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No.7701へ返信

all EV172 ”種族を分ける”  作業用スレッド - 鈴藤 瑞樹 - 2011/05/29(Sun) 19:37:04 [No.7688]
提出しました - 竜宮・司 - 2011/06/27(Mon) 23:48:07 [No.7724]
締め切り27日へ伸びました - 竜宮・司 - 2011/06/18(Sat) 03:54:22 [No.7715]
今のところ27日23時までに提出する予定ですー。 - 竜宮・司 - 2011/06/26(Sun) 17:56:16 [No.7721]
Re: 今のところ27日23時までに提出する予定ですー... - 九音・詩歌@詩歌藩国 - 2011/06/26(Sun) 23:05:31 [No.7722]
Re: 今のところ27日23時までに提出する予定ですー... - 九音・詩歌@詩歌藩国 - 2011/06/27(Mon) 01:26:17 [No.7723]
質疑返答きましたー - 竜宮・司 - 2011/06/17(Fri) 10:41:06 [No.7713]
EV172 ”種族を分ける” についてお尋ね。 - 花陵ふみ - 2011/06/16(Thu) 22:28:05 [No.7709]
質疑出しましたー - 竜宮・司 - 2011/06/17(Fri) 02:31:20 [No.7711]
Re: 質疑出しましたー - 花陵ふみ - 2011/06/17(Fri) 07:29:03 [No.7712]
芸術の民 設定文章 - 鈴藤 瑞樹 - 2011/06/12(Sun) 22:04:16 [No.7701]
検閲後 - 九音・詩歌@詩歌藩国 - 2011/06/19(Sun) 00:20:47 [No.7716]
誤字発見 - 岩崎経 - 2011/06/13(Mon) 15:24:38 [No.7702]
ちょっとしたジョークってやつさ! - 鈴藤 瑞樹 - 2011/06/13(Mon) 19:04:01 [No.7703]
(No Subject) - 士具馬 鶏鶴 - 2011/06/12(Sun) 01:02:27 [No.7700]
申し訳ないけど使わないかも - 竜宮・司 - 2011/06/17(Fri) 02:11:22 [No.7710]
シーズン2犬士の実績纏め - 竜宮・司 - 2011/06/09(Thu) 23:52:27 [No.7697]
犬士さん用のSS。 - 花陵ふみ - 2011/06/08(Wed) 19:28:22 [No.7696]
ちょっと変えました。 - 花陵ふみ - 2011/06/19(Sun) 08:35:25 [No.7717]
カーシー 設定文 - 鈴藤 瑞樹 - 2011/05/29(Sun) 19:43:05 [No.7690]
関連質疑 - 鈴藤 瑞樹 - 2011/05/29(Sun) 19:39:26 [No.7689]


芸術の民 設定文章 (No.7688 への返信) - 鈴藤 瑞樹

『芸術の民』


芸術とは、なんらかの作品や表現などによって、自身と相手が相互に影響し合うことで、互いの心に変化を与えることを指す。
それはつまり、一人では芸術は完成しないことを示している。

どれほど優れた芸術家であっても、作品を見る者がいなければ、それは芸術たりえない。

逆をいえば、作品を生みだす者、鑑賞する者が一人づついるのであれば、生んだ者、表現者は芸術家たりえると言える。

一方で、現実には本質とかけ離れた一面も、ままある。
絵画、彫刻、詩歌、建築、歌劇。
芸術と呼ばれるものには様々なカタチがある。
それらすべてを総称して、芸術と呼ぶ。

芸術というものには、優劣がつけられることがある。
それは日々努力を続け、高みを目指す場合には必然と言っても良いほどに当たり前のことだ。
あらゆるものは、競争の中でこそたくましく育つ。

だが、はたしてそれは正しく芸術と言えるのだろうか?
もしくは、既存のカタチとは異なる道もありうるのではないか?
そも我々が芸術と呼ぶものに、貨幣的価値など必要ないのではないか?


