No.1104 2015/09/02(Wed) 19:19:54
前回のスレッドでは、「分かり合い認め合う」価値観に立ったまま、攻撃感情を内面で湧きあがらせて、かつ外面行動では建設的である事はありえない、というお話と、 急務の課題としてどのように振る舞うか、という点は具体的な場面ごとに検討し、 感情強制にならなければどんなバリエーションもOKという前提で考える、というレスを最後に頂きました。
現在就職活動中で、そちらの方に時間をとられ、価値観選択か・・・結局また最初から論理的思考の所を積み上げていかなきゃいけないのか・・・との思いで、なかなか前進できていません。
そんな中、避けてきた「和やかな談笑のある人の輪」の具体的場面が久しぶりに 訪れ、自分としては恒例の、具合が悪くなって先に帰宅するというパターンになってしまった ため、前回最後にいただいたレスも通してまた考えてみたいと思いました。
内定者の懇親会で、人事部門の本部長などの役員の方や、仮に入社した場合に教育を担当 される部署の部長さんもいらっしゃる会で、お酒も入った立食パーティのような会です。
相変わらず気を抜くと、他人への興味を失い、死んだ魚のような目で人を睨みつけるような 外面印象になってしまうため、感情演技(とりあえず数時間は持つので強制ではないのでしょうか。)で一定の和やかさを身にまといました。元気いっぱい、みたいなのはもう完全に 感情強制の領域に入ってしまうと自覚しているため、大人しめだけど和やかで、話をよく聞くような印象です。内定者は、全体でいうと明るく、屈託なく初対面でも打ち解け、先輩社員の方にも気軽に話しかけにいくような人が多く、僕としては彼らは恐怖の対象でしたので、 その中でも比較的なじみきれないようなメンバーに近づき、彼らに質問をしながら会話をしていました。興味ありげに話を聞き、いや、興味は実際多少はあるのですが、なじみきれないと判断したメンバーへの強烈な軽蔑感情とふとした瞬間に全く相手の事なんてどうでもいいと思っているような態度が垣間見え、それが見抜かれてしまう恐怖感。いかに健康な心を持っているかを最低限印象として作り上げるか、それに気を使いながら残りの注意で会話をします。実に自然に質問をして、自然体で会話のやりとりをする周りのメンバーに比べて、自分は積極的に話を聞いているようだけど、心は相手に向いていなくて、そしてそれが明確に外面印象としては自然体の人たちと見分けるものができるものだ、と強く感じました。
面接の中で、あるいは内定後に業務内容について先輩社員に質問をする、というプログラムの中では、業務についての具体的な質問など、次々と思い浮かぶのですが、 こういう和やかに談笑している場になると、人事部長さんや教育部長さんと何を話せばいいのか全然わかりません。というよりは、談笑するような会話は出来るにはできますが、それをする事への徒労感みたいなのがひどくて、入って行けませんでした。 おそらく途中で減速してバッテリーが切れたような状態になるのが自分でもわかっていたからです。
そして、これもまたいつものパターンなのですが、最初になじみきれないと判断したメンバーが、お酒が入ってきてリラックスしてきたのもあり、明るく積極的なグループともコミュニケーションをはじめて、全く入って行けなくなります。 どこを見回しても、人の輪ができていて、ガハハと豪快に笑う声が聞こえ、 先輩社員には「これから頑張れよ、期待してるぞ」というような声をかけてもらっている 他の内定者。僕は、問題解決のために話し合って工夫していく過程は好きですし、その能力を高めていきたかったですが、 その過程に付随するこうした和やかなやりとりのちぐはぐさから結局大学では研究室もサークルも避けてきました。 彼らは大学のサークルや研究室で、こういった場を何度も経験して、 当たり前のように過ごしているだけなんだろうな、という思いです。
