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記事No.621に関するスレッドです


根源的自己否定感情、その他質問 / にーな 引用
No.609 2013/09/06(Fri) 13:18:26

島野さん、お久しぶりです。
内観法についてのアドバイス、ありがとうございました。
結果から言いますと、内観法には行っていません。
島野さんのアドバイスも加味してよく考えました。学びの姿勢が『他力』本願であること、本当にわかるとは遅かれ早かれ『自力』になるだろうと直感的に思うこと、行かないことで節約できる…等々で出した結論です。

ここのところ、島野さんのサイトの執筆のほとんどを繰り返し読み直しています。かなり苦戦してますが(笑)、大筋は理解できているつもりです。
そこで「根源的自己否定感情」について質問させてください。
*この感情がどれ位の強さで自分の中にあるかを、推し量る方法はあるのでしょうか?*  
私は女・女・男の中間子として生まれ、幼い頃から姉との比較で自分は可愛くないと当然のように思って育ってきました。幼稚園〜小学校低学年にかけては、自信がなく大人しく、学芸会の主役に抜擢されても泣いて嫌がるような子供でした。子供心に自分にはお姫様などの女の子らしいものは相応しくないと思っていたんです。学年が上がるにつれ、勉強や容姿にも少しは自信を持てるようになっていきました。そんな中学時代のある日、学友に言われたある一言がきっかけで、どうあがいても抜け出せない心理的トラウマを抱えるようになりました。島野さんの心理学を読むようになって気づいたのは、それはどう考えても現実にそぐわない破壊的な苦悩であったと思います。私は現在は、通常の物事に関しては論理的に考えられる方だと思いますが、この苦悩がつい最近まで続いていた理由は、おそらく、このことに関してだけは感情にまかせて考えていたのだろうと思います。

ひとつ思うのが、*もし自分に「根源的自己否定感情」が無い、もしくは程度の軽いものであったら、中学時代に友達に言われた一言がトラウマとなるようなことは無かったのだろうか…*ということです。その一言が私の中で「望む資格思考」に発展してしまったようなかんじでした。

心理学的素養もない親に、4歳以前の育て方が間違っていたなどと責めても、親は戸惑うばかりです。島野さんも過去原稿「心理障害の感情メカニズム」の中で言われているように、*“何が悪かったと細かく見ようとしても、本質は見えない”、従って、親にクレームをつけるのは間違っているのですよね? 間違っているというより、そこからの成長はあり得ないから、といったところでしょうか?*

私は20代の前半に島野さんの下級生の子と被るような恋愛経験をしました。もう少しは近い関係だったと思いますが、結果的に私は逃げました。今思えば、自分に嘘をつき続けなければならないことに、とても耐えられなかったんだと思います。以前メールの方に書かせていただきましたが、その後仕事を頑張り、仕事に限っては夢を叶えたと思っています。ところが今年の5月頃、「自分は何をやっているんだ、生き方が間違っている」という気持ちとともに、自分が成し遂げてきたものに罅が入って崩れ落ちていくような感覚になりました。覆いかぶされていたものが剥がされ、20年前の彼への感情が蘇ったのです。背景としては、ちょっとしたきっかけで彼の近況を知った、ということが多分に影響していると思います。

これは、自己操縦心性の崩壊であったと思います。
こんなちっぽけなキャリアを積んでいる暇があったら、心理学を勉強している暇があったら、なぜダメ元でも彼という望みに最大限の努力をしなかったのだろうと大泣きしました。
自分はもう大丈夫、人生において最も大切なことがわかった、とその時思いました。
島野さんの心理学に出会う前のことです。

それでも数日、数か月してみると、望む対象がもう望めないものであること、取り返しのつかない悲しみに心が張り裂けそうになります。それと共に、問題のない子供に育ててくれなかった親への憎しみも出たり消えたりしています。頭では「自立」しか道がないことがわかっているので消えるのだと思います。”痛みをただ流す”といいますが、感情の基調はまだ低く、こんな空虚な人生なら死んでしまいたいと思う時があります。「死」は私にとって、ひっそりと消え入るようなイメージです。他人に見せつけたいとは思いません。死ぬなら会社を辞めて、できるだけ人と疎遠になった上で、迷惑が最小限で済むような形にしたいです。*「自死はいけない」ということについて、もう少し詳しく解説してもらえませんか?*
CENSORED”というより、”生きていても意味がない” という方が自分にはピッタリくるかもしれません。こんな思考しかできない自分だから、彼とも駄目だったと、自己処罰感情にループします。*この気持ちは「否定価値の放棄」「不完全性の受容」が本当の意味でなされた時に消えるのでしょうか?* 今だ、「望む資格思考」に苦しめられる感覚が残っているので、まだ完全にはこの2つは成されていないと思います。頭ではわかっています。好きな人と結ばれないことも、世界が不完全なるが故ということは。

長くなってしまい、すみません。
今の状況にたいして、アドバイス(特に*印で囲った部分)いただければと思います。


 
「失った愛への後悔への向き合い」など^^ / しまの 引用
No.611 2013/09/12(Thu) 11:08:00

一通りじっくり説明書いてみましたので、ご参考あれ^^。


「根源的自己否定感情」

>そこで「根源的自己否定感情」について質問させてください。*この感情がどれ位の強さで自分の中にあるかを、推し量る方法はあるのでしょうか?*  

「根源的自己否定感情」定義など、最新の言葉で書いてみますとこうなります^^。
「こんな自分にならねば」というストレスが、それを否定し去るために駆り立てられ、まさにそれによって自分で意識できなくなる、「ありのままの自分では駄目」という自己否定感情
だと。
まあさらに短く言えば、「支配され、意識できなくなる自己否定感情」ですね。

