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「心の死と再生」の理解と向き合い^^ / しまの 引用
No.926 2014/06/28(Sat) 14:14:10

お待たせしまして^^ゞ

>CENSOREDを決意するほどに悩みぬいた人が、悟りを開くように人生の意味を知る、といった体験談をたくさん目にしました。ハイブリッド心理学でも「心の死と再生」として説いていますね。ただ、運なのだろうと思います。いろいろ思い通りにならないながらも健康な心で生きていく人もいれば、病んだ心からスタートしてやがて幸せに向かう人もいるでしょう。でも、やっぱり生きることが苦しすぎて死を選んだ人もいます。

「心の死と再生」について、この場を借りて僕自身の考察整理も記した上で、実践面でのアドバイスなど^^。


「心の死と再生」の理解

まず「心の死と再生」についてのハイブリッド心理学の考えは、一言では、
「心の死」「心の再生」への通り道になり得る。
・一方で、
「再生」がいかになされるかは、「心の死」どう起きるかではなく、本人の心がいかに「成長」に向かおうとしていたかの、「背景」に依存する。
というものになります。

「心の死と再生」というのは、もともと極めて難解心の仕組みと言えると思います。そうちょっやそっとの説明で語れるような代物ではないと。
そこでこの場を借りて僕自身の理解整理しておきますと、
注・そんな理論面には関心ないということであれば、ここは飛ばし「実践面のアドバイス」行って頂いて構いません^^。

まずそれは2種類の、かなり毛色の異なる心のメカニズム関係して起きるものです。(下記参考資料1)

a)「成熟」の一般メカニズム
「心」がその大元の「命」からはがれた薄っぺらいものであることにおいて、「心」自らに絶望する「心の死」が起き、「命」新たな「心」再生させるというメカニズム

b)「自己操縦心性の崩壊」のメカニズム
「現実の見下し」によって「空想」の中で自分を支えるという、思春期発動する病んだ心の仕組み「自己操縦心性」が、自らを攻撃し自己崩壊を起こすというメカニズム。これにより「自己操縦心性」に伴う「現実覚醒レベルの低下」といった症状治癒する。


「心の死と再生」が起きる条件

どちらも、意識表面上の表現「絶望感」であり、しばしばCENSORED念慮」などを伴います。
ただし、我々人間に生じる「絶望」CENSORED念慮」全部こうした「心の死と再生」になるものとして起きるのではなく、
・単にものごとがうまく行かず自暴自棄
・外面状況への絶望とだけの意識

というのは、この「心の死と再生」のメカニズムには乗っからない
また、「心の死」が起きても「再生」質量共に貧弱な程度にしか起きないケースもあります。これについては下記参考資料1で以下のように書いている次第。
-------
「崩壊」治癒メール相談途上においても起きることがあり、何もせずただやり過ごすようアドバイスして乗り越えてもらった後には、例外なく、以前より動揺度減少した、「足元がしっかりして」きたような心の状態への、後戻りのない向上治癒が見られます。
一方、「崩壊」治癒による感情変化質的内容が、自他への肯定的感情さらには「生きる喜び」感情といったプラス方向への開放的変化へと結実するかどうかは、かなり個人差があるのが見られました。
それは結局その人以前からの姿勢が、いかに「破壊」ではなく「建設」という行動のあり方、そして自分から愛することができるといった「成長」心底から望んでいるかによる、というのが結論として言えるようです。つまり心底から「破壊」ではなく「建設」を、そして「成長」望んでいながら、病んだ心による歪み内面の壁となって前進阻まれていた時、今までの病んだ心「崩壊」が起き、そこからその人は、プラス方向へと開放されていく感情足場に、より本格的「成長」「成熟」へと歩むようになるのです。
一方そうではなく、以前からの姿勢がなかなか「成長」へと向いていない場合は、「崩壊」による治癒動揺度減少のみとどまるようでした。
-------


また下記参考資料5でも、以下の文章から下で、その「個人差」について結構詳しい考察を書いています。(今は僕もちょっと読み返し省略^^;)
-------
一方、この「心性崩壊」が、先に触れた「建設的絶望体験」の人々と同じような、生きる姿の根本変化を生み出すかどうかには、多少人により違いがあることが、最近分ってきました。
-------


そこで結局「心の死」を経て「心の再生」に向かうとは、一言「背景」と言ったものとして何があった場合かと言うと、次のようなものが考えられます。
まず以下必須のもの。この全てが揃うこと条件であり、どれか一つでも欠けると、「心の死と再生」起きない

1)現実を受け入れて前に進もうとする姿勢
2)「望み」に向かう姿勢
3)失意と絶望の体験
4)自分の今までの心のあり方の誤りの自覚

ここで重要なのは、まず「心の死」というのは3)この体験基本カテゴリーとして、その中4)起きるのが「心の死」だということです。上述単にものごとがうまく行かない自暴自棄など「心の死と再生」ならない大きな理由がここにあります。

その4つがまず必須条件であり、ハイブリッド心理学でなくとも「心の死と再生」を見る人生哲学などは、必ずこの4つ踏まえて生まれていると思います。
一方、ハイブリッド心理学ならではの、「実践的」な要因3つあり、これは「再生」への促しをするものと言えると思います。ま家庭用衣料染料で言えば(洋服好きの僕の趣味からの喩え^^ゞ)上記4つ染料剤本体次の3つ促進剤という按配です。

