しまのたかしハイブリッド人生心理学 島野隆ブログand掲示板
読 者 広 場


過去ログ  2017  2016  2015  2014  2013  2012  2011  2010  2009  2008  2007  2006  2005
●島野の著作そしてハイブリッド心理学に関する感想・質問・ご意見など投稿して頂けます^^。
●心の悩みのご相談
については、ハイブリッド心理学「取り組み実践」を進めるためのポイントヒントなどを、ここではごく簡潔アドバイスいたします。
*より詳しくアドバイスするとどのようなものになるのかは、
 
メール相談事例集実践編書籍など読んで頂くと参考になるかと思います^^。
返答入れて頂いた順に返していきます。日数がかかることもありますので、ごゆっくりお待ち下さい^^。


新規トピック入力フォームへ 記事検索 過去ログ記事サイトトップの検索の方でヒットします^^) 

(No Subject) / SF 引用
No.1090 2015/08/14(Fri) 18:14:20

悪化して1年8カ月になります。特に怒りがあります。薬を飲んでも治まらず、暴れてしまいます。睡眠も安定剤と睡眠薬で寝ています。自力では眠れません。建設的行動とか難しいです。まだまだ、続くと思うともう嫌でたまりません。元々はPTSDからでした。8年7カ月になります。



自分への嘘と他人への嘘 つづき / こたろう 引用
No.1050 2015/05/11(Mon) 13:57:48

同じ行動においても、価値観によって嘘か嘘ではないかが変わるという
事ですね。


続いて考えたいのが「意思」を表明するに当たって
その表現の仕方に個性があると思うのですが、それが嘘か嘘ではないか
という問題があります。


例えば話し方です。
自分の中に幼稚園の頃のまま凍結された自分、のような
物があると感じます。その自分は、舌足らずで甘えたような話し方をする感じです。
話し方も、ゆっくりとしていて、トロい印象です。
女の子っぽさも少し含まれているような感じです。(カメラを向けられると
首を横に傾けてまっさきに可愛いポーズをとる子供でした。)


一方で、年齢に応じて「年相応の話し方」を人物印象としてとりこんできました。
こちらは、上の自分と比較するとハキハキと歯切れの良い話し方です。
とにかく女っぽく思われたくないという感覚や、頭のキレる大人の男、みたいな
印象です。「草食系男子」とくくられる事に大きな抵抗があります。
「打ち負かし自尊心」に駆り立てられて、男らしさなどを自己イメージとして
取り込んできたのだと思います。

「愛され自尊心」と「打ち負かし自尊心」が衝突を起こしているようにも
見えます。



自分の嗜好(着たい服や趣味)も、それぞれで分裂してある気がします。
前者の自分が着たい服と、後者の自分の着たい服が違うのです。
また会う相手によってもそれを変えたくなるという事があります。


後者の方が後天的に身につけた自分である、と感じるため、
その自分に絶望するのがこの先の道なのかと思いましたが、
同じように男らしさを意識して話し方を年齢相応に変えるといった事は
多くの人が行っている事だとも思います。

また、TPOと相手との親睦度に応じて変化があるのも当然に思えます。
例えばビジネスの場面など。
これらは嘘にはならない、というのは何故なのでしょうか。


 
「意思表明」の嘘と「表現の仕方」の嘘^^ / しまの 引用
No.1052 2015/05/14(Thu) 13:53:35

まず、

>「意思」を表明するに当たって その表現の仕方に個性があると思うのですが、それが嘘か嘘ではないか という問題があります。

というテーマそのものについて。
「意思表明」というのは、我々人間では基本的「言葉」行うものになると思います。
ですので、その「言葉」に嘘があるかないか、という問題はあると思います。たとえば就活「この仕事こそ私が一番やりたいことです」という言葉に、実は本当に一番やりたいのは別の仕事という嘘があるケースといった。まあ就活面接するならそう言うしかないわな、という^^;

その際表情仕草などの「表現の仕方」ですが、これはまず表明する意思に嘘がなければ、「表現の仕方」に嘘があるなしというのは、あまり問題にならないというか二義的な問題になりますね。
表明する意思に嘘がなければ、それはもう「嘘」とはあまり言わないものとして。
たとえば大病を患い闘病への意思相手に伝える時、相手を心配させないよう明るく振舞ったりと。

一方、表明する意思に嘘があると、「表現の仕方」に嘘があるかどうか、というか表明する意思そのものの嘘がバレるような表現の仕方ものでないかが問題になる、ということにはなると思います。
たとえば「この仕事こそ私が一番やりたいことです」という言葉瞬間目線が宙をさまようなど^^; それを見た面接官はまず「これは嘘だな」見抜く^^;

ですので、まず何を表明するという話なのか、自分の意思をしっかり持つといこと自体まず大切であって、表現の仕方については、その内容に応じてごく自然に、またその内容に応じた建設的な配慮をして、という考え方まずは良いかと思います^^。

違った服装の趣味があるといったのは大いに結構TPOに応じたお洒落といったものも、多少失敗も体験しながら自分なりのものを築いていく、という方向感問題ないと思います^^。


 
Re: 自分への嘘と他人への嘘 つづき / こたろう 引用
No.1054 2015/05/15(Fri) 13:11:41

ありがとうございます。


質問の後半部分には

「表現の仕方については、その内容に応じてごく自然に、またその内容に応じた建設的な配慮をして、という考え方でまずは良いかと思います」

の部分で答えていただいているのでしょうか?


時々感じるのは、前者の「少し甘えたところもある舌足らずな喋り方をする自分」が本来の自分で、その自分では「男らしくない」「嫌われる」と思ってしまった所から後者のような自分を作り上げて、
演じている。という可能性です。
つまりこれも「ありのままの自分で成長する事を放棄し、成長した後の外面印象だけを真似ている」可能性があるのではないか、と。


以前、店舗で接客を受けた時に、40代くらいの女性に甘えた子供のようなイントネーション(ゆっくりと、ほわほわした印象)で話された事がありました。
しかし会話の内実は、しっかりした物で、質問にも的確にアドバイスをいただけたという
経験がありました。


正直子供みたいな喋り方にイラッとするというか、店舗の他の店員から後ろ指刺されて笑われているんじゃないだろうかとか、思ったわけですが、それでもそのままでいれるのは自己否定感情が無いからか、あるいは葛藤の中自分のままの話し方を貫く事に決めた経験があったのかもしれない。実際それで問題なく仕事出来ているなら何も問題はないし、
別のお店で出会ったザ・セールストークマンのような店員(店員という役職のイメージを思いっきり身にまとい、まるで機械のようにしゃべる)と比べると、何だか生身の自分で接してもらっている感じがして、悪くないなぁと思った事がありました。


