[ 掲示板に戻る ]

記事No.782に関するスレッドです


外面と内面 / りょうたろう 引用
No.782 2014/02/04(Tue) 20:24:45

先日は詳しい解説をありがとうございました。今回は主に内面について質問したいと思います。

前回の投稿をしてから数週間にわたって、私の内面感情は嵐のようでした。しかし起こったことを全て書いているとあまりに分量が増えてしまうので、要点と思われるところだけ書こうと思います。

まず最初にあったのは怒りの放出でした。あるとき、じっと座っていても何か頭を掻き毟りたくなるような衝動を感じ、これは何だろうと考えてみて「そうだ、怒りじゃないか」と気づいたのをきっかけに始まりました。それはもう凄まじいもので、何に対しての怒りかわからないままに脈打つような頭痛に襲われ、腹筋が激しく痙攣しました。そのため全身がのたうつような形になり、そのときは一人でしたが傍から見るとさぞかし異様な光景だったことでしょう。しかし不思議と「自分が怒っている」という感覚ではなく、怒りという一つの生き物が自分の中で暴れているような印象を受けました。私はただ好きなだけ暴れさせることを選びました。そしてじっと耐えながら、いろんなことを考えました。この嵐を乗り切ったら、自分はついに病んだ心を抜け出せるのだろうか。そしたら勉強も趣味もバリバリこなせるようになって、仕事だって…とそこまで考えたところで、何かが違うと感じました。人生の成功なんかじゃない、本当に望んでいるのは「何があっても自分自身でいること」だと。「健康な心になり幸せを手に入れること」ですらなく。その時はそう感じました。

しかし結論から言うと、一夜明けてもやはり心が生まれ変わっているなんてことはありませんでした。しかしやや頭はすっきりし、いろいろ気付いたこともあります。まず、普段から頭を占領している空想は怒り復讐という面を多分に持っているということです。自分が優れた資質(容姿でも頭脳でも性格の良さでも)を持っていて、それに対して周囲は参りましたと平伏す、そんなイメージです。また、人間関係や趣味その他、様々な活動を妨げることにかけては「怒り」は「恐怖」の比ではないとも思いました。

自分の今までの人生はまさしく怒りと復讐の人生だった。そんな感慨が起こりました。時折いつものように、周囲から賞賛を浴びて自分は「そんなことないですよ」と謙遜して…と空想が浮かんだところでハッと我に返り愕然とします。自分はこんな薄っぺらい姿を本気で理想として描いてきたのかと。

何だか生きるための内面においての前進力を失ってしまったような状態がしばらく続きました。しかし一方で外面においてはむしろ以前より向上している自分を感じました。例えば部活に関するメールのやり取りでは、何か自分に落ち度があった時に「ごめんなさいごめんなさい」ばかりでなく「代わりに自分はこうするつもりである」と自分から示すなどが身についてきました。またバイトでは、以前よりきびきびと動けて周囲とのコミニュケーションも円滑になっていました。

しかしここで一つ出来事がありました。ある日バイト先から電話がかかってきて、その内容は「先日の書類がまだ出ていないようだが、どうなっているのか?」というものでした。原因は私の勘違いです。ここで取るべき行動はまず謝罪し、何があったかを説明し、
今からでも大丈夫か尋ねる…といった感じになるかと考え、実際そのように対応しました。が、私の内面は激しく動揺していました。まず「あの書類まだ出してないよね?」と聞いた瞬間にまるで激しい糾弾を受けているように感じ、返事もままならないありさまでした。また自分の勘違いについて説明している間、呆れを通り越してもはや真面目に取り合う価値もないというような視線を向けられていると感じました。本当にぞっとするような、血の通った人間のものではない冷たい目というイメージです。しかしそれが自分自身の内面にあるものだということはもはや明らかでした。

そこからの数日感はもう感情というより体調の悪化で寝込んでしまいました。激しい頭痛と吐き気に襲われ、「CENSORED」という考えも一瞬よぎりました。この時私に訪れていたのは、自分の醜さと罪という感覚です。少し前の投稿で「苦しみの中にいます」と訴えた時と同じ場所に再び私は立っていました。ただあの時と違うのは、私自身の社会に対する捉え方でしょうか。人はまずは自分のために生きているのであり、内面についてはその人自身の問題であると。人間関係において気持ちを道具として使い、いわば「矢面に立たせる」必要はないと。「罪」についても他人への害を基準に考えるものであることも、納得はできています。

しかしその上でなお、まるで叱られている子供のような気持ちで一日を過ごしています。これが今現在の私です。寝ている時でさえ、延々責められる夢を見ることもありました。
今でも時折空想が現れることがありますが、苦痛から逃れるためという側面が強いようで、以前のような「支配される」というほどの圧倒感はありません。

長くなってしまいましたが、以上が今の私の状態です。ここからどのように取り組みを進めたらいいか、お聞かせください。


 
Re: 外面と内面 / りょうたろう 引用
No.784 2014/02/06(Thu) 21:58:41

吐き気として現れる自己嫌悪感情はひとまず治まったようです。あとに残ったのは荒んだ怒りの感情でした。
望みを妨げられて憎悪に燃える自分の姿がはっきりと現れてきたように思います。