5)「心の死と再生」への理解 (ここで書いていること下記参考資料など全て
6)「ただ流す」姿勢
 (「ただ実存を守れ」下記参考資料4など)
7)「新しい感覚の現われ」への意識姿勢
 (下記参考資料2


参考資料

1.『概説 - 4.心の成長変化 (4)「心の死と再生」という特別形』
2.『概説 - 5.歩みの道のり (2)真の前進へ』 ・「パラドックス前進」
3.ブログ2010-04-12『「絶望」の名手になれ』
4.『実践編上巻』 3章 自己の受容・未知への選択 「ただ実存を守れ」
5.『理論編下巻』 4章 「未知」への大きな前進−1 −「自己操縦心性の崩壊」という根本治癒−


実践面のアドバイス

以上がまずは

>ハイブリッド心理学でも「心の死と再生」として説いていますね。ただ、運なのだろうと思います。
に対して、「心の死と再生」についてじっくり理解するならそんな話になりますという^^。まあそれ言うかはどうかは、には考えがないです。そこには運の面もあるだろうし、そうではない、自ら生み出す面もある、と。

ですのでに、

>今は怒りも悲しみも特にありません。ただCENSOREDという選択肢があることに少し安心しています。こんなとき島野さんなら何と言うのだろう、
に対しては、僕から運ではない、ハイブリッド心理学「取り組み実践」として自ら生み出していく面としてはどうなるかポイントお伝えするものになります。運の面については僕には手が出せない^^;

で、一言でいうとこうなるかと。
「心の死と再生」を最後の心の砦(とりで)として、一貫した「取り組み実践」に向かう。


まずは「実存を守る」

まず実際のところ湧いてくるCENSORED念慮については、当然「ただ流す」「感情と行動の分離」内面側実践です。
CENSORED衝動強い場合には、僕から心持ちの姿勢としては
・「実存を守れ」

という言葉使っています。

これいついては上記参考資料4など。
また比較的最近読者広場ご相談関連した話をしていますので、一読されると良いかと。
『根源的自己否定感情、その他質問』 にーなさん No.609 2013/09/06
第2レス
『「最も大切な愛」という頂きへの裾野からの歩み^^』 しまの No.630 2013/09/27
の中の
「実存を守れ」
ですが、う〜んちょっとトピック全体が長いので抜粋しますと、
---------
その時本人には、自分の心に何が起きているか良く分からない、つまり実際は今まさに心の健康化が起きる瞬間ではあっても「意識」はただ「今駄目になった」としか感じない形で起きますので、そのように自分の心に起きていることと、自分の体という「実存」をもう別のものとして見て、体の方は守ることをしなさいという話をしているということです。

さらに言えば、「実存を守れ」とは、死んでいい、CENSOREDばいい、ということでもあるんですね。「今の心」においては。すると新しい心が再生されます。「実存を守れ」とは、そうした心の仕組みにおいて、自分の「心」は死ぬとして、「体」と、「心」のさらに根底にあって心を再生させる何かという全体は守れ、ということでもあるわけです。実はこれこそ飛躍的に変化させる、最大の原動力だと僕は感じています。
---------

また以前のメール相談で、比較的似た状況つまり就職を迎える人生時期においてCENSORED念慮を持つ若い男性へのアドバイスとして使った言葉など言えば、
・今取れる心持ちとしては結局こうなるだろうというものを言うならば、「当面は屍になったつもりで生きる」
というものです。
まずそこから、それでも自分の体が動くもの、自分にできるものを、ゼロベースで探していくことからになる、と。
実はそれこそ「再生」向かうためのベストの姿勢であることを、僕自身何度もその姿勢を通った体験から感じる次第です。

内面取り組み

そこから、「感情と行動の分離」姿勢に立った、内面および外面への2面の取り組み進めるのですが、
まず内面取り組みにおいては、
CENSORED念慮」については、上に述べたように「実存を守る」「屍になったつもりで生きる」といった対処をしたならば、もはやそれは向き合いの対象になりません。それはあまりに末端症状でしかないからです。

むしろ、CENSORED念慮」至るまでの自分の感情の流れを、
『概説 - 3.取り組み実践』 「学び」の主要テーマ
に出てくる具体的視点に照らし合わせ「自己分析」できることが重要になってきます。
特に
4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法
5.悪感情への対処

などの視点重要になるでしょう。
そうして視点で、自分は何をどう感じて、感情はどう流れた、というのを自己把握していく。


外面取り組み

一方外面取り組みとしては、当面の問題、それは上記内面取り組み明瞭化する感情の流れを生み出した、当面の外面問題ということになるでしょうが、それについて、それらの感情いったん置いといてハイブリッド心理学の上記「学び」テーマの中の
3.行動学
などからはどんな行動法の選択肢があるかを、まずは把握することが必須になります。

「就職」であれば、ハイブリッド心理学からは「やる気」「協調性」なんて精神論姿勢論ではなく、「価値の生み出し」「原理原則行動法」といった具体的ノウハウの習得武器に、それに向かうというものになります。
これについてはとりあえず、よく紹介しているものですが、以下など一読頂くと良いでしょう。そこに、内面向き合い見える感情の流れはまることなく、自分の行くべき道の方向感じ取れるか。