完全に行き場がなくなり、食事に夢中なフリをして立ち尽くしながらひたすら食べていました。面接してくださった人事の方に、「入れていないな、彼」と思われるイメージ。偽物に間違えて内定を出してしまったかな、と思われるイメージ。実際、僕は人事の方とも今でもかしこまって接していますが、ほかの内定者はフランクに談笑していて、僕と話す時は人事の方もかしこまったような様子になります。疲労感で和やかな感情を維持するのも苦しくなり、離人感や非現実感と共に、実際に今この姿が人事の方に見られていて、上手くやっていけない人間である事が認識されている事、バレている事が現実である、という事実に冷や汗が出てきました。たまらなくなって、トイレに逃げ込み、そのまま具合が悪くなったと告げ、一応先輩社員には挨拶をして周り、帰宅しました。 歩いていてもフラフラしてしまうような状態だったので、具合は実際に悪くなったのですが。
これが一応、場面になります。 正直、社員の方の印象が現実でどうなっているのかという点はよくわかりません。 具合が悪くなった、朝から少し体調が悪かった、という嘘をついたので、 もともと人と気軽に打ち解けられない、同期とも打ち解けられない、という印象を 持たれる事は避けられたかなとは思います。 現実対処としても、帰宅できた事は連絡でき、心配をかけてしまった事をお詫びも 出来たので、とりあえず内定が取り消される事はないと思います。 ただ、具合が悪くなったことを、こういう場が苦手だからだ、という可能性を感じられているということはありえると思います。
誰と話していても強烈な見下し感情と、お前の事なんてどうでもいいという思いが沸き、 疲弊します。
今回の件を、いままでいただいたアドバイスや学びから判断すると、 ●自分にはこういう環境は無理だというのが現実で、現実に自分が続けていける 環境を選ぶ必要がある。
という視点がまずひとつあるのかもしれないです。実はITの会社であり、流通を中心とした システムを作るのが業務なのですが、比較的上流の行程が多くて要件定義や設計に必要な、 お客さんとのコミュニケーションをとる力があるかどうかを一つのポイントにして採用をしているのかな、と感じました。IT業界はおとなしくて、なかなか人と積極的に打ち解けられない人も多いイメージだったのですが、それに合致するのは特殊なプログラムを組めるようなスペシャリストや、下流行程の方なのかな、とも思いました。 しかし、今後海外に開発部分は投げるような流れもありますし、上流の方が人材としても重宝されますし、実際に目的を持って思考する能力はある程度あって伸ばしていけるとの自負があるので、上流の会社でやっていきたいと考えています。
談笑が出来ないから社会に出られない、っていうのはおかしい、まずは業務内容についての 会話が成立する事が出来ればいい、といったお話を以前もしていただきました。 社会に出る、どんな仕事でもいいから仕事をする、という意味でいえばそうかもしれませんが、待遇もよく、お客さんとのコミュニケーションが必要になればなるほど、会社としては談笑が出来るような人材を欲しているのではないでしょうか。 となりで働きたいような、かわいげのある人物。 最初はそういうコミュニケーションが要求されないような場所を選べばいいのかもしれませんが、そこからレベルアップしていったり、異分野に挑戦したり出来るようには社会って出来ていないと思ったりもします。加えて、自分は色々と思考してアイデアを出して、実際に企画していったりといった仕事をゆくゆくは目指して、「生み出す価値」によって自尊心を磨きたいという思いがあります。そういう仕事になればなるほど、業務が円滑に進むために普段からのコミュニケーションや、人として好かれている事が必要とされるというのがついてきます。
ひたすら真面目にやるべきことをこなしていくような仕事で、自分は生み出す価値を感じられるとは考えられないですし、そうなると精神的にも円熟できず、ますます転職などで前進していく事ができなくなるのではないか、と思い、暗く沈んだ気持ちになります。
これについては、以前に「プラス材料によって検討すればおのずとマイナス材料を回避するような結果に大抵なる。」
というお話を頂きました。僕が自分のプラス材料だと思っているのは、物事を掘り下げて考えたり、問題解決のために工夫をして、今までにない発想で アイデアを出したり、お客さんのニーズや感じている問題点についてじっくり話を聞いて整理したりできる点です。 これはプラス材料ですが、これらを活かそうとすると、マイナス材料が必ず足を引っ張ります。 全然、回避するような結果になっていないです。
●仕事上コミュニケーションがかなり必要な場合でも、プライベートな話や雑談は一切なくて大丈夫。