『理論編』など読んで頂いていると思いますが、そこでは幼少期からの心理メカニズムを説明しており、幼少期での否定感情体験というのは大抵、そのように自分で意識できないまま支配されてしまうという形になっていくという話ですね。
成人以降においては、自分ストレスに駆られている場合に、そのメカニズムが働いていることを感じ取ることは、ストレスを脱し、心の健康と成長に向かい得る方向へと自分を軌道修正するのに役立つ、という話になります。
具体的問題取り組む中で、また具体的問題内容に応じて、その自覚把握の良い形どんなものかという話が出てきます。ですので何もないところで計る、もしくは一律杓子定規な測定法というような話はちょっと無意味になってきます。

またその克服は、「これが悪い」と自分の中の感情、およびその原因となった可能性のある自他の言動などを責めることは、全く無意味であるのは言うまでもありません。根源的自己否定感情が働く心の動きになるまいという姿勢がまさに根源的自己否定感情の焼き直しになることにも注意すると良いでしょう。
克服は、「感情と行動の分離の姿勢と実践を携え、全てを尽くして望みに向かって生きる」という成長の歩みの中で自ずと生まれるものです。
より具体的には、その歩みの中で、
「学びの一覧表」
掲載した、「4 悪感情の克服」の中に、「根源的自己否定感情」も、複雑な深層において含まれるものということになります。具体的には「恐れ」「自己嫌悪」克服あたりが最もになります。
重要なのは根源的自己否定感情克服がどなるか以前に、そこで示した克服方向性自分がどう納得理解するか、から始める必要があります。

ですので、「根源的自己否定感情」について、自分の過去の心の経緯を理解することは、無意味ではないとしても克服につながるものではなく、あくまで今、そしてこれからの自分の生き方に取り組む中で、その克服を織り込むような取り組みテーマが何かを見出すのが重要になってきます。このアドバイスできるものに記述しましょう^^。

ということで、
>もし自分に「根源的自己否定感情」が無い、もしくは程度の軽いものであったら、中学時代に友達に言われた一言がトラウマとなるようなことは無かったのだろうか…*ということです。その一言が私の中で「望む資格思考」に発展してしまったようなかんじでした。
とうことで、「根源的自己否定感情がなかったら人の言葉がトラウマになることはなかった?」については、「まあそうかも知れない」ということになると思いますが、そもそも根源的自己否定感情自体が結構誰でも程度の差こそあれ持つものです。で、人に言われたちょっとした言葉トラウマになるなんてのは、子供なんて大体そんなものだ程度(大雑把^^;)のことでもあります。
むしろそうした心の動きをすぐ脱することが可能になるような思考「学童期」に築かれるかが、重要になってくる『理論編』で書いた通り。この点でも過去を問うのは意味のない話だということになってきます。

>*“何が悪かったと細かく見ようとしても、本質は見えない”、従って、親にクレームをつけるのは間違っているのですよね? 間違っているというより、そこからの成長はあり得ないから、といったところでしょうか?*
上述の通りということでよろしいかと^^。


「生きること」そのものへの肯定と否定

>*「自死はいけない」ということについて、もう少し詳しく解説してもらえませんか?*
その表現「道徳」であり、ハイブリッド心理学では使わない表現ですね。
これに関連する話ハイブリッド心理学で書いているのは、以下の一箇所だけだと僕自身では記憶しています。
『入門編上巻』P.56
==================================
 CENSORED願望のある人に、「生きていればいいこともありますよ」と言っても、決して理解してもらうことはできません。
 なぜなら彼彼女は現に今は、不幸な生を生きる心なのですから、それとは違う伸び伸びとした心の状態を幾ら説いても、「今の心」の中で考える彼彼女が新しい心を「理解する」ことはあり得ないのです。
 ・・(略)・・
 ですから、本当の心の成長を望む場合に、知って受け入れるべきことは、こうなれればいいという姿ではありません。
 全く未知の状態に自分が変化し得るという事実を、受け入れることです。
 あとは、心を解き放って、現実の中で生きるだけです。
==================================

まあとにかく、「生きるのが辛い」という問題であれば、「今の心」どうこう考えるより、違う心へと成長する取り組みするかどうか問題だという話ですね。外面状況にも問題があれば、同じ外面状況でどう考えるかに、変えることができるものは何か考えるという話。
まあ人間にはCENSOREDもアリな極限状況というのはあると思いますヨ^^; 戦争で野蛮な敵に捕まっておぞましい人体実験の材料にされる事態を前にした場合とか^^; ハイブリッド心理学はとりあえずそうした極限ではない生活範囲守備範囲にしております点ご了承下さい^^。


ハイブリッド心理学の取り組み手順概要

そうした違う心へと成長する取り組みする場合重要なのは、取り組み方法自体を「今の心」で解釈してしまわないことです。
ハイブリッド心理学の取り組みをするなら、ハイブリッド心理学取り組み実践として説明している手順を、納得の有無に関わらず、とにかくやってみないと、成果についてはもう何も言えないです。関心納得した部分だけ力を入れるというものではなく。
まあそれを今まで分かりやすく整理して説明できておらず(^^;)、今回の解説でまずはその全体詳細整理した次第。今後より完結明瞭手短「こうします」という説明を出していきたいと思っていますが、上述の、

「感情と行動の分離の姿勢と実践を携え、全てを尽くして望みに向かって生きる」
という成長の歩みを、以下のような手順実践するわけです。

【自分の心の外に視線を向けた向き合い】
(1)取り組みテーマについて心の健康と成長に向かい得る外面行動法の「学び」を得る
   ↓
表面の行動法だけでなく、それを支える内面姿勢も含む
(2)それについての自分の納得度に向き合う
   |
納得度が低い場合、自分がハイブリッド心理学と違う道を選んでいることを覚悟する
   ↓
次の(3)は納得度が高まるにつれて可能になる
【自分の心の内に視線を向けた向き合い】

(3)(1)に照らし合わせての自分の内面への向き合い

   ↓
心に変化が起きてくる

重要なのは、自分の内面に取り組むに、まず問題テーマについての行動法や生き方の「学び」を持つことです。
それがおろそかなまま心に取り組もうとする、「逆の取り組み姿勢」がありがち、というか大抵の人がまずこの誤りからスタ−トしますので、こうした基本姿勢見直し確認からすると良いでしょう。
参考:2011-12-07『成長の道標への歩み方-13・取り組み姿勢の正誤』