『悪口の回避について』 seroriさん No.583 2013/07/20 のトピックの中での
『「仕事の普遍的スキル」 ちょー入門^^』 しまの No.586 2013/07/23

『はじめまして』 きてれつさん No.541 2013/02/10への第2レス
『仕事場面への向かい方など』 しまの No.547 2013/02/21
=========
「100円ショップの商品の品出し」であれば、・・(略)・・
=========



「未知」は生涯をかけて模索していく

「取り組み実践」としては、ざっとそんなところになりますね。
それによって、まず当面CENSORED念慮」については、きれいさっぱり解消するような歩みは、ハイブリッド心理学では想定していません。
その根底に何があるのか、その真の克服はどこにあるのか。それを、生涯をかけて模索する歩みになる、と想定します。そうした道のりを、今掲載中『概説』でも書いています。

「未知」が訪れるのも、まずはずっと先のことだと考えるので正解でしょう。そもそも「未知」は、期待して向かうものではないし、ましては期待して裏切られないものとして得るものではありません。それではバリバリの「既知としての解決」を求めるというになってしまいますね。
一方CENSORED念慮」解消は想定していないとは言っても、実際それが向き合いテーマにはならず、上述のようなもの取り組み対象であることへの理解納得ができてきた段階で、実際のところもうもうそれは問題になるものとして湧くことはなくなると思います。
そして全ての解決は、人生も後半になった頃になるかも知れません。それでも余りある幸福後半の人生得られるようになってくる。そうした「成長」歩み探求しているのが、ハイブリッド心理学になります。

まずはざっとそんなものとして、ハイブリッド心理学の「取り組み実践」取り組むことに興味を持てるかなど、検討してみて頂ければ、ということになりますね^^。
その取り組みにおいては、若いほど、
『概説 - 5.歩みの道のり』
で説明するような「心の基盤」について、自分ではどうかと、一つ一つ理解と納得を問う向き合い大切になることを、申し加えておきましょう^^。

取り組み実践の一つ一つについて、分からない点等あればまた何でもご質問頂ければ^^。

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「人物印象型自己理想」の克服への歩み(前) / しまの 引用
No.766 2014/01/25(Sat) 17:50:16

では引き続き、進み方全体についてのアドバイスですが、先日ブログ
2014-01-23『時間食ってます^^;』
お知らせした通り、ただアドバイスコメントというより、「自己操縦心性と人物印象型自己理想」などというテーマについて現時点での僕の考えを一通りまとめることになり、その結果あまりに文章量が増え、解説部分をブログ記事化など考えましたがいまいちすっきり抜き出せず、全部このトピック入れてしまいます。

まあ長い人生の歩み方要(かなめ)テーマになりますので、人生の参考書がてら心の懐に入れて頂くと良いかと。
それにしてもあまりに長いので、レス3つ分割しようかと。
まずおおよそテーマ理解部分『(前)』『(中)』で。


ということで、報告して頂いた頭の部分からです。最初の方は先に書いていたのですが、その後の話があまりに長くなり、「勉強法」についてワンポイントで入れておいた次第です^^;

「目の前の対処」と「長い目からの展望」

>今までと違って「お互い楽しめる本に出会えたらそれでいい、自分の貸した本が相手の好みに合わないならそれは仕方のないことだ」と思えるようになっていました。今までは相手を楽しませなければという力みがあり、貸した本がつまらなかったと言われれば自分が否定されたような気持ちになっていたものです。

一歩前進ですね^^。

>そして今回の帰省で新しく気づいたのが、たとえ家族内であっても、原理原則に従えば信頼を得られるし楽しみの共有を意識すれば快適に過ごせるというのは変わらないんだなあということです。

その通りですね。相手家族であろうと赤の他人であろうと、いかなる相手に対しても一貫として取ることのできる行動法です。
「対人行動と社会行動の全てを、これらの行動法で行うようにする」ことを指針謳っているゆえんです。
『入門』 - 3.取り組み実践 - 「学び」の主要テーマ - 3.行動学

多少追加アドバイスなど書いておけば、取り組み実践としては、
1)そうした「目の前の課題への具体的対処」というものと同時に、
2)自分が人生でどこに向かうのか、そこにおいて自分はどのように変化し得るのかの、「長い目からの展望」
持つようにする、というのをやると良いと思います。

それで言いますと、前段お兄さんやお父さんとの出来事については、それはそんな感じでいい話として、家族外との関わりになるとどんな感じになるかに、検討の目を広げることかな・・と。
まこれはまた具体的材料ありきにもなってきますね。


「心の圧制者」 (「自己操縦心性」)

一方、より「長い目からの展望」という観点でちょっとコメントしておきたく感じたのが以下について。

>そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。ただ最近は「今ここに現れている感情だけを感じる、去っていく感情は追わない」という姿勢が身についてきたせいか、感情が果てしなく悪化することはなくなってきたように思います。感情を想像によって再現しようとするのは途方もないエネルギーを使うことに気づいたための変化かもしれません。

