No.1312 2019/02/19(Tue) 10:43:25
島野さんこんにちは。初めて投稿します。
昔から待ち合わせで30分も人を待たせる友人にイライラしてしまいます。 どうせ遅れるからと私も20分遅れるとさらに友人は遅れて来ます。悪びれる様子もないので私が損したような気分になります。 できれば待ちたくないのですが家に迎えに行っても待たされます。 こういう時の建設的行動はどういうものがありますか?
待つのが楽になるような方法があればいいかなと思いますが、相手を探して(数十分も)キョロキョロするのが苦手です。
逆に、待ち合わせに数分遅れただけで急かす人に対しては、私は数十分も待たされてるのに1,2分だけでなぜ?と思ってしまいます。 どっちにしても自分を軽視されていると感じます。 こうやって書いてみると ・時間に数十分遅れるのは悪いことなので怒る権利があり ・数分遅れは悪いことではない という価値観があるのがわかりました。 人から被害を受けるという重心を欠いた思考だなとも思います。
どうしたいかを考えると、、数十分も待たされるのなら会わずに他のことをする時間にしたい、という感じです。 ですが地元の友人で近くに住んでるとばったり会ったり、非社交的なことを責められるのも嫌なのです。 明るく「することあって忙しくて逢えなくてゴメンね!」とでも言えたらいいのですが、おずおずと「しばらく忙しい」と言うと何をしてるのか、そんなに忙しいわけないという気まずい空気になり、来週再来週ははどうなのかと聞かれるとますます会うのが億劫になります。
p.s島野さんの初恋の相手との話を自分のことのようにドキドキしながら読んでいます(o^^o) 差し支えなければ近況などまた読めたら嬉しいです。 |
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No.1319 2019/03/03(Sun) 10:24:55
これは一言で、 決断のための判断基準のブレをなくし、自分の心そして望みに向き合い続けるべし。 というものになりますね。
「決断のための判断基準」とは、問題への対処法の決断に際して、守るべき鉄則です。ものの見方考え方、価値観、思考法行動法など。それを守らずに対処法を決断したところで、良い結果を生むものではなくシッペ返しでまた苦しむのが火を見るより明らかなもの。 まずそれについて、しっかりとした自分の考えを持つと共に、全体としてブレのないものになることが重要です。でないと、まるであべこべな方向を向いている車輪で車を走らせようとするようなもので、うまく走ることができず、あげくの果てに嫌になって、自分に向き合うこともできなくなってしまいます。で藁にすがるように、人の言うことをそのままやったり人の真似をすれば・・、ということにもなるのですが、それはもう自分に嘘をついた行動になり、さらに心がすさんでいく、というのがありがちです。 ご質問の文面もちょっとそんな気配がちらほら、と^^;
まず判断基準としては、今回の話としてはざっと以下の5テーマくらいになると思います。「そう考えるようにすればいいのか」ではなく、まず本心からの自分の考えはどうなのか、そしてこれから本当にどんな考え方を取って生きていくのかという自己向き合いの真剣さが足場になります。
1)社会常識・マナー 遅れの許容範囲は場面種類により異なる。友人との待ち合わせであればまずは数分まで。会議であればぴったり0秒でもNGであり数分前が常識マナー。 参考例として島野の感覚では、友人待ち合わせなら遅れ20分以上は事前に連絡する、また「ごめんごめん」と口に出して謝る。40分以上なら黙って帰られ流れでも仕方ない。いつも30分以上待たせるような横柄ルーズな相手は基本つき合わない^^;
2)待ち時間への対処法 何か特別な状況で長い待ち時間が予想される場合は、パソコンを持参して作業など時間の有効活用ができるようにする。また自分から何度も相手を確認する必要なく向こうから到着連絡するよう、「ここにいる」「着いたら携帯入れて」など調整しておく。
3)ル−ズな相手への対処 改善の可能性を見極め、難しそうであれば距離を置く方向へ。改善させるための積極的働きかけを検討しても良いが、基本的に人を変えるのは難しい。
4)相手と距離を置く行動学 「肯定形の言葉で」というのが鉄則。「誘ってくれてありがと。ただその日は○○なので。また連絡するね」とかの言葉使い。付き合い悪さを非難されても全く変わらず飽きられるまでこれで。逆に相手を非難し返すようなものは、距離を置くのではなく逆に破壊的な形で相手からの接近を招く行動法。恨みを買うと他の友人も巻き込み破壊的結果を招く危険に注意。
5)純粋で豊かな交友を妨げる価値観や自己理想からの抜け出し 交友は「楽しみの共有」として、まず自分がどう楽しめるのかを探求する姿勢が、純粋で豊かな交友への王道。互いの「理解」「評価」「敬意」を友情と感じてつき合う関係というのは、すれ違いが怒りにつながり壊れやすい。 「友だちの多さ」「社交性」を自己理想とするのも良いが、本当にそれが自分の性分に合っているのかを適宜確認するといい。性分に合わない自己理想は不幸の素。 誘われたら応じるのが「善」、断るのは「悪」という「道徳思考」、「仲良し道徳」を持つと、一般的な社会常識マナーさえ見えなくなり交友に混乱をもたらすので注意。横柄ルーズな人間から格好のつき合い相手にされてしまう危険も。
ざっとそんなところですね。 まずこうした判断基準軸について、自分の考えにしっかりと向き合い、自分の選択に取り組んでみて頂くといいと思います。 そこから再度、書いて頂いた疑問項目を、自分で見直してみるといいでしょう。よく整理できないものがあればまたご質問頂ければ^^。
そうして判断基準軸のブレをなくした上で、今起きている問題をどう考えるか、そしてどう対応していくのか、自分はどうしたいのかに、向き合う。そして今できる最善の行動と思えるものを実践する。 その一歩一歩ごとに、「成長」があり、成長によってまた対応法の考え方も変わるかも知れません。いやまだつき合えるぞ。あるいは、もうはっきりとこれはやめるべきと分かった、とか。 そうして判断基準軸のブレをなくして自分の進路を問い続けるという一歩一歩の前進こそが、「建設的」だといことですね。「こうすればいいですヨ」と付け焼刃で言えるものなどではなく。 まずはじっくり検討してみて頂ければ^^。
>p.s島野さんの初恋の相手との話を自分のことのようにドキドキしながら読んでいます(o^^o)
そのうちじっくり書こうと思っているので、人にも関心持ってもらえるようだと嬉しいですね。 ま近況としては、華やかで活発な初恋女性と奥手で朴訥な僕という、結局のところ小学校の頃の気持ちと関係がそのままなのだ、という感じですかね。僕自身の確信的決意としても男女関係的駆け引きなど一切なく、ごくごくたまに会う中で、僕が自分の思いに向き合い続けることが、僕の人生の豊かさを生み出したというもの(番宣テロップ?^^;)。 まあ我ながら面白い話だ、という感じです。こんなの他に聞いたこともない、と。まもうちょっと時間あると思いますがそのうち晩年に向けて書き始めるかと思いますので^^。 |
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