この視点ももしかしたらアドバイスとしてあるのかな、と思いますがどうなのでしょうか。 僕はこれはやっぱりありえないと思います。出世するのも、結局気にいられているのが大前提だという話をよく聞きます。楽しみの共有という視点でいうと、心がふさぎ込んでいて、楽しいという感情が本当に薄いので、孤独を受け入れたら上司とも同期ともぱったり話さなくなると思います。 仕事自体は、知的に商談や議論をして結論を出していく事ももちろんあると思いますので、 それを繰り返していく事によって自尊心も成長し、好きなものも増えて、気軽な話でも楽しめるようになるのかもしれません。
しかし、そこに至るまでにもやはり雑談、談笑、必ず要求される場面が大量に発生すると思います。コミュニケーションが苦手だけど、ひたむきに仕事をする、いわゆる可愛がられる一生懸命な人もいますよね。僕の場合は、強烈な相手への見下し感情が隠しきれなくて外面に出ていると思いますし、知的な議論になると率先して比較的饒舌に話したりもしますので、そういう風にも思われないと思います。
この内容に沿った少し古いスレッドの島野さんの返信を引用させていただくと、
あまり重要なことではなく、あまり気にしない」になると思います。「休憩時間」「飲み会」であれば。
実働時間、業務時間において円滑なコミュニケーションを持てることは重要になりますね。
ただしそれは「愉快」というのとはちょっと違うと思います。趣味の集いだけではなく本格的技術向上などを求めるスポーツなど団体行動も含め、「仕事」というものであれば、「愉快」を求めるものではなく、「達成感」や「成果」を求めると思います。それは基本的に厳しいものであり、愉快になれるというより、困苦の克服を共にするというものが団結への方向性になると思います。
それが「健康形」であり「成長形」になりますね。
になるのかなぁ、と思いますが、業務時間に円滑なコミュニケーションを持てるために、レクリエーションや飲み会を設ける会社も 大量にありますよね。実際、そうやって相手の性格や趣味嗜好についてわかっている方が、仕事を振りやすかったり、頼みやすかったり、 困った時に気持ちよく一部の仕事を引き受けてくださったり、するのだと思います。 というか、そういう話をされます。
「達成感」や「成果」のための具体的な話し合い、これは出来ます。和気あいあいとしたやりとりが出来ない代わりに、こういう話をして、 間を埋めようとすることが多いです。そうすることで、「気持ちいい可愛い後輩」にはなれなくとも、「立派」である事によって認められておきたいという 心理があると思います。ただ、「達成感」や「成果」も、業務内容しか話すことがないような同僚とはなかなか共有できないのではないか、と思います。 実際ソフトウェア系の会社ではプロジェクト前にキックオフ飲み会があったり、打ち上げがあったりもしますが、 これは「愉快」をベースとして作る事でプロジェクトを円滑に進める事が目的ではないでしょうか?
ドライな社風の会社を選べば、そういうスタイルでも浮かずにすむと思いますが、実際には手厚く後輩を指導してくれたり、わからない時に 質問がしやすい雰囲気の会社はそうではない社風が多い気がします。いくつかそういう会社にも内定を頂いているのに、あえて殺伐とした職場を選ぶというのもどうな のかなぁ、と思いますし。
また、お客さんであっても、いきなり業務の話をするのはヘンですし、それしか話さないのはおかしいと思います。 小売業のように、毎日違う方と接する場合は不自然ではないですが、ルート営業や、相手の業務を長い期間をかけて把握するITの要件定義などでは、 同じお客さんと何度も何度も対面するため、業務の話しかしない人は「距離の縮まらない人」として敬遠されるのではないでしょうか。
●現実的な自己像で生きていくしかない。
この視点でいうと、同期や人事の方から「あまり積極的に人と交われない、自意識過剰の人。どこか上から目線で壁を作られている感じがするし、積極的に打ち解けようという姿勢もない。誘いづらい。でも、プレゼンテーションや議論については問題なくできる。」という 風に思われる立場に甘んじる、という方向性になるのでしょうか。コミュニケーション能力が未熟だけれども、かわいげがある、この場合はいいと思います。しかし僕の場合は、会話でも主導権を握ろうとする感じや、少し相手より上の立場に立とうとするような態度で、実際この会で一人の内定者から「もう働いているような落ち着きを感じる」といわれました。一つ前のスレッドで相談させていただいた