某芸人もマネしていた渋谷の女性ショップ店員の甲高い声の「いらっしゃいませ」
は外国人には奇妙に映るようです。例えばアメリカなどでは、店員に過剰な愛想を要求するような文化そのものが薄いため、プライベートと同じようなトーンで接客業も出来るのでしょう。

日本には「感情労働」という言葉があります。
CAさんなんかはその典型といえると思います。


これも本来の自分ではない「嘘の自分」を演じている事にはなるわけですが、
これに対しての解釈の仕方が不明です。

@仕事場面は愛される事を目的にしたものではないため、嘘の自分でも仕方がない。
A自分が望んでいるような振る舞いであれば、嘘ではない。


とりあえずこの二つが思い浮かんだのですが、いかがでしょうか。

Aに関しては、そもそも自分の話し方、声のトーンなどは何かの影響を確実に
受けているわけで、様々な影響を受けた結果そうなっている、という事は言えるわけです。
例えばアイドルが大好きな女の子は、ハマってからブリっ子のような喋り方になる事も
あるでしょう。



●「表現の仕方」の嘘のあるなしについて

闘病への意志を相手に伝える時に、心配させないように明るく振る舞う。

これに関しては「相手の心配をなるべく軽減する事を望む+苦しい、孤独だという感情は自分で受け止めたい」という意志のもと、建設的行動を考えた結果「明るく振る舞う」という理解で宜しいでしょうか。


今回触れていただけたので、また浮き彫りになったポイントなのですが、
「マイナス内面は表現しない」事において、マイナス内面を出さないというのは「出さない」というゼロでいればいいという事ではないんじゃないか、と思っていたんです。
以前「ふとした瞬間の無表情はおかしくない」と言っていただいたのですが、
普段健康な人の「無表情」と、精神的に病んでいる人の「無表情」は全く違うものです。
それはまず顔色であったり、目線の落ち方などで違いがあります。
気が付くと一点を凝視している時がありますが、これは精神状態がかなり悪化している
時に特有だと感じます。という事で、健常者の仮面を感情の強制によってまとう必要が
出てくると思うのですが・・・
つまりありのままの感情を出さない事にも「出さない」のではなく
「そうではない感情」をまとうという表面に見える感情をある程度作る必要性はあるのではないかという事ですが。


「友好的な自分を保つ事で精一杯」といった表記が悲しみの彼方への旅でも出てきますが、
これらは「建設的な行動法を知らなかったからそうだった」のか、
そのくらいの感情の強制は必要だったという事なのか、どちらなのでしょうか?


●共有するものがなければ孤独を受け入れる事、について

集団において、共有するものがなければ孤独を受け入れるという事についてですが、
観察していて、健康な心を持っている人ほど一見共有するものがない人とでも仲良く
話している様子がみえます。

病んだ人に特有のものではなく、「二人になって話す事がなくて気まずい」というのは
多くの方が悩む事と思います。


そんな時、
●積極的に共有できる部分を探そうと、色々と質問をする、あるいは自分の話をする

のは全く問題ないですよね?


多くの方は、それによってなにがしかの共有部分を多少無理して捻出して、
相手との関係の維持に努めると思います。


ですから集団において、共有する部分がなかなか見いだせない人に対して
孤独を受け入れるというのは、その人と「全く話さない」という事になるのでしょうか?
それは、なかなか難しいのではないか、と思います。


色々な方と交友を持っている方は、
@そもそもいろいろなものに楽しみを感じるので、それを共有できる相手が必然的に増える。
A違う考えや好みに触れる事が好きなので、価値感覚がカブらない人とも楽しく過ごせる。
B自分が何かに向かって全力を尽くして生きているため、同じように全く別のものに向かって
全力を尽くしている人に対して共感が生まれ、応援したくなる。


こういった要因があると思います。


ここで「一人でも価値を感じられる物をまずは持つ」という事になると思うのですが、
心が安全ではないうちは本当に価値を感じられる物が少なく、またその感情の動きも
小さいわけですよね。

それでも少しでも価値を感じられる物に向かう事になると思いますが、
そこでは一定の心の健康度の人が多くなるわけで、その人たちは素直に価値に対して
感情が動きます。

例えばその価値対象について話している時も、自然に盛り上がるし、楽しいという
雰囲気になるわけです。

そういった場で多少自分の「価値」を誇張する事は、場の雰囲気を崩さないために
必要になるのではないかと思うのですがいかがでしょうか。
これも感情の強制にはなるし、嘘ともいえると思うのですが。


何が嘘のない自分なのかわからず、どこでそれを判断すればいいのか、という
部分でこのように錯綜していまして、「嘘をつく事になりそう」である事に戦々恐々としているのですが、
結局は「嘘をついていた事に気づいて」一度その人から離れて、絶望を経て
その人と会うのがラクになるという過程をずっと繰り返すしかないという事を
覚悟して人の中に入っていくしかないにでしょうか。


 
「嘘のない自分」の築き方 概説^^ / しまの 引用
No.1055 2015/05/20(Wed) 11:24:55

ちょっとじっくり解説^^

感情への「内面姿勢」と「外面表現姿勢」の基本理解

これは基本的理解において混乱しているご様子^^。
まず、感情について「内面姿勢」「外面表現姿勢」という、2段組み立て考える必要があると思います。
そのどっちの話かを明確にしないと、何の話題なのかからして混乱してしまいます。

ともかくちょーサマリーとしてまとめてみますと、以下のようになります。

=================
感情への内面姿勢 ・・・ 自分自身の心の中で、自分の感情どう感じ取ろうとしているかの姿勢
- - - - - - - - -
a)自然開放(健康) ・・・ ありのままに開放し流して感じ取る
b)意志統制(健康) ・・・ さまざまな内面感情から自分の意志でどれかを選択し向かう
c)自己演出(まあ健康) ・・・ 「こんな気持ちで行こう」と、その気持ちになってみる
d)感情強制(非健康) ・・・ ありのままの感情を否定し、「こんな気持ちにならなければ」と別の感情を自分に強制する
=================

より詳しくは、『実践編上巻』の以下を参照
8章 人生をかけた取り組み−4  −「感情強制」の解除・内面の解放−
収録
「感情の監視操縦」への視点のまとめ
この中「感情演技」として説明しているものは上記c)該当

