■ 「自己イメージ法」をはるかに超える成長へ^^ / しまの  |
引用 |
No.1147 2015/11/13(Fri) 15:43:41
(親トピック削除のためコメント記事のみここに収録しています^^)
これはじっくりアドバイスを^^。
「自己イメージ法」の役割と罠
これはまず、
>コーチングなどでは理想の高い自己イメージを持つことを推奨しています。
という、「理想の高い自己イメージを持つ」ことの役割意義の理解から話を始めるのが良いかと。
一言で、「自己イメージ法」とも呼べるであろう、自分を高めるための方法、という話になりますね。 定義としては、「高い自己イメージを持つことによって、気持ちを持ち上げ、目標への動機づけにする」というものだと言えると思います。
これについて僕の意見を簡潔に述べるならば、まず墓本的にはそれは人生で役に立つものだと思います。まずは「こんな自分になりたい」という高い自己目標像を描くことから、成長への歩みが始まる。それはいいと思います。 ただしそこから、大きく2つの罠もしくは轍が、待ち受けている、と。
罠その1・「内実」が伴わなければ「張りぼて」
1つ目の罠は分かりやすい話だと思います。 「高い自己イメージ」として抱くものとは、基本的に「人の目にこう見られる自分」という外面体裁です。 ですので、そこに「内側内面の充実」である「内実」が伴わないと、そこにあるの「はりぼて」といものになる、というものです。 正真正銘の張りぼてというのは、たとえば北京五輪の時、近くのみすぼらしい貧民街を高級そうなビルの絵を描いたつい立てでおおったものなど。 職業においては、正真正銘の張りぼてだとその職業が続けられないことになるものであり(ニセ医者など)、一応はまっとうな資格として就いている職業はそれなりの内実があるからだという話になりますが、それでも起きてくる可能性があるのは、その職業の意義を高めるような心がこもっていない、魂がこもっていない、と評されるような姿です。 これが典型的で最悪なものは、警官が起こす事件とか、消防士が起こす放火など。 そうなるとそれはもう「精神的な張りぼて」の姿だと言えるものになるでしょう。 ご質問の状況も、そうした「精神的張リぼて」が、まあそうした外面的悪質性はなしに、ごく内面において起きているものと言えるかも知れませんね。外面体裁のレベルで魅力を感じ、目標にしようとしたものの、それを自分がやる意義とやリがいを、心底からは感じられていない、というもの。
罠その2・「高い自己イメージ」は実は「低い内実」の表現
もう一つの罠は、多少難しい心理メカニズムの話になってきます。 「高い自己イメージ」は実は「低い内実」の表現だ、というものです。 これは分かりやすい例として、「自転車に乗れる自分」という自己イメージの話として、未出版(そのうち無料電子書籍化予定^^)ですが 『理論編上巻』の 7章 「自尊心」の混乱と喪失−2 −なぜ自信が定着しないのか− の 「自信」と似て非なる「高い自己評価(プライド)」感情 の節などで説明しています, 我々はまだ自転車をうまく乗リこなせていない段階で、「うまく自転車に乗れる自分」という「高い自己イメージ」を描きます。それを目標とし、また自分はそんなはずだ、と自分を鼓舞することが役立ち、またそれが必要にもなります。しかし本当に乗りこなせるようになった時、それはもういらない、と。 一般的に言って、高い技能ほど、高い習熟に向かうごとに、向上を導くのは「自己イメージ」なんて薄っぺらい(^^;)ものではなくなってきます。内側の細かい技術なり精神性なりになってくる。
冒頭に書いたように、「高い自己イメージ」が役に立つのは、「目標への動機づけ」というあくまで最初の最初であって、 そこからスタートしたらなら、視点を変えなければならないわけです。 一般的に言って、そこから「専門性」が出てきます。内側の細かい技術なり精神性なりについての。「高い自己イメージ」 と言っている範囲では、そうした専門性はいらない。 そんな状況で、「高い自己イメージ」を推奨しているだけのコーチングとは、それこそ内実のあまりない、張りぼてのコー チングです(失敬^^;)。まあその安直さが人受けして本やセミナーにすれば売れるんでしょうけどね^^;