ニューワールド中からあらゆる芸術が集う国、詩歌藩国のなかで、そんな考え方をする一派が台頭してきたのは、つい最近のことだ。

みずからを芸術の民と名乗りる、のちの歴史に<新芸術派>と呼ばれることになる芸術家たちの総称である。

彼らの主張は、とてもとても単純で明快なものであった。
すなわち「すべては芸術である」

/*/

『Art with life.』
 
芸術は生活とともにある、と彼らはいう。



たとえば、一組の若い男女がいたとする。

青年は少女に好意を持って接するが、彼女はまったく気づかない。
二人はとても仲が良いが、ただそれだけだった。
そこで彼は、三日三晩かけて恋文をしたためた。便箋にぎっしりと愛の言葉が詰め込まれた、力作である。
その手紙はきっと少女の胸を打つだろう。
その恋は、言葉は、便箋は。まぎれもなく芸術である。


たとえば、閉店間際の深夜のバーで、客がひとり、くだを巻いている。
仕事でくたびれきった男は、まるで終わらぬ夜を歩いているようだと、愚痴をこぼす。
そう言った男に、バーテンダーは注文にないカクテルを差し出した。
黄色くいろづいた酒のなかに、真っ赤なサクランボがひとつだけ浮いている。
それは夜明けというカクテルだと、バーテンダーが説明した。 どんな夜にも終わりはきますよ、と。
男が夜明けの酒をくちに運ぶと、それはとてもきつい酒の味がした。
明日を歩むその厳しさを、教えてくれているような気がした。

その言葉と、カクテルと、気遣いは、まぎれもなく芸術である。
男はすこしだけ、胸を張って明日を進むだろう。


家で、母の帰りを待つ娘がいる。
まだ幼い少女は、色とりどりのクレヨンを手に取って、画用紙へと塗り広げていく。
彼女は自分がいちばん好きなものを書き上げた。 それは、母親の笑顔であった。
少女が母親にその傑作を手渡したとき、それは母親にとって生涯の宝物となるだろう。
少女は間違いなく、偉大な芸術家である。

それが芸術の民にとっての芸術であり、ある意味では誇りとも呼べるもの。
芸術の全肯定がそこにあった。

人はすべからく芸術である。
そして人生とは、芸術の連続である。


芸術を極めようと努力する者がいる。それは良いことだ。
しかし、それだけが芸術ではないはずだ。
子供が、大人が、老人が、男が、女が、犬が、猫が、北国が、南国が、東国が、西国が、はてない国が、森国が、生きとし生けるものすべては芸術であり、創造し、鑑賞することも同じく尊ぶべきことだと、彼らは言った。

それは、ある人にとっては当たり前のことかもしれない。
だが、それを当たり前のこととは思わない者もいるかもしれない。
彼らは声を大にして叫んだ。

芸術の民風に言えば、それもまた芸術である、と言えるのかもしれない。


/*/


芸術の民とはいうが、基本的な部分はこれまで詩歌藩国を支えてきた国民となんら変わらない。

当然のことだが見た目にはまったく変わらず、ひとつだけ違うのは、芸術というものをとても身近に置いて生活しているという点だ。


これまで詩歌藩には音楽院が象徴として存在したが、学ぶには厳しい選定試験があり、悪い言い方をすれば、その他大勢を切り捨てる形で質を向上させてきた。
<新芸術派>と呼ばれる人々が、これを変えられないかと唱えはじめたのがきっかけだった。
国をあげての産業育成もあり、この思想は一気に広がりを見せた。

すべての人々に音楽を、そして芸術のすばらしさを。
そういった思いが行動へと結びついた。

現在の詩歌藩国では、国のどこにいたとしても音楽が聞こえてくる。
それは音楽家や吟遊詩人たちが演奏しているものでもあったが、国中の人々が、仕事の合間に楽器を演奏していることが大きい。
芸術振興による効果である部分ももちろんあったが、それ以上に彼ら芸術の民による普及活動の成果だった。
もともと音楽院や美術院の出身者である彼らは、乞われれば誰にでも自身の技術を教え広めた。
すべての人々に音楽を、そして芸術のすばらしさを。
その活動はいつしか国中に広まり、親から子へ、子から孫へと伝えられ、いつしか国の誰もが楽器を扱い、絵筆を握るようになった。

