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記事No.712に関するスレッドです


「怒り」から離反傾向への課題変更 / 引用
No.701 2013/11/22(Fri) 17:38:24

こんにちは、お久しぶりです。
あれ以来、一部の場面を除き、怒りの頻度や強度はかなり減ったように思えます。
基本的に内面の問題に関して、ひとつの怒りの課題が片付いたら別の怒りが生えてくる感じでしたが、最近は怒りの根っこにあるものが視野に入ってきた感じです。
やはり根本的に、離反型の人格から派生した怒りはかなり根強い感じがしています。
「自由」と「安全」への望みが非常に強く、そのために愛や豊かな生活を放り投げる思考パターンが自分の中に存在しているようです。

人生全体から考えた時、先々の仕事に関しては特に問題ない思考は出来ていると思います。
「より得意な分野に鞍替えした方が有利である」という至極当然の結論に辿り着いたため、それについては問題ないですが、残念なことに住んでる地域ではそういう求人が今のところ見当たらないため、情報集めに徹しています。
ただ、「人生のパートナー」という課題に関しては、「自由」と「安全」への望みが強いためか、異性への恋愛感情すら芽生えない状況。極論すると「現実の異性なんて信用できるか!」というところでしょうか^^;
そういう望みが強いのも、人間関係であんまりロクな目に遭ってないため、既に人間不信に陥っていることが原因なところまでは自覚しています。

考えてみると、生まれ育ちの環境の悪さもですが、ある程度育った後にも原因はありそうです。
趣味に関して、特に学生時代は、「自分の都合、自分の勝手に進めることができるのがまずは基本。」というのとは真逆の環境に居たのを思い出しました。
周囲の「こうあらねば」に振り回され、心身ともに消耗し、肝心の勉強が疎かになってしまうという状態もあったように思えます。
しかも、それに対して自分自身も何の疑いも持たない状態。
自分を含め、一緒に行動している人同士が互いに運動部の顧問のような目を向けている状態だったのを思い出すと、今でも気持ち悪さを感じます。
社会人になってからも、プライベートで人と接するときにそういう環境が多く、かなりゲンナリしました。
それに完全に懲りて、いつの頃からか仕事以外の人間関係から随分と撤退してしまい、傍観者の立場を決め込んでいます。職場での雑談などは普通に出来ているのですが。

先日のイベントで行動を起こした時もそうですが、最近のマイブームでもあるカラオケも、だいたい単独行動。
最近は一人カラオケ対応のお店も結構出てきて、便利な世の中になったなあと感じています。
自由と平穏だけで人生を終えるならそれでも良いのかもしれませんが、全体的に調和がとれた状態を目指すのであればやはりいろいろ不足していることにはなる。
だとすれば、離反型の傾向も、取り組んだ方がいい課題ではあるんだろうなあと思います。
目の前の出来事においての課題としても、幾つか挙がってきたようです。

「いつもギリギリに出勤してしまう。余裕をもって出勤しようとしても内面で強烈に拒絶してしまう」
ギリギリの出勤でも間に合えば問題ないんでしょうけど、アクシデントが起きてしまえば遅刻してしまうでしょうし、出来れば改善したい点ではあります。
似たようなことで、同僚から「減量したいなら徒歩で通勤してみては?」と提案されたのですが、「こんなトラブルまみれの職場のために、何時間も移動時間を割くのは嫌だなあ…」という感覚が湧いて、適当にやり過ごすだけにとどめた、ということもありました。どうやら、登校拒否の中高生のような心境に陥ってる模様です。

あとは、人を頼るのが苦手な傾向に気付きました。
トラブルが起きても、上司に相談したりお任せしたりすることで最悪減給や解雇もあるかもしれない、と猜疑心が湧くことが多く、対処して報告した後に店長から「その場で連絡入れてくれればよかったのに」と言われる場面もありました。
それ以外でも、作業の幾つかについて、他のスタッフにやらせるより自分でやった方が早いと考え、ついつい自分だけで済ませてしまうこともかなりあったのを思い出します。

以前ご相談した「組織でうまくやっていけない」というのも、「窮地になっても誰も信用できず、頼るに値せず、強烈なストレスを感じる」という感覚が多少あったのかなあ、と思います。
過去の職場でも、他の部署から急ぎの作業をいくつも振られた時、のんびりやってる他の先輩たちを尻目に一人で焦って錯乱する場面を何度も経験したのを記憶しています。急ぎの作業が増えたのでお願いしますと頼んでも、じゃあやっといて、の一言で済ませられてしまうこともしばしば。
「なぜ自分だけ追いつめられてるんだろう」と精神的に疲弊し、仮病を使って数日欠勤したこともありました^^;
今考えてみると、人間不信がいろんな場面に悪影響を及ぼしてきたなあと。