まず「感情を想像によって再現しようとするのをやめる」「去っていく感情は追わない」という姿勢は、まずはいいと思います。「感情はただ流す」という方向性として。
また、そうして悪感情ただ蒸し返すのはやめる一方、一つの感情混在する要素感じ分けるために、「蒸し返し」ではなくとも多少「反復吟味」するというのが、自己分析の上級編(^^;)になると多少出てくる、という知識持っておくと良いと思います。まおいおいそんなことが必要になることもあるかも知れない、と。上記姿勢良いとして。

そこで重要になってくるのは、「追わない」かわり「何に向かうか」です。

ちょっと心の仕組み解説一緒に書いておきますと、『悲しみの彼方への旅』の中で「心の圧制者」と呼んだのは、ハイブリッド心理学用語(^^;)で言う「自己操縦心性」のことですね。
「自己操縦心性」については、最近ではNo.630などでも触れていますが、そこでは“根源的自己否定感情を原動力として、「もしこうなれれば」という空想の衝動によって意識・・というか精神の全体が支えられていた状態”とか書いていますね。
より手短に、「空想によって心が支えられている状態」とか言えるかと。

『悲しみの彼方への旅』でどう表現していたかと検索するに(電子書籍はこれが便利♪)
==================
今まで私の人生を支配し、そして苦しめ続けていた自己。失わされた世界を見返すために、なるべき自分の姿を掲げ、走り続けようとした自己。それは、ありのままの現実を生きようとして立ち上がり始めた無垢な自己に、その座をあけ渡すことを決して許そうとはしません。この心の圧制者は、そのためならば自らの人生を捨てることをささやくのです。(P.161)
==================

「空想によって心を支えている様子」描写ですね。
さらに自分で読み返して、より重要なポイント次の描写にあるかと。
==================
事実、「現実」こそが、心の圧制者の忌み嫌うものでした。
この下らない現実はお前の生きる世界ではない。お前が特別な存在であり続けることができる空想の世界こそが、お前の生きる世界なのだ。
そうして心の圧制者は、この人間に「自己像を生きる」という一つの人間の存在様式と、分裂した人格を強制します。栄光ある自己像を描けないのであれば、世界から迫害された異端者の絶望さえも望むところなのです。(P.210)
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==================
心の圧制者が再び、現実世界を見下すことを私に囁きます。(P.212)
==================

つまり「自己操縦心性」とは、「自己理想像の空想によって心を支えている状態」であり、それはさらに「現実を見下す」ことによって心を支えている状態、ということになる。

余談ですが、「現実を見下すことによって心を支えている状態」なんていうとんでもないものであったことを、そこから抜け出して間もない頃だったからこそ書けた感じですね。自分を支えるために「現実」を見下しているのですが、それは同時に、「自分の現実」を見下すということでもある。自分を潰そうとするものから自分を守り支えるために行っていることが、自分を潰すものになるというメビウスの輪状態。
抜け出したことさえ記憶から薄れているとなっては、「自己操縦心性とは」と考えてもそこまで浮かばない。あれ、空想過剰程度のことだったかしら・・という感じ。
空想過剰程度ではない、人間の心の悲劇が、そこにあったわけですね。その中にいたからこそ書けた過去の文章(日記)が、これからの僕の執筆にとってのようになるだろうと感じる今日この頃です。

その結果、「自己操縦心性」というのは基本的「破綻」「崩壊」向かう性質を持っています。どんな自己理想を抱こうが、いざそれを実現しようと「現実」に出会った瞬間、大元にある自己否定感情が刺激されて、意識の全体が破綻し崩壊するするという心の構造としてです。
そしてそれが逆に、「心の死と再生」への大きな転換なり得るわけです。本人自我が、「現実における成長」強く望んでいた場合、ということになるでしょう。でなければ、「自己操縦心性の崩壊」なんとかやり過ごして心の安定化が多少生まれる程度、もしくは巻き込まれて本当に潰れてしまう、というおよそ3つの分かれ道現れるかと。
それが『悲しみの彼方への旅』主題でもありますね。ぎりぎり3つ目の道免れて、1つ目の道向かったわけです。僕自身の力だけでは、それはできなかった・・と目が潤む感^^;

そんな訳で、小説中「心の圧制者」と呼んだところの「自己操縦心性」自体は、かなり病的な心の状態指しているものでもあります。
その点りょうたろうさん場合

>そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。

は、文面の印象からはかつての僕の場合ほど(^^;)深刻ではないという印象^^「破綻」「崩壊」による「再生」といった話は、あまり一番手に考えず、そうしたことも起こり得るという知識程度心の懐に入れておくので良いかと思います。

(続く)

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「最も大切な愛」という頂きへの裾野からの歩み^^ / しまの 引用
No.630 2013/09/27(Fri) 20:52:16

少々時間を食いましたが、またじっくり^^(事例集にも乗せられるよう^^)


「根源的自己否定感情が働く心の動きになるまいという姿勢がまさに根源的自己否定感情の焼き直し」

>*これは、あるべき理想を抱いて圧力を掛ける(例えば、暗い自分ではダメだからと無理に明るく振る舞うなど)ことが、さらなる恐怖の蓄積を生み出し、本当の自分(ありのままの感情)は置き去りにされることで、つまり見放された感覚はちっとも無くならない、というような状況を言っているという理解でよろしいでしょうか?*