=================
感情の外面表現姿勢 ・・・ 上記内面姿勢で感じ取った感情を、どのように人に向かって表現するかの姿勢
- - - - - - - - -
1)自然体 ・・・ 意識的感情表現はせず、その人なりごく自然に出てくる感情表現仕草や口調。タイプとして次の2つを考えると分かりやすい。
 1-1)基本的に内面感情を表(仕草や口調)に表すタイプの人
 1-2)基本的に内面感情を表に表さないタイプの人

2)意識的感情表現演技 ・・・ 特定の感情を意識的に外面表現する。これをまた2つに分けて捉えられる
 2-1)真の感情表現演技 ・・・ 実際に感じている感情を、さらに意識的に表現演技する

 2-2)偽の感情表現演技 ・・・ 実際に感じているのではない感情を表現演技する、もしくは実際に感じている感情を見せないような態度を取る
   社会行動の観点からは、これは
良質の行動(相手やマナーの配慮など)悪質な行動(詐欺など)に分かれる
=================

ざっと以上になります。
人の行動の様子は、上記「内面姿勢」a)b)c)d)と、「内面表現姿勢」1-1)1-2)2-1)2-2)組み合わせ成り立つことになります、まずはその組み合わせ全てのバリエーションあり得る、というになると思います。

この中で「NG」であるのは、内面姿勢として心の健康に害があるのは「感情強制」だけです。他の3つ内面姿勢は、「感情の自己演出」なども含めて全部健康です。
外面表現姿勢について、心の健康に害があるなしという話はありません。内面姿勢において自分の感情を感じ取る段階健康であれば、上記4種類の外面姿勢全てが、健康な心の中で可能になります。その中で、はっきり詐欺的な行動として行われる「偽の感情表現演技」が、心の健康としていう話ではなく、社会行動としてNGです。

まずはざっとそんな話になります。


「人の感情の受け取り方」の変遷の基本理解

合わせて追加しておきたい基本理解として、人が人の感情表現をどう感じるかの傾向というがあります。

心の未熟と病みの傾向があるほど、行動表現されている(時にはほとんど表現されていない感情を、大きく受け取り、大きく影響を受けます。
これについてはちょうど先日アップの、
『事例集 - No.002 4回目アドバイス』
でも、アドバイス文面中
=========
■「人が自分に感情を向けてくる」という意識世界からの脱却
=========
取り上げていますので一読あれ^^。

一方心の成長向かうごとに、感情表現およびそれにより感じ取ることのできるその時相手内面感情よりも、その相手長い目で何をしようとしているのかという、行動の全体や「意志」により目を向けるようになります。
そして心が成熟することで、「自発的幸福」『概説』ここ参照)が増大することで、次第相手の感情表現というものをあまり大きくは受け取らなくなり、人の感情のあり方にあまり影響を受けなくなっていきます。

ですので、これから心の健康と成長に向かいたいという時、自分が人の感情表現を感じ取っている内容を、かなりオーバー場合により妄想のような誤り(これは結局自分の内面を相手に映しているもの)である可能性心得、割り引いて考えることが有益になります。


「嘘」にならない範囲とは

で、ご質問の主旨は、外面におけるどんな感情表現行動が、「感情強制」であり自分への嘘ひいては他人への嘘になってしまうか、ということだと思います。

それについての答えは、「感情の自己演出」までにとどまっていれば、どんな行動の仕方も心の健康において特に問題はなく、「嘘」でもない、ということです。
書いて頂いた色んなケースも、 内面においては「感情強制」ではなく、また外面においては「社会的に悪質な偽の感情表現演技」なければ特に問題はなくそれぞれの人それぞれの目的向かう中で、可能な組み合わせで向かえば良い、というものになります。

では「感情自己演出」で済まずに「感情強制」になってしまうのは、自分の場合どんな行動なのか
それは結局体験を通して見分けていくしかない、ということになります。
それでも結構単純であり、「感情強制」だとどんな行動になるかと言うと、心が破綻して行動できなくなる、ということです。あまりのストレス動揺のために。
に言えば、行動できているなら、それでいいわけです。

実際そうして、つまり心が破綻して行動できなくなって、この心理学その一つとして、心の取り組み始まるわけです。
まず何が起きたのか理解することから。愛されるためにありのままの自分を否定して別人を演じようとしても、やがてその自己圧迫が、自分と他人への憎悪として戻ってくるのだ、と。
そこから抜け出し、「心の依存から自立への転換」足場にして、自分にとって本当に確かなことを一つ一つ見出していくことから始めるのだ、と。


「嘘のない自分」の築き方

以上を踏まえて、「嘘のない自分の築き方」整理するならば、こう言えますね。

まず、「基本理解」しっかり確認する。
・感情への「内面姿勢」と「外面表現姿勢」の基本理解
・「人の感情の受け取り方」の変遷の基本理解

という大きな2領域テーマ

これらは言わば我々人に向かう時の、心の中将棋の駒です。
将棋をするためには、まず全ての駒の種類とその動き方を、しっかり理解せねばなりません。それがないと、始まりません飛車王将つんで勝つのを目標にするのはいいとして、飛車の動きだけ理解して他の駒のことは全く知らない、というのではどうにもならないのはお分かりと思います。

そして「嘘のない自分」なりたければ、駒の打ち方の禁じ手を知りそれをしないように、というようなものではなく、まず正攻法の駒の打ち方を知ることです。
それは上記「内面姿勢」で言えばa)b)c)です。どうすればd)ならずに済むか。単純です。d)ならないように気をつける、ではなく、a)b)c)打ち方まずしっかり知ることです。

こうして全ての駒の種類と動かし方しっかり分かったら、いよいよ将棋を指すことを始めるのですが、まず最初に何をどうすればいいかは、一言で、まずはしっかり碁盤と駒を見ることだ、と。そこで自身が打ちたいと本当に思えるものから、打ち始めるが良い、と。
まあ、場面に応じてさまざまであり、紋切り型に言えるものなどない、ということですね。


アドバイスまとめ

ということで、上記質問へのアドバイスを、こうまとめさせて頂こうかと。

まず基本理解しっかり確認し直して頂ければと。それによって、上記で書いて頂いたさまざまなケースどれも問題ないものであることを、理解頂ければと。どんな組み合わせバリエーションになるか、と。
その段階もしなお分からない点があれば、どんなケースについて分からないか、適宜新規トピック化などしながら再度質問頂ければ。
一度に2、3ケースまでで書いて頂ければ。少しづつ着実に理解を進めることで、応用が利くようになりますので。