「高い自己イメージ」が裏に生み出す自己嫌悪
さらに一歩踏み込んで考えるならば、技能などのレベルが高い人ほど、「高い自己イメージ」よりも、「いたらない自己イ メージ」をより積極的に持つようにするのでは、とも思えます。 それが「謙虚」という美徳です。それこそが自分を本当に高め、自分に利益をもたらすものであることを、高いレベルに向かう人ほど、感じているのでは、と。
そしてしきりと描こうとする「高い自己イメージ」というのは、得てして、北京五輪の例で言ったように、臭いものに盖をするための強烈な香水であったりします。 そして人がそれに駆られる、という病んだ心理メカニズムが起きてくるわけです。意識の表面では燦然と輝く自己像が描かれ、無意識に追いやられた、「みすぼらしい自己像」が心の底でくすぶります。この心の膿が深刻であるほど、意識の表面の燦然とした自己イメージの空想に駆られる度合いも病的に強くなってきます。 見逃せないのは、ここで「エセで傲慢な自分」という自己嫌悪感情が、無意識の中で用意され、そして膨張していくことです。そしてそれから逃れるために、「高い自己イメージ」が不自然に高潔な精神的精練性を帯びたものへと練り上げ られていくかも知れません。そして薄氷の「燦然とした自己像」と、「みすぼらしくエセで傲慢な自己像」が錯綜し渦を巻く。 ・・と少し病的心理メカニズムまで話を膨らませましたが、こうした心理過程が心の底に固着してきて、「神経症的人格」が出来上がる次第です。
まそこまで錯綜した心理の話となるとここではもうど一でもいいとして(というより結構関心度の高い話?^^;)、こうした薄氷の「高い自己イメージ」が脆くも崩れ、「みすぼらしくエセで傲慢な自分」という自己イメージへと雪崩を打って一気に切り替わっていく様子が、僕の『悲しみの彼方への旅』の中などにも出てきます。P.146からの3ページにて。
ですので、
>人にどう思われるかあまり気にならなくなりました。
はもともとそう深刻な話ではないとして、それだけ心の健康度が増してきたということかと思います^^。
「自己イメージ法」をはるかに超える成長へ
ということで、
>自己イメージを意議的に高<持つという事について島野さんはどう思われますか?
については、一言で、それはあくまで「目標への動機づけ」としてはok。 ただし実際に何かの目標に向かうにおいては、さらにはその目標そのものの自分にとっての価値の妥当性を再検討するにおいても、「高い自己イメージ」なんてものではなく、別の視点へと移る必要がある、ということになります。 そうした別の視点なしに、意識的に自己イメージをただ高く持とうとするというのは、あまり役に立つものではなく、害があるというか、それ自体が未熟と病みの症状のようなものだ、と。
ではその別の視点とはどんなものかというと、それがまさにハイブリッド心理学の取り組み実践の全てだということになリますが、ポイントをまとめておきましょう。
まずスローガンとしてはこう言えます。 「自己イメ ージ法」をはるかに超える成長へ、と。つまりそれは、 自己イメージを高めるのではなく、自己の現実を、そして自己の真実を、高めることです。
そうして「自己の真実を高める」ための実践とは、「感情と行動の分離」の姿勢で始めるハイブリッド心理学の取り組み実践です。 「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解することのみ行う」というものです。
自己イメージは「ただ流す」内面感情側の扱い
まずポイントは、そこにおいて「自己イメージ」は、「ただ流し理解する」という、内面感情の一つとして扱う、というものになります。 ですので、「意識的に高く持つ」というよりも、まずは湧くがままに湧かせ、自分がどんな自己イメージを持つのかを、まずは把握することです。高い自己イメージも、逆の「唾棄された自己イメージ」と呼べるものも。 そしてそれを鵜呑みにすることなく、自己の現実、自己の真実の全体を高めるための方向を見極めてい<。
