No.743 2013/12/16(Mon) 21:41:18
自己イメージというのは外から見える自分についてのイメージですので、他人からどう扱われるかということに関係するのではないかと思います。したがって、他人に依存する中で自己イメージは重要になってくると思います。そうだとすると自立に向かう中で、自己イメージというのは重要性を失う方向にあるという理解は合っていますでしょうか。自立に向かう中で自己は形を失い未知になっていくのでしょうか。 |
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No.747 2013/12/22(Sun) 16:24:42
「自己イメージ」 概説
「自己イメージ」には、脳の正常な機能として必要不可欠の部分もありますね。 心理学からは、およそ以下の3段階構造のようなものとして考えられるかと。
1)基礎的自己イメージ(健全形) 人間としての日常生活に必要不可欠となる、脳の基本的機能(記憶認知)による自己イメージ。性別、おおよその身長体重、容貌の特徴など。 これがないと男女別のトイレやお風呂に正しく行けないですね^^; 「性同一性障害」は性別における自己イメージの混乱とも言えるでしょう。「相貌失認」という脳の障害があると、人の顔をうまく見分けられないのみでなく、鏡に映った自分の顔も自分と認識できなくなり、家の中でふと鏡に映った自分に驚き「誰?!、何してるの!」と叫んでしまったといった事例を先日TVで見ました。
2)評価づけした自己イメージ(健全形) 「自分はこれができる」という、主に能力的評価を加えた自己イメージ。急いでいる時、走れば何分で着ける、自転車に乗れるといった身体的能力面での自己イメージ。実際にその行動をしてうまく行かない場合、体の具合が悪いことがわかり対処できたりします。 自分はこれこれの仕事ができるといった社会的自己イメージ。これがあって、会社に勤めていれば毎日同じ席に座り、自分の仕事に向かうといったことが可能になります。社会生活の維持に必要不可欠です。 自分はこんな生き方、人への接し方をする人間だという自己人格イメージ。僕の場合は、人生を執筆に注いで生きている人間。「怒り」を使わずに人に対処する。この辺はもう揺るがなくなっている次第です^^)v (Vマーク余計^^;) これらの自己イメージが揺らいでくると、人は自分の生き方や人への接し方に悩む、という現象になるわけですね。
3)人の目の中の自己イメージ(煩悩・惑い・病み形) これは厳密にはただ「自己イメージ」であるのみでなく、「人の目」「人の心」の空想イメージでもあります。それが自分をどう見るかのイメージ。つまり人が自分のことをどう空想しているかを空想するという複雑な意識であり、その分「心の病み」の傾向につながりやすい意識だと言えます。 病みの傾向の深刻さにもかなりバリエーションがあり、比較的健康なのは、特別なものを持つことで人にちやほやされる期待イメージ。僕もスキーでゲレンデに立つと、滑りのうまさで注目浴びるという自意識過剰気分にちょっとなることもあります。あはは^^; いやーまだまだだと、すぐ練習の方に意識転換修正しますが^^。これは「煩悩形」^^; 「惑い形」は、自分でうまく自分の評価ができず、人にどう見られる、どう言われるかに頼ることで自己イメージを持つもの。当然、人の言葉に振り回され、次の「病み形」にもつながりやすい。 「病み形」は、心の底での深い自己イメージと、意識の表面の「人の目の中の自己イメージ」に、病んだ食い違いがあるものです。つまり、心の底で深い自己否定感情があったまま、それを否定し去るための、人の目の中で燦然と輝ける自己理想イメージを抱くといったもの。この自己理想イメージをめぐって、「人の目」の空想は「賞賛」「軽蔑」、その傲慢さや「見せかけ」への「嫌悪」といった、混乱に満ちた、病んだ意識へと向かってしまいます。
「依存と自立」と自己イメージ
とうことで、
>他人に依存する中で自己イメージは重要になってくると思います。そうだとすると自立に向かう中で、自己イメージというのは重要性を失う方向にあるという理解は合っていますでしょうか。
については、実はちょっと逆とも言える感じで、「依存」は自分で自己イメ−ジを確立できない、「自立」は自己イメージを自らしっかりと築く方向に向かう、ということになると思います。
上記の3種類について言いますと