そうして基本理解しっかり確認できたら、

>結局は「嘘をついていた事に気づいて」一度その人から離れて、絶望を経てその人と会うのがラクになるという過程をずっと繰り返すしかないという事を覚悟して人の中に入っていくしかないでしょうか。

という質問最後のキモ部分への指針を言えるのですが、
まあ結論としては確かにそうした通り道あるかも知れない、と。重要なのは「自分への嘘に気づいて絶望を超えると多少は楽に」という消極的側面ではなく、多少は楽かはさておき、次の原動力がどこから生まれるかという積極面重要になるということ。

それは手短に言っておけば、心の動きとして、
まず自分としてはc)自己演出までの姿勢つもりが、やがてうまく行動できない自分に気づき、実はd)感情強制だったと自覚する。
いったん行動から退却して自分向き合い、まず自分本当はどう感じているのかという、a)自然開放から始め今までもアドバイスした価値観検討なども踏まえb)意志統制によって自分の新たな進み先を決断する、というものになる。
これが答えです。
d)感情強制ではうまく行かなかったから、もっと要領良くc)自己演出やり直し、はなし、ということです。

じっくり検討頂ければ^^。


 
Re: 自分への嘘と他人への嘘 つづき / こたろう 引用
No.1057 2015/06/05(Fri) 14:22:01

2軸がしっかりあるとまずは、整理できて良かったです。

今まで混乱していたのは、aと2−2の組み合わせの難しさを感じていた事が
結構あるかな、と思います。

つまり他者への憎しみが感情の表面を占めている時に、
外面表現である程度健康である事を表現するためには、
ある程度の感情の自己演出(cですね)が必要ではないのか、という事ですね。

それもあって、人と対している時に内面的には感情を湧きあがらせて(aですね。)
それでも表情は友好的である風を装う(2−2ですね)練習が必要なのではないか、という
質問を以前させていただいたんです。

●実際は、人と対していない時はaでいく事が出来ても、人と対している時はcに
なってしまう事はある程度仕方がないという理解で良い、という事ですよね?

会っている時間が終わった時に、外面行動を保つ必要性がなくなり、
内面姿勢としてはcからaに移るという事です。



内面姿勢の変遷に関しては、相手の感情表現を受け取らなくなるという事、
参考になりました。

これに関してもう一歩踏み込んで質問させていただくと、
「気づく」という事と「影響される」という事はまた区別できるという事ですよね?

例えば思い悩んだ様子や苦しみを抱えている事に気づく事は出来るし、助けてあげる
事が出来るならそうしてあげたい、と思う健康な心を持った方はいらっしゃると
思います。一方で、全くそれに気づかない人もいます。どちらかというといつも自分の
話に夢中で、相手の顔や感情などに意識を向ける事自体が少ない人ですね。

後者のような方は今までの経験だと、裏で嫌味を言われていたり、一緒にいて疲れると
言われていたりする事が多い印象です。
まぁこれは、相手の感情に意識が向くかどうかというより、全般的に人に対しての気遣い
が欠けているため、一方的に話したり、話を途中で遮ったりする事が原因かもしれません。


●気づく事が出来るけど影響されない人というのは、
相手がつまらなそう、苦しそうだと感じたからといって、自分もつまらない気持ちになったり、自分のせいでつまらないんだと思って自責感を抱いたり、といった事が少ないという事ですよね。



一番キモになる部分の
「愛されるためにありのままの自分とは別人を演じる」という部分ですが、
内面姿勢dの感情強制が発生しない以上は起こらない、という事でしょうか?


別人を演じるというのは、この二軸だけでは語れない事ではないかという
疑問があります。
例えばcと2-2の組み合わせだったとしても、実際に感じている感情が敵意や憎しみだと
して、それとは違う「好意」を表現するにも色々です。

例えば、自分は内面的には「宇宙の愛が得られて当然だ」という感情がある。
その時に相手が何か特別な事をしてくれた。プレゼントをくれるなり、忙しいのに
家に泊めてくれた、など。
心の中では「そのくらいの扱いを受けるのは当然」と思っているとして、
外面行動としてそのような言葉や態度を出せば、呆れられます。
そこで、感謝の言葉を伝えるわけです。

「ありがとう」でも「ありがとー!」でも「サンキューです★」でも「本当に感謝してるよ。」でも
どれも「好意」「感謝」の感情表現であるといえると思いますが、これは内面姿勢の
cかdかの度合という問題ではなく、その人のキャラクターや個性という問題に
なってくると思います。


例えば、自分とはとても不釣合いだと思うような美人なお嬢様とデートをとりつける事が
出来たとして、普段は「ありがとー!」なんて言う方が「本当に感謝しているよ。」と
カッコつけて言うシチュエーションがあると思います。


僕が「ありのままの自分とは別人を演じる」でまず想像したのは、こういう
構図です。つまり感情の強制うんぬんよりも、自分の個性やキャラクターを偽るという
事です。


これはまた、感情の内面姿勢と外面表現姿勢と別に発生する問題ですよね?


 
「感情の取捨選択」の基本^^ / しまの 引用
No.1060 2015/06/11(Thu) 10:36:23

これはやはり基本的理解のところでもう一個確認必要ですね^^。
「感情の取捨選択」基本

>つまり他者への憎しみが感情の表面を占めている時に、外面表現である程度健康である事を表現するためには、ある程度の感情の自己演出(cですね)が必要ではないのか、という事ですね。

人への憎しみある時それでもその相手に近づく行動をするために、どんな内面姿勢および外面姿勢になるか、というだと思いますが、

まず内面姿勢としては、基本はまずa)自然開放によって、自分の内面感情「ただ流し理解する」ことを行います。するとそこに、
@相手への憎しみ
Aそれでも相手に近づきたい気持ち
という相容れない2つがあって、@をどう隠すかといった話にもなり得るのですが、ハイブリッド心理学取り組み実践における「ただ流し理解する」として、それぞれの感情についてしっかりと理解する「向き合い」を行います。

@相手への憎しみは、相手にどう自分を踏みつけにされたということか。それは事実として相手の横暴があるということか。それともただの空想であったり、自分がむしろ傲慢に特別に良くされることを相手に要求しているということか。前者ならその憎しみ多少とも合理的ですが、後者であれば不合理ですね。といった向き合い理解を行います。
Aそれでも相手に近づきたい気持ちは、それでも共有する楽しみ喜びがあり、交友を保ちたいという気持ちとかになるでしょう。