いえ・・それは「焼き直し」の話ではなく、根源的自己否定感情働く様子そのまんまですね^^。
「焼き直し」になってしまうとは、そうした根源的自己否定感情悪影響理解するのは最初の学びとして、そこから始まる心の成長への取り組み実践においては、根源的自己否定感情についてはあまり取り上げることはできないものになります。意識できないものですので。
取り組み実践は、根源的自己否定感情を克服しようという意識ではなく、あくまで「望み」に向き合い「望み」に向かうという意識の上に前進するものになります。
そうした状況で、根源的自己否定感情について理解した後に、それがなくなる自分を理想像にしたり、その克服をしようとことさら考えることが、まさに根源的自己否定感情が再び働いている焼き直しになるということです。

で、それではいけません・・ではなく、それもある程度仕方ないこととして、取り組み実践は、それとは別のものとして、「望み」に向き合い向かうことを軸としたものとして進める必要があるということになります。
その話のような例で言えば、自己否定感情の上に「無視に明るく」しても「見放され感」がなくならないというのを、今までの自分の心への理解として、次に向かうべきことは、そうして「無視に明るく」しようとした状況で自分が何を望んだのかを、そしてこれから何を望むのかへの、向き合いから始めるということです。その先に、無理にではなく明るく振舞えることを模索するのが、あるいは自分をいったんそうした場から離すことが、今できる最善の行動になるかも知れない。
それが、「望み」に向き合うと共に、心の健康と成長に向かい得る行動法の選択肢を学び、自らの幸福に向かうための選択を模索するという、この心理学取り組み実践になるわけです。


根源的自己否定感情はどのように克服されるか

>*「恐れ」「自己嫌悪」の克服あたりが最も軸になる” とのことですが、具体的な克服法としては、恐怖、自己嫌悪を感じる時がまさにチャンスとなるでしょうか?* *恐怖、自己嫌悪を感じる場面に直面した時、「学びの一覧表 - 内面向けテーマ- 悪感情の克服」の項目に真摯に向き合い納得理解し、建設的な行動を取る
→ その結果、心に変化が起き「根源的自己否定感情」に駆り立てられていた
”こうあらねば” という感情が無くなる(または、弱まる)ことが直接感じ取れる感情としては実感できる、というような流れになるでしょうか?*


全ての悪感情が、「学び」チャンスです^^。
その中で、根源的自己否定感情に駆り立てられた「こうあらねば」ストレス消える流れを考えるならば、
1)硬直した善悪思考による「こうあらねば」を、「目的思考」による合理的な「これこれのためにはこうできれば」という思考置き換える。これは行動以前のもの。
2)自分の「望み」に沿う合理的な「こうできなければ」という目標について、合理的な知恵とノウハウ学び実践し、実際にできるようになる。
3)合理的な「こうできなければ」という目標について、そうあれない自己の内面に向き合い、「心の死と再生」を経る。
という大きく3つの通り道があると理解しておいて頂くと良いと思います。
これは、
「学び」とのギャップを生きる
心が進む道
などで、そうした3つの通り道があることを言っている通りです。

ですので、「建設的な行動を取る →”こうあらねば” という感情が無くなる(または、弱まる)」という流れは、厳密にはないように僕としては感じています。行動以前に、不合理だったものとして捨て去られるか、行動して「実際そうなれた」ので、「ならねば」とはもうあまり感じなくなる(これは当然^^)
3つめの通り道について留意しておきたいのは、「こうならねば」というストレスのが「望み」にも沿うものとして、むしろ膨張し、呑み込まれてしまうという流れになることです。取り組み実践の中で、そうなる流れがあります。そこで場合により希死念慮も起きる可能性もある。この場合は、それをただ流す先に「心の再生」があることを心得ておくことが大切です。

いずれにせよ、「こうあらねば」ストレス「望み」具体的内容によって、ハイブリッド心理学からの「心の健康と成長に向かい得る行動法とそれを支える内面姿勢」の具体的内容が出てきます。まずそれを学んで頂くのが道順になります。この具体的内容抜きに、あまり克服への流れを考えても取り組みはあまり前進しません。
ま例によりその具体的内容の情報提供整備がこれからなんですけどね^^; というか今からここで書きますのでという話^^。

根源的自己否定感情克服そのものを言うならば、そうした取り組みによる前進全てが、徐々に貢献します。
そしてさらに、そうした地道な成長の積み重ね足場に、「自分が神になる衝動」という哲学宗教的テーマにも向き合うことで「否定価値の放棄」を成すと、根源的自己否定感情克服としても大きな節目になります。そしてそれでも残る根源的自己否定感情克服の、最後の大きな節目「命の開放」として述べているものになるというのが、ハイブリッド心理学の登山ルートだという次第です。


「実存を守れ」

>島野さんは、執筆のどこかで「実存を守れ」という言い方をされています。実存を守れ= 自死否定 と私が捉えてしまったと思います。*ちなみに、「実存を守れ」というのはどういう意味で使われたのでしょうか?*

『実践編上巻』 3章 自己の受容・未知への選択
『理論編下巻』 4章 「未知」への大きな前進−1
ですね。
「自己操縦心性の崩壊」に際しての心得として、その言葉を使ったものです。CENSOREDの否定といった一般的な話ではなく、取り組み実践かなり限定された場面の話になります。