 ちなみに、ハイブリッド心理学の内容を拝見する中で、過去の原稿が参考になることが結構あるのですが、離反型の態度に関する表記で、「これ、丸っきり俺じゃないか^^;」と思った部分がありました。

>不完全な迎合追従で生み出される離反退却の中で、比較的感情の豊かさが保たれている場合、彼彼女は現実世界に対して概して幻滅感を抱き、夢や空想、マンガや文学の世界を自分が
>感情的に生きる世界と考えたりします。
>このように軽度な迎合従順と離反退却がバランスを保つようにしてできた人格といのは、従順迎合が近代のマジョリティであるのに対して、現代のマジョリティとまさに言えるものでしょう。

 自分がオタクになったキッカケは中学校に入ってからだったと記憶してますが、家でも学校でも、家庭内不和やイジメに巻き込まれて人間関係が面倒くさくなり、その頃に読み漁ったライトノベルなどの世界に完全に没頭していたのを今でも明確に覚えてます。また、人間関係の面倒くささは小学校に入ったあたりでも漠然と感じており、登校中などに「死ぬまでこんな面倒臭い人生がずっと続くのかなあ…」などと、小学生らしくないことを考え、ゲンナリしていたことも結構多かったように記憶してます。一方で、学校で習った道徳教育を、国語算数などの科目と同じように完全に鵜呑みにしてしまい、表面的にはその通りに振る舞うよう気を付けていましたが(今になって考えると、道徳が小学校の科目の一つとして存在していたことにより、「正しいこと」だと勘違いしやすかったのかもしれないと思います。勉強に真剣に取り組もうとしてる子供にとっては、その辺は避けがたい罠なのかもしれないなあ、と)。
考えてみると、怒りに覆われてる時も、「こんな世の中生きてても何も面白くないし、親の弔いが終わったら俺の役目は何もなくなるから死んでもいいや」という自暴自棄な思考を日常的に持っていたのを記憶しています^^;

 離反退却の態度が課題になる場合、特に気を付けることなどをご指摘お願いします。


 
課題は「離反」ではなく「依存」^^ / しまの 引用
No.712 2013/11/29(Fri) 14:58:51

課題は「離反」ではなく「依存」

これはずばり、取り組み課題は「離反」ではなく「依存」かもですね^^。

つまり、まだ「人に与えられた枠の中で生きる」という生き方姿勢と行動法にいるために、行動様式「服従か反発か」というものになってしまっています。これは基本的に「依存」の中にいるからです。

「破壊」「自衛」「建設」という行動様式を言っていますが、その選択問えるようになるのは、「自立」からです。
「依存」では、行動様式「服従」「反発」という別の話になります。そこで「服従」か「反発」か選択問うことは、あまり成長に向かうことではありません。後者を「選択」したとしてもです。
まず「依存」を抜け出すことです。それが課題です。

書いて頂いた内容印象を一言でいえば、「人に教えられた誤った生き方を引きずって、自分からハズレくじばかりを引いている」というもの^^。
まず、人に教えられた誤った生き方から、抜け出すことです。そうすれば、当りくじハズレくじがあるのが、見えるようになります。そしたら簡単です。手を伸ばして、当りくじをつかめばいい。

いずれにせよ「取り組み実践」としては、『入門』
「外面・内面・外面」と繰り返す「向き合い」の実践
で説明しているように、
1)課題場面における「心の健康と成長に向かい得る行動法」は具体的にどのようなものになるのかの理解
2)それについての自分の理解納得、および対比としての内面感情への向き合い
3)それを踏まえて今取るべき外面行動の結論検討

進めるものです。
重要なのは、1)「心の健康と成長に向かい得る行動法」が、「健康な心の世界」前提にすることです。「健康な心の世界」における「心の健康と成長に向かい得る行動法」を、まずはどう想定できるか。
それにまず取り組みます。

