■ 「最も大切な愛」という頂きへの裾野からの歩み^^ / しまの |
引用 |
No.630 2013/09/27(Fri) 20:52:16
少々時間を食いましたが、またじっくり^^(事例集にも乗せられるよう^^)。
「根源的自己否定感情が働く心の動きになるまいという姿勢がまさに根源的自己否定感情の焼き直し」
>*これは、あるべき理想を抱いて圧力を掛ける(例えば、暗い自分ではダメだからと無理に明るく振る舞うなど)ことが、さらなる恐怖の蓄積を生み出し、本当の自分(ありのままの感情)は置き去りにされることで、つまり見放された感覚はちっとも無くならない、というような状況を言っているという理解でよろしいでしょうか?*
いえ・・それは「焼き直し」の話ではなく、根源的自己否定感情が働く様子そのまんまですね^^。 「焼き直し」になってしまうとは、そうした根源的自己否定感情の悪影響を理解するのは最初の学びとして、そこから始まる心の成長への取り組み実践においては、根源的自己否定感情についてはあまり取り上げることはできないものになります。意識できないものですので。 取り組み実践は、根源的自己否定感情を克服しようという意識ではなく、あくまで「望み」に向き合い「望み」に向かうという意識の上に前進するものになります。 そうした状況で、根源的自己否定感情について理解した後に、それがなくなる自分を理想像にしたり、その克服をしようとことさら考えることが、まさに根源的自己否定感情が再び働いている焼き直しになるということです。
で、それではいけません・・ではなく、それもある程度仕方ないこととして、取り組み実践は、それとは別のものとして、「望み」に向き合い向かうことを軸としたものとして進める必要があるということになります。 その話のような例で言えば、自己否定感情の上に「無視に明るく」しても「見放され感」がなくならないというのを、今までの自分の心への理解として、次に向かうべきことは、そうして「無視に明るく」しようとした状況で自分が何を望んだのかを、そしてこれから何を望むのかへの、向き合いから始めるということです。その先に、無理にではなく明るく振舞えることを模索するのが、あるいは自分をいったんそうした場から離すことが、今できる最善の行動になるかも知れない。 それが、「望み」に向き合うと共に、心の健康と成長に向かい得る行動法の選択肢を学び、自らの幸福に向かうための選択を模索するという、この心理学の取り組み実践になるわけです。
根源的自己否定感情はどのように克服されるか
>*「恐れ」「自己嫌悪」の克服あたりが最も軸になる” とのことですが、具体的な克服法としては、恐怖、自己嫌悪を感じる時がまさにチャンスとなるでしょうか?* *恐怖、自己嫌悪を感じる場面に直面した時、「学びの一覧表 - 内面向けテーマ- 悪感情の克服」の項目に真摯に向き合い納得理解し、建設的な行動を取る → その結果、心に変化が起き「根源的自己否定感情」に駆り立てられていた ”こうあらねば” という感情が無くなる(または、弱まる)ことが直接感じ取れる感情としては実感できる、というような流れになるでしょうか?*
全ての悪感情が、「学び」のチャンスです^^。 その中で、根源的自己否定感情に駆り立てられた「こうあらねば」ストレスが消える流れを考えるならば、 1)硬直した善悪思考による「こうあらねば」を、「目的思考」による合理的な「これこれのためにはこうできれば」という思考に置き換える。これは行動以前のもの。 2)自分の「望み」に沿う合理的な「こうできなければ」という目標について、合理的な知恵とノウハウを学び実践し、実際にできるようになる。 3)合理的な「こうできなければ」という目標について、そうあれない自己の内面に向き合い、「心の死と再生」を経る。 という大きく3つの通り道があると理解しておいて頂くと良いと思います。 これは、 「学び」とのギャップを生きる 心が進む道 などで、そうした3つの通り道があることを言っている通りです。
ですので、「建設的な行動を取る →”こうあらねば” という感情が無くなる(または、弱まる)」という流れは、厳密にはないように僕としては感じています。行動以前に、不合理だったものとして捨て去られるか、行動して「実際そうなれた」ので、「ならねば」とはもうあまり感じなくなる(これは当然^^)。 3つめの通り道について留意しておきたいのは、「こうならねば」というストレスのが「望み」にも沿うものとして、むしろ膨張し、呑み込まれてしまうという流れになることです。取り組み実践の中で、そうなる流れがあります。そこで場合により希死念慮も起きる可能性もある。この場合は、それをただ流す先に「心の再生」があることを心得ておくことが大切です。
