共依存の関係を語る上で欠かせないのが「イネーブラー(Enabler,”支え手”ともいう)」と言う概念です。
イネーブラーは、わかりやすく言えば共依存のような辛い関係を陰ながら支えてしまい、より状況を悪化させてしまう役割を持っている人です。言葉のルーツは、アルコール依存症の夫とその夫の世話をする妻の二者関係とされています。 自分一人では自立した生活を送れず、妻のサポートなしでは生きていけない状況に依存する夫と、妻はアルコールのせいでダメになっている夫を支えることに、精神的な充足感や自分の役割意識、自分らしさ「アイデンティティー」を見出し依存しています。
イネーブラーの特徴 他人に依存される関係を潜在的に強く求めている(それが深い愛だと認知している) イネーブラーになる人の特徴は、他人に依存される関係を強く求めているという点です。
困っている人の助けになりたい 人の役に立ちたい 人から感謝されるような人になりたい 他人に尽くしたい など、どれも他人に何かを施す事を軸とした人間関係を強く求めています。
もちろん、こうした気持ちを持つのは誰でもあることですが、特にイネーブラーとなる人にはこの気持ちの強さが顕著です。
ここまで顕著になる原因として考えられるのが、イネーブラーになる人は自我が未熟であり普段から不安を感じやすい。そして、不安を解消する方法のひとつとして「他人から必要とされている自分」になることで、自分らしさ(アイデンティティ)を確立しようとします。(誰かの役に立ち必要とされている自分はここにいてもいい。愛されているという安心感)
「人の役に立ちたい」という願望を持った人は、社会的・道徳的に見ても求められている理想的な人間像であり、自分らしさがわからない人が手っ取り早く手にしようとするアイデンティティーとしては、まさにちょうどいいお手本です。 加えて「あなたは人のために頑張ろうとするなんてとても立派だね」と、自分らしさを素直に認められるポジティブな言葉を獲得しやすいのも魅力的です。 そのためそれが目的になると自分の賞賛や評価のために、先回りし甘やかし他人の自立を奪ってしまう傾向が強くなります。
こうした人の特徴は、対等な関係が築けない 自分は援助者であり被害者という立場をとりながら、実質相手から自立、責任をとる機会を奪い、自分に依存させることでその相手に自分も依存する。
イネーブラーを生む背景にあるもの 原因背景の1つとして考えられるのが、自己犠牲を尊ぶ価値観です。日本はこれが特に強く、自分を守るためにこうせざるを得なかった背景もあると思われます。
イネーブラーの生き様は
「自分さえ我慢すればいい」 「自分はどうなってもいいけどこの人だけはどうにかして支えたい」 と言う、自己犠牲をいとわない優しさや責任感に溢れているものといえます。
もちろん、優しさや責任感を尊ぶことは間違いではありません。しかし、それらは度が過ぎると、優しさを行使する人が取り返しのつかない犠牲を背負うことを肯定してしまうと同時に、優しさを施される人がつけあがって自分で自分を追い込む状況になる事を肯定してしまう危うさがあります。(お互いのためにほどほど。自己犠牲の側も最後は怒りや悲しみになりますし、された側も自立を奪われ最後は怒りと悲しみになり、双方同じ痛みを持つからです)
日本だと「滅私奉公」のように自分を犠牲にしてでも他人や組織に奉仕する姿勢そのものが良いものとされていますが、そのことが結果としてイネーブラーを生む土壌になっているのではないかと考えられます。日本の構造そのものが全て共依存になってしまっており、国家と国民、会社と個人、家庭内の夫婦関係、親子関係(特に母と子。自己犠牲的な母親と自立できない子供、いつまでたっても精神的に親離れ子離れできない、そのまま結婚子育て、繰り返し。)
ハラスメントや虐待の背景にもそうした歪み、実は親の干渉放任や自立を拒んだことへの深層的な怒り(支配コントロールされてきた悲しみと怒り)、それを親に向けられない卑屈さと甘え、それを他者や配偶者、自分よりもまた弱い場所へのループも関連していると思います。
そして、ストレスの原因第一位は『仕事』『会社』であり、自分のキャパシティとあっていないのなら実は、働き場所や働き方を見直す、滅私奉公的に自分の人生をそれだけに集中させるのではなく、自分の人生の中のひとつとして働くことがあるのだ、という意識の改革(視野狭窄になりそこだけに過集中するのではなく、自分の人生はこう生きたいという中のライフプランのひとつに過ぎない、そして人と比べる必要もなく自分で幸せになっていい)が求められているように感じます。 同じく結婚の有無、子供の有無、家族のあり方・・すべて・・。 No.11511 - 2022/10/04(Tue) 10:13:31
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