またそこで、「心の健康と成長に向かい得る行動法(およびそれを支える内面姿勢)」というものですが、ハイブリッド心理学多少学び初めた段階では、具体的問題になるとなかなか自分では考えられない、もしくは考えても誤ったものになりがちですので、適宜質問頂くか、今後整理する『事例集』など広い情報を得るなどして、正しいものを自分で把握できるようになるまでかなり長い学習が必要になると考えて頂くのが良いと思います。
これは
基本的な流れ
で説明した通り。


「失った愛への後悔」への向き合い

今回課題テーマは、「失った愛への後悔への向き合い」などど言えるかと。

まず「後悔」というもの全般について一般的指針として言えるのは、
1)失って後悔している「価値」とは何だったかの見極め
2)「失敗から学ぶ」という行動法の見直し

これを、本当満足が行くまで、徹底して行うしかないということです。場合によっては、一生続けるものとしてです。それが「全てを尽くして望みに向かう姿勢」なんですね。
この点、世に良くあるアドバイスが得てして「もう忘れましょう」というのとは正反対であるのがハイブリッド心理学の道です。
「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という前進力
で、「気にしなければいい」「典型的に誤った克服方向性の発想」指摘したのと同じ話

これは過去の恋愛での後悔同じ話で、「失敗から学ぶ」というのはまあ分かるであろう課題として、おそらく多くの人が取ろうとする対処姿勢なのは、「後悔の気持ち」そのものがうまく収まるようにという姿勢で、自分の心に向き合おうとすることです。
なんですね。むしろ逆に、思いっきり、収まりつかなくほど心を解き放つ感じで、上記1)の「価値は何だったか」への向き合いをするのが正解だということです。
つまり平たく雑な言い方をすれば、相手が本当に自分にとって価値ある相手だったとしたら、思いっきり、「こうなれていたら自分はこんな幸せに」というプラス面の妄想にふけり、逃がした魚が大きかったと(^^;)一生悔しがればいいんです。投げやりアドバイスではなく^^;
それが「全てを尽くして望みに向かう姿勢」であるわけです。

そこでより実践的には、相手が自分にとってどんな価値があったということなのかを、精緻に自己分析向き合いをすることです。
「実はそれは愛ではない」という部分があれば、それをしっかり見据えるのが重要。たとえば相手の財産とか^^;
「愛ではなく依存」部分も、しっかり見据えなければならない。自分から愛に向かうことができないほど、過去に成立した愛を失ったことに精神的バランスを崩すことになる、というのがまず言える心理法則です。
するとここで分岐路が現れます。取り組みテーマが、過去の愛の喪失というものから、今、自分から愛に向かうことができる人間へと成長するとはどういうことか、へ。
そこからは、日常生活と人生の全て取り組み材料になると言えますね。
そうして
「学び」の流れチャート図
のような流れ始まる、と理解頂くと良いかと。

ここまでに書いたような取り組みを、まずはざっと3年、と考えると良いと思います。解決克服までに、ではなく、心の成熟変化の入り口に立つまでにです。そこからさらに本格的変化という先に、規模の次元が違う変化への歩みがあるという按配。
あとはまあ相手にせよ自分にせよ、どんな運命の変化があるかは分からないというを持っておくことですね。再び相手に近づく行動を考えるのも良し。ただし「外面行動は建設的に」という指針の上でです。相手家族持ちであれば、相手にも分かるような行動は不可ということになるでしょう。


「否定価値の放棄」への歩み

あと残りのご質問ですが、

>“CENSORED”というより、”生きていても意味がない” という方が自分にはピッタリくるかもしれません。こんな思考しかできない自分だから、彼とも駄目だったと、自己処罰感情にループします。*この気持ちは「否定価値の放棄」「不完全性の受容」が本当の意味でなされた時に消えるのでしょうか?*
今だ、「望む資格思考」に苦しめられる感覚が残っているので、まだ完全にはこの2つは成されていないと思います。


「こんな思考しかできない自分だから、彼とも・・」といった思考「今の心」でのものとして、まず別の心へと成長変化する取り組み上記のようなものになりますので、まずそれに取り組むかどうかです。取り組み始めれば、それは上記のような取り組み視点へと変化し、もうその思考の形そのものは存続しないと思いますので。
「否定価値の放棄」は、ちょっと今回のテ−マだけでは問えず、テ−マそのものかなり距離があるという感じです。上記のチャート図に示すように、日常生活と人生への向かい方の全て取り組み直す中で、
ハイブリッド人生心理学の「未知への信仰」
で書いたような哲学宗教的テーマにも心底から興味を持って取り組むと、見えてくるかも知れないというものになります
「生きていても意味が」云々は、それよりずっと前の段階で、今回説明の取り組み開始が軌道に乗った段階で、問題そのものがどうあったか結構消えている、という形になると思いますので^^。


 
Re: 根源的自己否定感情、その他質問 / にーな 引用
No.621 2013/09/20(Fri) 16:25:13

島野さん、丁寧な回答をいただきありがとうございます。
ひきつづき、いくつか質問があります(**印)。長いですm(_ _)m。

>根源的自己否定感情が働く心の動きになるまいという姿勢がまさに根源的自己否定感情 の焼き直しになる
*これは、あるべき理想を抱いて圧力を掛ける(例えば、暗い自分ではダメだからと無理に明るく振る舞うなど)ことが、さらなる恐怖の蓄積を生み出し、本当の自分(ありのままの感情)は置き去りにされることで、つまり見放された感覚はちっとも無くならない、というような状況を言っているという理解でよろしいでしょうか?*
*「恐れ」「自己嫌悪」の克服あたりが最も軸になる” とのことですが、具体的な克服法としては、恐怖、自己嫌悪を感じる時がまさにチャンスとなるでしょうか?* *恐怖、自己嫌悪を感じる場面に直面した時、「学びの一覧表 – 内面向けテーマ- 悪感情の克服」の項目に真摯に向き合い納得理解し、建設的な行動を取る → その結果、心に変化が起き「根源的自己否定感情」に駆り立てられていた ”こうあらねば” という感情が無くなる(または、弱まる)ことが直接感じ取れる感情としては実感できる、というような流れになるでしょうか?*