そうした感情への向き合い経て自分としてそのどっちの感情に基づく行動を選択するか、という「決断」を行うわけです。これがb)意志統制です。
そうしてA相手に近づきたい気持ち基づく行動をするでは、外面行動姿勢としてはまずは1)自然体良い、という
よろしいでしょうか。
そうしてあくまでA相手に近づきたい気持ちにおいて行動し、@相手への憎しみはただそんな不合理な感情心の片方に流れているのを見るだけにすることで、やがて薄れ消えていくでしょう。
これが「感情の取捨選択」基本になります。

これがもし@相手への憎しみ合理的だという話になったら、これはもう行動テーマ自体が、「トラブル解決」という別の話にもなってきます。

ということで、内面感情姿勢においてc)自己演出というのは、あくまでエンジン始動誘い水であり、ごく一瞬の話、通常は用いないのが心の健康上の基本理解頂ければと思います。
外面行動姿勢としても、2)意識的感情表現演技社会行動としてのごく特殊な場面に限られます。ハイブリッド心理学ではまず基本的な社会行動における健康話題にしていますので、その範囲においては、まずは1)自然体基本です。

ということで、揺れ動く内面感情あった時対人行動は、動揺感情をいかに隠すかというのではなく、まず感情の理解向き合いをしっかりと行うことが大切、ということになります^^。


>「気づく」という事と「影響される」という事はまた区別できるという事ですよね?

これはその通り^^。

>気づく事が出来るけど影響されない人というのは、相手がつまらなそう、苦しそうだと感じたからといって、自分もつまらない気持ちになったり、自分のせいでつまらないんだと思って自責感を抱いたり、といった事が少ないという事ですよね。

その通りですね。基本的には、上述のような感情と行動の取捨選択積み重ね、自分を確立する成熟に、人の気持ちのありようで自分の気持ちが揺らぐことも減ってくる、というになると思います^^。

>一番キモになる部分の 「愛されるためにありのままの自分とは別人を演じる」という部分ですが、内面姿勢dの感情強制が発生しない以上は起こらない、という事でしょうか?

これはご質問ちょっと良く分からない(^^;)のですが、愛されるためにありのままの自分とは別人を演じようとしても、d)感情強制の内面ストレスによって心が破綻し行動不可能になる。だから愛されるために別人を演じようとする心の全体を抜け出す必要がある、という話を言っています^^。

>つまり感情の強制うんぬんよりも、自分の個性やキャラクターを偽るという事です。

自分を成長させる取り組みですので、「自分のキャラ」なんていう既存観念縛られないことが大切ですね。行動法の選択取捨結果として、性格個性より輝かしいものに変化していきます^^。


 
感情をただ流す場合の対人状況での身体的な状態 / こたろう 引用
No.1063 2015/06/15(Mon) 15:37:01

動揺感情を「理解するに留めてただ流す」「感情への耐性を心がける」という部分、これ以上は触れられてないと思いますが、これが結構難しいです。

感情の取捨選択に関しては理解しているのですが、片方を選んで片方をただ流すというのは
流せる感情の大きさが小さくなるまでは、外面的印象としては「近づきたいという気持ち」が表現されているというよりは、両方が混在したちぐはぐの印象になるのではないかと思います。

であるからして、流すべき感情の大きさに応じて、その時々のリアルタイムの状況で、前のレスで書いていただいたような内面姿勢のレベルa、b、cが生まれるのではないかと理解していました。つまりほとんど軽く流せるくらいであれば、人との会話中に自然解放しても大丈夫。もう少し強度が強ければ、意志統制という感じで選ぶ。さらに強度が強ければ、流すべき感情である感情は持っていないように、表現すべき「意志」に応じた行動に見合った感情を自分にもっているように圧力をかける。


そうではなくて、人と会う前にa、会っている時はbと使い分ける、という事でしょうかね。


戻りますと、不合理なまでに相手に一方的によくしてもらうことが当然だという感情が未だ
大きくある時に、bの感情の選択によって「近づく」感情を行動へつなげるとして、
相手といる時間、話している言葉に対してイライラしたり攻撃したくなる感情が沸きますね。


その時、感情に対してaの自然解放姿勢をとっていると、感情が沸き上がった瞬間に体が「怒り」をそのまま表現した生理反応をみせます。眉間に皺がよる、顎が少し出る、目が据わる、あるいは見開かれる、拳を握りたくなる、そして血が上る、顔が赤くなる、など。


これを外面にそのまま出してしまう事は、建設的な言葉の表現を選択していても印象としては
真反対になりますので、もちろん避けるべき事でしょう。


であれば、上で言ったように表現すべき「意志」に応じた「感情」を自己演出する、
なんなら人と会っている間はそのスイッチをオンにしていなければ、流すべき感情が
態度に出る事を防げない。その意味でbではなくてcになってしまう、という風に言ってました。選ぶという事はその時は感情が生まれた強度のままある程度浮上してくるため、身体反応や仕草に現れる事が考えられます。


●言葉の表現を超えて身体の動きとしてはどうなっているのか

これは一応一つのテーマとして答えて頂けると助かるのですが、
「流す」「耐性を心掛ける」「踏ん張る」事について、もうちょっとミクロに「体の動き」ではどうなっているのかお聞きしたいと思います。感情を抑圧する、あるいは外面に表現しないようにするという時、一般的に上のような生理反応が表出しないように、自分を内側に閉じ込めるような形で筋肉が動くと思います。首を押し下げ、奥歯を食いしばり、小鼻の力を入れ、
胸郭をつぶし、息を浅くし、膝を踏ん張ります。

このような姿勢で「感情解放」する事は自分の体で試した限り難しかったです。
やはり体と心は繋がっていますので、自分の中に起こった感情をグッと抑えつけようと
した時には、文字通りその起こった部分を押さえつけるような形で筋肉に力が入っていました。そして押さえつけた感情を湧きあがらせるというのは、押さえつけた筋肉の力を抜く事でした。怒りであれ悲しみであれ、それが本来の強度を取り戻し、押さえつけた部分をこえて首、頭、目と上がってくるのを感じますし、胃腸を焦がすような痛みが出てきます。
そのまま押さえつける力を加えないようにしていれば、涙が流れ、悶絶するような顔をしたくなるでしょう。
子供の体があれだけリラックスしているのは、まず感情表現が禁止されていなければ、この押し下げる力を加える必要がない
という事と、緊張状態が起こった場合は「泣く」事によって筋肉の緊張を内側からマッサージする事によって緊張がリセットされるからだと思います。


