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いつも思うことがある。 何の益もないのに人は、なぜ、感動を求めるのだろうか。 涙が出るくらいに心震えても、何を手にした訳でもない。 明日になれば胸に受けた鮮烈さも忘れるだろう。 それなのに。 それなのに。 たった一度の感動を元に、歩む道を変えてしまう。 何度も、何度も、昔受けた感動を求めては繰り返し、 気がつけば、自分だけの道。 人は何に感動しているのだろう。 ここにいるよと声がする。 君は一人じゃないよと呼びかける声。 その、声に感動している、ような気がする。 結局、人なんて、どれだけ行っても自分以上に理解出来る相手はなくて、 自分さえも理解出来ないなんて泣き言をいったところで、 それは自分を理解しているから言えることで。 自分よりも重たいものが、世界にないと、 僕らはとてもさみしいんだと思う。 なにか、自分よりも重たいもの、 自分よりも大切に出来るものを探して人は感動する、気がする。 それは愛だろうか。 無償の愛という耳慣れた言葉を、もう一度、心に新しくしてみる。 無償の愛というのは、あなたから受けた尊い行為に対して、 償いはいらないのですかと人が口にしたくなる行為だろう。 それはただの親切だ。 落としましたよとハンカチを後ろから差し出すことだ。 ありがとうという言葉は代価だろうか。 そうでもあり、そうでもない、気がする。 ありがとうと言われた時、ただの親切は親切ではなくなるのだろうか。 お礼を期待してやることじゃない。 余計なお世話だと言われて、それでも相手のためになることを選ぶのは、 どうも、より、尊い印象を受ける。 何故だろう。 自分より大切なものがあると、教えてくれる行為だから、 尊いと感じるのだろう、か。 気分を害するような言葉を受けて、なお、 気分を害した自分よりも大切なものがある、 それは自分以外の誰かの何かであると、 そう、言外に伝わってくるからだろうか。 尊いということ。 感動が胸に響く。 では、胸というのは、人間の中で、どのような位置づけなのだろう。 もっとも重要で奥深くにある、と、心の臓器として心臓は名づけられた。 脳ではない。 脳に響くものはノルアドレナリンのような刺激であって、 胸に響くものは、βエンドルフィンのような刺激である。 同じ生物学的作用でも、 胸をしめつける分泌物が出るケースというのは、 脳が高揚する分泌物を出すケースとは、違って、 もっと幸せなような気がする。 幸せのために感動を? 幸せのために感動を。 幸せになること。 これ以上に人生にとって大事なことはあるだろうか。 幸せの定義は人により、また価値観により異なる。 感動にも様々な種類がある。 様々な幸せを与えるために、様々な感動がある、のだろうか。 感動を与える行為には、ああ、そうか。 他人に幸せを与える行為だから、無償の愛のように、不思議に響く行為になっているんだ。 幸せは普通降ってこない。 降ってくるとしたら、それは自分が掴み取るか、 誰かが降らせてくれているかのどちらかだ。 度合いとしては、宝くじを買うのも、自分で掴み取りつつ、 誰かが降らせてくれるのを待っているようなところもある。 人が、感動を求めてさまようのは、それと同じか。 では、何故、人は感動を与えようとするのだろうか。 他人に幸せを与えようとするのだろうか。 他人に幸せを与えることで、幸せになれるから? 少し、違和感が残る。 美しい無償の愛ゆえに人は感動を作り出す? 違う気がする。 人は、自分に対しても感動を与えられる。 自分を感動させたいから感動を創る。 だから、本気だ。 益がないように見えても、必ず益がある。 どれだけ自分を感動させることに必死か、 その必死さの度合いで、人に感動を与えられるかどうかも、 決まっている、ような気がする。 自分を感動させるために。 自分をより深く感動させるために。 そこに他人はいないのだろうか。 他人のために、は、不純なような気もして、純なような気もする、 そんな言葉になっている。 成り下がっているのか、成り上がっているのか、それもわからない。 他人も自分の一部なら。 所詮自分の中でしか世界は作れない。 自分の中にしか他人はいない。 なら、自分の中の他人を喜ばせようという行為もまた、 自分を感動させる行為なのだろう。 それが実際の他人を喜ばせる行為になりうるかどうかとは別に、 人は、往々にして、そのように行為を選ぶのだろう。 それをして、正しいと呼び習わすのだろう。 でも、それがどうしたというのだろう。 正しさと悪の狭間の中で、何億人もきっと死んできただろうに。 生み出される感動が正しいかどうかに意味は感じない。 正しいかどうかで判断される感動なんかに価値はない。 自分が揺さぶられたいんだ。 他人が自分にあわせて勝手に揺さぶられているだけなんだ。 けれど、それが意外にうれしいんだ。 そういうことなんだろうか。 献身的に感動を生み出すというのは、どうも違和感のありすぎるフレーズなように思えるから、 やはり感動は、わがままにしか、生み出せない、 そんな気がする。 わがままであることと、生きやすさとは、なんの正比例関係もないのに。 わがままに生きることを選ぶのは、あまり幸せではないはずなのに。 幸せになるために、わがままでなければいけなくて、 幸せにするために、わがままでなければいけない。 わがままであることがこんなにも大事だということは、 行儀良く縮こまっていることの否定を意味するのだろうか。 言ってしまっていいのだろうか。 YESでありNOであると。 行儀のよさで人を感動させることもある。 丁寧な気遣いが人を感動させることもある。 それが幸せの一つの形なのだから、それはそれでいいのだろう。 そうではない幸せもまたあるというだけの話。 わがままであることと行儀がいいことは対立しない。 行儀がいい自分を望むのは、わがままなことだ。 行儀が悪いことを求めて感動する人もいるのだから。 行儀がいいというわがまま。 これ、もっと、自信を持ってもいいんじゃないか。 他人に行儀のよさを押し付けたり、自慢をするのではなくて、 自分の価値観を貫いているという行為に、 もっと自分で感動してもいいんじゃないだろうか。 感動という概念は難しい。 ただ、少なくとも捜し求めなければ与えられないものであることには違いないようだ。 よかった探しなんて言葉は古い。 感動を探そう。 それが感受性って言葉の意味なんじゃないのかな。 この文章を書いてみて、そう思うようになった。 いいか、悪いかじゃなくて、感動したかどうかで世界を捉えれば、 世界はまぶしくなる、気がする。 まぶしい分だけ、暗くも見えてくるだろうけど。 最悪であることを最悪だと嘆くのではなく、 最悪であることを、最悪であった、と、いつの日か、 そうではない今にたどりつけた自分に、感動するために。 そういう感受性を育てるのは、でも、難しいよなあ。 それでも、新堂塾という場所は、そんな場所の気がするのだよね。 新堂の名を持つ相手に感動したことがある自分だから、そう思う。 どんなところなんだろうなあ。 [No.6146] 2010/01/15(Fri) 17:38:18 |