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記事No.604に関するスレッドです


近況報告です。 / 引用
No.604 2013/08/17(Sat) 05:54:58

こんにちは。毎度アドバイスを頂き、本当にありがとうございます。
ハーバード流の著書を読み返してみました。
実は、ハイブリッド心理学を知った頃(当時は療法として知ったわけですが)に本自体は購入してたのですが、当時は頭に入らず挫折していました。

あれから、自分の真面目さが偽である可能性が浮かんだり、過剰な安全要求のようなものが出てきたり、「俺は誰にも望まれず生まれ、誰にも望まれず生きてきた」という思考が激しい感情とともに出てきたりと、細かなことがいろいろ起きたのが功を奏したのか、原理原則に立脚した手法に関する項目は頭に入り、ちょうど仕事で常連さんからされた無茶な要求をかわすのに使うことも出来ました。

その後、今まで手を付けようとして出来てなかったダイエットなどのことを考えた時、なかなか手を付けられないことに焦りを感じ始めていたのですが、つい先ほど、「手を付けられないのは、「こんな自分じゃダメだ!」という感情をバネに行動してるからじゃないか?」という考えが頭に浮かび、「第3巻 実践編(上)」のメール相談の事例を参考にしながら考えていきました。以前も目を通したことがあり、何となく印象に残ってたので、参考にできる内容があればと思いながら。

そういえば自分も自己処罰感情を結構使ってるなあ…と思いながら読み進め、自分の場合は自己処罰でどういうメリットを受けようとしていたか考え、「自己処罰感情に浸り、猛反省してるところを周囲にアピールすれば、「これだけ反省してるなら…」と、叱責やペナルティを軽減してくれるかもしれない」という、司法取引みたいな変な期待をしている自分に気付きました。が、ほぼ同時に、「それは言葉や行動で示すものであれば、わざわざ自分がその感情に浸る必要はないのではないか…?」と、その不合理性にも気付き、反省ってのは知性で行うモンじゃないかなあ…というところまで思考が進みました。

また、今までを思い返すと、高校に入って予備校や大学、資格の勉強や職場に至るまで、自己否定、自己処罰からの焦りで、勉強も仕事も落ち着いてやれた期間が殆ど無かったように思えます。適切な分量の参考書を何度も繰り返し、マイペースにやれた予備校の頃が比較的マシだったぐらいで。それだけでなく、人付き合いや恋愛も、自分にダメ出しすることに終始し、公私ともに追いつめられた気分で生きてきたことに気付き、笑えてくるような凹むような微妙な感じになりました。

とりあえず、物事に取り組む際の姿勢を見直すことになりそうですが、また自己否定に捕らわれないよう、いろいろと参考にしながら思考を改めていきたいです。


 
「人生」の視点からの取り組みへ^^ / しまの 引用
No.605 2013/08/19(Mon) 11:13:12

外面および内面への向き合い双方前進力が出てきた感じですね^^。

>原理原則に立脚した手法に関する項目は頭に入り、ちょうど仕事で常連さんからされた無茶な要求をかわすのに使うことも出来ました。

これはベリーグッド前進^^。こうして階段を一段上る体験を得ると、今度どんどんより高いところが見えてくると思います^^。

>「こんな自分じゃダメだ!」という感情をバネに行動してるからじゃないか?」という考えが頭に浮かび、
>「それは言葉や行動で示すものであれば、わざわざ自分がその感情に浸る必要はないのではないか…?」と、その不合理性にも気付き、反省ってのは知性で行うモンじゃないかなあ…というところまで思考が進みました。
>自分にダメ出しすることに終始し、公私ともに追いつめられた気分で生きてきたことに気付き、笑えてくるような凹むような微妙な感じになりました。

この辺は、
「自己分析」と「見通しづけ」の導き
で書いた「熟達形」自己分析になってきていますね^^。「心の成長の前進に伴ってもはや自分には不合理と言える悪感情の要因を感じ取るといった高度な自己分析」というやつ。