書いて頂いたものにはおおよそ5つほど題材があるかと思いますが、それぞれ手短に書いてみますと、

1.
>ただ、「人生のパートナー」という課題に関しては、「自由」と「安全」への望みが強いためか、異性への恋愛感情すら芽生えない状況。極論すると「現実の異性なんて信用できるか!」というところでしょうか^^; そういう望みが強いのも、人間関係であんまりロクな目に遭ってないため、既に人間不信に陥っていることが原因なところまでは自覚しています。
これはに、どうであれば「信じられる」という話なのか一度持てた間柄は何があっても変えないことを約束してくれることを求めているようなことはないか。

2.
>自分を含め、一緒に行動している人同士が互いに運動部の顧問のような目を向けている状態だったのを思い出すと、今でも気持ち悪さを感じます。社会人になってからも、プライベートで人と接するときにそういう環境が多く、かなりゲンナリしました。
そのような閉鎖束縛的ではない、オープンで自由な交友の和を、具体的にどう考えることができるか
「自分を含め」となると、「人間不信」とはちょっと自分を棚に上げた話ではないかということになってくるかもですねぇ^^;

3.
>「いつもギリギリに出勤してしまう。余裕をもって出勤しようとしても内面で強烈に拒絶してしまう」
>似たようなことで、同僚から「減量したいなら徒歩で通勤してみては?」と提案されたのですが、「こんなトラブルまみれの職場のために、何時間も移動時間を割くのは嫌だなあ…」という感覚が湧いて、適当にやり過ごすだけにとどめた、ということもありました。どうやら、登校拒否の中高生のような心境に陥ってる模様です。
これはもう書くまでもないですね。自分としてはどんな行動戦略を持つか。それがまるでなしですね^^;

4.
>人を頼るのが苦手な傾向に気付きました。
>過去の職場でも、他の部署から急ぎの作業をいくつも振られた時、のんびりやってる他の先輩たちを尻目に一人で焦って錯乱する場面を何度も経験したのを記憶しています。急ぎの作業が増えたのでお願いしますと頼んでも、じゃあやっといて、の一言で済ませられてしまうこともしばしば。「なぜ自分だけ追いつめられてるんだろう」と精神的に疲弊し、仮病を使って数日欠勤したこともありました^^;
今考えてみると、人間不信がいろんな場面に悪影響を及ぼしてきたなあと。

これは具体的なコミュニケーション技術課題ですね。言葉の使い方一つで事態が変わります。

5.
>登校中などに「死ぬまでこんな面倒臭い人生がずっと続くのかなあ…」などと、小学生らしくないことを考え、ゲンナリしていたことも結構多かったように記憶してます。
>考えてみると、怒りに覆われてる時も、「こんな世の中生きてても何も面白くないし、親の弔いが終わったら俺の役目は何もなくなるから死んでもいいや」という自暴自棄な思考を日常的に持っていたのを記憶しています^^;
まあこれは過去の話として、「ではどうであればいいか」の具体的思考がないままの感情という、総合的な表現ですね。

ということで、問題は全て、自分としてどんな行動法が取れればという戦略がないまま、与えられた枠への不平に流れる、というものになっていると思います。
僕からは、言葉の表面印象以上に、まず良い環境が与えられることを求めている、子供の心がある・・というか働いているという印象
そんな話として、取り組み課題は「離反」ではなく「依存」だというです。
まず課題は、「自分としての行動法の戦略を持つ」ことです。


「自分」ではなく「場面」に取り組む

「取り組み実践」上述のように、まずハイブリッド心理学からの行動法の答えはこうだというのを、知ることからです。で、それについて自分はどう感じるかに向き合うことから始める

そこで取り組み課題材料にするのは、「場面」です。「自分」ではありません。
「場面」に応じて心の健康と成長に向かう行動法があり、それに取り組むことで、「自分」における取り組み課題が分ってきます。そこからさらに詳しい分析取り組みもできます。

「自分」最初から「課題」に考えるのは、結局、「自己理想像」にそぐわないものを取り上げるという取り組み姿勢になります。
「自己理想像」とっかかりとして取り組むこと自体悪いことではありませんが、それだけでは心は固定化されます。成長に向かうことなく、長い目では心は停滞と貧弱に向かってしまいます。

また「離反」一般的に言って、取り組み課題にはできません「離反」は、「場面」への対処がうまくできない場合に、最後に自分の心を守るための、比較的健康な反応だからです。
取り組むべきは、「場面」への対処を知らないでいる状態克服です。
さらには、「離反」に覆い隠された、「望み」が、取り組み課題になります。