いずれにせよ、「こうあらねば」ストレスや「望み」の具体的内容によって、ハイブリッド心理学からの「心の健康と成長に向かい得る行動法とそれを支える内面姿勢」の具体的内容が出てきます。まずそれを学んで頂くのが道順になります。この具体的内容抜きに、あまり克服への流れを考えても取り組みはあまり前進しません。 ま例によりその具体的内容の情報提供の整備がこれからなんですけどね^^; というか今からここで書きますのでという話^^。
根源的自己否定感情の克服そのものを言うならば、そうした取り組みによる前進の全てが、徐々に貢献します。 そしてさらに、そうした地道な成長の積み重ねを足場に、「自分が神になる衝動」という哲学宗教的テーマにも向き合うことで「否定価値の放棄」を成すと、根源的自己否定感情の克服としても大きな節目になります。そしてそれでも残る根源的自己否定感情の克服の、最後の大きな節目が「命の開放」として述べているものになるというのが、ハイブリッド心理学の登山ルートだという次第です。
「実存を守れ」
>島野さんは、執筆のどこかで「実存を守れ」という言い方をされています。実存を守れ= 自死否定 と私が捉えてしまったと思います。*ちなみに、「実存を守れ」というのはどういう意味で使われたのでしょうか?*
『実践編上巻』 3章 自己の受容・未知への選択 『理論編下巻』 4章 「未知」への大きな前進−1 ですね。 「自己操縦心性の崩壊」に際しての心得として、その言葉を使ったものです。CENSOREDの否定といった一般的な話ではなく、取り組み実践のかなり限定された場面の話になります。
「自己操縦心性の崩壊」とは、根源的自己否定感情を原動力として、「もしこうなれれば」という空想の衝動によって意識・・というか精神の全体が支えられていた状態が、「空想通りではない現実の知覚」あるいは「空想に生きている自分の誤りの知覚」によって崩壊すると言えるような現象です。その時、こうした意識状態つまり自己操縦心性の裏返しと言える、今まで隠されていた「自分は駄目だ」という感情が表面化し希死念慮が起きることがあります。これは上述の3つ目の通り道、つまり「望み」にも沿う「こうならねば」が膨張する流れとして起きる可能性もあります。 その時本人には、自分の心に何が起きているか良く分からない、つまり実際は今まさに心の健康化が起きる瞬間ではあっても「意識」はただ「今駄目になった」としか感じない形で起きますので、そのように自分の心に起きていることと、自分の体という「実存」をもう別のものとして見て、体の方は守ることをしなさいという話をしているということです。
さらに言えば、「実存を守れ」とは、死んでいい、CENSOREDばいい、ということでもあるんですね。「今の心」においては。すると新しい心が再生されます。 「実存を守れ」とは、そうした心の仕組みにおいて、自分の「心」は死ぬとして、「体」と、「心」のさらに根底にあって心を再生させる何かという全体は守れ、ということでもあるわけです。 実はこれこそが心を飛躍的に変化させる、最大の原動力だと僕は感じています。 視野その2・「成長の望み」 で ================ それを意識してからは、変化のスピードが加速度的にアップしました。自分からそのような心の中の行き止まりに積極的に意識を向け、自分で「意識がうまくCENSOREDる」ようになってきたからです。 ================ と書いたものや、 2010-04-12『「絶望」の名手になれ』 で書いているものも、この心の仕組みに自分から積極的に突入するような姿勢のことを書いている次第。
いずれにせよ、まずはそんなこともあると心の片隅に置いといて、取り組み実践の本道はあくまで、まず「望み」への向き合いと具体的な学びからです^^。
「現実において愛を育てる」ことへの学び
