原稿を探したところスキーの技術の話一緒に書いていましたね^^ゞ 「直す」のではなく技術の「追加形」だと。
『実践編上巻 10章 人生への実践−1 −プラス行動学−』
「テニス」検索するとヒットする箇所

人生における重要場面での「選択肢見極め思考」とでも呼べるものも、同じように、かなりの思考技術積み上げ積み重ねできるようになるものです。
『概説 - 5.歩みの道のり / 前進への基盤となる意識過程 一覧表』
にまとめた「意識過程」で言っても、その全て駆使して、総合的に導かれるものだとも言えます。

ですので、「目的思考をベースにしてないから?」というのは、やや、まだ何も本格練習しない段階で、自分がプロのようにできないのはどこがいけないから?という発想やや似ているのにご注意です。まこれはmasaさんそんな段階だと言うより、この喩え表現書きたかった次第^^。


「選択の前提」から「現実を見る目」で埋めていく

まあ実際この人生における重要場面での「選択肢見極め思考」というのは、かなり高度な思考技術によるものであって、今回のアドバイスに際しても、僕自身結構時間をかけ手順を踏んで思考した結果アドバイスしています。

参考までどんな手順思考したかと言うと、「選択の前提」から「現実を見る目」で埋めていくというのが重要になるかと。
ものごとの「良し悪し」を、あくまで「何の目的のためには」という「目的」ありきで考える「目的思考」確かに重要ですが、ここではさらに、その答えの内容与えるものとして「現実を見る目」重要になってくると思います。
「何をどう考える」という「どう考える」において「目的思考」活躍するとして、「何を」という思考材料段階で、「現実を見る目」材料の内容を決定するものになります。この段視野が偏ると、その後「どう考える」どう工夫したところで、良い答えは見つかりようもない。

で、僕がまず考えたのは2つのことです。
・就職をやめれば芸人としての成功に近づけるというわけでもない
・結婚の条件として言われたからという姿勢では、どんな職業も身につくものではない


そこで今回のアドバイスとして、2つ目の話前面に出すことをまず考えた今の彼女に結婚の条件として言われたから考えるという姿勢では、どのみちその職業は身につくものではない。言われたからではなく、自分からの人生設計として考える必要がある、と。
ただこれを言うと、どうも方向が変になるようにも感じたんですね。好きな道にこそ行くべきだ・・というと就職やめて芸人目標一本?というような。
でそこに上記1つ目の話再度加えると、これはもう「現実問題」としての「選択肢」は、芸人をどう目指すかとも、彼女に結婚の条件として言われたことにどう返すかとも違う、ごく自分個人の人生の問題として「本格的な就職」に向かうかどうかだけの「選択肢」が今はあるのが、浮かび上がってくる、という次第です。


本当の選択は何かを見極める

これは「選択」だと思っていた問題実は「選択」でない「選択」全く別のところにある。それについてまず自分自身としての選択を決めたならば、あとは、最初に「選択」だと思ったいたものもう相手(たとえば芸の審査員や彼女)に任せるしかない、つまり自分として何も迷い惑う必要もないことであるのが見えてくる、という流れ好例だと言えます。

こうした流れ僕自身の体験上も、結構あります。相手に受け入れられるためにはこうするのが良いのか・・だがそれではこれができなくなって・・で、相手の意向に沿うようにして受け入れられるか、それともそうせず相手に離れられてしまうかの選択のように思えてくるのですが、自分として本当に何を望み得るのかを、「現実を見る目」の下でとことん突き詰め「今自分にできるのはこれだ!」というものが見えた時、もうそこに「相手に受け入れられるか離れられるかの選択」は、消えているんですね。その惑いが、消えている。自分はこうする。あとはどうにでも好きなようにしろ、と。自分の前進の感覚が、相手側の反応の違いへの不安を、凌駕するようになるわけです。


職業選択における「現実を見る目」

ということで、「選択肢見極め思考」そのものはもうかなり総合的なものということで、それを培うためには上記参照「意識過程一覧表」全てじっくり取り組む先というになると思いますが、

・本格的就職を考える場合の選択肢候補
について引き続き「現実を見る目」だとどうなるというアドバイス追加しておくことができるかと。
それは書いて頂いたものに対してあまりに別世界の思考とも言えるため、一体どうすればそうした目が持てるのかというも出るかもですが、まずはとにかく書いてみるとこんな感じ。

>皆と同じことをして地味に生きたくない、自分は特別だ!という気持ちからなんだと思います。就職していく人を軽蔑していました。

これはもう「現実」何を見ているのでもなく、イメージだけの世界ですね。そこで「軽蔑」とは何を軽蔑していたのかさらに細かく分析してもいいのですが、まずはとりあえず過去のことということで今特に取り上げる必要はないかと。

>人との会話が得意という感覚はあまりありませんでした。

これは社会における自分の長所能力認識できていないという形での「現実を見る目」欠如言えるかもです。基本的に喋るのが苦手、活舌が悪いといった人沢山います。まず「声の出し方」レベルでは就職において使える能力があるということになると思います。

>商材が(映像コンテンツ)とてもお客にオススメできるものと感じれず(当時詐欺に近い商品だと感じていました)、営業のノルマも毎回越えられず結局会社をクビになり、営業職にかなり苦手意識があります。

それは「低質な営業の世界」典型例ですね。ノルマのための押し売り
そういうのとは全く別世界「高品質の営業の世界」というものを、どう知るかからになると思います。それこそまさに「価値の生み出し」の世界です。
それを説明する本結構あると思います。ま僕自身その方面では知識がちょっと少なく、とりあえず記憶からすぐ出てくるものとしてこんなものなど。
奇跡体験!アンビリバボー 十勝バスが北海道に巻き起こした奇跡 3月6日

>そういった状態でも営業は候補に入れるべきでしょうか?

まず「低質な営業の世界」だけで考えている状態脱するその上で、就職業種職種検討をすると良いでしょう。

「入れるべき」というという言葉はちょっと不適です。「現実を見る目」からは、「入れるべき」かどうかというより、就職の間口として何がどの程度あるのか客観的な数字の事実です。「入れるべき」というという言葉はちょっと道徳的
となると、「就職」というのは基本的「営業職」「技術職」「専門職」といった大きな切り口から成り、今回の話で言えば「技術職」「専門職」のための情報特に検討しなければ、まず「営業職」というのが間口としてあるということです。求人も多いでしょう。ただしそこから、自分として「高品質の営業の世界」として展開できるものを見出すことが課題になる、というになるでしょう。
「べき」もなにも、とにかくそうした現実の間口があるという事実を、まず認識する。 もちろん、それとは別のものととなれば、準備を積んでの技術職や専門職という選択肢もあるという事実

ここまでの話職業選択思考のための「材料」ですね。そこから、自分として何に優先基準置くかといった「選択思考」そのものんを働かせていく、ということになると思います^^。




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