>根源的自己否定感情自体が結構誰でも程度の差こそあれ持つものです。で、人に言われた>ちょっとした言葉がトラウマになるなんてのは、子供なんて大体そんなものだ程度
島野さんにこう言われて、親の間違いを探し、指摘し、責める姿勢の勢いが弱まった気がします。母がよく言う「そんな完璧な親はいない」という言葉も受け入れる余裕ができました。本当は自分も辛かったんです。子育てに問題が無かったとは言えないけれど、娘の幸せを思う気持ちには嘘は無いというのがわかるからです。ただ子供を幸せに導く術を知らなかっただけだと…残念ながらいまだにですが、それを突き詰めると怒りがぶり返し、メビウスの輪のように止まるところを知りません。 私が思うように私の心を理解してもらうことをどんなに求めても満たされることはないし、その必要もない、それが分かったから、私は心の自立に向かおうと思います。怒りの感情を無きものにしようとするのではなく、ありのままに感じ取り、行動はあくまでも建設的にですね。

>そうした心の動きをすぐ脱することが可能になるような思考が「学童期」に築かれるかが、重要になってくると
残念ながら「学童期」に築かれてなかったのだと思います。残念です、こんなに長引いてしまったなんて。正直、人生を失ったと思いました。でも、島野さんの心理学に救われました。そして、脱せなかったことを嘆き続けるのではなく、今脱することが大切なんだとやっと思えるようになりました。


「自死はいけない」というのは確かに、考えてみれば「道徳」でした^^; 。島野さんは、執筆のどこかで「実存を守れ」という言い方をされています。実存を守れ = 自死否定 と私が捉えてしまったと思います。*ちなみに、「実存を守れ」というのはどういう意味で使われたのでしょうか?* Wikiによると、「実存」というのは「本質存在」ということですから、言葉通り、自分の本質、もしくは主体といったことでしょうか? その場合、島野さんが例をあげた極限状態では、己の実存を守るためにCENSOREDもありなのかな、と思いました。


取り組み手順については、ブログに目を通させていただき、”内面姿勢” に取り組みながらも、基軸はあくまで ”外面行動” という理解をしました。 まだ学びの初期段階ですので、行動法や生き方の学びについては具体的な材料が出てきた段階で、事例集などサイトの中から探す、もしくはこのページで島野さんへ質問をさせていただくことで、確認を行いたいと思います。あまりハイブリッド心理学の理論に則っているかどうかに神経質になると、枠はめ法に陥る罠もあるかと思いますので、その辺りは自分の直感も信じて、楽しく学んで行くつもりです。


「失った愛への後悔」への向き合いの1) 2)について、自分でもここ数カ月考えていました。

>1)失って後悔している「価値」とは何だったかの見極め
1. 外見とか 2. 純粋さ 3. 一緒に過ごす時間、楽しみ  (4. 人生: 一緒に生きること)
島野さんが ”愛ではないもの” の例であげた ”財産” はまず無いな、と思いました。ただ、容姿はかなり好みだったこともあって惹かれた理由のひとつになります。それと、安定した職業や学歴なども多少なりともあったかなとは思います。しかし、何よりも、ふざけ合っていた交流の中で時折見せる “純粋さ” “優しさ” “繊細さ” が好きでした。そして、失って後悔している最大の価値とは、島野さんが愛の定義としてあげている、「喜びと楽しみの共有」であったと思います。私の出方ひとつで、もっともっとそういう時間を共有することができたのに、という後悔です。4に人生としましたが、これは3の延長線上に来ると思うので、失った価値としてはかなり不確定と感じ()閉じとしました。依存したい気持ちがあったかどうかわかりませんが、あの精神状態の自分が実際に彼と付き合い続けた場合、間違いなく依存の関係になったであろうと思います。
従いまして、好きな気持ちが止まらない反面、*あんな精神状態の自分とは付き合わなかった方が彼にとっては正解だった、という気持ちもあります。でも、これは「後悔の気持ち」が収まるようにという姿勢になるのでしょうかね?*

>2)「失敗から学ぶ」という行動法の見直し
心については、怒りや劣等感が入り乱れたグチャグチャ状態だったと思います。人に相談したり少しは向き合おうという気配は見せましたが、若かったこともあり、ストレスを溜めなくていい他の道へと方向転換をしました。具体的には仕事や、もっと楽な異性との付き合いでした。望みを見失ったまま、完全に穴埋めの行動に走っていたと思います。仕事については、それなりに成果を出せたこともあり達成感も得ました。異性については、心はむしろ病んでいったと思います。この経験が、結果を問わず好きな相手に向かうことがどんなに大切なことかを逆に教えてくれました。姉に言われた「にーなは幸せをつかもうとしていない」という言葉が、自分が全く行動を起こしていないことを自覚するきっかけともなりました。