日常的に外面に表現すべきでないマイナス感情が沸く機会が多い人ほど、
その感情が沸き起こってきたタイミングでのみ上記のような押し下げをするのではなく、
日常的に自分を閉じ込めるような形で筋肉の力を加えている場合が多いと思います。
僕自身それが固着し、首をすくめて息を殺すような姿勢が常態化していました。
これは病んだ感情を抱えた場合の「攻撃」「従属」「離反」の「従属」と「離反」の方に多い事だとは
思いますが。


「解放する」「流す」「踏ん張る」というのはこれらの筋肉の力を加えない状態を
保つ事だと今の所は解釈しています。
首や喉を押し下げる事なく、胸も開いたまま、力をなるべく抜き、沸き起こってきた
マイナス感情には、どうぞ体を流れてください、といった体の状態です。
「開いた状態」と一応表現しますね。


まず確認しておきたいのは、
@自分一人でいる時に、感情と向き合う場合は常にこの状態が望ましい。
これです。


続いて、対人場面においての流すべき「相手から向けられる嫌悪感」や「相手への攻撃衝動」
についても、この状態が保てるのが望ましいと思っています。
一方で、難しいのはこの状態がすごく「無防備」な印象を自分に抱かせる点です。
外面から、内面から、双方に対してです。

外面でいうと、この開いた状態でいると「相手から向けられる嫌悪感」が含まれた視線の圧力がものすごく強くなります。

内面でいうと、自分の内面に相手への軽蔑衝動や攻撃心が強く沸き起こってくる時に、その生理反応がダイレクトに上に登ってくる事は、それが晒されてしまい、見抜かれる恐怖があるからです。


意志統制において感情を選ぶ、という時に、身体の状態はどうしても押し下げ、食いしばりが
起こります。この状態では、流す方の感情を一応「怒り」「悲しみ」などとして認識する事はできても、それ自体が持つ本来の強度は圧殺されています。
●これでは「流す」「受け止める」事になっていないのではないか?という疑問があります。あるいは対人場面においてはある程度これは仕方がなく、
実際に「認識」する事さえできていれば意志統制であるといえる、じっくりと感情解放を行うのは
対人場面を終えた後の向き合いの時間で良い、という事になるでしょうか。

実際、起こってくる不都合な感情を持って、人といる中で「踏ん張りがきく」という表現では後者も連想されます。

そもそも体の動きとしてどうなっているかという風には考えていなかったと思いますが、
感覚でいうとどうなっているだろうか、と振り返って頂けると助かります。


これは実際、いかにして「建設的行動法」に合った感情表現、外面印象を作るかという
話なので、その前に向き合いが大切である事は指摘頂いた通りですね。それは最も大切な
視点だと思うので忘れないようにしたいと思います。


 
「価値観選択」が「感情の取捨選択」の前提^^ / しまの 引用
No.1068 2015/06/21(Sun) 16:03:56

>戻りますと、不合理なまでに相手に一方的によくしてもらうことが当然だという感情が未だ大きくある時に、bの感情の選択によって「近づく」感情を行動へつなげるとして、相手といる時間、話している言葉に対してイライラしたり攻撃したくなる感情が沸きますね。

これは単純ですね^^。「価値観の選択」まだしていない、まだできていない段階ということになると思います。
交友や恋愛の行動を、「楽しみ喜びの共有」と位置づけ、それができない場面においては孤独を受け入れる、という価値観です。
それとは対照的な、「分かり合い認め合い尽くし合い」だとする価値観まだ立っているから、「相手に一方的によくしてもらうことが当然だという感情が未だ大きく」なる。

前者の価値観心底から立った時、後者の価値観基ずく感情もはや身体反応を支配するような大きなものにはならず、「流す」ことが可能になる、ということです。そして流しながら行動できる体験の中で、やがて根底から消え、湧き出ることもなくなっていく。
後者の価値観に立ち、攻撃感情が湧くまま、それを外面表面で消して建設形の行動を取る方法というのは、ハイブリッド心理学範囲外ですし、僕の人生経験においてもないです^^;

「価値観選択」「感情の取捨選択」前提であり入り口ということになりますね。入り口を通らずして先の道を進む方法なし、です。
まずは、「価値観の選択」じっくり向き合うのが順序だと理解頂ければ^^。

「価値観の選択」のための意識姿勢などは以下などで詳しく説明していますので参考頂ければと思います。
実践編上巻 9章 価値観と行動学  −進み得る道はただ一つ−

価値観選択について質問などあれば、また新規トピックなどで入れて頂ければ^^。


 
Re: 自分への嘘と他人への嘘 つづき / こたろう 引用
No.1085 2015/08/10(Mon) 17:20:49

※二つ前の返信に対しての返信になります。


>一番キモになる部分の 「愛されるためにありのままの自分とは別人を演じる」という部分ですが、内面姿勢dの感情強制が発生しない以上は起こらない、という事でしょうか?

これはご質問がちょっと良く分からない(^^;)のですが、愛されるためにありのままの自分とは別人を演じようとしても、d)感情強制の内面ストレスによって心が破綻し行動不可能になる。だから愛されるために別人を演じようとする心の全体を抜け出す必要がある、という話を言っています^^。


→これは、感情強制のない「ありのままの自分とは別人を演じる」事もあるはずだ、という考えからの疑問です。本来は明るく天真爛漫な人が、おしとやかなフリをする。バラエティ番組をみて爆笑したいのに、親の前では何も面白くないかのように過ごす。文化祭など、皆で仲良く楽しみたいのに、そういう事を言うと調子に乗っていると責められるので、けだるそうにする中学生。逆であれば、親しさなどの感情を強制的に湧きあがらせるといった事はわかるのですが、この場合はむしろ「平静を装う」といった「ありのままの自分とは別人を演じる」です。
これらは、感情強制とは考えづらいですが、実際起こる事も多いかと思います。
わかりやすい例でいえば、今までやんちゃしてきた女の子が、
育ちの良いおぼっちゃんと交際する事になり、おしとやかな女性を演じる。

