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No.1192 2016/07/24(Sun) 11:41:42
自己方向づけあってこその「心を解き放つ」
>心を解き放てというキーワードで検索したら、このサイトに繋がりました。思い出すと苦しい、考えると苦しいという状況ですが、自分を受け入れる、全てを受け入れるという事で何とか対処しようと考えるものの、浮き沈みがあり、非常に苦しいのが実情です。何とか克服したいと考えています。お助け下さい。
これは一言で、こんなアドバイスになりますね。 行動法をわきまえ、未熟な感情を見分け、それでも自分自身の中で守るべき「愛への望みの感情」を見出した時、そこに答えが示されるであろう。 と。 それが「心を解き放つ」ことによる答えとしてです。闇雲に心を解き放ったところで、答えは出ず、収集がつかない。自己方向づけあってこそ、「心を解き放つ」ことが意味を持つ、ということになります。
ハイブリッド心理学では、そうした「心を解き放つ」ための取り組みを、生涯にわたる「心の成長」の歩みとして営むための実践を説明しています。 まずはそうした「心の成長」というもの自体に、どのように関心を持てるか、になると思います。サイトを眺めて、じっくり本を読んでみようか、という気持ちになれるようであれば、おそらく上述の「そこに答えが示される」といのがどういうことなのか、おぼろげに見えてくるかも知れませんし、そうでなしに、ただその最後の答えだけを体感できるようなアドバイスをいまここで、というのはちょっと難しいかも知れない。
といった話になるかも知れませんが、実際進めるとしたらどんな感じになりそうか、ごく要点を書いてみましょう。・・とは言っても、書いて頂いた状況からじっくり考えてみると、ごく要点だけでもまあ以下のような結構な話の量になります。
悲しみ苦しみの克服までの歩み・自己分析例など
まずは話の繰り返しからになりますが、「心の成長」というものそれ自体に、関心を持てるか。「心の成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」であり、それが、依存的な恋愛感情と、それがうまくいかない悲しみや苦しみを抜け出す方向に、そもそも心が向くかどうかの分かれ目になると思います。
そうして「心の成長」という大上段から、自分が人生で採用する価値観と行動法の「選択」を自らに問いていくのが次になります。 ここに再び分かれ道があり、ハイブリッド心理学が採用する価値観と行動法を、自分自身が本当に心底から選択するかです。そう思ったのは実は自分への演技のようなものだったと、意識の鎧を脱ぐことに向き合う時間も結構必要になるかも知れません。
ハイブリッド心理学が採用する価値観と行動法とは、 「愛」を「楽しみと喜びの共有」として向かう、それが実現できない時は孤独を受け入れる、という価値観であり、 「建設的対人行動法」として、共通目標共通利益のみに着目して行動する、それがないならば何もしない、という行動法です。 これを、自分が成長するための価値観と行動法として、これからの人生のためのものとして心底から選択するか。 そこから多少の「行動学」、まあ今回の話で言えば恋愛行動学のような知恵とノウハウも加えるといいでしょう。異性との交際であれば、一度交際を解消したのであれば、その後は基本プライベートな接触はしないのが原則です。それがマナーでもあります。それができず、 >3年半後の事実の判明に、何も出来ませんが、相手の女性に、全て分かったよ、責めたりしないから会話しませんかと留守番電話に残しました。 といった行動をするのは、ストーカーに発展する可能性ありとして、過剰な拒否反応を招くのも無理ない話です。 異性から振られた「理由」を問うのも、言ってしまえば、こんな言葉でご容赦ですがちょっと愚かです。それはただ、こっちが相手にとってベストではなかっただけの話です。それ以上の特別な「理由」を問えるのは、それなりに堅く結婚の約束をした場合などになるでしょう。 自分がこんなに思っているのだから、相手もそれに応える「べき」といった思考は、健全な思考ではありません。これはよろしいでしょうか。 また既婚段階で相手との交際を開始したのであれば、それこそ振られる理由など問うべくもない^^; これはいいですよネ。
そうして心の成長に向かうための価値観と行動法の選択への方向性をしっかりと持つことが、内面感情をありのままに開放する上での安全弁になると同時に、開放する感情を「自己分析」を通して解きほぐし整理するための、足場土台になります。 つまりそこから行うのは、自分の中の感情の一つ一つを切り分け、心の健康と成長におけるその位置づけを理解すると同時に、それぞれの自分の感情に対する自分の姿勢を、明瞭にすることです。 次の3つの姿勢のどの位置づけとして、自分はそれぞれの感情を扱うのかです。「全て受け入れる」なんていう建前抽象論(?)ではなく。 (1)建設的行動法への原動力として、積極的に手を組んで行動へとまい進すべき感情 (2)現実行動化はできない、未熟もしくは病んだ思考や感情として「ただ流す」だけにすべき感情 (3)現実行動化は問えないが、そこに真実のある、自分の中で守るべき感情