「基礎的自己イメージ」は、依存か自立かに関わらず、正常な日常生活の維持のために必要なもの。
「評価づけした自己イメージ」は、 「依存」だと自分でうまく築けず、人の目人の言葉に頼る。結果、意識は自ずと「人の目の中の自己イメージ」に移る。 「自立」だと自ら自己イメージをより高めるための努力をし、高められた自己イメージは揺ぎなく安定する。安定するごとに、日ごろはあまり意識されるものでなくなる。
「人の目の中の自己イメージ」は、 人が「未熟」から歩み始めることにおいて、誰もがまずは持つものと言えると思います。また、来歴の中で心の病みの傾向を抱え、そこから克服へと歩み始めることもあるでしょう。 そこから、 「依存」にとどまることはその自己イメージの病みの傾向をただ深める方向へと向かわせ、 「自立」はそれをより健全な「評価づけした自己イメージ」へと修正していく方向へと向かわせる、 ということになるでしょう。
それは結局、「自己イメージ」の位置づけが、 「依存」においては、人の力で自分を幸福にしてもらう、そのために自分は人の目に愛され賞賛される存在になる必要がある、その結果絵に描いた理想が描かれ、それをめぐって揺れ動く自己イメージが抱かれる、というものであるのに対して、 「自立」においては、自ら幸福へと歩む、そのためありのままの自分を受け入れ、現実世界を生きる知恵と能力を獲得していく、その達成状況について自己イメージが抱かれる、 という根本的な違いによるものです。
また、自己イメージの内容段階がどのようであれ、 「依存」においては、「自己イメージ」が行動場面で「演じるための基準」(^^;)として「使われる」ものである一方、 「自立」においては、相手の実際の様子に対して、どんな「行動法」で対処するかが重要になり、実際の行動場面では「自己イメージ」はあまり「使わない」ものになる、と言えると思います。総じて、自己イメージはそれ自体をあれこれ意識するものではなく、しっかりと心の土台に安定して存在するものになる、と言えるかと。内容的にも、「人にどう扱われるか」よりも「自分がどう人に対処できるか」のイメージになる、と言えると思います。
ですので、 >自立に向かう中で、自己イメージというのは重要性を失う方向
は一言で、「重要性を失う」のではなく、 「自ら築き高め、揺らぎなくなるごとに、意識する必要もなくなってくる」ものだと言えますね。 「重要性」はなくならないと思います^^。とっても重要。
「未知」への変化と自己イメージ
>自立に向かう中で自己は形を失い未知になっていくのでしょうか。
「未知」というのは、「心の成長」について、特にそこでの「心のあり方」について言っている話です。成長した心は、まだ成長していない「今の心」からは、いかなる形においても「未知」なのだ、と。「今の心」で分かる心のあり方とは、結局「今の心」の中でイメージできる、「今の心」をちょっと変えたバリエーションに過ぎないですね。
ですので、成長できた自分がどんな自己イメージを持って生きるようになるのかも、「今の心」からは「未知」だと言えますね。
また、「自己イメージ」はあくまでその時その時の心の状態において持つものですので、「自己イメージ」をどうこう変えることで「心の成長」はできない、とも言えます。あくまで「具体的な思考法行動法」に取り組み、「望み」に向かう人生の体験の中で、心が成長します。 「自己イメージ」をうまく操縦することで心が成長できるというようなことを言っている心理学やカウンセリングも世には沢山ありますので、それとは大分違う考え方になります。この点は結構重要ですね^^。
「依存」の中にある心は、「自立した心」をイメージすれば自立できるわけではない、ということです。「自立した心」をイメージするのではなく、自ら幸福に向かうための、具体的な思考法行動法を学び、実践することです。その中で心は自ずと「依存」から「自立」へと成長し、成長できた自分は、「依存」の中にいた自分からは「未知」のものであったことを、感じるでしょう^^。 |
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No.752 2013/12/24(Tue) 22:43:54
心が依存にあるときの自己イメージの持ち方と、心が自立したときの自己イメージの持ち方が異なることがわかりました。ありがとうございました。 |
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