「価値」と「望み」を見極めていく
すると見極めていくものが、心の外面および内面の双方に出てきます。
一言で、外面においては「価値」を、内面においては「望み」を、見極めていく、と。
まず外面における「価値」として、 たとえば税理士が一つの目標になるのであれば、それがどう華やかな職業かというイメージをどうこう描けるかではなく (それは一応内面感情として流すとして)、税理士が企業や社会にどんな「価値」を生み出すか、といった命題に、「価値言葉」で答えられるようになるというのが一つの目安になるでしよう。 税理士を目指すことが、自分にとってどんな価値があるかを自分に問える状態になるための、目安としてです。 こうした「価値言葉」での思考については、 『入門編下巻』のP.212-213で書いていますので一読頂ければ。
あとそれと重なる視点として、「匿名性において生み出す」という姿勢視点を知るといいでしよう。誰ともつかない者が行う、価値あること。それを自分は行うという姿勢です。 これについては、 『理論編下巻』 7章 人生の答え−2 −「魂の望み」への歩み− の 「匿名性において生み出す」・「揺らぎない自尊心」への第一歩 の節で解説しています。
重要なのは、こうして「価値を生み出す」という姿勢こそが、来歴において華やかな知人達の世界に入れなかったというような挫折感情を、真に克服する道になるということです。 それは決して、「見返せるだけの華やかな職業」なんてイメージをどう追ったところで、克服はできない、と。その先にあるのは、空虚と孤独だ、と。これは内面の「望み」の視点として、 下でまた書きますので^^。 これは上記入門編下巻の続き、P.214で次のように書いている通りです。 ===== これは特に、来歴において自らの「存在の善悪と身分」に傷を負ったような挫析感情がある場合に、その克服のために決定的に重要になります。 この姿勢は必ず、人からの信頼を得ることができます。それがやがて、心の傷を凌駕するのです。 ===== と。
「望み」への向き合いと「人生の道理」への目
そうして、外面においては「価値」に向き合う一方で、内面においては、「望み」に、深く向き合うことです。
「高い自己イメージ」であれば、それによって、自分は何が得られるものとして、望んでいるのか。 そしてそれが、「現実」において起き得るものなのかを、しっかりと見据えることです。「現実」というのは、しばしば、イメ ージの華やかさとは裏腹な面を、我々に突きつけるものです。それをしっかりと見据え、自分が何を望んでいるのか、そして何が自分に真の幸福をもたらすのか、自分は何を本当に望んでいるのかに、向き合い続けることです。
その向き合いの歩みの中で、人生の道理を見る目を、いかに築いていくかが、問われることになリます。 薄っぺらいものに心を奪われていれば、その薄っぺらいものに、やがて滅ぼされます。深いものに心を向けることができた時、やがてその深いものによって支えられるのです。 いくら他人に浅く広くちやほやされたところで、やがては空しさと孤独が訪れるのは、時に著名人のCENSOREDに示されます。 やはり愛する家族を持つことが、幸福の一つの道標にはなるでしよう。しかし外面体裁を材料に、いわば力づくで結婚 したところで、得られるのはもう似て非なるものになる可能性が高い。等々。 こうしてどこまで人生の道理を見極めることができるかは、もうその人次第ですね。しかしそれが、結局、その人が「これが自分の人生だ!」と言えるものをつかむための、足場になるわけですね。
そうした向き合いの歩みの道があるというのが、アドバイスになりますね。 この向き合いによって何を見出すかは、一度に全ての答えが出ることは、ありません。向き合いの中で、次第に違うも のが見えるようになっていきます。そして最後には、歩みの最初からは予想だにつかない、最終的な答えが訪れる。 そんなものです。10年20年、さらにはそれをはるかに超えた人生の歳月を通して、です。 ぜひじっくり検討してみて頂ければ^^。
→関連スレッドを表示 |
|