ということで、まずは上記引用番号を振った、2、3、4あたりから取り組みになりますね。ハイブリッド心理学からの答えどんなものか、見当つきますか。分からなければまたご質問頂ければ。
そうして、まずは社会で自分が生きるための、自分から持つ行動法への自信というのが、異性とのおつき合い足場になるという順番として、やがての話にも取り組めるようになる、という道順です。
そうした道順有無で、話が全く変わります。現状の、自分としての生き方および行動法の戦略をあまり持てない状態のまま、異性への望みを考えても、一体どんな完璧無比の異性を求めるのか、ちょっと見当もつかない^^;

ちょっと辛口アドバイスだったかもですが、検討あれ^^。


 
Re: 「怒り」から離反傾向への課題変更 / 引用
No.723 2013/12/05(Thu) 14:25:30

アドバイスありがとうございます。
あと、非常に申し訳ありません!
改めて読み返してみると内容が非常に混沌としていて、過去の問題と現在の問題をごちゃ混ぜにしているところが多く存在してます…

まずは、必要以上に過去の心境を絡めないよう気を付けながら設問について考えたものを挙げます。

2.
>自分を含め、一緒に行動している人同士が互いに運動部の顧問のような目を向けている状態だったのを思い出すと、今でも気持ち悪さを感じます。社会人になってからも、プライベートで人と接するときにそういう環境が多く、かなりゲンナリしました。
そのような閉鎖束縛的ではない、オープンで自由な交友の和を、具体的にどう考えることができるか。
「自分を含め」となると、「人間不信」とはちょっと自分を棚に上げた話ではないかということになってくるかもですねぇ^^;

「自分を含め」ていたのは、学生の頃と、社会に出て間もない頃でした。むしろ今はそれに懲りて、仕事以外で人と関わることを忌避し「こんな歪みを正常だと考えてる連中など信用できるか!」と考えている状態、ですね。
むしろ、当時の自分と今の自分が会うことがあれば、説教してやりたいと思うぐらいです^^;
散々懲りた結果、「人と接するなかでは当たりくじを引けない。ならば必要のないところでは人と接するのは止めるか。必要なところでだけ人と接すればいい」と考え、一人でいることを楽しめるようになろうと方針転換を行いました。
当時の人間関係の中で「さっぱりした交友関係を作れそうな機会がなかなか見つからない!」という嘆きを感じた記憶はあります。
今思えば、何故若い頃に、今のように一人でいることを楽しめなかったのだろうか…と思うことならよくあります。
「オープンで自由な交友の和」については、出来ることならばそういう場所の方がいいですが、それに出会うのは天文学的確率だろうなあ、というのが今の本音です。
封建的な風習か、その集団の中での恋愛問題が拗れてワケの分からん面倒なもめごとに巻き込まれるか、そのどちらかは確実に存在するので、バカバカしく思えることばかりでした。

それがハイブリッドに逆行する考えだというのは拝見していても、「人と深く関わることはバカらしい」という感覚があるのが偽りのない現状のようです。

3.
>「いつもギリギリに出勤してしまう。余裕をもって出勤しようとしても内面で強烈に拒絶してしまう」
>似たようなことで、同僚から「減量したいなら徒歩で通勤してみては?」と提案されたのですが、「こんなトラブルまみれの職場のために、何時間も移動時間を割くのは嫌だなあ…」という感覚が湧いて、適当にやり過ごすだけにとどめた、ということもありました。どうやら、登校拒否の中高生のような心境に陥ってる模様です。

これはもう書くまでもないですね。自分としてはどんな行動戦略を持つか。それがまるでなしですね^^;

返す言葉もありません。
ただ、全くいい策が見当たらず、何をどうすればいいか全くわからない、という感じではあります。
勤務地に早く到着できるよう、その場所で何か楽しいものを見つければ少しは変わるだろうか、というのを試してみたものの、最近は休みの日に勤務地に近寄ることすら嫌になってきたのを実感しています。もう、その場所自体が大嫌いになってきたというか。
たぶん、今の仕事で生み出す価値に共感できないところが強いからなんでしょうけど、店のPRというのは運や相手の意思によって結果が左右されることもあり、なかなか安定した業績を出しづらいところがあるため、きちんと価値を生み出せているという認識がしづらく、揺るぎない自信を得るのが難しいものだと改めて実感することが多いですね。
あとは売上とは関係のない対応(酔っ払いやチンピラ、構ってチャンなど、店を使う気ゼロな人々、あるいは店を使わせたら条例的な問題が生じる人々への対応)、観光案内紛いな対応など。
これでは店が期待してる価値など生み出せてないよなあ…という感覚にしかならず、徒労だけで日々を送ってるように思えてきます。
幸い最近は店内のパソコンを整備する作業もたまに指示されるため、そういう時間だけは安心して作業に集中でき、価値を生み出せているという実感を得られています。せいぜい、週に1時間かそこらしかありませんが…。
いずれにしても、ハードウェアの知識を使うような、工場のような場所での求人があれば、と思い探してる最中なので、それを見つけて就職できれば、というのが現状です。