上記が現在思う限りですが、これを徹底的に行うということですね。引き続きやってみようと思います。


>思いっきり、「こうなれていたら自分はこんな幸せに」というプラス面の妄想にふけり、逃がした魚が大きかったと(^^;)一生悔しがればいい
これもわかりますし、実際この2〜3か月程妄想にふけってみました。付き合っている状態が夢に出てきたこともあります。心が満たされる効果はあると思いました。
*ひとつ心配なのが、これを長い期間続けることによって、心が固定されストーカー化したりはしないのでしょうか?*
また、余談ですが、この過去の恋愛に向き合ったことが、自然と初恋の感情を呼び起こすこととなりました。20代前半の恋愛は人生において最も大切なものと思えるのですが、そこには初恋の感情の焼き直しがあったと思いました。初恋の時は相手から好意を示されたにもかかわらず、それに答えることができませんでした。相手は単に振られたと思ったかもしれません。私にしてみれば、相手が素敵すぎて自分には資格がないと思い動けなかったんです。偶然にも島野さんと同じ小6の頃の体験で、その後は視線恐怖ならぬ赤面恐怖に怯える中学時代となりました。心を解き放って付き合っていたら…違う青春があったのか…。 実際には親や友達いろんな人が関わってくるので、あのような弱い心ではその後に襲ってくる試練を乗り越えられたか自信がありませんが^^;、ひとつ望みを乗り越えて強い精神になれたと仮定し(というか今の精神状態を借りてきて)プラス面の妄想にふけってみました。少女マンガの世界を超えるような満足感がありました。私はいつも少女漫画を読むと、自分がキラキラした世界から取り残されたような悲しさを感じていました。でもそれがもうありません。*自分がそういった青春を過去に持っていて、懐かしむような愛しい気持ちです。体験していなくても体験したような感覚です。これが実体験を凌駕するような、ということでしょうか?*
私は実は初恋の失敗以来、あの時感じた「透明な感情」、初恋の少年と見つめ合った時に感じた「世界が止まったような、突き抜けるような何か」に触れることができなくなった…という喪失感をずっと抱えていました。おそらく、あれは魂からの感情だったんだと思います。普段は日常生活に追われて忘れていましたが、好きな異性の目をバリア無しでは見詰められなくなってしまったような、分断されたような感覚が続いていました。妄想にふけることで、あの透明な感情が自分に戻ってきたと感じました。「今、愛へ向かうことができる人間へと成長できているかどうか」は実際に対象が現れなければわかりませんが…恐怖はまだあると思います。

>相手にせよ自分にせよ、どんな運命の変化があるかは分からないという目を持っておく ことですね。再び相手に近づく行動を考えるのも良し。ただし「外面行動は建設的に」 という指針の上でです。相手が家族持ちであれば、相手にも分かるような行動は不可
*これは、多面を同時に見るということでしょうか?
相手にも分かるような行動は不可とうのは、会うための連絡を取ること自体が不可ということでしょうか? 私は自分に友達以上の好意がある以上、会うことはもう無いと思いますが、相手に近づく行動というのは具体的にはどういったものになるでしょうか?*


 
「最も大切な愛」という頂きへの裾野からの歩み^^ / しまの 引用
No.630 2013/09/27(Fri) 20:52:16

少々時間を食いましたが、またじっくり^^(事例集にも乗せられるよう^^)


「根源的自己否定感情が働く心の動きになるまいという姿勢がまさに根源的自己否定感情の焼き直し」

>*これは、あるべき理想を抱いて圧力を掛ける(例えば、暗い自分ではダメだからと無理に明るく振る舞うなど)ことが、さらなる恐怖の蓄積を生み出し、本当の自分(ありのままの感情)は置き去りにされることで、つまり見放された感覚はちっとも無くならない、というような状況を言っているという理解でよろしいでしょうか?*

いえ・・それは「焼き直し」の話ではなく、根源的自己否定感情働く様子そのまんまですね^^。
「焼き直し」になってしまうとは、そうした根源的自己否定感情悪影響理解するのは最初の学びとして、そこから始まる心の成長への取り組み実践においては、根源的自己否定感情についてはあまり取り上げることはできないものになります。意識できないものですので。
取り組み実践は、根源的自己否定感情を克服しようという意識ではなく、あくまで「望み」に向き合い「望み」に向かうという意識の上に前進するものになります。
そうした状況で、根源的自己否定感情について理解した後に、それがなくなる自分を理想像にしたり、その克服をしようとことさら考えることが、まさに根源的自己否定感情が再び働いている焼き直しになるということです。

で、それではいけません・・ではなく、それもある程度仕方ないこととして、取り組み実践は、それとは別のものとして、「望み」に向き合い向かうことを軸としたものとして進める必要があるということになります。
その話のような例で言えば、自己否定感情の上に「無視に明るく」しても「見放され感」がなくならないというのを、今までの自分の心への理解として、次に向かうべきことは、そうして「無視に明るく」しようとした状況で自分が何を望んだのかを、そしてこれから何を望むのかへの、向き合いから始めるということです。その先に、無理にではなく明るく振舞えることを模索するのが、あるいは自分をいったんそうした場から離すことが、今できる最善の行動になるかも知れない。
それが、「望み」に向き合うと共に、心の健康と成長に向かい得る行動法の選択肢を学び、自らの幸福に向かうための選択を模索するという、この心理学取り組み実践になるわけです。


根源的自己否定感情はどのように克服されるか

>*「恐れ」「自己嫌悪」の克服あたりが最も軸になる” とのことですが、具体的な克服法としては、恐怖、自己嫌悪を感じる時がまさにチャンスとなるでしょうか?* *恐怖、自己嫌悪を感じる場面に直面した時、「学びの一覧表 - 内面向けテーマ- 悪感情の克服」の項目に真摯に向き合い納得理解し、建設的な行動を取る
→ その結果、心に変化が起き「根源的自己否定感情」に駆り立てられていた
”こうあらねば” という感情が無くなる(または、弱まる)ことが直接感じ取れる感情としては実感できる、というような流れになるでしょうか?*


全ての悪感情が、「学び」チャンスです^^。
その中で、根源的自己否定感情に駆り立てられた「こうあらねば」ストレス消える流れを考えるならば、
1)硬直した善悪思考による「こうあらねば」を、「目的思考」による合理的な「これこれのためにはこうできれば」という思考置き換える。これは行動以前のもの。
2)自分の「望み」に沿う合理的な「こうできなければ」という目標について、合理的な知恵とノウハウ学び実践し、実際にできるようになる。
3)合理的な「こうできなければ」という目標について、そうあれない自己の内面に向き合い、「心の死と再生」を経る。
という大きく3つの通り道があると理解しておいて頂くと良いと思います。
これは、
「学び」とのギャップを生きる
心が進む道
などで、そうした3つの通り道があることを言っている通りです。