それはまるで、国というひとつの楽器が奏でるオーケストラのようだった。
人々が紡ぎ出す様々な旋律が、風に乗って吹き抜けていく。
もしかすると、詩歌藩国という巨大な楽器を創り上げることこそが、芸術の民が最初に手がけた芸術作品なのかもしれない。

/*/

詩歌藩国の冬は長い。
わんわん帝國の最南端に位置するこの国は、ニューワールドのなかでも極寒の地として知られている。

都市部は地熱利用によってある程度の積雪には対応できるものの、真冬になれば地上は数メートル単位での積雪によって、屋外活動が著しく制限される。
地下通路などの利用で外出には支障がないものの、過去からの慣習で、国民の多くは長い冬のほとんどを自宅の中ですごしている。

多量の食料を備蓄し、風邪を引かぬよう暖炉で部屋を暖める。
刺繍や機織りなど、外に出られなくともできることはたくさんある。
この頃、子供たちは老人たちの昔語りを日々の楽しみとして育つ。
もちろん詩や歌を教え込まれることもある。
コンピュータ技術や電化製品など、世界中からさまざまなものが国内へとやってきたが、それでもこの国は昔からあまり変わっていない。

そんな中、芸術の民は冬のあいだどうしているのか。
もちろん決まっている。 芸術のために全力を注いでいるのだ。

長い冬期休暇の中で、彼らはキャンバスに向かい、詩を書き、金細工を彫り、歌を作ってすごす。
気兼ねなく創作に没頭できるためか、毎年、冬明けになると多くの芸術家が作品を発表する。
それはまるで春に咲く花のように、多くの芸術たちが一斉に芽吹き出すのだ。

また、作品制作とは別に、冬季期間の芸術の民にはある種の傾向がある。
それは、冬の間、彼らの服装がとても前衛的になるということだ。

本来、詩歌藩国において服装とは凍死しないための防寒具という側面が大きい。
なによりもまず求められるのは寒さを防ぐ機能性であり、見た目などについては二の次に考えられることが多かった。
しかし昨今、他国との聯合などによって文化が流入し、美術意識の向上などがはかられたためか、服装のおしゃれについて意識する者が増えていた。
高位北国人の要点からもわかるように、薄着の文化は確実に根付いてきていたのだ。

もちろん屋外では昔からある厚手の服を着るのが一般的だが、暖かい屋内に長くいる冬の間は、さまざまなオシャレを楽しむ者が若者を中心に増加していた。

なかでも人気なのは、東国にあるゆったりとした和装や、南国の布地が少ない袖なし服などである。

普段は着ることのできない服を身につけるという行為が、ある種の非日常を感じさせるのかもしれない。

ちなみに私見だが、私は南国の耐水性に優れた衣服などは着やすい上に見た目にも麗しく、非常に好ましいと感じている。
特に色が白だったり、ハリセン付きであるなどすれば文句のつけようがない。
ぜひとも多くの方々に試していただきたい衣服である。
流行るといい、というかむしろ流行れ。

そして、この非日常という部分が芸術家にとってはとても重要な意味をもつことがある。
人の姿形は、その人となりを表しているという。
であれば、服を変えることは人が変わるということでもある。

芸術は心を表現するものだという。
服を変えることで自身に変化を与えることは、新たな作品を生み出すことにもつながると考えたのだ。

画家のオズワルド・アマデウスもまた服装に気を使った一人だ。

ある雑誌のインタビューで彼は、冬のあいだはよく東国の紋付き袴を愛用していると答えている。
黒を基調としたその装いを身につけると、身が引き締まるように感じるという。


ただ、ひとつ気になる噂がある。
ちょうどオズワルドが作品を描いているときに友人が訪ねた際、応対に出てきたシュタイナーは袴ではなく、なぜかブーメランビキニひとつを身につけただけの姿だったというのだ。
しかし、それはあくまで噂であり確たる証拠はない。
真実の究明が待たれるところであるが、場合によっては、そのまま真実は薄いヴェールに包まれたままでいるほうが、良いことなのかもしれない……。


[No.7701] 2011/06/12(Sun) 22:04:16

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