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No.784 2014/02/06(Thu) 21:58:41
吐き気として現れる自己嫌悪感情はひとまず治まったようです。あとに残ったのは荒んだ怒りの感情でした。 望みを妨げられて憎悪に燃える自分の姿がはっきりと現れてきたように思います。
実は、私自身が「理想に立って現実を見下す」ことを「選択」した時のことは、かなり具体的な瞬間として思い出すことができます。あれはおそらく小学校中学年のときでした。 その日私が登校して教室に入ると、クラスメイトたちはいつものようにわいわい遊んでいました。自分もそれまではすぐさまその中に入っていたのですが、その日の私は違いました。「バカみたいに」ヘラヘラと笑っている周囲に冷ややかな視線を向けると、すました顔でまっすぐに自分の席へと歩いて行ったのです。その日から、感情を表に出ないようになり、また周囲を見下すということを始めたのもその時だったと思います。 「よくできた子だ」と言われました。「小学生とは思えないほど大人びている」とも言われました。しかしその時既に、心の根底には怒りがあったことが今になって思い出されます。
なぜそんなことをしたのか。楽しく笑いながら生きていくのではダメだったのか。そう考えた時、あの「冷たい目」のイメージが思い出されました。今の私でさえ足がすくむようなあの恐怖を自分は小さい時すでに持っていたのだとしたら、ありのままの現実を生きることは自己の存在を脅かすほど過酷なものだったのではないかと。そうしてまた思い出したのは、当時の私が周囲の楽しそうな同級生たちに向けていた感情です。それは次のようなものでした。「お前らはなぜヘラヘラと笑っている?なぜそんな自分を恥じない?」と。そしてそんな周囲に軽蔑の視線を向けながら、自分はいち早くその「間違い」に気付いて自分を律しているのだと優越感に浸るようになったのです。
結局のところ、根底にあったのは「自分はありのままでは駄目だ」という思いでした。そして同じように駄目なはずの周囲が幸せそうなのを見て、「許せない!もっと自分を恥じろ!それが正しいんだ!」と憎しみを募らせていったのです。
素直に楽しむということをやめてしまったのは、紛れもなく私自身の選択でした。しかし、自己分析で辿り着けたのはここまでです。私のもともとの望みは何だったのか?以前苦しみの中で思ったように「ありのままの自分でいること」なのだろうか、と考えてもみますが、それで何が起こるわけでもありません。こういう時はおとなしく引き上げて外面に再び向かうのがよいかとも思いますが、「イヤイヤながら生きている」という感じが拭えないのも事実です。まあそんな内面とは関係ないのが外面行動法だと思うので、今はひとまずバイトや勉学以外での過ごし方については「楽しいと思えないことはやらない」ことを念頭においています。
以上、追加したいと思った点です。 |
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