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合計 5 件の記事が見つかりました


「生涯で出会う相手」「夢」^^ / しまの 引用
No.771 2014/01/28(Tue) 16:39:36

先日ブログ状況報告の通りお待たせしました^^。

「生涯で出会う相手」

>命の重みにおいて愛する、生涯で出会うただ一人の人物のような相手

『実践詳説』「序章 / 人間の真実」で言っている、「心の成長の山の頂きに向かう尾根にある2つの峰」のうちの一つですね^^。(P.30人間の真実

重要なのは、「愛」「欲」違いしっかりと見据えることで、すると本当の「愛」というのはそう相手無差別に乱発(^^;)できるものではなく、相手が限られてくる、という話。「欲」はいくらでも相手無差別に発情し得(^^;)ますね^^;
以前『「愛」と「欲」と「絆」』 しまの No.664 2013/10/20などでも言った^^。

そうして限られてくる、本当に愛する相手に向かうという、人生の宿題があるという^^。

>これまで、愛する気持ちの対象になったきっかけで、生涯で出会う人物とは、島野さんの本の中では、下級生ということでしょうか。

『悲しみの彼方への旅』で書いた大学時代では、そうだったということになると思います。
ただその頃心を病んでいた傾向があまりに妨げになっており、その「下級生の子」への思いも、「現実」の中の感情というより「空想」の中の感情だった感じですね。
それでも「本当に愛する感情」呼び覚ましてくれた、他に変えられない出会いだったということになります。

その後の、健康な心回復した僕の人生において、一番の役割を果たした「生涯で出会う相手」は、他の執筆の中で多少(ごく短くバラバラに^^;)触れていますが、結局初恋女性になっている次第です。これはいずれ『日記ブログ』で、僕の心の歩み全体の流れとして書いていく予定です^^。


「夢」

>ここ最近、夢を見るようになりました。熟睡している時は、夢は見ないと言われています。心当たりは、最近早めに就寝して時間の余裕があること。もうひとつは、ハイブリッツド心理学の実践をして脳が変わっている最中だからなのかと感じています。

まさにそうだと思いますね^^。
「夢」については、
『実践詳説』「終章 「真の望み」への道 / 「純粋な愛への望み」の感情は「自分」と「現実」を超えたものへ」で、
それはおうおうにして、心の変化を先取りするようなものとして現われる
と書いた通り。
P.251「純粋な愛への望み」の感情は「自分」と「現実」を超えたものへ

ですので、印象的な夢日記など書いておくと、後から読み返して、心の変化流れ実に絶妙な前後関係があるのが感じられて面白いと思います一つの立派な執筆作品になる感じ^^)

>脳が変化していった時は、島野さんは夢などは見る日が多かったでしょうか。それとも、熟睡でしたでしょうか。

比較的浅い睡眠の傾向のせいか、ちょーをよく見ます。ま脳が変化するというほどのだけでなくても、僕の今までの人生心の変化が絶えることがなかったこともあり。
この辺『実践詳説』の上記部分書いていますので^^。「夢」僕にとって「もう一つの人生」だったと感じられるほどだった、と。
でも(まだ心が変化中?^^)よく、印象的な夢を見ます。しばしば、まるで映画のような芝居がかったストーリーの夢を見て、自分でも感心している感じです。これも今後『日記ブログ』などで紹介していければと^^。

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No.745つづき / にーな 引用
No.759 2014/01/08(Wed) 14:27:23

島野さん

明けましておめでとうございます。
前回の続きですが、長くなりましたので新規で立てさせていただきます。

>「楽しみ」を共有するというプラス行動は「建設的対人行動法」となり、それ以外の、与えられた問題課題の達成や、マイナスの状況への対処は、全て、基本は「原理原則行動法」になるということです。これで、内面の「怒り」「怖れ」などのマイナス感情は、行動の原動力として役目を持たなくなります。