「自己叱咤」の功罪

なお「こんな自分じゃダメだ!」という「自己叱咤(しった)は、それだけ取り上げ心の成長有益か有害か言うことはできず、それに先立ってあるのが、「ありのままの自分を成長させる姿勢」かそれとも「ありのままの自分を否定した何者かになろうとする」かによって分かれてくると言えます。
後者の姿勢の上での自己叱咤は、やがてストレスによって自分を破滅に追いやる、両刃の剣となる可能性がある。「両刃の剣」であるとは、その「自分への脅し」によって行動するというやり方が、実際何かの能力向上を生むこともある。ただしそれはまず言って、「幸福」にはつながることのない能力向上です。

「ありのままの自分を成長させる姿勢」さらに「ありのままの自分を成長させる技術」を見出した時、今までの自分の人生駆動してきた、後者の姿勢の誤り功罪同時に目にして、泣きたくなるような笑いたくなるような気分に取られることになります。
僕もそうでしたし、誰もが通る(?^^;)、人生の通過点一つになるかと^^。

なお「ありのままの自分を成長させる姿勢と技術」を見出したならば「自己叱咤」金輪際不要になるかというと必ずしもそうではなく、表の意識心の根底成長のリズムズレともいうものがいつの間にか起きており、どこかのタイミング「今の自分のままじゃ駄目だ!自分を変えなければ!」感じる時の訪れがあるのが、むしろあってしかるべきものだと心得ておくのも良いと思います。
これも結局は、「ありのままの自分を成長させる姿勢と技術」を持つことで、自ずと見えるようになるものです。


「人生」の視点からの取り組みへ

ということで、取り組み外面および内面ともに前進するようになったら、あとはアドバイスとしては、取り組むための基本的な視点を、目先の感情の良し悪しよりも、「自分の人生」というものに大上段から置くようにするのがお勧めになります。

つまり、「今の生活、今の仕事を一生続けることで満足できるか、今の状態で終わったとして、自分の人生として満足か」という問いの下に取り組むということです。
多分そうは満足できないという話になるでしょう。ならば何を望むか。外面においても。内面においても。
そうして「望み」向き合い「望み」描き、そこから、目の前の生活における目標設定し、問題課題分析向かっていく。

人生の前進と「望み」への向き合い
であり、そこで書いたように、「自分なりに多少とも満足もしくは納得ができるまでの経済的基盤への取り組みもあれば、パートナー探しという人生のイベントもある」というテーマまずはあるという話になると思います。自分の目の前にある社会のレールの上で、まずはどこまで行けるかと。

そうして、「人生」という視点取り組むことが、

>「俺は誰にも望まれず生まれ、誰にも望まれず生きてきた」という思考が激しい感情とともに出てきたり

といった「来歴における躓きと妨げ」についても、自ず転換を生むかもしれません。これからは、自分が、誰と共に生きることを望めるのかなのだ、と。誰に対して、自分が、その相手が生きることを望んであげられるようになるのかなのだ、と。

いずれにせよ、ここから「人生」歩みとしての長い取り組み始まりですね^^。


 
Re: 近況報告です。 / 引用
No.606 2013/09/02(Mon) 16:36:40

ありがとうございます。
まだ「人生の望み」と言えるほど考えが固まったわけではないですが、原理原則というものを少しは意識に置ける状態になってきたので、それを踏まえて大学時代にモノにならなかった法律の勉強をやり直してみたら、当時よりも頭に入るのではないかと考え、また法律系の資格を目指してみるのもありかもしれない、という考えはあります。
以前はそれを、ほぼ間違いなく「腹いせ」「穴埋め」として目指していたところがあったと思いますが。
ただ、大学を出て以降、働く中でどうも会社などの組織の中ではうまくやっていけない自分を自覚せざるを得ず、そういう法律系の資格を持って独立したいという、「組織からの逃げ」の姿勢もあるため、これを望みと考えてもいいのだろうか、と考える自分も居ます(今のバイトで何とかやれてるのは、作業内容のほとんどが単独行動で、ノルマのようなものはほぼ無いから、というのはあります…^^;)。
とりあえず、バイトではなく就職して資格を目指すか、バイトをしながら資格を目指すか。組織との関わりを持つべきかどうかで判断しなければなあ、という感じになりました。

あと、怒りに関してですが、ある程度軽減した後はなかなか先に進まないなあという感じです。
仕事中のトラブル…今度は通行人ではなく、同僚が事実を歪めた報告を上司に行なったことにより上司から無駄に問い詰められたり、警察からの脅迫的な職務質問があったりと、運の悪いトラブルが立て続けに起き、積りに積もったものが溜まって久しぶりにブチ切れてしまいました^^;