「自己操縦心性の崩壊」とは、根源的自己否定感情原動力として、「もしこうなれれば」という空想の衝動によって意識・・というか精神の全体が支えられていた状態が、「空想通りではない現実の知覚」あるいは「空想に生きている自分の誤りの知覚」によって崩壊すると言えるような現象です。その時、こうした意識状態つまり自己操縦心性裏返しと言える、今まで隠されていた「自分は駄目だ」という感情表面化希死念慮が起きることがあります。これは上述3つ目の通り道、つまり「望み」にも沿う「こうならねば」膨張する流れとして起きる可能性もあります。
その時本人には、自分の心に何が起きているか良く分からない、つまり実際は今まさに心の健康化が起きる瞬間ではあっても「意識」はただ「今駄目になった」としか感じない形で起きますので、そのように自分の心に起きていることと、自分の体という「実存」をもう別のものとして見て、体の方は守ることをしなさいという話をしているということです。

さらに言えば、「実存を守れ」とは、死んでいい、CENSOREDばいい、ということでもあるんですね。「今の心」においては。すると新しい心が再生されます。
「実存を守れ」とは、そうした心の仕組みにおいて、自分の「心」は死ぬとして、「体」と、「心」のさらに根底にあって心を再生させる何かという全体は守れ、ということでもあるわけです。
実はこれこそ飛躍的に変化させる、最大の原動力だと僕は感じています。
視野その2・「成長の望み」

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それを意識してからは、変化のスピードが加速度的にアップしました。自分からそのような心の中の行き止まりに積極的に意識を向け、自分で「意識がうまくCENSOREDる」ようになってきたからです。
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と書いたものや、
2010-04-12『「絶望」の名手になれ』
で書いているものも、この心の仕組み自分から積極的に突入するような姿勢のことを書いている次第。

いずれにせよ、まずはそんなこともある心の片隅に置いといて、取り組み実践の本道はあくまで、まず「望み」への向き合い具体的な学びからです^^。


「現実において愛を育てる」ことへの学び

>>1)失って後悔している「価値」とは何だったかの見極め
>1. 外見とか 2. 純粋さ 3. 一緒に過ごす時間、楽しみ  (4. 人生: 一緒に生きること)・・(略)・・しかし、何よりも、ふざけ合っていた交流の中で時折見せる“純粋さ” “優しさ” “繊細さ” が好きでした。そして、失って後悔している最大の価値とは、島野さんが愛の定義としてあげている、「喜びと楽しみの共有」であったと思います。私の出方ひとつで、もっともっとそういう時間を共有することができたのに、という後悔です。・・(略)・・従いまして、好きな気持ちが止まらない反面、*あんな精神状態の自分とは付き合わなかった方が彼にとっては正解だった、という気持ちもあります。でも、これは「後悔の気持ち」が収まるようにという姿勢になるのでしょうかね?*
>>2)「失敗から学ぶ」という行動法の見直し
>この経験が、結果を問わず好きな相手に向かうことがどんなに大切なことかを逆に教えてくれました。姉に言われた「にーなは幸せをつかもうとしていない」という言葉が、自分が全く行動を起こしていないことを自覚するきっかけともなりました。
>上記が現在思う限りですが、これを徹底的に行うということですね。引き続きやってみようと思います。

ということでこれが本題になると思いますが、それらがまずは「今までの心」だとして、それとは違う、心の健康と成長に向かい得る行動法と姿勢は何かの学びから始めるということです。
ここで書いて頂いたものは、その学びをまだしていない段階で、「今までの心」のまま、「失った価値への向き合い」「失敗からの学び」を試みているもののように多少感じられます。ですから後悔を収めようとする姿勢になるかどうかも、それを徹底的に行うも、まずは学びを得てからの話になると思います。

ここで学びになるものとは何かとは、ずばり、「現実において愛を育てる」ということはどういうことか、になると思います。
それで言いますと、これは多少僕の個人的意見も入ってきますが、そこでその男性に価値を感じた感情と、それを元にしてもし自分がこんな出方をしていたら・・といった思考全体が、「魂の世界」において何かの琴線に触れるものとしてあり得たとしても、「現実の世界」において愛を育てるものには、あまりなり得ないように感じます。
自分が相手をどう好きかという互いの感情の交流だけでは、現実の愛はあまり育てられない。

「現実生活」というものがあります。それをしっかり成り立たせるものとしての愛を、模索しなければならない。どんな結婚生活子育て、そして老後を送りたいか。そうした「現実生活」ベースの「共有」をしっかりと支えにした「愛」が、「現実の世界」において育つ「愛」です。それがしっかりと見出せないならば、互いが好きという気持ちの交流だけあったとしても、むしろ別れていることを選ぶというのが、現実の賢明な選択になり得ます。
またそうした気持ち(フィーリング)ベースだけで向かう姿勢の時に、互いが好きと思ったのが実はそうではないという状況が、しばしば「恋愛詐欺」の形で起きる背景になるという知識へのも持つといった、視野の広さが大切です。
こうした指摘不愉快に感じるならご容赦ですが、ふざけ合っていた時の気持ちの交流惜しむというのは、とびきり気に入ったペットを買い損なったという後悔と、範疇が一緒なんですね。ペットへの愛も時に命の重みを持つとしてです。しかしそれは互いが別の人格であることを認められる上に培い育てる、成長する人間同士の愛とは違うものです。この姿勢からの後悔があるとすれば、相手の魅力がどうだったかというより、相手がいかに自分を大切に思い自分と共に生きようと思っていたかの相手の「意志」を、感じ取ることができなかったことへの後悔といった話になるかも知れない。