しかし、a,b,cにとどまっていれば「嘘をついた自分ではない」という表現(解釈が違っているでしょうか。)をなさったので気になりました。


後は、内面感情と外面感情はわけて考えるものだとして、
「偽の感情演技」には少なくともc、感情の自己演出が必要だと思うわけです。

>つまり感情の強制うんぬんよりも、自分の個性やキャラクターを偽るという事です。

自分を成長させる取り組みですので、「自分のキャラ」なんていう既存観念に縛られないことが大切ですね。行動法の選択取捨の結果として、性格や個性もより輝かしいものに変化していきます^^。


→よくわかりません。長い目でみれば、そうやって変化していくのでしょう。
しかし、今どう振る舞うのか、は急務の課題としてあります。その人の「自然体」でまずいい、という事ですが、
それすらもよくわからないのです。
この一つ前のレスで書きましたが、


時々感じるのは、前者の「少し甘えたところもある舌足らずな喋り方をする自分」が本来の自分で、その自分では「男らしくない」「嫌われる」と思ってしまった所から後者のような自分を作り上げて、
演じている。という可能性です。
つまりこれも「ありのままの自分で成長する事を放棄し、成長した後の外面印象だけを真似ている」可能性があるのではないか、と。


この部分。選択肢があるのです。自然体、どちらが自然なのかわかりません。
少なくともいえるのは後者は少し「作っている」という感覚があるという事です。
もっとわかりやすく言えば、前者は「僕」という一人称になり、
後者は「俺」という一人称です。前者は力が抜けながらもすっと背筋が伸びていて、
後者は首を少し出して腕組みをしている感じです。

実践編でD男さんは「もうガードを固めるのに疲れた。俺はこんな人間だーと叫びたい」
とおっしゃってました。ここから感じたのは、こういう感情がある、というよりも、こういう「弱い自分」みたいな人格が別で自分の中にあるイメージです。


 
Re: 自分への嘘と他人への嘘 つづき / しまの 引用
No.1089 2015/08/12(Wed) 11:54:46

>感情強制のない「ありのままの自分とは別人を演じる」事もあるはずだ

その理解良いと思います^^。


>「偽の感情演技」には少なくともc、感情の自己演出が必要だと思うわけです。

これもその理解良いと思います^^。


>今どう振る舞うのか、は急務の課題としてあります。その人の「自然体」でまずいい、という事ですが、それすらもよくわからないのです。

具体的行動課題場面内容ごと検討します。どんな行動課題場面のことを検討したいか、個別に書いて頂ければアドバイスできるかと^^。


>選択肢があるのです。自然体、どちらが自然なのかわかりません。少なくともいえるのは後者は少し「作っている」という感覚があるという事です。

「多少作る」のも場面によってはアリだと思います^^。自然体なお良し^^。
言えるのは、心の健康害があるのは感情強制だけであり、その他のバリエーション行動課題場面に応じて全てアリだということです。
そして感情強制どうかの判断は、自分自身にとって無理があると感じるのがまずはそれだといことであり、最終的には自分自身で判断する必要があるということです。

お答えになりましたかどうか^^。いずれにせよ行動課題場面内容で考えるのが重要かと^^。



方法 / 引用
No.1084 2015/08/08(Sat) 21:47:26

 本を出版されたり、自分の意見を書かれることで、多くの学びを得ていることを思います。
 島野さんは、自分の意見を、例えば、一対一の場面で、自分のこれまでの話、つらかった話などをするやりとりなどは、多いのですか。
 精神分析や、カウンセリング。また、認知療法というようなものではなく、親であったり、相手はどなたでも良いですが、誰かと一対一の場面で話し合いから、島野さんの学びが増えてきているものですか。


 
「人との会話」で学びを得たことはなく^^ / しまの 引用
No.1086 2015/08/11(Tue) 11:19:44

かなり極端な話ですが、自分の体験辛かった話などを、人に話したことありません人に受けとめてもらうことは期待せず、自分で受けとめて、今の成長成熟があると感じています。まあそれハイブリッド心理学として伝えているということでもあります。

同様に、人との一対一の会話の場面から学びを得たことは、人生で一度もありません学びは「読書」と「体験そのもの」から得たというのが基本になります。

これは『メール相談事例集』
島野のメール相談活動
でも、以下の述べた通りです^^。
=====
つまり、私自身成長体験においては、人に直接言われたことで変化できたことなど、私の人生で結局一度もなかったのです。全てが、自ら読書する学びと、人生の体験の中での模索訪れたものでした。学びの中で本当に人生で役立った言えるものとして最後まで残ったのは、カレン・ホーナイ認知療法ハーバード流交渉術などの行動学といったほんの僅かなものであり、その先最後の答え導いたのは、私自身の中にあった「魂」との向き合いだった、というものとしてです。
=====


『悲しみの彼方への旅』を読んで頂いても、ご質問状況に該当するような場面など一度も出てこないというのがお分かりかと思います^^。
まあこれは、それがいい悪いという話ではなく、人との会話の中では得られないような成長へともっぱら向かったというといことであり、心理学としてもその独自な領域展開することになった、ということかと^^。


 
Re: 方法 / 引用
No.1087 2015/08/11(Tue) 18:53:20

私も、島野さんの本などを読みましても、人に話してという場面は、なかったと思いましたが、聞いてみないと分からないですので、質問いたしました。

 ロジャーズの本では、相談者の答えは、その方自身が持っているとあるように。島野さんも、自分で見つけ出したことはつながります。

 つらかったことを、ノートに書くことは良いとあります。それから、辛かったことばかり考えると、その気持ちが強まるため、今後の期待することなどを考えていくことが望ましいとの意見もあります。

 読書や模索は、自分で考える作業となります。

 ありがとうございました。



対人 / ヨム 引用
No.1080 2015/07/26(Sun) 14:01:03

 外見は、生まれた時からの顔形がありますが、自分を高めようとしている方では、外見を意識して、おしゃれなど気を使っている方では、見た目がさわやかであり、好意を感じる場合、自意識の感情だけではないと考えます。

 楽しみの共有、生活の共有から、魂の世界と現実の世界の双方で成長になる。それから、魂の感情を見捨てないだけの相手との関係も、「現実世界」で続けられるも大切なこと。

 魂の成長の促進のためには、楽しみの共有や生活の共有を継続を望む場合では、魂の感情というよりも、会話を楽しむことを優先することが必要と思います。

 島野さん、よろしくお願いします。

 
 

 


 
まず「現実世界における前進」から^^ / しまの 引用
No.1082 2015/07/28(Tue) 17:52:19

>魂の成長の促進のためには、楽しみの共有や生活の共有を継続を望む場合では、魂の感情というよりも、会話を楽しむことを優先することが必要と思います。

そうですね。今アップしている『ハイブリッド心理学とは』でも、
歩みの道のり - 「現実世界における前進」と「魂の世界における前進」
で、その辺の話を書いています。