とりあえず、最近のトラブルと来歴を合わせて考えた時、不完全性を受け入れることが大きな課題になって立ち塞がるようには感じました。
ただ、現状では、「不完全性を受け入れるとしたら、今まで俺をトラブルに巻き込んできた連中をヘラヘラ笑って受け入れなければならないのか…」「周囲はみんな好き勝手に生きてきたのに、なぜ自分だけが聖人君子にならなければならないんだろうか」という感覚も強く、非常に複雑な思いがするので、道は険しいなあ、とも感じました。外面行動がまだ未熟なので、その辺はまだ時期が来てないのだろうな、とは思います。
少なくとも、バイトをしながら試験勉強をするなら、バイトには深入りせず給料を貰うことだけ考えて働き、試験勉強に全力投球、かな…とは感じてます。

あとは、愛に関して考えてみましたが、自分が楽しいと思えるもの…趣味や娯楽の類はそれなりにあるのはあるのですが、だいたい自己完結してしまうので(パソコンを組んだり整備したりすることや、あとはいわゆるおたく系の娯楽)、今は孤独を受け入れて生きることになるのかなあ、という感じでした。


 
「人生の戦略」へ^^ / しまの 引用
No.607 2013/09/05(Thu) 17:59:37

う〜んこれはちょっとタイヤバランスが悪くスムーズに走っていないという印象ですねえ。
取り組み意識の修正ポイント結構ありそうなので、手短に書いてみますと、

・「組織の中でうまくやれない」の正体を見極める
>ただ、大学を出て以降、働く中でどうも会社などの組織の中ではうまくやっていけない自分を自覚せざるを得ず、
>組織との関わりを持つべきかどうかで判断しなければなあ、という感じになりました。
社会での「仕事」は、「組織の中」で働かないという多少あり得ても、「組織と関わりを持たずに」働くというのは、基本的ありません組織が動くから、ものごと七面倒くさい動きをしており、それをなんとか御することとして、沢山の種類「仕事」というものが社会に生まれます。
ですから、「組織の中」で働かないケースでも、社会「会社」などの組織がどう動いているのかを沢山学ぶ経験あってこそのスキル向上があります。
「組織と関わりを持たずに」という観念仕事考えるのは、喉に刺さったトゲを抜かないまま、どんな食べものなら喉に快適かを探そうとするような話です。まずトゲを抜く必要があります。また、トゲを抜くことと、自分に合う食事を極めるのは、基本的には別の話と考える必要があります。

取り組み実践としては、「組織の中でうまくやれない」とは一体どういうことか分析取り組みが必要です。例えば「人前の緊張不安」であれば、それを流しながら行動する仕方の学び、「あまのじゃくな性格」なら性格から直した方がいい(^^;)とか。
そうして、仕事の選択は、「組織の中でうまくやれない」という問題度外視して(どんな仕事でもそれは克服課題と腹を決めて)自分の資質適性などから考えるのが良い姿勢です。

・「怒りの軽減」はまずは「怒りを用いない行動法の習熟」
>あと、怒りに関してですが、ある程度軽減した後はなかなか先に進まないなあという感じです。
>運の悪いトラブルが立て続けに起き、積りに積もったものが溜まって久しぶりにブチ切れてしまいました^^;
「怒りの軽減」は、まずは「怒りを用いない行動法の習熟」イコールになります。つまり、「怒りを用いない行動法の習熟」前進しないまま、「怒りの軽減」だけ内面で起きることを期待するのは間違いであり無駄です。怒りの軽減がうまくできなくてブチ切れたのではなく、ブチ切れる行動法を持っている事実が、怒りを軽減していないことを示しているということです。
「自衛能力」になるでしょう。その問題だと考えるか。もちろん相手にある場合もあるでしょう。しかしその場合は怒って仕方ないと考えるのは、怒りの軽減という目標自体を捨てるということです。相手にある場面を、どうかわすか。怒りを捨てるための行動能力向上への取り組みは、そこからです。