そうした「現実生活を共有するものとしての愛」という視線を持たない恋愛が、ティーン少女マンガの世界であり、そうした世界の中だけで考えていないか、という問いになります。
もちろんそうした世界の中にある、互いが好きな気持ちだけで結ばれることの、あまりの輝きを否定するものではなく、逆にその輝きを純粋に心の中で、「魂の世界」のものとして守るためにも、「現実の世界」において道を踏み外すことなく絆を育てることへの洞察が、重要になってくるわけです。自分がやがて老い、そして死をどのように迎えるのかという大きな視野の下にです。

あるいは、そこにはそうした「相手の魅力への愛」「現実生活を共有する愛」というベクトルにも収まらない「愛」があったかも知れない。それは「魂の世界」の愛だと言えます。自分の中で失われた「命」を取り戻すために、その相手が、自分の人生に遣わされたとも言えるようなものとして・・。そうであるならば、それは間違いなく、一生向き合い続けるべきものです。でなきゃー嘘です。


「2の心の世界」の歩みへと向かう

そうした、まずは「現実の愛」についての学び主軸を置いた向き合いによって、

受けとめられる側の心
   ↑
   ↓
受けとめる側の心


という2つの心の世界自分自身の中に持つのが、ハイブリッド心理学歩みの道のりです。
2つの心の世界を持つ
として説明したように。
そうして2つの心の世界を持つことで、互いの心の世界に、神秘なる変化始まるわけです。「命」の力によって。決して一頭立ての心のままでは起きないような、神秘的な変化がです。

で、「受けとめる側の心」培い築くのに、時間がかかるわけです。前回「まずはざっと2、3年」と言ったのはそれです。決して、今の心でそのまま2年3年向き合えば変われるという話ではなく。
今までとは全く違う、「愛」への向かい方、行動法と姿勢、それをまあ具体的に言えば「婚活」自分としてどう位置づけるかとか、そこで男性を見る目再構築といった具体的テーマに取り組む中で、自分の中に変化が生まれてくるのと平行して、上述のような向き合い過去の「愛」への感じ方についても、次第に心を変化させる意味を帯びるようになっていきます。

それがどのように変化させるようになるかと言うと、「受けとめられる側の心」が、より純粋化するとお伝えしておけます。
そこで見えてくるであろうものを言うならば、たとえば「自分では彼に見合わない」「資格がない」といった気後れに、恐らくは「存在の身分としての恋愛」という大いなる「愛の汚染」『入門編下巻』P.266)が起きていたのが、間違いない事実であろうと。これはもう親による子供の育て方うんぬんなど関わりなく我々が陥るなんですね。その点、

>ただ子供を幸せに導く術を知らなかっただけだと…残念ながらいまだにですが、それを突き詰めると怒りがぶり返し、メビウスの輪のように止まるところを知りません。
といったものは、自分を妨げたもの本当に何だったのかがまだ分かっていないからこその、ちょっと的外れの怒りだったりするように多々見える次第。
最大の妨げは、間違いなく「存在の身分としての恋愛」といった心の動きにあったと思います。それを浄化することで、「互いが好きな気持ちだけで結ばれる輝き」といったものも、純粋なものとしてさらに鮮明に心に蘇るという流れになるでしょう。我々の不完全な「現実の世界」ではあまり求められるものではなく、「魂の世界」のものとしてです。

いずれせに数年先の話として、そうした向き合いが進んだ時、内面感情現実の行動も、もう今からは予測もつかな別世界のものになります。


「愛」の裏にある「強さ」「自尊心」の価値観に取り組む

また取り組みテーマになるものとして極めて重要で必須になるものの話を加えておけば、「愛」への姿勢および感情にある、「強さ」「自尊心」への姿勢や価値観です。
これについて具体的な視点を説明し始めると話が長くなり過ぎますので割愛しますが、まずとっかかりのポイントを言っておきますと、「命」にしっかりと根ざす「強さ」「自尊心」を得た時、「愛」が得られないことで「生きていても仕方ない」とはそう簡単にはならないんですね。仕事得たもの無意味のように感じてしまうことにに、人間としての真の強さや自尊心といったことに実は心が向いておらず、心底は心の芯を失ったまま「愛が全て」「愛があれば全てが解決(という幻想)」というあり方になっていたのかも知れない。
真の強さや自尊心といったテーマに、それを単独純粋に取り上げ自分がいったい「本心」でどんな考えを持っているのかから、取り組む。真の強さや自尊心を経てこそ、「愛」あり方根本的に変化します。「愛」だけに向き合っても起きない変化としてです。
これが上記「受けとめる側の心」築くための、主軸になると言えるものです。