>>1)失って後悔している「価値」とは何だったかの見極め >1. 外見とか 2. 純粋さ 3. 一緒に過ごす時間、楽しみ (4. 人生: 一緒に生きること)・・(略)・・しかし、何よりも、ふざけ合っていた交流の中で時折見せる“純粋さ” “優しさ” “繊細さ” が好きでした。そして、失って後悔している最大の価値とは、島野さんが愛の定義としてあげている、「喜びと楽しみの共有」であったと思います。私の出方ひとつで、もっともっとそういう時間を共有することができたのに、という後悔です。・・(略)・・従いまして、好きな気持ちが止まらない反面、*あんな精神状態の自分とは付き合わなかった方が彼にとっては正解だった、という気持ちもあります。でも、これは「後悔の気持ち」が収まるようにという姿勢になるのでしょうかね?* >>2)「失敗から学ぶ」という行動法の見直し >この経験が、結果を問わず好きな相手に向かうことがどんなに大切なことかを逆に教えてくれました。姉に言われた「にーなは幸せをつかもうとしていない」という言葉が、自分が全く行動を起こしていないことを自覚するきっかけともなりました。 >上記が現在思う限りですが、これを徹底的に行うということですね。引き続きやってみようと思います。
ということでこれが本題になると思いますが、それらがまずは「今までの心」だとして、それとは違う、心の健康と成長に向かい得る行動法と姿勢は何かの学びから始めるということです。 ここで書いて頂いたものは、その学びをまだしていない段階で、「今までの心」のまま、「失った価値への向き合い」や「失敗からの学び」を試みているもののように多少感じられます。ですから後悔を収めようとする姿勢になるかどうかも、それを徹底的に行うも、まずは学びを得てからの話になると思います。
ここで学びになるものとは何かとは、ずばり、「現実において愛を育てる」ということはどういうことか、になると思います。 それで言いますと、これは多少僕の個人的意見も入ってきますが、そこでその男性に価値を感じた感情と、それを元にしてもし自分がこんな出方をしていたら・・といった思考の全体が、「魂の世界」において何かの琴線に触れるものとしてあり得たとしても、「現実の世界」において愛を育てるものには、あまりなり得ないように感じます。 自分が相手をどう好きかという互いの感情の交流だけでは、現実の愛はあまり育てられない。
「現実生活」というものがあります。それをしっかり成り立たせるものとしての愛を、模索しなければならない。どんな結婚生活、子育て、そして老後を送りたいか。そうした「現実生活」ベースの「共有」をしっかりと支えにした「愛」が、「現実の世界」において育つ「愛」です。それがしっかりと見出せないならば、互いが好きという気持ちの交流だけあったとしても、むしろ別れていることを選ぶというのが、現実の賢明な選択になり得ます。 またそうした気持ち(フィーリング)ベースだけで向かう姿勢の時に、互いが好きと思ったのが実はそうではないという状況が、しばしば「恋愛詐欺」の形で起きる背景になるという知識への目も持つといった、視野の広さが大切です。 こうした指摘を不愉快に感じるならご容赦ですが、ふざけ合っていた時の気持ちの交流を惜しむというのは、とびきり気に入ったペットを買い損なったという後悔と、範疇が一緒なんですね。ペットへの愛も時に命の重みを持つとしてです。しかしそれは互いが別の人格であることを認められる上に培い育てる、成長する人間同士の愛とは違うものです。この姿勢からの後悔があるとすれば、相手の魅力がどうだったかというより、相手がいかに自分を大切に思い自分と共に生きようと思っていたかの相手の「意志」を、感じ取ることができなかったことへの後悔といった話になるかも知れない。
そうした「現実生活を共有するものとしての愛」という視線を持たない恋愛が、ティーンや少女マンガの世界であり、そうした世界の中だけで考えていないか、という問いになります。 もちろんそうした世界の中にある、互いが好きな気持ちだけで結ばれることの、あまりの輝きを否定するものではなく、逆にその輝きを純粋に心の中で、「魂の世界」のものとして守るためにも、「現実の世界」において道を踏み外すことなく絆を育てることへの洞察が、重要になってくるわけです。自分がやがて老い、そして死をどのように迎えるのかという大きな視野の下にです。
あるいは、そこにはそうした「相手の魅力への愛」「現実生活を共有する愛」というベクトルにも収まらない「愛」があったかも知れない。それは「魂の世界」の愛だと言えます。自分の中で失われた「命」を取り戻すために、その相手が、自分の人生に遣わされたとも言えるようなものとして・・。そうであるならば、それは間違いなく、一生向き合い続けるべきものです。でなきゃー嘘です。
「2の心の世界」の歩みへと向かう
そうした、まずは「現実の愛」についての学びに主軸を置いた向き合いによって、
受けとめられる側の心 ↑ ↓ 受けとめる側の心