4.
>人を頼るのが苦手な傾向に気付きました。
>過去の職場でも、他の部署から急ぎの作業をいくつも振られた時、のんびりやってる他の先輩たちを尻目に一人で焦って錯乱する場面を何度も経験したのを記憶しています。急ぎの作業が増えたのでお願いしますと頼んでも、じゃあやっといて、の一言で済ませられてしまうこともしばしば。「なぜ自分だけ追いつめられてるんだろう」と精神的に疲弊し、仮病を使って数日欠勤したこともありました^^;

今考えてみると、人間不信がいろんな場面に悪影響を及ぼしてきたなあと。
これは具体的なコミュニケーション技術が課題ですね。言葉の使い方一つで事態が変わります。

これも、過去の職場での内容でした。そこも体育会系で儒教精神が重んじられる環境だったので、自己犠牲の強さが当たり前の現場でした。

まあ、今の職場でそういうことが起きることはほぼ無いですが、当時のそういう出来事のために、今も上司を頼れないのが問題になってるところはあります。
「目上の人間というものは、自分の仕事を増やすような報告を「言い訳」と一蹴し、気に入らないやつには懲罰や解雇という粛清を加えるものなのだ」という感覚がなかなか抜けないというところです。
先日書きこんだ内容のうち、態度の悪い警官に絡まれた件についても、解雇を恐れて一人で対応し、店ではなくて自分自身の個人情報をごっそり抜かれ、事後報告した後店長から「なぜそこで連絡してくれなかったのか」と宥めるように注意されたのですが、未だにそれを鵜呑みにしていいものかどうか疑わしいモンだと考えます。

やはり、改めて再考してみても、過去の出来事に懲りて今は人を遠ざけて過ごしたがっている、というのが、調和のとれた状態を目指す中では問題になるんだろうな…という感じになります。

また、今回、自分自身で意識していなかった問題が浮かび上がってきました。
ひとつは、特にプライベートで、人に何かを説明する際に意味不明な焦りを感じていることがたまにあり、そういう場面では纏まりが無くなる点。
仕事上では殆ど見られない傾向なので、今のところは助かってますが…。
とりあえず、焦りの解除については、具体例が書かれている場面以外では未だにコツが掴めていないところがあるので、どうにかコツをつかみたいところではあります。

あとは、極度の面倒くさがり、という問題点。
公私を問わず、物事にはメリットの数倍、あるいは数十倍のデメリットが必ず存在するという感覚が強く、それを考えると何を行うにも大きな面倒臭さを感じるようです。
問題が発生した時に真っ先に頭に浮かぶのが「めんどくせえ…」なので^^;
別のカウンセラーの方が説明されてたのを偶然見つけたのですが、面倒くささには「完璧主義」が背景にあるのではないかという記述があり、「そういう可能性もあるのかなあ」とは思います。これも充分に問い直してみる必要はあるかもしれません。


 
Re: 「怒り」から離反傾向への課題変更 / しまの 引用
No.730 2013/12/07(Sat) 22:27:23

>「オープンで自由な交友の和」については、出来ることならばそういう場所の方がいいですが、それに出会うのは天文学的確率だろうなあ、というのが今の本音です。

もしこの辺について取り組むとしたら、ハイブリッド心理学取り組み実践としては、
1)「楽しみの共有」として交友行動に向かう姿勢と行動を、自身がどう持てている、取れているか
2)交友の場の状況
3)そこで取られるコミュニケーションの具体的内容

を、具体的に取り上げての検討になりますね。
他の話についても、さらに取り組む場合は、「場面」かなりの具体的分析からになると思います。

まずご自身として、何を克服したいと思うか、からになると思います。それについて、そうした具体的検討進むというのがよろしいかと。
まずはこれをなんとか、というものを絞って頂くと(僕の方ではざっと読んで絞れず、全部に返すのは無理^^; 申し訳ない^^)、僕の方でもアドバイスを返せるかと思いますので、そうした具体的場面検討として挙げられそうなものがあれば、また新規トピックにてがいいですね^^。



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