ですので、「建設的な行動を取る →”こうあらねば” という感情が無くなる(または、弱まる)」という流れは、厳密にはないように僕としては感じています。行動以前に、不合理だったものとして捨て去られるか、行動して「実際そうなれた」ので、「ならねば」とはもうあまり感じなくなる(これは当然^^)
3つめの通り道について留意しておきたいのは、「こうならねば」というストレスのが「望み」にも沿うものとして、むしろ膨張し、呑み込まれてしまうという流れになることです。取り組み実践の中で、そうなる流れがあります。そこで場合により希死念慮も起きる可能性もある。この場合は、それをただ流す先に「心の再生」があることを心得ておくことが大切です。

いずれにせよ、「こうあらねば」ストレス「望み」具体的内容によって、ハイブリッド心理学からの「心の健康と成長に向かい得る行動法とそれを支える内面姿勢」の具体的内容が出てきます。まずそれを学んで頂くのが道順になります。この具体的内容抜きに、あまり克服への流れを考えても取り組みはあまり前進しません。
ま例によりその具体的内容の情報提供整備がこれからなんですけどね^^; というか今からここで書きますのでという話^^。

根源的自己否定感情克服そのものを言うならば、そうした取り組みによる前進全てが、徐々に貢献します。
そしてさらに、そうした地道な成長の積み重ね足場に、「自分が神になる衝動」という哲学宗教的テーマにも向き合うことで「否定価値の放棄」を成すと、根源的自己否定感情克服としても大きな節目になります。そしてそれでも残る根源的自己否定感情克服の、最後の大きな節目「命の開放」として述べているものになるというのが、ハイブリッド心理学の登山ルートだという次第です。


「実存を守れ」

>島野さんは、執筆のどこかで「実存を守れ」という言い方をされています。実存を守れ= 自死否定 と私が捉えてしまったと思います。*ちなみに、「実存を守れ」というのはどういう意味で使われたのでしょうか?*

『実践編上巻』 3章 自己の受容・未知への選択
『理論編下巻』 4章 「未知」への大きな前進−1
ですね。
「自己操縦心性の崩壊」に際しての心得として、その言葉を使ったものです。CENSOREDの否定といった一般的な話ではなく、取り組み実践かなり限定された場面の話になります。

「自己操縦心性の崩壊」とは、根源的自己否定感情原動力として、「もしこうなれれば」という空想の衝動によって意識・・というか精神の全体が支えられていた状態が、「空想通りではない現実の知覚」あるいは「空想に生きている自分の誤りの知覚」によって崩壊すると言えるような現象です。その時、こうした意識状態つまり自己操縦心性裏返しと言える、今まで隠されていた「自分は駄目だ」という感情表面化希死念慮が起きることがあります。これは上述3つ目の通り道、つまり「望み」にも沿う「こうならねば」膨張する流れとして起きる可能性もあります。
その時本人には、自分の心に何が起きているか良く分からない、つまり実際は今まさに心の健康化が起きる瞬間ではあっても「意識」はただ「今駄目になった」としか感じない形で起きますので、そのように自分の心に起きていることと、自分の体という「実存」をもう別のものとして見て、体の方は守ることをしなさいという話をしているということです。

さらに言えば、「実存を守れ」とは、死んでいい、CENSOREDばいい、ということでもあるんですね。「今の心」においては。すると新しい心が再生されます。
「実存を守れ」とは、そうした心の仕組みにおいて、自分の「心」は死ぬとして、「体」と、「心」のさらに根底にあって心を再生させる何かという全体は守れ、ということでもあるわけです。
実はこれこそ飛躍的に変化させる、最大の原動力だと僕は感じています。
視野その2・「成長の望み」

================
それを意識してからは、変化のスピードが加速度的にアップしました。自分からそのような心の中の行き止まりに積極的に意識を向け、自分で「意識がうまくCENSOREDる」ようになってきたからです。
================

と書いたものや、
2010-04-12『「絶望」の名手になれ』
で書いているものも、この心の仕組み自分から積極的に突入するような姿勢のことを書いている次第。

いずれにせよ、まずはそんなこともある心の片隅に置いといて、取り組み実践の本道はあくまで、まず「望み」への向き合い具体的な学びからです^^。


「現実において愛を育てる」ことへの学び

>>1)失って後悔している「価値」とは何だったかの見極め
>1. 外見とか 2. 純粋さ 3. 一緒に過ごす時間、楽しみ  (4. 人生: 一緒に生きること)・・(略)・・しかし、何よりも、ふざけ合っていた交流の中で時折見せる“純粋さ” “優しさ” “繊細さ” が好きでした。そして、失って後悔している最大の価値とは、島野さんが愛の定義としてあげている、「喜びと楽しみの共有」であったと思います。私の出方ひとつで、もっともっとそういう時間を共有することができたのに、という後悔です。・・(略)・・従いまして、好きな気持ちが止まらない反面、*あんな精神状態の自分とは付き合わなかった方が彼にとっては正解だった、という気持ちもあります。でも、これは「後悔の気持ち」が収まるようにという姿勢になるのでしょうかね?*
>>2)「失敗から学ぶ」という行動法の見直し
>この経験が、結果を問わず好きな相手に向かうことがどんなに大切なことかを逆に教えてくれました。姉に言われた「にーなは幸せをつかもうとしていない」という言葉が、自分が全く行動を起こしていないことを自覚するきっかけともなりました。
>上記が現在思う限りですが、これを徹底的に行うということですね。引き続きやってみようと思います。

ということでこれが本題になると思いますが、それらがまずは「今までの心」だとして、それとは違う、心の健康と成長に向かい得る行動法と姿勢は何かの学びから始めるということです。
ここで書いて頂いたものは、その学びをまだしていない段階で、「今までの心」のまま、「失った価値への向き合い」「失敗からの学び」を試みているもののように多少感じられます。ですから後悔を収めようとする姿勢になるかどうかも、それを徹底的に行うも、まずは学びを得てからの話になると思います。

