心遣いありがとうございます。
雪さんはどのように受け取られたのかは私の思うものと同じか似ているのか違うのかはわかりませんが、私は自分で言っていてなんですが、『』の部分は自分も出来るかといわれれば難しく反対の立場になれば同じようになるかもしれないなとも思っている部分です。 私も言語化するのが面倒だ、わざわざ説明をしたり解説したりお願いするなんて面倒、もっと言えばお願いしたら下手に出る気がする、などと思うかもしれません。 自分を振り返り、必ずしも自分が言うほど、私が定型家族に同じことが理想的にできていたかと言われれば自信がなくなるどころか恐らく相手を言えないほど出来ていなかったと自覚しております。
ただ、そんな自身を感じながらも言わずにおれなくなる理由は、彼女たちにも伝えますが、そのことから、自分は信じてもらえていない、話すに値すると思われていない、言うと怒るに違いなど最初から信頼よりも不信や恐怖心が強いのだと感じなんともいえない寂しさとだったらなぜ一緒にいるのかという怒りか戸惑いか拗ねた心持なのかわからないがっかりというのに近い気持ちになるからです。 と同時に、分かるのです。 彼女たちが怖いのはある意味仕方なく、恐怖がなくなるくらいに共感して寄り添い信頼できるくらい何を考え感じているのか話すことができていない自分とこれまでの日々があったこと、パニックになり自分のことでいっぱいになったときプライドを捨ててでも自分の情けなさと恥ずかしさと今どう感じたかを正直にぶちまけてしまったほうがよかったのかもしれないこと、私自身も自分をもてあましながらどうしてよいのかただ分からずくすぶってはそんな自分に嫌気が差し、理解せず否定ばかりの相手に八つ当たりめいた感情とやり返したいような鬱屈した闇があることにも絶望しました。
表面のよい自分だけを見せていたらいいのか、それともこの闇も絶望もいっそさらけ出してしまえば共感とやらができるのか、もう何もわかっていません。自身も傷つきたくはありませんしカッコいい自身でいたいのです。闇もこの感情も全てがみっともなくこれを知られれば自分を見切り離れていくだろうと考えて自分が彼らと一緒にいたいのか離れたいのかすらもう分からないのです。
彼女等を見ていて感じるのは不思議なことに安心感と劣等感と軽蔑するような心地よさと親近感です。
私が今まで定型発達と同じことを求められて苦しかった、しんどかった、自分でもそう出来たらいいと思っているのにしんどくて逃げたくて息ができなかった、そしてその時に逃げていいとも誰も言ってはくれず自分からも相手からもただ責められ自分に劣等感と情けなさを感じそれを感じさせる定型社会やそれだけを肯定する人々を心底で恨むとともに自分の方が頭が良いと自負し見下すことで心のバランスをとっていたように思います。 反対になったかのように、今、私に必死で八つ当たりをしてバランスをとり、息が出来ないかのように必死でわめく彼女たちを見てそのときの自分を見ているようにも感じるのです。 これを共感というのかもしれません。 私は正直心の奥闇でやりかえしてやった、いい気味だ、私と同じ地獄を味わえばいい、そうすれば少しは今までの私達の苦しみが分かるだろうという溜飲の下がる爽快感、それを感じ考えている自分への罪悪感と嫌悪感、その先でまるで自分が必死になって生きていたのを見るようでもういいと静かに休ませて守ってやりたい気持ちと泣きたくなるような、これは言語化できませんが自分のようで好きなのか嫌いなのか分からないというか、自分のようで守ってやりたいのか叱責してもっと頑張らせたいのか分からない心持で揺れます。
自分が苦しかったようにただ今は逃げていいと言ってあげたい、ただ好きなように生き生きしてればいいのだと言ってあげたい、しかし、私がそれが欲しかった時彼女等が私にそれをくれたことはなかった、それをしてしまったら自分ばかり損してしまうと浅ましいですがつまらない損得を考えることもあります。 と同時に、今の彼女等が嫌いなのかと言われれば、昔よりも嫌いになった、なのに不思議と嫌ではなく、こんなに醜くみじめでみっともなく、私を責め続けてくるのにも拘らず、むしろ今までよりも共にいたい、好きだという気持ちもあるのです。不思議ですが。
実は一人でいなよ、と思いつつも共に出かけることが多いです。いい加減にうるさいと思いつつも限界まで話をすることもあります。
好きなのか嫌いなのかも分からず、なぜ一緒にいるかも正直分かりません。ただ、自分が弱くみっともないことを認めたから彼女等のそれをただ受け入れられたのか、それとも彼女等のその醜悪さとみっともなさを静かに受け入れられたから自分のそれを飲み込もうと出来たのか、答えは分からないままですが、以前の私には出来なかったこと、きっと私一人では知ることのなかった自分の変化を感じているのも事実です。私は以前の自分の方が好きです。このように迷い感情に流され自分が小さく弱いのは嫌いなのです。しかし、私にとって大嫌いな私をこんなにも引きずり出す他人である家族に不思議な愛着を感じてもいます。
いつか彼等と別れるとき、大嫌いな自分を好きになれてそのような自身に胸を晴れる日が来たのならこの家族と違う特性の彼女等に心から大変な感謝が出来るように思っています。出来るかどうかはわかりません。その前にお互いの限界が来るのかもしれません。ただ、私の中の闇が怖くなくなったとき彼女等の闇もきっと怖くなくなるのだろうと信じています。
雪さんの人生は私には分かりません。ですが、言ったことも本音ですが、それと同じ程度にこれもまた本音と思うのが、言えずに察して合わせてくれていたことに気づかなかったけれど助けられていたこと、心のどこかで言えない事に気づいたのにそれでいいと思ってしまったずるい自分もいたこと、言えなかった事を責めるなら言わないでいてくれた優しさにも目を向けてこそ公平だった、私にも足らない言葉がありずるく至らないところがあった、とも思います。
自分は人との会話が苦手ですのでこれが何を言ってるのか会話として成立しているのかよく分かりません。不快でしたら心よりお詫びいたします。
私や家族を心より案じ応援してくださった心持に感謝しております。雪さんも心安らかにお幸せでありますよう心より祈っております。 No.11292 - 2022/01/18(Tue) 19:35:56
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