「魂の世界」による「現実の世界」の凌駕とは

以上が取り組み方本題として、あとは周辺的な話になると思いますのでなるべく手短にコメントしておきますと、

>実際この2〜3か月程妄想にふけってみました。付き合っている状態が夢に出てきたこともあります。心が満たされる効果はあると思いました。*ひとつ心配なのが、これを長い期間続けることによって、心が固定されストーカー化したりはしないのでしょうか?*

人を終生愛し続けることがストーカーであることなど断じてありませんストーカーあるなしは、まずは相手に不快や恐怖を与える「つきまとい」行動の有無で分かれます。また内面的には、ストーカーつながるのは「所有欲」であって「愛」ではありません。まあ心が若く未熟であるほど、「所有欲」「魂の愛」重なってしまうので、まさに向き合いと踏ん張りどころです。

>また、余談ですが、この過去の恋愛に向き合ったことが、自然と初恋の感情を呼び起こすこととなりました。
>私はいつも少女漫画を読むと、自分がキラキラした世界から取り残されたような悲しさを感じていました。でもそれがもうありません。*自分がそういった青春を過去に持っていて、懐かしむような愛しい気持ちです。体験していなくても体験したような感覚です。これが実体験を凌駕するような、ということでしょうか?*

「収めようとする」ではなく「とことん開放する」へと軌道修正したことの、まずは効果だと思います^^。
「魂の世界」による「現実の世界」の凌駕と言っているのは、
1)叶えられなかった悲しみ受けとめ尽くす先に、むしろ叶えられていたかのような心の豊かさの感覚が生まれる
2)「現実の世界」ではあり得ない輝き帯びた感情として、「魂の世界」における「望み」の感情(「魂の愛への望みの感情」)体験される
という主に2パターンになると今考えています。
書いて頂いたものは、まずは1)該当するかと。
2)該当するものは、上述の「2つの心の世界」の歩みに向かう中で、「受けとめられる側の心」次第に浄化される中で、やがて体験されるかも知れない、と心の懐にいれておいて、自分自身の感情へのアンテナ研ぎ澄ませていくと良いと思います。

一言でいえば、「愛」「現実世界」において基本的に極めて不完全です。「現実世界」ではもう一つ「自由」という重要な心の課題があり、「愛」がそれを妨げる、つまり「愛」とは基本的に「不自由」である。これが「現実の世界」です。
ですので、「現実の愛」模索して見出し獲得していくものと、それと切り離された「魂の世界」見出し獲得していくものが、次第に互いを妨げることなく2つの峰のように育つことになります。そして最終的には「魂の世界」の方がより強く大きなものとして、「現実の世界」支えるようになるというです。ただし我々の「心」あくまで「現実の世界」に立脚したものとして前進しなければならない。これが最後まで難しいところです^^。


人との運命は最後まで分からない

>>相手にせよ自分にせよ、どんな運命の変化があるかは分からないという目を持っておくことですね。再び相手に近づく行動を考えるのも良し。ただし「外面行動は建設的に」という指針の上でです。相手が家族持ちであれば、相手にも分かるような行動は不可
>*これは、多面を同時に見るということでしょうか? 相手にも分かるような行動は不可とうのは、会うための連絡を取ること自体が不可ということでしょうか? 私は自分に友達以上の好意がある以上、会うことはもう無いと思いますが、相手に近づく行動というのは具体的にはどういったものになるでしょうか?*

「多面を同時に見る」は、とりあえず
島野が通った主な転換の流れ
バーンズの言葉流用して述べた「真の自尊心」への姿勢
そして生きることそのものを「現実の世界」「魂の世界」として見ること、そして2つの心の世界持つことなどに関連します。特定相手への行動法にはちょっと出てこない話かと・・。

まずそこで言ったのはごく一般論なので、相手に近づく行動というのが具体的にどんなものになるのかの具体的アドバイスは、さらに詳しい情報がないとできません。
まず一般論として言えるのは、相手の今がどうなっているのかの情報へのアンテナを持つことからになるでしょうね。
運命は分からないというのは、例えば互い別の相手と結婚しても、互い相手と死別したあと再会してまた一緒になるといったストーリーも世にはあるというような話です。今分からないそうした未来を、今切り捨てることはない。
相手に実際に会いたいなら、控えめに偶然を装って出会える状況を目論むことは、まあ許されるでしょう。
そうした全てが難しい場合でも、本当に魂から相手を愛するのであれば、自分の心の中だけにおいても、その人と生涯生きることを決意することです。このレベル道を誤ることこそが、生きる意味を見失う最大の原因です。現実世界では他の男性と結婚した上でも、それはアリだと思いますヨ^^。
生きるとは、結局、自ら愛に向かうことです。自分からそれを捨ててしまうことは、まさに生きることそのものを、「命」を、自分の中で失うことなわけです。


ということで、このご相談「人生で最も愛する相手に向かう」という、心の成長歩みにおいても山の頂き該当するテーマを扱ったものになっています。それでも頂きには裾野が広がっており、山の頂きかいま見えたとしても、歩みの道のり広い裾野からのものを一通り通らねばなりません。
そのポイント一通り説明したものということで^^。

追加質問などもあるかと思いますがかなり長くなりましたので、何かあれば新規トピックを立ててお寄せ頂ければ^^。

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