「喜び楽しみ」とうものは内面で感じることかと思います。そのため、現時点の自分にとって、マイナス感情に巻き込まれない行動・原理原則を識別・選択するのに多少の困難(混乱?)を感じる時があります。というのは、マイナス感情を解消すること(時として破壊行動)が、「自分の幸福に向かうもの」と意識が錯覚を起こしている状態ではないかと思います。島野さんの回答を受けても、自分の気持ちが楽しい・スッキリすることをすること、もしくは反対に自分を抑えることが、瞬間的なマイナス感情の軽減はあっても、必ずしも「建設的対人行動法」とは言えないことがわかります。そのため、取り組むべき行動は常に外側にあり、内面感情はただ流し見つめるのだということも理解できます。現時点では、マイナス感情が流れた時に、建設的行動を取ろう(もしくは原理原則に従おう)として身動きできなくなる(何が建設的行動、原理原則かわからない)ことがあるのですが、その辺りアドバイスいただけますか?


>ですのでその場面についてはむしろ、なんでそういうメンバー構成で会うことにしたのか
>「自分はこれこれを意図して、こうなればいいと思って言った」というのを明確にすることで


前回と今回のエピソードにおいて、「自分はこれこれを意図して、こうなればいい」という自分の中での問いかけが無く行動を取っていた、ということがやっと腑に落ちました。自衛・建設が大事なのですね。
ひとつ質問ですが、「あるべき姿からの否定感情」と「ただいじけてしまった気分」の違いがわかりません。もっと話すべきと強く感じたのなら否定感情となり、話すべきという気持ちはあまりなくただ不安になっただけならいじけたということでしょうか?
また、「あるべき姿からの否定感情」というのは原理原則がないところには発生しないともいえるのでしょうか?


最後にもうひとつ。すみません、前回の質問の繰り返しになりますが、この状況で原理原則といえるものはないというのはわかりました。「感情と行動の分離」ということでは、自分の行動と気持ちの処理は妥当であったでしょうか?

(抜粋) --この日私が取った行動は、わからない話題であれば「私は知らないなぁ」と正直に言って聞き役にまわり、卑屈感で内面的動揺が起きた時は、席を外してトイレに行くことで気持ちをリセットしました。」--

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Re: 生き方について / しまの 引用
No.678 2013/11/06(Wed) 18:10:50

>家族や同僚や友人以外でも、異性の友人・同僚とも、愛・絆を作ることは、良いことと捉えても良いものと感じます。しかし、配偶者がある方は、他の異性とは親しく絆をつくることを不倫とかとらえたり、タブーと見る方もいます。

これも、
『「愛」と「欲」と「絆」』 しまの No.664 2013/10/20
(↑クリックして表示される最後の記事)
で言った、太い絆細い絆になりますね。絆を作ることは良いことですが、本当に太い絆数に限りがあるものになると思います。
配偶者を本当に大切に思うのであれば、他の異性と過度に親密になるのは避けるのが「誠実」だという話になるかと^^。

>また、乳幼児や友人・同僚に対しては、同性・異性に関わらず、必ず恋から始まるものだけではなく、関心や尊敬などから愛・絆となると感じます。

「恋」から始まるのは異性相手愛と絆の場合ですね^^。

>人の行動や症状は、個別のものであるから、その人間の集団の人間関係の中で、感じる疲労感は自然なこととして受け止めて、そこから学ぶことで、なりたい自分を作っていくことにつながるとも感じています。

対人行動社会行動での「学び」になりますね。これはもうハイブリッド心理学「取り組み実践」として、「建設的行動法」など具体的「学び」用意していますので、何か具体的材料などあれば個別新規トピック質問頂くと良いかと思います^^。

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「恋」が「愛」に変化する道への目^^ / しまの 引用
No.676 2013/11/04(Mon) 17:19:56

体調悪化を伴う治癒

>ハイブリッツト心理学の考えを進めていくと、一時期体調が悪くなると書かれていたことについて、私は最近身体と頭部もスッキリ快適ですが、頭がボーッとして物思いにふけっているような時があります。これは、関係あるのでしょうか。