ここで学びになるものとは何かとは、ずばり、「現実において愛を育てる」ということはどういうことか、になると思います。
それで言いますと、これは多少僕の個人的意見も入ってきますが、そこでその男性に価値を感じた感情と、それを元にしてもし自分がこんな出方をしていたら・・といった思考全体が、「魂の世界」において何かの琴線に触れるものとしてあり得たとしても、「現実の世界」において愛を育てるものには、あまりなり得ないように感じます。
自分が相手をどう好きかという互いの感情の交流だけでは、現実の愛はあまり育てられない。

「現実生活」というものがあります。それをしっかり成り立たせるものとしての愛を、模索しなければならない。どんな結婚生活子育て、そして老後を送りたいか。そうした「現実生活」ベースの「共有」をしっかりと支えにした「愛」が、「現実の世界」において育つ「愛」です。それがしっかりと見出せないならば、互いが好きという気持ちの交流だけあったとしても、むしろ別れていることを選ぶというのが、現実の賢明な選択になり得ます。
またそうした気持ち(フィーリング)ベースだけで向かう姿勢の時に、互いが好きと思ったのが実はそうではないという状況が、しばしば「恋愛詐欺」の形で起きる背景になるという知識へのも持つといった、視野の広さが大切です。
こうした指摘不愉快に感じるならご容赦ですが、ふざけ合っていた時の気持ちの交流惜しむというのは、とびきり気に入ったペットを買い損なったという後悔と、範疇が一緒なんですね。ペットへの愛も時に命の重みを持つとしてです。しかしそれは互いが別の人格であることを認められる上に培い育てる、成長する人間同士の愛とは違うものです。この姿勢からの後悔があるとすれば、相手の魅力がどうだったかというより、相手がいかに自分を大切に思い自分と共に生きようと思っていたかの相手の「意志」を、感じ取ることができなかったことへの後悔といった話になるかも知れない。

そうした「現実生活を共有するものとしての愛」という視線を持たない恋愛が、ティーン少女マンガの世界であり、そうした世界の中だけで考えていないか、という問いになります。
もちろんそうした世界の中にある、互いが好きな気持ちだけで結ばれることの、あまりの輝きを否定するものではなく、逆にその輝きを純粋に心の中で、「魂の世界」のものとして守るためにも、「現実の世界」において道を踏み外すことなく絆を育てることへの洞察が、重要になってくるわけです。自分がやがて老い、そして死をどのように迎えるのかという大きな視野の下にです。

あるいは、そこにはそうした「相手の魅力への愛」「現実生活を共有する愛」というベクトルにも収まらない「愛」があったかも知れない。それは「魂の世界」の愛だと言えます。自分の中で失われた「命」を取り戻すために、その相手が、自分の人生に遣わされたとも言えるようなものとして・・。そうであるならば、それは間違いなく、一生向き合い続けるべきものです。でなきゃー嘘です。


「2の心の世界」の歩みへと向かう

そうした、まずは「現実の愛」についての学び主軸を置いた向き合いによって、

受けとめられる側の心
   ↑
   ↓
受けとめる側の心


という2つの心の世界自分自身の中に持つのが、ハイブリッド心理学歩みの道のりです。
2つの心の世界を持つ
として説明したように。
そうして2つの心の世界を持つことで、互いの心の世界に、神秘なる変化始まるわけです。「命」の力によって。決して一頭立ての心のままでは起きないような、神秘的な変化がです。

で、「受けとめる側の心」培い築くのに、時間がかかるわけです。前回「まずはざっと2、3年」と言ったのはそれです。決して、今の心でそのまま2年3年向き合えば変われるという話ではなく。
今までとは全く違う、「愛」への向かい方、行動法と姿勢、それをまあ具体的に言えば「婚活」自分としてどう位置づけるかとか、そこで男性を見る目再構築といった具体的テーマに取り組む中で、自分の中に変化が生まれてくるのと平行して、上述のような向き合い過去の「愛」への感じ方についても、次第に心を変化させる意味を帯びるようになっていきます。

それがどのように変化させるようになるかと言うと、「受けとめられる側の心」が、より純粋化するとお伝えしておけます。
そこで見えてくるであろうものを言うならば、たとえば「自分では彼に見合わない」「資格がない」といった気後れに、恐らくは「存在の身分としての恋愛」という大いなる「愛の汚染」『入門編下巻』P.266)が起きていたのが、間違いない事実であろうと。これはもう親による子供の育て方うんぬんなど関わりなく我々が陥るなんですね。その点、

>ただ子供を幸せに導く術を知らなかっただけだと…残念ながらいまだにですが、それを突き詰めると怒りがぶり返し、メビウスの輪のように止まるところを知りません。
といったものは、自分を妨げたもの本当に何だったのかがまだ分かっていないからこその、ちょっと的外れの怒りだったりするように多々見える次第。
最大の妨げは、間違いなく「存在の身分としての恋愛」といった心の動きにあったと思います。それを浄化することで、「互いが好きな気持ちだけで結ばれる輝き」といったものも、純粋なものとしてさらに鮮明に心に蘇るという流れになるでしょう。我々の不完全な「現実の世界」ではあまり求められるものではなく、「魂の世界」のものとしてです。