実は、私自身が「理想に立って現実を見下す」ことを「選択」した時のことは、かなり具体的な瞬間として思い出すことができます。あれはおそらく小学校中学年のときでした。
その日私が登校して教室に入ると、クラスメイトたちはいつものようにわいわい遊んでいました。自分もそれまではすぐさまその中に入っていたのですが、その日の私は違いました。「バカみたいに」ヘラヘラと笑っている周囲に冷ややかな視線を向けると、すました顔でまっすぐに自分の席へと歩いて行ったのです。その日から、感情を表に出ないようになり、また周囲を見下すということを始めたのもその時だったと思います。
「よくできた子だ」と言われました。「小学生とは思えないほど大人びている」とも言われました。しかしその時既に、心の根底には怒りがあったことが今になって思い出されます。

なぜそんなことをしたのか。楽しく笑いながら生きていくのではダメだったのか。そう考えた時、あの「冷たい目」のイメージが思い出されました。今の私でさえ足がすくむようなあの恐怖を自分は小さい時すでに持っていたのだとしたら、ありのままの現実を生きることは自己の存在を脅かすほど過酷なものだったのではないかと。そうしてまた思い出したのは、当時の私が周囲の楽しそうな同級生たちに向けていた感情です。それは次のようなものでした。「お前らはなぜヘラヘラと笑っている?なぜそんな自分を恥じない?」と。そしてそんな周囲に軽蔑の視線を向けながら、自分はいち早くその「間違い」に気付いて自分を律しているのだと優越感に浸るようになったのです。

結局のところ、根底にあったのは「自分はありのままでは駄目だ」という思いでした。そして同じように駄目なはずの周囲が幸せそうなのを見て、「許せない!もっと自分を恥じろ!それが正しいんだ!」と憎しみを募らせていったのです。

素直に楽しむということをやめてしまったのは、紛れもなく私自身の選択でした。しかし、自己分析で辿り着けたのはここまでです。私のもともとの望みは何だったのか?以前苦しみの中で思ったように「ありのままの自分でいること」なのだろうか、と考えてもみますが、それで何が起こるわけでもありません。こういう時はおとなしく引き上げて外面に再び向かうのがよいかとも思いますが、「イヤイヤながら生きている」という感じが拭えないのも事実です。まあそんな内面とは関係ないのが外面行動法だと思うので、今はひとまずバイトや勉学以外での過ごし方については「楽しいと思えないことはやらない」ことを念頭においています。

以上、追加したいと思った点です。


 
「自分の内面感情の論理的理解と向き合い」の実践^^ / しまの 引用
No.788 2014/02/13(Thu) 14:12:39

>ここからどのように取り組みを進めたらいいか、お聞かせください。

これはずばり「自分の内面感情の論理的理解と向き合い」実践課題になると思います^^。

内面感情については、「感情と行動の分離」では「ただ流し理解する」と言っていますが、書いて頂いたのは、まずは「ただ流す」段階ですね。「理解する」についてはまだ手つかず
というか、ややあおり気味の感も^^; ま最初の段階はそんなものかと^^。「理解する」できるようになるのと平行して、「ただ流す」というものも本当にできるようになっていくと思います^^。


「内面感情の理解」によって行うこと

でまず「自分の内面感情を論理的に理解する」とは一体何を行うことかと、『入門』取り組み全体大局的整理がかなりでききたのも踏まえ、改めてまとめますと、大きく以下3ステップの流れ向かうための役割のものと言えるかと。

1)自分の感情(特に悪感情)を、「原因−結果」という論理的思考で理解する
これによって、感情を無理に変えようとするのではなく、感情の「原因」正しく対処することで、感情自ずと良くなるという基本的姿勢および実践身につける
重要なのは、「原因−結果」として「何々が悪いからこう感じた」という善悪思考(特に他人のせいにするもの)から、「自身の望み」を起点にした論理的思考考えることです。自分がこれこれを望んでおり、それがこのように妨げられたことで、これこれの悪感情が流れた、と。
これは心の外部の出来事論理的思考で考えるのと同じく自分の心の動きについても論理的思考で考えるという、心の成長への「礎」になります。
それがあって、が生まれる。

2)「成長」と「治癒」
「成長」として、「望み」を起点とした建設的行動法へ。これは「感情と行動の分離」外面軸であり、これがうまく行くようになれば自ずと感情も良くなる。
「治癒」は、そうした「成長」の外面軸基盤ができるのと並行して、悪感情解きほぐしを行い、不合理な悪感情自ずと捨て去られていくようになるというもの。
「成長」「治癒」のこの位置づけについては、
『入門 - 4.心の成長変化 / 「感情と行動の分離」の両輪が生み出す「成長」と「治癒」』
大まかに説明した通りです。

