No.759 2014/01/08(Wed) 14:27:23
島野さん
明けましておめでとうございます。 前回の続きですが、長くなりましたので新規で立てさせていただきます。
>「楽しみ」を共有するというプラス行動は「建設的対人行動法」となり、それ以外の、与えられた問題課題の達成や、マイナスの状況への対処は、全て、基本は「原理原則行動法」になるということです。これで、内面の「怒り」「怖れ」などのマイナス感情は、行動の原動力として役目を持たなくなります。
「喜び楽しみ」とうものは内面で感じることかと思います。そのため、現時点の自分にとって、マイナス感情に巻き込まれない行動・原理原則を識別・選択するのに多少の困難(混乱?)を感じる時があります。というのは、マイナス感情を解消すること(時として破壊行動)が、「自分の幸福に向かうもの」と意識が錯覚を起こしている状態ではないかと思います。島野さんの回答を受けても、自分の気持ちが楽しい・スッキリすることをすること、もしくは反対に自分を抑えることが、瞬間的なマイナス感情の軽減はあっても、必ずしも「建設的対人行動法」とは言えないことがわかります。そのため、取り組むべき行動は常に外側にあり、内面感情はただ流し見つめるのだということも理解できます。現時点では、マイナス感情が流れた時に、建設的行動を取ろう(もしくは原理原則に従おう)として身動きできなくなる(何が建設的行動、原理原則かわからない)ことがあるのですが、その辺りアドバイスいただけますか?
>ですのでその場面についてはむしろ、なんでそういうメンバー構成で会うことにしたのか >「自分はこれこれを意図して、こうなればいいと思って言った」というのを明確にすることで
前回と今回のエピソードにおいて、「自分はこれこれを意図して、こうなればいい」という自分の中での問いかけが無く行動を取っていた、ということがやっと腑に落ちました。自衛・建設が大事なのですね。 ひとつ質問ですが、「あるべき姿からの否定感情」と「ただいじけてしまった気分」の違いがわかりません。もっと話すべきと強く感じたのなら否定感情となり、話すべきという気持ちはあまりなくただ不安になっただけならいじけたということでしょうか? また、「あるべき姿からの否定感情」というのは原理原則がないところには発生しないともいえるのでしょうか?
最後にもうひとつ。すみません、前回の質問の繰り返しになりますが、この状況で原理原則といえるものはないというのはわかりました。「感情と行動の分離」ということでは、自分の行動と気持ちの処理は妥当であったでしょうか?
(抜粋) --この日私が取った行動は、わからない話題であれば「私は知らないなぁ」と正直に言って聞き役にまわり、卑屈感で内面的動揺が起きた時は、席を外してトイレに行くことで気持ちをリセットしました。」-- |
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No.762 2014/01/12(Sun) 08:37:35
「瞬間的なマイナス感情の軽減」と書きましたが、違うかもと思いましたので追記です。 マイナス感情を解消するために破壊行動に出た場合、むしろマイナス感情は強まると感じました。先のマイナス感情が新たなマイナス感情に置き換わる、もしくはその重ね合わせのようなことが起きているように思いました。だから、破壊行動は何の解決にもならないんですね。
もうひとつ質問ですが、「自分を抑えること」は自分自身へ対する破壊行動と言えるのでしょうか? |
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No.770 2014/01/28(Tue) 11:50:56
先日ブログで状況報告の通り遅くなりましたが、あけましておめでとうございます^^。
まずご質問全体への考え方のキーワードなど説明しますと、
「建設的」であるとは、行動の基本様式の3種類 「建設」 ・・・ 望ましいものに囲まれる生活基盤を自ら築く 「自衛」 ・・・ 望ましくないものに出会わないよう自分から先回りして避ける 「破壊」 ・・・ 望ましくないものを破壊攻撃して消滅させる というものにおける「建設」を、自分の人生を生きるための行動法の基本にする、ということです。
そこで「望ましいもの」とは、「長い目での幸福」のために、というのがミソになります。目先の気分や感情の良し悪しで考えるのではなく、さまざまな行動法によって、「現実」においてどんな「結果」が訪れるのかを「長い目」で見通す、感情で考えるのではない論理的思考が重要になります。 「長い目での幸福」を根本目的と位置づけた「目的思考」として、どんな行動を取るとどんな結果になるという「論理的思考」を働かせて判断するものとして、「望ましいもの」に自ら向かい生み出すという行動法です。
一言で、「長い目での幸福」への「論理的目的思考」によって「建設的行動法」が可能になる、ということです^^。
ということで、
>現時点では、マイナス感情が流れた時に、建設的行動を取ろう(もしくは原理原則に従おう)として身動きできなくなる(何が建設的行動、原理原則かわからない)ことがあるのですが、その辺りアドバイスいただけますか?
