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第三章中盤以降を以下のように差し替え。 /*/ しかし、これまでの歴史上、玄霧藩国の民が幸せを謳歌できていた期間は、そう長くない。 それはつまり、国民の気質と国政、または情勢が、すれ違い、噛みあっていなかったという事実を指し示す。 上手くいっていないのだ。 大抵の場合、人は、上手くいかなければ悩んだり、考え込んだりする。自分でどうにかしよう、という傾向がつよければ尚更である。 ただ、考えれば改善するというものではない。そもそも、一人で幾ら考えても、堂々巡りに終わることはよくある。 逆に考えないで行動したほうがいい事だって多いだろう。 しかし勿論、考えなければどうにもならない事も沢山ある。 そして、一人で考えてダメなら、複数人で考えればいい。 玄霧藩国民の自立意識の強さは先に述べた通りだが、同時にそれは、仲間意識の強さの表れでもあった。 仲間がいるなら、相談して意見を貰うことが出来る。自分の意見と違うなら、それは認識をすり合わせればよい。 他にも精霊という大切な隣人がいる。彼らは常に身近な存在でありながら、明確な他者であるから、 (会話は成り立たないが)相手の気持ちを想像して行動する上で、いい参考になる。 風の気持ちを、森の気持ちを考えてみる、というのは、発想の転換材料として、丁度よいと言える。 例えば、最も親しい相手と話し合うでもいいだろう。 木々に宿る精霊に思いを馳せて、彼らならどう考えるだろうか、と想像してもいい。 そして、食卓を囲みながら家族に悩みを打ち明けるのもありだ。 独立心が強い、というのは、決して孤独である事を指し示したりはしない。 個があるから他が認識できるのだ。自身と他者が異なるから、わかりあう事もできるだろう。 これまで上手くいかなかったのが事実でも、これからも上手くいかないかどうかは判らない。 過去の失敗を忘れるべきではないが、失敗に囚われてもしょうがない。経験は糧であって、心を縛るためのものではないのだから。 願いがあるから悩みもする。そこから生まれる行動によって結果が発生し、 それが好ましいものならば喜べる。良くないものであれば悲しむだろう。 それら全ての業を背負って生きていくのが人の姿ではあるが、しかしその時、人は誰も、一人ではない。 [No.2646] 2011/06/27(Mon) 21:34:39 |