後者は「俺」という一人称です。前者は力が抜けながらもすっと背筋が伸びていて、
後者は首を少し出して腕組みをしている感じです。
こっちの自分が外面印象としては出ていたと思います。いつか「自意識過剰」で「挙動不審」な自分がみられるくらいなら、 この「落ち着いた大人な自己像」を相手の中に生んでしまうのはむしろその落差が怖いので、最初から弱弱しい自分でいったほうが いいのかと思ったりもします。最初から挙動不審である事と整合性がつくような振る舞いをしていれば、落ちる恐怖におびえる事もない。しかしあえてそうするのもまたおかしいのかな、と思ったり。 少し偉そうな雰囲気を出してしまう事自体が、「未熟」であり、現時点での現実的な自己像だと考えたほうがいいのでしょうか。
長くなりましたが、アドバイスの方をお待ちしています。 |
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No.1110 2015/09/09(Wed) 14:23:26
これは先にコメント返したみどりさん質問(No.1103トピック)と悩みの場面構造は同じで、問題の程度はちょっと深刻なものと言えるかもですね。 「プライベート談話場面恐怖症」などと呼べるかと^^。
基本指針は同じで、 ・仕事場面でのコミュニケーションのスムーズさは仕事そのものへの習熟と熱意によって支える。それを足場に、仕事から一服置いた場面でのコミュニケーションは人それぞれであり、それに接しながら、人生の歩みを通して自分なりのものを模索していけばいい。 というものになります。 ただしそれが「どんなものが良いか困惑」といった程度を超えて「その場にいられなくなる」といった問題になると、ちょっと必要な視点がやはり一段階本格的な心理学のものになると思います。 つまりそこにあるのは、どのようにゼロからプラスを増やせば、という問題ではなく、はっきりマイナスのベクトルが働いているという問題。それを解きほぐし解消するという取り組みになると思います。
その指針は手短に、外面視点と内面視点の2つ。 どちらにおいても基本指針は同じ、「健全形」を知ってそれを基準に取り組むという形で、外面行動法の模索と内面の解きほぐしを行います。
1)外面視点 「仕事そのもの以外の談話場面に、どのように参加すればいいか」について、まず健全形を理解します。 これは一言で、「多少は業務の一貫として、明確な参加不能理由がなければ参加する」というものであり、ただしそこでの「盛り上がり度や興味の入れ込み度はあまり問われない」というものだと言えます。 基本は参加する。でないと、そもそも仕事場面に入るための入り口にいけなくなってしまう可能性がありますね。そこで仕事以外の話をどう盛り上げられるかは、もう人それぞれの好みと性格で、その人に合う姿勢で良し。 ただしもちろん、攻撃的などのマイナス方向がないものとしてです。
もちろん、仕事そのもの以外の会話で、どう回りに好かれ上の人からの寵愛を受けるかといった煩悩(^^;)を持つことからスタートする形で、まず言って我々は仕事場に就くのですが、これはやはり、「楽しみ喜びの共有」としてそれができるなら積極的に、できないなら孤独を受け入れるという指針です。それしかない。その道において、自分なりの位置を模索するのが人生の道のりです。
そうした自分なりの姿勢と位置を模索するための、望ましい内面姿勢や実践が一方の話になります。
外面視点として、
>●仕事上コミュニケーションがかなり必要な場合でも、プライベートな話や雑談は一切なくて大丈夫。
は、「一切なくて大丈夫」な仕事場も、場合によってはあると思います。ただしこれを「仕事をするにおいてはどんな仕事場でも」とするのは、ちょっと無理があるかと^^; どの程度プライベート談話が求められるかは、こっちで決めることはできず、向こうの状況によります。そこから、自分なりのものを模索。マイナス方向が出なければ、「自分ではほとんどそうした話はしない」でもその仕事場にいられなくなるということはないはずです。
2)内面視点 まずは上記の、外面の健全形の理解が前提です。でないと内面の解きほぐしと再方向づけも正しくできない。 で次に、内面の健全形を、これもまた解きほぐし前提として、理解に取り組みます。