より平易な表現をするなら、「前進」2種類があり、
・まず現実世界での行動がうまく行くようになる ・・ 「現実世界における前進」
・現実世界での行動がうまく行かない時に、さらに自分の「望み」に向き合い、本当の自分が見えてくる
・・
「魂の世界における前進」
という感じになるかと。
で、まずは「現実世界における前進」へとしっかり努力するのが、全ての始まりになる、と。それが優先良いというになりますね。

ですのでまずは、趣味会話共有など、「現実行動」模索することからになると思います^^。


 
Re: 対人 / ヨム 引用
No.1083 2015/07/28(Tue) 19:19:35

 まずは「現実世界における前進」へとしっかり努力するのが、全ての始まりになる、と。趣味の会話の共有など、現実行動を模索することからになることが、優先で良いという話。

  心の未熟によりそうはできない自分という壁に出会い、心が崩壊し、やがて自らにストレスをかける必要もなく、前に進み得る心が自分の中に芽生えていることに気づく、という流れ。

  現実世界を行っていくとのこと。参考になりました。
 島野さん、ありがとうございました。



(No Subject) / natu 引用
No.1079 2015/07/26(Sun) 13:11:02

うれしさ」というより、「怖さ」からということになると思います。
良く聞く話で、普通の相手とは気軽に話ができても、本当に好きな相手と話そうとしても緊張してできなくなるという話でイメージできるかと思います。また怖くて近づけないなど。

理解のポイントとしては、本当に好きな相手への感情は「魂の感情」であり、相手とうまくできないことに対しては、「怖れ」を抱く。
一方、利己的打算的に好きな相手(たとえば相手の外見や財産とかで)への感情は「自意識の感情」であり、相手とうまくできないことに対しては、「怒り」を抱く。
この違いです。

>また、魂の成長のために、起きていることなのですか。

そうですね。「魂の感情」をしっかりと自分自身で受けとめるごとに、「自分から愛することができる」という「心の豊かさ」が増大する。これが「魂の成長」です。

それは相手との現実関係の成就を必ずしも必要としない。というかむしろ逆に、「現実関係の成就」とは別の世界に、それがあるというのがハイブリッド心理学の見出す道です。
2段階的に、と言えるものとしてです。
まず「現実関係の成就」が壁につき当たった時、相手への自分の感情が「魂の感情」なのか、それとも打算的な「自意識の感情」だったのかが、見えてきます。
そしてそこに「魂の感情」があるのであれば、それを自分自身で受けとめる一方、次にそれを受けての相手との関係は、あくまで再び現実的で具体的な「楽しみの共有」「生活の共有」の観点で考える。
そうして、「魂の感情」を自分で受けとめ「魂の成長」に向かうということが、「現実世界」とは別の「魂の世界」でのことになってくるのが見えてくる、ということです。


「魂の成長」のための「現実の世界」での相手との関係

といった話を前提に、

>考えるのを止めたとありますが、止めない選択では、どう成長できると考えられますか。

ですが、まず上記の「女性タレント」の話では「恋を遠ざけることを選んだ」ということであり、考えるのを止めたというより、彼女なりに考えた結果、相手と距離を置くことにした、もしくは恋愛とデートという人生活動そのものに距離を置き、別のもの、つまりタレントの仕事に専念することにした、ということだと思います。

とうことで、「現実世界」においては、相手と、あるいは恋愛そのものと、距離を置くことにした、ということですね。
一方「魂の世界」でどうかは、その女性タレントの言葉の中では語られていません。まあ言葉の後の「大粒の涙」というのに、それなりに「魂の世界」での「受けとめ」があったと察していいのではと思います。

とうことで、まずは「考えるのを止めない選択でどう成長できるか」という問いは、しなくて良いかと思います^^。
つまりその女性タレントのケースでは「魂の世界」と「現実の世界」の両方でしっかり成長した経緯を語ったのが、それらの言葉ではないかと。

ポイントは、恋愛に距離を置くことが、「魂の世界」と「現実の世界」の双方での成長になる、そんな人生の時期もある、ということですね。
「未熟の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」における、「未熟の愛からの旅立ち」に該当する時期です。

ちなみにその女性タレントとは実はベッキーで、『金スマ』で見かけたものです。入門編下巻の原稿にしたのが6年前の2009年。つまりまずはベッキーが10代後半くらいの時のことを話していることになると思います。
そして10代後半くらいの時の恋愛というのは、得てして、互いが好きという感情がどう一致するか以外のことが見えない、とても未熟なものであることがあり、それに虜になることは、心の成長をむしろ妨げることもある。「恋を遠ざけることを選んだ」というその選択は、その点で誤りではなかったのでは、というのが僕の考えです。
それを『入門編下巻』の上記文章の続きとして、こう書いた次第です。
======
 彼女の選択は特に間違いではないでしょう。また、彼女の涙には真実があり、もし嘘があるとすれば、それは「恋をしなきゃ」と言う回りの言葉の方でしょう。しかしその涙の先にある壁は、私たちの通常の意識世界のままでは越えることはできないのです。
======

ちなみに「その涙の先にある壁は、私たちの通常の意識世界のままでは越えることはできない」という言葉の先に、『入門編下巻』のその後の難解な部分がつながっていくのですが、一言で、「心の死と再生」を含めた「命」の力が、壁を最終的に越えさせる、という話だと理解しておいて頂くと良いかと思います。いずれにせよ難解ですが^^;

いずれにせよ、「魂の成長」のために、「現実関係」をどう続けるかはもうケース・バイ・ケースですが、一言で、「魂の感情」を見捨てないだけの相手との関係も、「現実世界」で続けられるといい、とは言えますね^^。


 
Re: / natu 引用
No.1081 2015/07/26(Sun) 14:03:47

送信ミスです。
 失礼いたしました。

 作成、コピー時、知らない間に、送信されていることを、後で分かりました。




<新規トピック> または <選択記事へのレス> 入力フォーム   ↑TOP
Name  Mail  URL
Subject
Color

Cookie / Pass


<投稿済み記事の編集・削除>
200/200件 [ ページ : << 1 ... 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 ... 40 >> ]

- HOME - お知らせ(3/8) - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - 環境設定 -

Rocket Board Type-X (Free) Rocket BBS