No.1132 2015/10/31(Sat) 17:25:20
話が拡散してしまったので、具体的に困っている問題テーマを まずは軸にします。
具体的に困っている問題テーマとしては、 「批判的思考を含めたやりとりが、和気あいあいとしたコミュニケーションとして自然に存在する傾向のある人が多い趣味の「行為の内容」に魅力を感じるが、そこにいる人たちの自然なコミュニケーションに馴染もうとすると、自分を偽らざるを得ない(批判的思考を元にした言葉ややりとりを発する事が自然なので、そうしてしまう)場合、その趣味とはどう向き合うべきか」 です。
状況は、とりあえず趣味となるスポーツや音楽の集まりとします。
まず、自分の望みの一つとして感じるのが、その「批判的思考を含めたやりとりが多い人が多い傾向がある趣味」なのです。この言葉には色々な意味がありますが(本気でそれに取り組んでいない、という意味にとられる事があるが、ここでは違うという事)、「チャラい」と称される傾向がある趣味という事です。 それが僕の場合はサーフィンや、ストリートダンスになります。 サーフィンの場合は少し違って、自然志向が強いグループでは、やりとりも「登山が好きな人」一般のやりとりに近くなる気がしますが、ハデなトリック(技)を・・・といった色合いが強くなると、エクストリーム系スポーツ(スケボー、BMX、スノーボードなど)の雰囲気が強くなり、グループ内での会話のやりとりも、いわゆる「チャラい」雰囲気のもの、批判的思考を含めた和気あいあいとしたやりとりが自然であり、それがカルチャーであるという雰囲気になるわけです。
ストリートダンスも同じように、やはりお堅いオジサンには「チャラい」と称される傾向があり、上記のエクストリームスポーツに近いカルチャーがあります。そもそものルーツが、ケンカの代わりにダンスで勝負をする、という所から始まっていたり、ヒップホップという音楽はなじりあいや罵り合いを昇華したような部分もあります。握手からのグーパンチ、のような挨拶の交わし方や、下品さも含めて「カッコイイ」というカルチャーになるわけです。
必然的に、かわされる冗談も下品なものが多い傾向があったり、なじりあいや、からかいあう事が、和気藹々としたコミュニケーションとして一般的になるわけです。
僕の場合は、こういうカルチャーには馴染めないのですが、サーフィンでいえば行為そのものや、ダンスでいえばそのカルチャーに含まれる音楽と、それに合わせて踊るという行為は望みとしてあるのです。
それで、一応ざっくりと反対に位置するとしてしまえば、先のレスでも触れたような「穏やかな楽しみの共有」の傾向がある趣味の場合は、 比較すればはるかになじめるというか、自分が浮いているという感覚を感じずに済むのです。 それが、ハイキングや裁縫やガーデニングや料理など、になるのかなと思います。 これは自分の幼少期の、ままごとや人形遊びやお絵かきが好きだった、「穏やかにみんな仲良くしようよ」みたいな繊細で、少し気弱な少年の自己像に よく馴染みます。そういう場にいると、心の底にいるこの少年の自己像を封印せずに、ある程度今の表層意識の自分が、年齢相応の社会性を添付して表現できる、という感覚が強いのです。
冗談などもあまり下品なものはなく、穏やかな方が多い。比較的仲がよくなっても、 なじりあいや、からかいあうなどのやりとりは少ないと思います。
やはりこの両方の環境で交わされるやりとりや、言葉の調子などは、 結構違うものだというのが実感です。「その趣味自体の話をする」その楽しみの共有をする、という意味では 共通していますが、そのやりとりの調子、冗談の傾向、関わり方の雰囲気などはやはり違うと思います。
そして僕は、「チャラい」カルチャーに馴染むために自分を偽らなければいけない事を感じたことから、「穏やかな趣味」に退却したように思うのです。実際には穏やかな趣味にもある程度の魅力は感じるものの、気持ちがより動くのは上であげたようなサーフィンやストリートダンスといったジャンルじゃないかな、と思っています。
島野さんの話でいうと、確かトランスが好きだったとおっしゃってたと思いますが、 同じようにトランスが好きな人の仲間内に入れば、それは「登山好き」「写真好き」の集団とはかなり 違う傾向があり、両方で同じような自分でいるのは難しいんじゃないかな?と思ったりします。そこをどのようにして処理したのかなぁ、と思った次第です。