あとは、今回「ある程度の軽減」は、今までの人生を通して潜在的には可能であった範囲のものが、多少行動法の学び引き出されたもので、これから「さらなる軽減」は、さらなる変化がまず準備されるための歳月持つ必要があると思います。行動法の向上数か月費やしたら、内面の怒りの起き方について確認してみる時間数日間持つのは意味ある、という程度のものとして、外面行動法への取り組み優先です。それなし「なかなか進まない」と感じるのは、ちょっと「気持ちの持ちよう」など小手先の「気持ちの枠はめ姿勢」傾いていないか注意すると良いでしょう。

・「不完全性の受容」は建設的行動法のほぼ完全な習得後に問える
>とりあえず、最近のトラブルと来歴を合わせて考えた時、不完全性を受け入れることが大きな課題になって立ち塞がるようには感じました。ただ、現状では、「不完全性を受け入れるとしたら、今まで俺をトラブルに巻き込んできた連中をヘラヘラ笑って受け入れなければならないのか…」「周囲はみんな好き勝手に生きてきたのに、なぜ自分だけが聖人君子にならなければならないんだろうか」という感覚も強く、非常に複雑な思いがするので、道は険しいなあ、とも感じました。外面行動がまだ未熟なので、その辺はまだ時期が来てないのだろうな、とは思います。
確かに時期が来ていないでしょうし、どのように時間が経てば「否定価値の放棄」「不完全性の受容」を問えるかという問題ではなく、まず「実害」に対しても建設的に対処できる能力をほぼ完全に習得するのがになります。そのに、それでもまだ不完全性を受け入れられない感情に向き合い、その選択を問うことが可能になります。

「不完全性の受容」を、「何でもオーケー」の「害を放置したれ流す」姿勢と考えるのは、「建設的行動法」自分に押し付ける杓子定規の前向き姿勢や行動と考えるのと同じ、ハイブリッド心理学の学びよくある誤解ですのでご注意です。
「不完全性の受容」とは、「害を受容する姿勢」ではなく「不完全性をもって害とはしない姿勢」です。
例えれば「不完全性の受容」とは、ズボンの左右の裾の長さが1cm違ったのを「まっいいかー」とする姿勢つながるものではあっても、ズボンが破れてパンツ丸見えになったのを「まっいいかー」とする姿勢つながるものではないということです。
まずはトラブルを振り返って、上述した「自衛能力」からどう考えられるかの答え見極めるのが第1ですね。同時に、トラブルにあった、相手自分もしくは原因分析する必要がある。そこに、許せるものと、許せず対処すべきものという区別テーマになる。
そうした全ての外面的事柄全て答えが出た先に、それでも残る否定感情取り組むものとして、「否定価値の放棄」「不完全性の受容」というテーマが出てくる、という順番になります。まずは5年、10年といった先になると腹をくくるのが正解だと思います。

・対人関係上の根深い妨げに真正面から取り組む
>自分が楽しいと思えるもの…趣味や娯楽の類はそれなりにあるのはあるのですが、だいたい自己完結してしまうので(パソコンを組んだり整備したりすることや、あとはいわゆるおたく系の娯楽)、
それは「愛」というより「気晴らし」ですね・・^^;
>今は孤独を受け入れて生きることになるのかなあ、という感じでした。
これは上述「組織の中でうまくやれない」というとも根っこが同じ問題のように思えるのですが、言えるのはずばり、対人関係全般においてなにか深い妨げがあるように感じられます。それを、喉に刺さったトゲを抜かずにどの食事が・・模索しているという

この「対人関係全般における深い妨げ」こそが、内面側の取り組み課題ご本尊になると思います。
まずじっくり自分の中にある問題何なのか把握理解することからです。考えられるのは、う〜んまず問題として、人間関係全般からの退却起きているように感じられます。そうであれば、それが人生の来歴の中でどの頃あたりからだったか、その時自分の中に起きた感情の揺らぎはどんなものであったかなど考えると、多少糸口が見えてくるかも知れません。
そしてそれが、これからの取り組みを通してどのように解決克服されるのか、まずは頭で見通しを持つことです。実感ゼロだとしても。ハイブリッド心理学からは、そこにある問題「どう感じるようにすれば」ではなく、それに妨げられない「感情と行動の分離」姿勢実践の先に、今回解説している、
「魂の成長」の過程
のようなものになるかも知れない、とか。