「マイナス感情が流れた時に、建設的行動を取ろう」という流れだと、「建設的行動法」の問題というよりも、「どうやりすごすか」の問題になってしまうように感じます。 建設的行動は、マイナス感情が流れたから、それへの対処、というものとして行うのではなく、何かの問題課題や望みについて、行動法を問うものとして考えることができます。 ですので、流れたマイナス感情については内面感情としては「流す」として、外面行動としては、マイナス感情うんぬんではなく、置かれた状況の客観的把握などから問題課題を考え、それに対して「長い目での幸福」のためにはどんな行動が最善の結果を生み出すかという思考に、考える姿勢を切り替えることが重要です。 まずはこれでアドバイスになりますかどうか^^。
>「あるべき姿からの否定感情」と「ただいじけてしまった気分」の違いがわかりません。
一言でいえば、「あるべき姿からの否定感情」は「怒り」であり、「ただいじけてしまった気分」は「悲しみ」だという違いです。 「悲しみ」である「いじけた気分」については、まずは「ただ流す」ので良い。それが「現実を受け入れる」という姿勢と共にあるのであれば、成長への長い道のりの通過点としてよくあるものです。 す。 「怒り」である「あるべき姿からの否定感情」は、価値観と行動法を見直す取り組みがお勧めになります。まあハイブリッド心理学の取り組み実践の全体になってきますね。 この違いです。よろしいでしょうか^^。 実際どっちだったのかは、
>もっと話すべきと強く感じたのなら否定感情となり、話すべきという気持ちはあまりなくただ不安になっただけならいじけたということでしょうか?
ということでいいと思います^^。
>また、「あるべき姿からの否定感情」というのは原理原則がないところには発生しないともいえるのでしょうか?
「あるべき姿からの否定感情」は内面感情の話であり、「原理原則」というのは、人と人の間、そして社会での行動法のルールとして、最終的に正しいものとされ勝てるものというような話です。 ですので話として一応別テーマになると思います。 まあどんな状況でも自分勝手な論理で「あるべき姿からの否定感情」を抱く人はいますね^^; それを、「怒り」に頼ることのない、「原理原則」による行動法に変えることが取り組みになるという次第です。
>この状況で原理原則といえるものはないというのはわかりました。「感情と行動の分離」ということでは、自分の行動と気持ちの処理は妥当であったでしょうか? (抜粋) --この日私が取った行動は、わからない話題であれば「私は知らないなぁ」と正直に言って聞き役にまわり、卑屈感で内面的動揺が起きた時は、席を外してトイレに行くことで気持ちをリセットしました。」--
これは上述の通り、もう「建設的行動法」を問う段階というより、「やりすごし方」の話の段階になる感じですね^^; その場面はそれでいいと思います。そうした体験を踏まえ、今後どんな相手とどんな会い方をするかについての自分の考え方を築いていくことが、重要になるかと^^。
>もうひとつ質問ですが、「自分を抑えること」は自分自身へ対する破壊行動と言えるのでしょうか?
まず言葉の話として、「抑える」は「破壊」ではないですね。 「破壊」は「壊す」という行為を行うもの。「抑える」は何かの行為をしないでいること。 「抑える」ことが自分にとって長い目で「破壊」になることはないか、という設問は考えられますが、具体的問題で考えた方が話は早い(^^;)と思います。 多分いろんな例をあげても、「自分を抑える」ことが「破壊」とまでなることはないと思いますが、「抑える」だけで成長できるものでもないので、これも上述の通り、置かれた状況の客観的把握などから問題課題を考え、それに対して「長い目での幸福」のためにはどんな行動が最善の結果を生み出すかという思考だとどうなるか、ということになると思います^^。
とりあえず理屈の考え方はそんな感じで、より正確にはやはり具体的材料で考えるのが良いと思いますので、考えたい材料などあれば何でもトピックで入れて頂ければ^^。 |
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