そのほかに、学生時代の話だったと思いますが、男勝りな性格の女子生徒に対して、合わせるような事をしていたが、気疲れしてそれもやめた・・・といったシーンがあったかと思います。まさに僕も同じで、もともとやっていたダンスという趣味が、そういった外交的で、語弊があるかとは思いますが、ぶしつけで荒く、下品であるような人も多くいる趣味だったので、入って行けずに、その世界のはじっこで一人でやっているような感覚でいました。 |
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No.1143 2015/11/08(Sun) 11:38:01
>そして僕は、「チャラい」カルチャーに馴染むために自分を偽らなければいけない事を感じたことから、「穏やかな趣味」に退却したように思うのです。実際には穏やかな趣味にもある程度の魅力は感じるものの、気持ちがより動くのは上であげたようなサーフィンやストリートダンスといったジャンルじゃないかな、と思っています。
これは一言で、「性格的な気後れで入れない趣味サークル」といったものになるかと。 アドバイスとしては、次のような指針になりますね。 成長の歩みと、広い視野の中で、自分なりの趣味交友のあり方を模索していくのがいい。豊かさへの前進は、固定的な答えではなく、模索そのものが生み出す。 と。
触れていただいた僕の話も例にしながら、ポイントをまとめますと、
1.成長の歩み ・・・ 固定的な自己像を力づくで演じる姿勢から、自分のありのままの内面感情に向き合い、真の自己における成長に向かう姿勢へ。
>学生時代の話だったと思いますが、男勝りな性格の女子生徒に対して、合わせるような事をしていたが、気疲れしてそれもやめた・・・といったシーンがあったかと思います。 「5章 解かれたパズル - 来歴の遡りの始まり」の中(P.74)ですね^^。ちょっと長くなりますが引用しますと、 ===== 僕の中には、自分の容貌によって女の子に注目させようとする衝動があった。それでいながら、僕は〃恋愛のことしか頭にない″彼女達に軽蔑を向けていた。 そうなった根底には、自分が女の子と自然に親しくできないことへの挫折感と屈辱感があったように思える。僕は中学の時、心の中では恋愛至上主義のような感情を抱きながら、外では女の子にぎこちない態度しか取れない自分をじれつたく感じた。男の子のような活発な女子に対して、きさくで親しみやすい自分を演じようとしたこともあった。だが何となく気後れから、自らその「試み」から「退却」した。以後その女子からは自分が「変な男」という感じで見られるという感覚を僕は持った。 僕は、自分自身が理想的な姿になれなかったから、その原因を他人の中に求めた。僕は自分の不満感を、回りには愛するに値する人間が少なすぎるからだと自分に説明した‥。 =====
まあそれは偽りの自己像を演じようとして失敗した「小さな挫折」ではあったでしょうが、真の自己における成長への転換点にもなるというものですね。その転換点に立った大学4年の僕が、中学時代のその「小さな挫折」を思い返すというシーンです。 でこの後僕は、当時は教えられなかったけど自然と、というか宿命的(?)に、「感情と行動の分離」の歩みへと向かうわけですね。まずは主に内面の開放で、置き去りされていた絶望も開放されてしまったわけですが、何とか健康な心へと^^。
2.広い視野 ・・・ 多種多様な人の交友のあり方
これはずばり一言で言って、おおよそティーンまでの仲間内自然発生的サークルの世界では、特定の性格傾向のカルチャーがそこに成立し、後からそこに入ろうとするのは、よほど性格傾向が合わないと難しいというのが、実際に出てくると思います。
しかし、「社会人サークル」になると、もう違います。「俺たち仲間だゼィ乗っていこうぜ」でも、「皆でぜひ仲良くし合いましょう」でもなく、それぞれが参加できる時に、参加できる範囲で、参加すればいいものもたくさん出てきます。性格傾向も多様な人々から成る集団。サーフィンやストリートダンスにも、そういう社会人サークルが少なからずあるのではと。 そうなると必要なのは、人に迷惑をかけず、そして基本的な人との親しみ行動が持てることです。 ですので、いろいろ書いて頂いた、性格カルチャーのような問題は、なくなってきます。
3.自分なりの交友行動の模索