「自己分析」として重要なのは、感情の連鎖の流れがどこに行き着くかを確認するようなものではなく(それは流されているだけ)、感情の連鎖をより前の方へと遡り、まずどんな感情があり、そこにどんな感情もしくは観念が加わることで次の感情に変化したのだという、自分の感情の流れのメカニズムを分析することです。だから「自己分析」。 そしてそこに入り混んだ不合理な要素を見分けることが、何よりも、耐え難い悪感情が消滅するのに助けになると思います。 たとえば愛情が怒り憎しみに変化する流れであれば、上述の、「自分の思いに相手は応えるべき」といった観念や、相手が高慢な感情で自分を軽蔑したというイメージが入り込んだ可能性がある。 またそれが苦しみに変化するのであれば、相手は応えるべきだとする、自分の一途で気高いはず(?)の思いに、実は自己欺瞞があり、心の中で自分の首を絞めるような自己攻撃感情が起きているのかも知れない。あるいはもっと一般的に、気に入ったものは手に入れないと気に食わないという、人生での感情がそこで悶絶を起こしているのかもしれない、などなど。
そうやって自己分析の中で不合理要素を感じ取ることが、耐え難い悪感情を消滅させる最大の助けになるのですが、結局それも、最初に言った、心の成長への価値観と行動法を心底から選択していてこそ、それらを自分自身で不合理だと感じ取れるのであり、その時悪感情が消滅する、という効果になり得るわけです。
そこからさらに、自己分析を進めることができるでしょう。相手を好きに感じた感情という、起点部分の分析です。 それは何を好きだったということか。性格や外見、あるいは性的な魅力か。そこの辺はあまり書いておられない文面の全体雰囲気からまず僕が想像したのは、まあ総合的に言って(?^^;)女性としての魅力が今までで一番高かったような相手という話かなと。であれば、もしさらに特別に女性としての魅力が高い人物が手に届き得る形で現れたら、自分はどう感じるだろうか、といった仮説的命題設定をしてみて、自分の心にさぐりを入れてみるのも、「自己分析」としていいエクササイズになります。もしそうであれば、その相手はもう用無しの(雑な表現ご容赦^^;)、つまり相手を取り替え可能な「愛」だったのではないか、とか自分に問うことができるかもしれない。 まあ僕の感想を率直に言って、 >今でも大切で愛している事を自覚しています。 という言葉は、書いて頂いた状況では、どうも不釣り合いのように感じます。その言葉は、それなりに確実な絆を、それなりの人生の時期を通して持った相手に使える言葉ではないかと。 「今でも特別に魅力を感じる」というのと、「今でも大切で愛している」というのとは、大分違う感情です。前者はとくかく利己的に相手を欲求しているだけ。それを後者の感情であるかのように自己偽装しようとした時、相手からの拒否は、相手が高慢な感情で自分を軽蔑したというイメージに、「うじ虫」「ナメクジ」といった最大級の嫌悪を向けられるイメージが加わるというのがメカニズムです。あるいはこれが「苦しみ」の原因かもしれない。
そうやって心の成長への価値観と行動法を持ち、感情の中の不合理要素を見極める「自己分析」ができるようになれば、さらに、まさに「心を解き放つ」ことが意味を持つ歩みへと向かうことができます。 不合理要素や不純要素のない「望み」の感情を、心の中で開放し、人生の歩みとして、それに向かうことです。それらはどう実現し満たされることが可能なのか。それを人生において追及することです。 「結婚」とかの固定観念を、心の中では取り外すことが重要です。もちろん外面行動の形として一つの選択にはなるものとして。単純に女性の外見などの魅力に惹かれる感情であれば、反道徳的ではない範囲の行動たとえばお気に入り女優の画像収集とかもいいでしょう。そうした個別的願望の実現方法を個別的に探究した時、「結婚」というのは、相手が好きだという感情だけではなく、相手と共ににどんな家庭を作りたいとかの、共同事業的感情が重要になってくることも分かるでしょう。
そうした探究の歩みの最後に、「心の豊かさ」というものがどう生み出されるのかというテーマが、視野に入ってくる。 「心の豊かさ」とは、「自分から愛せる気持ちの増大」だ、と言えるでしょう。自分自身でそこに幸福を感じられる形で、と。 そしてそれは、実は上記感情の位置づけの中の、 (3)現実行動化は問えないが、そこに真実のある、自分の中で守るべき感情 を心の中で燃やす量に応じて生まれていく。 というのがハイブリッド心理学からの結論です。この辺はもうここで詳しい説明をするのはやめ、そんな歩みがあり得る、という言葉だけで終わらせておきましょう。
とまあ以上のような心の成長の歩みがあるとして、「悲しみ」が本当に完全に克服されるのは、つまり「悲しみ」が「心の豊かさ」に変化し尽くされる、まあそれを「救い」というのであれば救いは、その歩みの最後になって訪れる、というものになります。 その途上では、まず価値観や行動法への取り組み、そして「自己分析」の習得習熟などの、格闘になるだろうと。 上に書いたものは、あくまで参考的ガイドであり、実際の歩みは、自分の足で、つまり自分が考え自分で自分に問う言葉を沢山持っていく歩みとして行って、初めて意味があります。 それに向かうか、ですね。
ということで、僕からのアドバイスは、「道はある」ということですね。それは上述のような道だ、と。まあそれは一つの人生の道そのものだ、ということになりますね。 実際にそれに向かうかどうか、読書と日々の向き合いという地道な「人生の学び」として、ハイブリッド心理学の取り組み実践に入ってみるか、と検討頂ければと思います^^。 |
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