という2つの心の世界を自分自身の中に持つのが、ハイブリッド心理学の歩みの道のりです。 2つの心の世界を持つ として説明したように。 そうして2つの心の世界を持つことで、互いの心の世界に、神秘なる変化が始まるわけです。「命」の力によって。決して一頭立ての心のままでは起きないような、神秘的な変化がです。
で、「受けとめる側の心」の側を培い築くのに、時間がかかるわけです。前回「まずはざっと2、3年」と言ったのはそれです。決して、今の心でそのまま2年3年向き合えば変われるという話ではなく。 今までとは全く違う、「愛」への向かい方、行動法と姿勢、それをまあ具体的に言えば「婚活」を自分としてどう位置づけるかとか、そこで男性を見る目の再構築といった具体的テーマに取り組む中で、自分の中に変化が生まれてくるのと平行して、上述のような向き合いが過去の「愛」への感じ方についても、次第に心を変化させる意味を帯びるようになっていきます。
それがどのように心を変化させるようになるかと言うと、「受けとめられる側の心」が、より純粋化するとお伝えしておけます。 そこで見えてくるであろうものを言うならば、たとえば「自分では彼に見合わない」「資格がない」といった気後れの裏に、恐らくは「存在の身分としての恋愛」という大いなる「愛の汚染」(『入門編下巻』P.266)が起きていたのが、間違いない事実であろうと。これはもう親による子供の育て方うんぬんなど関わりなく我々が陥る轍なんですね。その点、
>ただ子供を幸せに導く術を知らなかっただけだと…残念ながらいまだにですが、それを突き詰めると怒りがぶり返し、メビウスの輪のように止まるところを知りません。 といったものは、自分を妨げたものが本当に何だったのかがまだ分かっていないからこその、ちょっと的外れの怒りだったりするように多々見える次第。 最大の妨げは、間違いなく「存在の身分としての恋愛」といった心の動きにあったと思います。それを浄化することで、「互いが好きな気持ちだけで結ばれる輝き」といったものも、純粋なものとしてさらに鮮明に心に蘇るという流れになるでしょう。我々の不完全な「現実の世界」ではあまり求められるものではなく、「魂の世界」のものとしてです。
いずれせに数年先の話として、そうした向き合いが進んだ時、内面感情も現実の行動も、もう今からは予測もつかな別世界のものになります。
「愛」の裏にある「強さ」「自尊心」の価値観に取り組む
また取り組みテーマになるものとして極めて重要で必須になるものの話を加えておけば、「愛」への姿勢および感情の裏にある、「強さ」「自尊心」への姿勢や価値観です。 これについて具体的な視点を説明し始めると話が長くなり過ぎますので割愛しますが、まずとっかかりのポイントを言っておきますと、「命」にしっかりと根ざす「強さ」「自尊心」を得た時、「愛」が得られないことで「生きていても仕方ない」とはそう簡単にはならないんですね。仕事で得たものが無意味のように感じてしまうことに裏に、人間としての真の強さや自尊心といったことに実は心が向いておらず、心底は心の芯を失ったまま「愛が全て」「愛があれば全てが解決(という幻想)」というあり方になっていたのかも知れない。 真の強さや自尊心といったテーマに、それを単独純粋に取り上げ、自分がいったい「本心」でどんな考えを持っているのかから、取り組む。真の強さや自尊心を経てこそ、「愛」のあり方が根本的に変化します。「愛」だけに向き合っても起きない変化としてです。 これが上記の「受けとめる側の心」を築くための、主軸になると言えるものです。
「魂の世界」による「現実の世界」の凌駕とは
以上が取り組み方の本題として、あとは周辺的な話になると思いますのでなるべく手短にコメントしておきますと、
>実際この2〜3か月程妄想にふけってみました。付き合っている状態が夢に出てきたこともあります。心が満たされる効果はあると思いました。*ひとつ心配なのが、これを長い期間続けることによって、心が固定されストーカー化したりはしないのでしょうか?*
人を終生愛し続けることがストーカーであることなど断じてありません。ストーカーであるなしは、まずは相手に不快や恐怖を与える「つきまとい」行動の有無で分かれます。また内面的には、ストーカーにつながるのは「所有欲」であって「愛」ではありません。まあ心が若く未熟であるほど、「所有欲」と「魂の愛」が重なってしまうので、まさに向き合いと踏ん張りどころです。
>また、余談ですが、この過去の恋愛に向き合ったことが、自然と初恋の感情を呼び起こすこととなりました。 >私はいつも少女漫画を読むと、自分がキラキラした世界から取り残されたような悲しさを感じていました。でもそれがもうありません。*自分がそういった青春を過去に持っていて、懐かしむような愛しい気持ちです。体験していなくても体験したような感覚です。これが実体験を凌駕するような、ということでしょうか?*