そうして内面側克服10年かかるとして、外面「仕事」の能力をつけるのもどのみち10年はかかるわけです。すると10年後に、内面と外面の双方において克服と向上の成された、一つの自己完成像描けることになります。
そうした遠大な目標を持ってこその「成長」歩みですし、それが「人生の戦略」というものです^^。


 
Re: 近況報告です。 / 引用
No.610 2013/09/07(Sat) 16:32:31

ありがとうございます。
まず、かなり端折った書き方をしてしまった部分があったのでお詫びします。
ブチ切れた状況についてですが、対応そのものは、大きな動揺を内心抱えつつもほぼ無難に乗り切ったのですが、帰った後に「めんどくせえ!」とブチ切れたので、一応、対人的に表面上は大きな問題を生じませんでした。

事実を歪めた報告が上司に届いた件は、どうやら「大げさに報告して上司の目に留まるようにし、原因になった人物に直接上司に説教してもらおう」という意図だったらしく、私はそれに巻き込まれただけであることを後日フォローされ、多少釈然としないところはあるものの、上司からはクロではないと早い段階で理解を頂いていたので実害が無かったと判断しました。
警官に関しては、最近警察を騙って金品や個人情報を持っていく話を結構聞くので、警官本人の態度に不審を抱いたのもあり、どちらかというとそういう可能性をぬぐえませんでした。一度帰宅して交番に赴き、そういう不安を話したうえで事後確認して事なきを得ました。こちらは実害がないことを確認するため、という感じでした。その場で名刺の一枚も貰っておけば手間はかからなかったかな、という反省点も浮かびましたが。

まあ、「めんどくせえ!」と感じたわけなので、人と接することへの妨げが原因なのはご指摘の通りでした。これに関して「人は不完全なのだから、それを受け入れることで怒りが減るのでは?」という思考が浮かんだため、それで先日の書き込みのような状態が起きた、という状況でした。

御指摘の点に関しては、来歴の中で人間不信気味な状態に陥ってそれを当たり前のように放置していたことに気付いたのと、他に、「孤独」という言葉が文字通り独り歩きしてないだろうか?今自分が置かれてる状況は本当に孤独なんだろうか?というものがありました。
まず、自分の嗜好が自己完結してるということは現実を見直すとどうやらそうでもないようで、職場の同僚・友人からのパソコンに関する相談に結構乗っていることやら、共通する興味ごとを話題にして話をしたり、それ以外の世間話も普通にやってることを見落としていました。

その後、一部でおたくに対して風当たりが強い事実はあっても赤の他人から見抜かれ非難されるというのは現実的ではない、という意識の下で、「このおたく野郎!」「気持ち悪い!」という非難を世間から向けられているという、現実とはややずれたイメージを、仕事中悲しみの中で流し、そもそも「組織でやっていけない」という考えこそ決めつけではないか?と、家族からたまに指摘はあったものの、たぶん初めて自分自身の思考で辿り着きました。

そこから、アドバイスのとおり、来歴のどこで躓いたか振り返りました。
20代の頃は中古パソコンの会社で技術系の部門に所属してましたが、そのころの上長がやたらと朝礼でおたくを叩いていたことやら、やたらとハードルの高いことを言って発破をかけてきたことで追いつめられた気分になり、内心「もうここで自分は生きていけないのではないだろうか」という不安を抱えながら日々を送ってました。しばらくして営業に換わってほしいと言われた時も、当時の営業主任がコンプライアンスに反することを行ない、それを遠回しに指摘しても改善が無かったので、何か裏があるのでは?という疑いを持ちつつかわしているところでリーマンショックが起きてリストラ、という経緯があったのを思い出しました。

「やっぱりおたくは真っ当に生きていけない」という考えが、この辺から出てきたのかもしれません。今になって冷静に考えてみると、技術的な説明が出来る人材を営業部門に増やしたい、という考えなどがあったのではないか、という見方もできるよなあ、とも思えます。