内面の健全形とは、ずばり、「どう見られるか」という「外からイメージ」によってでなく、「自分は何をしたいか、何ができるか」という内面エネルギーを基準に、自分の行動法を決めるという姿勢です。 もちろん、外面結果として攻撃的などのマイナスは不可、また「楽しみ喜びの共有」が少なければ好かれる度合いも減るという事実を受け入れるという、外面において守るべき最低ラインと覚悟をしっかりと枠とした上でです。
より具体的に、書いて頂いたものを材料に、こうした態度が取れるといい、というのを書きますと、
>この視点でいうと、同期や人事の方から「あまり積極的に人と交われない、自意識過剰の人。どこか上から目線で壁を作られている感じがするし、積極的に打ち解けようという姿勢もない。誘いづらい。でも、プレゼンテーションや議論については問題なくできる。」という風に思われる立場に甘んじる、という方向性になるのでしょうか。
という「こう見られるイメージ」は、「方向性」ではなく、「ただ流す」の対象になります。それはただ心に浮かぶ空想であり、それを最終材料には行動はできない。 ですのでそれはただ流すことをして、 「で、自分は何をしたい?何ができる?」と自分に問い、内面のエネルギーを模索して、自分なりの行動を見つけていく。 という姿勢です。上記の1)外面視点→2)内面視点という向き合い手順にてです。 この積み重ねです^^。
深い妨げへの取り組み 基本的な取り組みはそのようになるのですが、書いて頂いた状況を見るに、内面のエネルギーを模索しようにも、それが妨げられている大きな問題がある様子。 それへの取り組みが、まず行き当たるものになるかと。
一つはごく大きな方向性の話で、上記引用部分についての話の続きになりますが、
>●現実的な自己像で生きていくしかない。
という「自己像で生きる」という姿勢そのものの、根本転換が重要になると思います。 上述の通り、「自己像」は「内面でただ流すもの」にしかなり得ません。それによって自分を方向づけようとするのは、「感情操縦」「感情強制」という病みに直結してしまいます。 「こんな自分で」という「外からイメージ」を、場合によっては補助的に使うのもいいですが、あくまで補助輪です。それだけで行動する生き方を続けると、強度のないその補助輪が折れて、転んでしまいます。 それを、「自分は何をしたいか、何ができるか」という内面エネルギーをしっかり主輪にして生きる姿勢へ。
これは手短に書いていますが、極めて大きな転換になります。「自己像の崩壊」というのを通らないと、それが見えてこない面もある。 まあ逆に言って、自分がもう崩壊したと思えるような感情に、むしろ積極的に目を向け、その底に芽生える内面エネルギーに目を向けるのがいい、とアドバイスできるかと。
あともう一点は、内面感情について、はっきりとマイナス方向を向いたものについて、それをただ感じ流すのではなく、自分の価値観としてどう位置づけるのかに取り組むことです。 たとえば、まずは「その場にいられなくなる」という状態とは自分がどんな心と身体生理状態になったということだったのかについて、しっかり自己把握することが必要。 そしてそれについて、自分としてどう感じるか。オーバーな反応だったと感じるか。それともそれしか感じられないのか現状か。それらの合理性を自分自身でどう考えるか。 また、
>なじみきれないと判断したメンバーへの強烈な軽蔑感情
といった動揺の起点のようなマイナス感情について、自分自身でどう向き合うか。書いて頂いた内容ではどんどんその後の流れに意識が転げ落ちて(^^;)いく感じですが、一番向き合いが意義を持つのは、そうした起点部分のマイナス感情です。 自分はどんな理想像価値観において、他人への軽蔑を感じたのか。それは自分として合理的な理想像価値観と考えるか。 といった向き合いになるでしょう。
そうした価値観向き合いになってくると、また追加で入れて頂いた質問に重なってきますね。引き続きコメント入れますので^^。 ともかく、克服アプローチ全体としては上述全体をしっかり踏まえないと歯が立たないと思いますので、まず全体をぜひしっかり把握して頂ければと思います^^。 |
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