上の2つからまず言えるアドバイスとは、こういうことです。 社会人以前と以降とでは、世界が全く違います。社会人以前の世界の固定イメージを脱し、まず社会人としての自信の全体に向かい、それを足場に、自分なりの交友行動のあり方を模索していくののがいいでしょう と。
交友行動法は、いつも言っている通りです。より純粋な「楽しみ喜びの共有」として目指すことです。嘘のない自分としてです。 それができない場では、孤独を受け入れる。内面の妨げは、特定の性格カルチャーへの対処法なんて話ではなく、社会人としての人との一般的な親しみ行動がどう妨げられているかという視点で、取り組む必要がある。
タイムラインとしては、「新入社員」の目の前に、まだ仕事も一人前になる前に、学生気分のような趣味サークルへの誘いが来るかも知れませんが、「模索」はもっとずっと後に続くと考えるのがいいでしょう。 仕事のスキルでの自信が、社会人としての一般的な親しみ行動への、一つの支えになります。というか、社会人としての自信がついてこそ、社会人としての一般的な親しみ行動を自分はどうできるかが、一つの確かな足場の上で、模索できるようになります。 ここはもう一つ質問入れて頂いている「社会を生きるスキル」というテーマがつながりますね。この後で^^。
4.模索の先にある豊かさ
これは先のトピック 『自己イメージについて』 takaさん No.1131 2015/10/28 中のコメントの最後に書いた、 ===== この向き合いによって何を見出すかは、一度に全ての答えが出ることは、ありません。向き合いの中で、次第に違うものが見えるようになっていきます。そして最後には、歩みの最初からは予想だにつかない、最終的な答えが訪れる。そんなものです。10年20年、さらにはそれをはるかに超えた人生の歳月を通して、です。 ===== が、そのまま言えますね。
流れとしては、 まず性格カルチャーに応じた自己像を演じるなんて姿勢を捨て、嘘のない自分で人との「楽しみ喜びの共有」の行動がどうできるのかの模索を開始する。そうして、ありのままの自分に向き合うことで、心にそのための芯が芽生え始めます。 そしてまずは社会人としての自信を目指し向かう。それによって次第に、心に安定感が生まれてきます。それが実際の行動の範囲を広げさせてくれます。そして本当に「望み」となる趣味交友活動に向かってみたりする。
そうした「模索」の中で、「魂の感情」への向き合いもあれば、それ自体が心に成熟を生み出します。同時に、人との交友への願望という、持って生まれた課題が、次第に満足感の中で、収まって行ったりもします。ま人生も後半過ぎてからかと。 そうして、 a.人との交友がうまくいき、そこに満足感幸福感を得られる。 b.もしくは交友が必ずしも望み通りには行かなかったとしても、「魂の感情」への向き合いによる心の成熟の結果、一人で過ごしていても満足感幸福感が湧く心の境地へ。 といった道のりが、ハイブリッド心理学の考える流れになます。
僕の話の例の残りで言えば、
>島野さんの話でいうと、確かトランスが好きだったとおっしゃってたと思いますが、同じようにトランスが好きな人の仲間内に入れば、それは「登山好き」「写真好き」の集団とはかなり違う傾向があり、両方で同じような自分でいるのは難しいんじゃないかな?と思ったりします。そこをどのようにして処理したのかなぁ、と思った次第です。
社会人になって模索した交友は、テニスとスキーの活動です。 20代後半から、まずはちぐはぐな内面を抱えながらも、なんとか「純粋な楽しみと喜びの共有の行動」を見出し、参加を続け、30第後半あたりになって、社会人としての自信も出てきて、そうした交友行動もかなり安定したものへ。活動としてはもっぱらスキー。 そして40代後半あたりから、それを生涯の交友とできるかどうかの模索の段階へ。で結局僕の場合、一人でマイペースに生きることが好きな面が最後に勝ち、身体体力的な面もあり、スキー部活動からは一歩距離を置いて今に至ります。 トランスと登山は比較的後発の趣味で、これはもとより人とどうこう共有するものでなく自分で楽しむものの位置づけです。
ですので、上記大学4年の転機から、ありのままの嘘のない自分でどう行動できるかという中でのものであり、同じ自分でいられないのをどう処理するかといった問題は、ありません。 まさにそうした「自分を演じる」という姿勢を捨てることからが、スタートということですね^^。 |
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