3)「魂の感情」への向き合い
建設的行動法を取ろうとしてもがある場合に、「失意を超えて望みに向き合う」ことで「魂の望みの感情」感じ取れるようになります。これが外面の成功というのとはちょっと別次元の答え生み出すようになります。
この流れが、
「心の業の捨て去り」と「魂の望みの感情」による心の成長の本格的前進
以降で説明している話になります。

ということで、「内面感情はただ流し理解する」における「理解する」とは、一言で、
自分の内面感情を、自身の「望み」を起点とした「原因−結果」の論理的思考によって理解することで、建設的行動法による「成長」や、悪感情の解きほぐしによる「治癒」、さらに「魂の感情」への向き合いによる「浄化」「成熟」「超越」につなげることを行うものである。
などと言えるかと。


感情が流れる場面に応じた「原因と結果」の検討ポイント

りょうたろうさんが書いてくれた感情内容ざっと見ますに、感情が流れる場面に応じた「原因と結果」の検討ポイントとして、ある程度定石的なものがありますので、それが参考になると思います。
まず視点列記してみますと、

1)現在場面における感情動揺
 a)動揺の内容と強さの合理性の検討
 b)他人イメージの内容の合理性の検討
2)人生について流れる悪感情
 c)どのような大元の「望み」があって起きたことか
 d)そこにおける妨げの責任は誰にあったのか

など。もちろんこれが視点全てではなく、りょうたろうさんが書いてくれた感情内容ざっと見て、必要思い浮かんだものです。

とまあ取り組み実践堅苦しい理屈の話を並べましたが、要はこういうことです。

>普段から頭を占領している空想は怒り復讐という面を多分に持っているということです。
>自分の今までの人生はまさしく怒りと復讐の人生だった。
何をどうされたことへの怒り復讐か。

>自分が優れた資質(容姿でも頭脳でも性格の良さでも)を持っていて、それに対して周囲は参りましたと平伏す、そんなイメージです。
そのイメージ現実性合理性どう考えるか。他人どれだけそれ(りょうたろうさんの資質^^;)に関心を持っていると思うかなども含め。

>が、私の内面は激しく動揺していました。まず「あの書類まだ出してないよね?」と聞いた瞬間にまるで激しい糾弾を受けているように感じ、返事もままならないありさまでした。また自分の勘違いについて説明している間、呆れを通り越してもはや真面目に取り合う価値もないというような視線を向けられていると感じました。本当にぞっとするような、血の通った人間のものではない冷たい目というイメージです。
同じく、そのイメージ現実性合理性をどう考えるか。
さらに上記も含め、現実の他人はどうだと考えるか。特に「健全形」として考えられる内容検討するのが重要になります。

>そこからの数日感はもう感情というより体調の悪化で寝込んでしまいました。
この辺はまあ論理的理解で切り込む部分ではない感じですね。問題は、感情に呑まれる強度ですね。
これは感情への論理的思考をはば広く持てるようになるにつれて、対抗力や耐性がついてくると思います。

>実は、私自身が「理想に立って現実を見下す」ことを「選択」した時のことは、かなり具体的な瞬間として思い出すことができます。あれはおそらく小学校中学年のときでした。
これ以降の部分も、まずは内面の感情材料出し段階の話ですね。「分析」は、なぜそのような流れになったのか、書いて頂いた以前の段階思い出すことです。これがかなり難しい可能性、つまり記憶から消されている可能性もありますが、それもまずは記憶を確認してからです。

>私のもともとの望みは何だったのか?
まずそれは「愛」にしたものであったであろうというのが、ハイブリッド心理学自己分析ガイドラインになります。そので、自分に向き合い、自分に問いてみる良いと。
これは
実践詳説 - 9章 「成長の望み」と「真実の望み」の導き / ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」』(P.169)
参照
「私たちの「望み」とは結局、・・」部分です。


まずは怒り復讐からの抜け出し

歩み方全体の方向性についてアドバイスしますと、まだ年齢若いと思いますので、先日アップした
・取り組み実践による「心の成熟」への歩み

「20歳前後という若い段階で取り組み始めた場合、・・」として書いている通り、心の変化性急に期待しても、そもそもそれはまだ準備されてないということが考えられます。
目標は、まずは外面目標に向かうことへの惑いの減少になりますね。内面の解きほぐしも、それに役立つものとしてあるのが若い段階です。
りょうたろうさんの場合は、僕が察するに、「怒り復讐」とは一体何をどうされたということかというテーマ片付けると、かなり心がすっきりするのではと推測する次第です。

それについては、
実践詳説 - 6章 心の成長の道のりに向かう / 心の成長のメインテーマ 「愛と自尊心」に向かう』(P.122)
でも、自分の感情を論理的に把握することで、やがて「愛」「自尊心」というテーマにいきつくという話をしており、そこで自分のこととして認めるのは結構手痛い話も書いていますが参考になるかと思います^^。



- HOME - お知らせ(3/8) - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - メール - 環境設定 -

Rocket Board Type-X (Free) Rocket BBS