 考えてみると、当時の会社で、評価自体は上長から結構されていたほうだったと思います。追いつめられた気分をバネにしていたとは言え、パソコンの知識や作業の効率に関して、かなり積極的に仕入れるようにし、作業の説明や進捗状況の報告なども丁寧だとよく褒められもしていたのを思い出しました。作業から離れても、支店内でカラオケをやった時、追いつめられた気分の中、もう引かれてもいいからバカやっとこう、と自暴自棄な開き直りで派手に弾けてみたら逆に金一封を頂くということもあったな…とか、悪くない記憶も次第と流れてきました。
 今のバイト先でも、一体何を具体的に評価しているのかはわからないものの、よく客を集めてくれてるからとシフトリーダーに祭り上げられていることを考えると、やはり「組織でやっていけない」というのは決めつけなのだろうか…というところまでは考えられるようになりました。

 関連して「もうここで自分は生きていけないのではないだろうか」という当時の思考を考え直そうとしたとき、自分の怒りの根底に、今でもこういう悲壮感が流れていることに気付きました。「こんな罵声を浴びた!」「こんなに割引券の配布枚数が少なかった!」「こんな面倒なことが起きてしまった!」「もうこの環境に自分の生きていける場所など無い!」そういう悲壮感が起き、自暴自棄な怒りが湧いている可能性もありそうだ…と。
 並行して、これまで起きたトラブルの中で、実際それが尾を引いて大きな災いを招いたことは滅多になかったことにも気付きました。
「悔しいけどそれは認めざるを得ない」という感情が湧きながら…ですが^^;

とりあえず、怒りの裏にあった悲観的な思考に気付いたところまで進みました。
あとは、今後の現実の場で、これを現実的な考えに修正していけるように思考を直していければ、と感じています。


 
「大自然を生きる一匹型の言葉」で問い直す^^ / しまの 引用
No.613 2013/09/14(Sat) 10:59:21

「感情による決めつけ思考」見直すという感じで前進ですね^^。

今後に向けてアドバイス追加などしておきますと、
>やはり「組織でやっていけない」というのは決めつけなのだろうか…というところまでは考えられるようになりました。
>関連して「もうここで自分は生きていけないのではないだろうか」という当時の思考を考え直そうとしたとき、自分の怒りの根底に、今でもこういう悲壮感が流れていることに気付きました。

といった思考「感情による決めつけ」であることに加えて、それらが「道徳の授業型人生感」思考だということです。
「こうでなければ生きていけないぞ」と、画一的な「あるべき姿」を掲げて脅すというやつ。

それを「それは何がどうなるという話だ?」問い返せるのが、「大自然を生きる一匹型人生観」思考です。
そしてそこで「何がどうなる」を、「愛」「自尊心(自分への自信)」ごく現実的問題(給料など^^;)分解して捉えるといい、という話になるわけです。
参照:「「人生観」の学び」「心の成長のメインテーマ 「愛と自尊心」に向かう」など)
そこで言えるのは、「道徳の授業型人生感」思考どっぷりでいるのは、まず言って「愛」「自尊心」において(まあごく現実的問題についてもそうでしょうが)、受け身でしかあれていないことです。それ自体においてもう「愛」「自尊心」育ち得ない

ということでアドバイスとして言えるのは、実際どのように見直しができるかはさておき、
「道徳の授業型人生観の言葉」による思考を、「大自然を生きる一匹型人生観の言葉」で問い直す
という実践です。
まず、感じ方考え方を変えようとするに、ですね。

こう感じた 【道徳の授業型の言葉】
 ↓
それはどういうことか 
【大自然を生きる一匹型の言葉】
 ↓
心の転換が見えてくる


まあそれで実際「大自然を生きる一匹型」になった心から「オタクでは生きていけない」なんて言葉に対して言うとしたら、こうなるんですけどね。
「余計なお世話だ」と^^; てめーらに愛されなくてもどーってことない、と。まそこで実は「愛されたい衝動」問題の根本であることが見えてきたりするかも知れません。
その時はまたその時心の状況に応じての視点の話になってきますね。まずは自分の感情の本質を把握できるための「言葉」の駆使できるようになることからです。
「自己分析」と「見通しづけ」の導き

「言葉」というものをしっかりと正確厳密に使うことで堅実にできるようになるということを、自分自身の感情の把握についても行っていくことです。
と書いたですね。我々人間は結局、「言葉」考え、さらには「言葉」感じ方を変える動物ですので^^。

でまた何か具体的材料など出たら、新規トピックなどで質問頂くとよろしいかと^^。



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