いずれせに数年先の話として、そうした向き合いが進んだ時、内面感情現実の行動も、もう今からは予測もつかな別世界のものになります。


「愛」の裏にある「強さ」「自尊心」の価値観に取り組む

また取り組みテーマになるものとして極めて重要で必須になるものの話を加えておけば、「愛」への姿勢および感情にある、「強さ」「自尊心」への姿勢や価値観です。
これについて具体的な視点を説明し始めると話が長くなり過ぎますので割愛しますが、まずとっかかりのポイントを言っておきますと、「命」にしっかりと根ざす「強さ」「自尊心」を得た時、「愛」が得られないことで「生きていても仕方ない」とはそう簡単にはならないんですね。仕事得たもの無意味のように感じてしまうことにに、人間としての真の強さや自尊心といったことに実は心が向いておらず、心底は心の芯を失ったまま「愛が全て」「愛があれば全てが解決(という幻想)」というあり方になっていたのかも知れない。
真の強さや自尊心といったテーマに、それを単独純粋に取り上げ自分がいったい「本心」でどんな考えを持っているのかから、取り組む。真の強さや自尊心を経てこそ、「愛」あり方根本的に変化します。「愛」だけに向き合っても起きない変化としてです。
これが上記「受けとめる側の心」築くための、主軸になると言えるものです。


「魂の世界」による「現実の世界」の凌駕とは

以上が取り組み方本題として、あとは周辺的な話になると思いますのでなるべく手短にコメントしておきますと、

>実際この2〜3か月程妄想にふけってみました。付き合っている状態が夢に出てきたこともあります。心が満たされる効果はあると思いました。*ひとつ心配なのが、これを長い期間続けることによって、心が固定されストーカー化したりはしないのでしょうか?*

人を終生愛し続けることがストーカーであることなど断じてありませんストーカーあるなしは、まずは相手に不快や恐怖を与える「つきまとい」行動の有無で分かれます。また内面的には、ストーカーつながるのは「所有欲」であって「愛」ではありません。まあ心が若く未熟であるほど、「所有欲」「魂の愛」重なってしまうので、まさに向き合いと踏ん張りどころです。

>また、余談ですが、この過去の恋愛に向き合ったことが、自然と初恋の感情を呼び起こすこととなりました。
>私はいつも少女漫画を読むと、自分がキラキラした世界から取り残されたような悲しさを感じていました。でもそれがもうありません。*自分がそういった青春を過去に持っていて、懐かしむような愛しい気持ちです。体験していなくても体験したような感覚です。これが実体験を凌駕するような、ということでしょうか?*

「収めようとする」ではなく「とことん開放する」へと軌道修正したことの、まずは効果だと思います^^。
「魂の世界」による「現実の世界」の凌駕と言っているのは、
1)叶えられなかった悲しみ受けとめ尽くす先に、むしろ叶えられていたかのような心の豊かさの感覚が生まれる
2)「現実の世界」ではあり得ない輝き帯びた感情として、「魂の世界」における「望み」の感情(「魂の愛への望みの感情」)体験される
という主に2パターンになると今考えています。
書いて頂いたものは、まずは1)該当するかと。
2)該当するものは、上述の「2つの心の世界」の歩みに向かう中で、「受けとめられる側の心」次第に浄化される中で、やがて体験されるかも知れない、と心の懐にいれておいて、自分自身の感情へのアンテナ研ぎ澄ませていくと良いと思います。

一言でいえば、「愛」「現実世界」において基本的に極めて不完全です。「現実世界」ではもう一つ「自由」という重要な心の課題があり、「愛」がそれを妨げる、つまり「愛」とは基本的に「不自由」である。これが「現実の世界」です。
ですので、「現実の愛」模索して見出し獲得していくものと、それと切り離された「魂の世界」見出し獲得していくものが、次第に互いを妨げることなく2つの峰のように育つことになります。そして最終的には「魂の世界」の方がより強く大きなものとして、「現実の世界」支えるようになるというです。ただし我々の「心」あくまで「現実の世界」に立脚したものとして前進しなければならない。これが最後まで難しいところです^^。


人との運命は最後まで分からない

>>相手にせよ自分にせよ、どんな運命の変化があるかは分からないという目を持っておくことですね。再び相手に近づく行動を考えるのも良し。ただし「外面行動は建設的に」という指針の上でです。相手が家族持ちであれば、相手にも分かるような行動は不可
>*これは、多面を同時に見るということでしょうか? 相手にも分かるような行動は不可とうのは、会うための連絡を取ること自体が不可ということでしょうか? 私は自分に友達以上の好意がある以上、会うことはもう無いと思いますが、相手に近づく行動というのは具体的にはどういったものになるでしょうか?*

「多面を同時に見る」は、とりあえず
島野が通った主な転換の流れ
バーンズの言葉流用して述べた「真の自尊心」への姿勢
そして生きることそのものを「現実の世界」「魂の世界」として見ること、そして2つの心の世界持つことなどに関連します。特定相手への行動法にはちょっと出てこない話かと・・。

まずそこで言ったのはごく一般論なので、相手に近づく行動というのが具体的にどんなものになるのかの具体的アドバイスは、さらに詳しい情報がないとできません。
まず一般論として言えるのは、相手の今がどうなっているのかの情報へのアンテナを持つことからになるでしょうね。
運命は分からないというのは、例えば互い別の相手と結婚しても、互い相手と死別したあと再会してまた一緒になるといったストーリーも世にはあるというような話です。今分からないそうした未来を、今切り捨てることはない。
相手に実際に会いたいなら、控えめに偶然を装って出会える状況を目論むことは、まあ許されるでしょう。
そうした全てが難しい場合でも、本当に魂から相手を愛するのであれば、自分の心の中だけにおいても、その人と生涯生きることを決意することです。このレベル道を誤ることこそが、生きる意味を見失う最大の原因です。現実世界では他の男性と結婚した上でも、それはアリだと思いますヨ^^。
生きるとは、結局、自ら愛に向かうことです。自分からそれを捨ててしまうことは、まさに生きることそのものを、「命」を、自分の中で失うことなわけです。


ということで、このご相談「人生で最も愛する相手に向かう」という、心の成長歩みにおいても山の頂き該当するテーマを扱ったものになっています。それでも頂きには裾野が広がっており、山の頂きかいま見えたとしても、歩みの道のり広い裾野からのものを一通り通らねばなりません。
そのポイント一通り説明したものということで^^。

追加質問などもあるかと思いますがかなり長くなりましたので、何かあれば新規トピックを立ててお寄せ頂ければ^^。



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