「収めようとする」ではなく「とことん開放する」へと軌道修正したことの、まずは効果だと思います^^。 「魂の世界」による「現実の世界」の凌駕と言っているのは、 1)叶えられなかった悲しみを受けとめ尽くす先に、むしろ叶えられていたかのような心の豊かさの感覚が生まれる 2)「現実の世界」ではあり得ない輝き帯びた感情として、「魂の世界」における「望み」の感情(「魂の愛への望みの感情」)が体験される という主に2パターンになると今考えています。 書いて頂いたものは、まずは1)に該当するかと。 2)に該当するものは、上述の「2つの心の世界」の歩みに向かう中で、「受けとめられる側の心」が次第に浄化される中で、やがて体験されるかも知れない、と心の懐にいれておいて、自分自身の感情へのアンテナを研ぎ澄ませていくと良いと思います。
一言でいえば、「愛」は「現実世界」において基本的に極めて不完全です。「現実世界」ではもう一つ「自由」という重要な心の課題があり、「愛」がそれを妨げる、つまり「愛」とは基本的に「不自由」である。これが「現実の世界」です。 ですので、「現実の愛」を模索して見出し獲得していくものと、それと切り離された「魂の世界」で見出し獲得していくものが、次第に互いを妨げることなく2つの峰のように育つことになります。そして最終的には「魂の世界」の方がより強く大きなものとして、「現実の世界」を支えるようになるという話です。ただし我々の「心」はあくまで「現実の世界」に立脚したものとして前進しなければならない。これが最後まで難しいところです^^。
人との運命は最後まで分からない
>>相手にせよ自分にせよ、どんな運命の変化があるかは分からないという目を持っておくことですね。再び相手に近づく行動を考えるのも良し。ただし「外面行動は建設的に」という指針の上でです。相手が家族持ちであれば、相手にも分かるような行動は不可 >*これは、多面を同時に見るということでしょうか? 相手にも分かるような行動は不可とうのは、会うための連絡を取ること自体が不可ということでしょうか? 私は自分に友達以上の好意がある以上、会うことはもう無いと思いますが、相手に近づく行動というのは具体的にはどういったものになるでしょうか?*
「多面を同時に見る」は、とりあえず 島野が通った主な転換の流れ でバーンズの言葉を流用して述べた「真の自尊心」への姿勢 そして生きることそのものを「現実の世界」と「魂の世界」として見ること、そして2つの心の世界を持つことなどに関連します。特定相手への行動法にはちょっと出てこない話かと・・。
まずそこで言ったのはごく一般論なので、相手に近づく行動というのが具体的にどんなものになるのかの具体的アドバイスは、さらに詳しい情報がないとできません。 まず一般論として言えるのは、相手の今がどうなっているのかの情報へのアンテナを持つことからになるでしょうね。 運命は分からないというのは、例えば互いが別の相手と結婚しても、互いが相手と死別したあと再会してまた一緒になるといったストーリーも世にはあるというような話です。今分からないそうした未来を、今切り捨てることはない。 相手に実際に会いたいなら、控えめに偶然を装って出会える状況を目論むことは、まあ許されるでしょう。 そうした全てが難しい場合でも、本当に魂から相手を愛するのであれば、自分の心の中だけにおいても、その人と生涯生きることを決意することです。このレベルで道を誤ることこそが、生きる意味を見失う最大の原因です。現実世界では他の男性と結婚した上でも、それはアリだと思いますヨ^^。 生きるとは、結局、自ら愛に向かうことです。自分からそれを捨ててしまうことは、まさに生きることそのものを、「命」を、自分の中で失うことなわけです。
ということで、このご相談は「人生で最も愛する相手に向かう」という、心の成長の歩みにおいても山の頂きに該当するテーマを扱ったものになっています。それでも頂きの下には裾野が広がっており、山の頂きがかいま見えたとしても、歩みの道のりは広い裾野からのものを一通り通らねばなりません。 そのポイントを一通り説明したものということで^^。
追加質問などもあるかと思いますがかなり長くなりましたので、何かあれば新規トピックを立ててお寄せ頂ければ^^。
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