『理論編下巻』の
4章 「未知」への大きな前進−1 −「自己操縦心性の崩壊」という根本治癒−

などで説明している、特別な治癒過程についてのかと思います。
一言でいうと、病んだ心の底には、普段は蓋をされた、不安定な感情の塊があり、何かの衝撃的な体験の中でその蓋が取れて、不安定な感情の塊が一度どっと吐き出された後に、すっきりと健康になった心が現われることがあるという話ですね。
心理療法の世界では「カタルシス」と呼ばれているものの一種と言えると思います。その中には、不安定な感情の塊どっと吐き出される時一時的に体調悪化が起きることもありますが、心配はいりませんというですね。

ですので、「頭がボーッとして物思いにふける」といった状態は、まずは全く関係ない話になると思います。まこれは誰でも時にはあることということで^^。


「恋」が「愛」に変化する道への目

「恋」はまずは、
『「愛」と「欲」と「絆」』 しまの No.664 2013/10/20
お答えした話の中での、

「恋愛」同義語という話で良いかと思います。「愛」よりも「欲」比率が高いもの。

>しかし、本能である性を満たしたいから・取り残されたくないから・寂しいからなど、自己満足のためという部分というかそういう観点の場合の恋愛の形も考えられるケースがある。

というように。

一方、「恋」「愛」入り口とも言えますね。まだ「愛」にはなり切れてないとしても、その先本当の「愛」見出されるかも知れない。
「恋」→「愛」→「絆」(つながりが保たれる)
という過程がある、というになると思います。

ということで、僕からの意見としては、人生の大きなテーマとしてあるのは、一番太い「愛」と「絆」ですので、それに向かう途上過程について言うならば、

>最近知人との話の中で、「恋をする気持ちを忘れたらおしまいだよ」とありました。

というのは、まあそうだと言ってもいいかも知れませんね。
でももっと大切なのは、「恋をする気持ち」「本当の愛」へと変えていくもの何か見る目だという言葉を添えたい^^。
でそれは何かと言いますと、ハイブリッド心理学からは、
「愛」外面行動としては「分かり合い認め合う」ことではなく「喜びと楽しみの共有」として向かう
「愛」「欲」まだ混ざっている場合には、「欲」の部分はいずれ自分を豊かにするのではな惑い悩ませ、心を貧しくさせるものになる、というを持っておく。

この2点を踏まえて、あとはもう「恋」という「望み」に向かって全力を尽くすことだ、と。そうして多少悩み苦しむ体験経る中で、「恋」が「愛」に変化していくとはどういうことかが、分かってくる、と。これはもう長い人生の道のりそのものになりますね。

>それから、失恋中とか・子供等を養うために仕事だけの生活で恋どころではない・恋する方がいない・勉強や趣味で時間を使っている・治療中などと生活は、恋をすることだけではないと想います。

これはまあ、仕方ないこともあるとして、もったいないことだという話になるかと。まずは自分「こんな状況では無理」と決めつけないで、心をオープンにしておくことから、というになるかと^^。


「人類愛」

ということで、

>恋も、楽しみ・健康に含まれると思いますが、島野さんの考えからは、恋は望みとなり必要なものと考えるのか、人を愛し絆に結びつく過程と見るのか。それとも、恋だけの一対一の関係ではなく、人類を愛することが幸福と見るのか。

への返答としては、
「恋」「愛」への入り口としては必要。ただし、その入り口に入ったら、いつまでもその入り口を見ているのではなく、その先「愛」目を向けたい。

また一番太い「愛」と「絆」は、あくまで一対一で直接相手にできる者へのものだと思います。
ですので「人類」という全体自分が相手にするものとして本当に「愛」の感情を持つというのは、一般的な人間ではちょっと難しいと思うのですが・・。嘘偽りのない「人類愛」持つ可能性のある人としてまず考えられるのは、たとえばローマ法王とかダライ・ラマといった人物が浮かぶのですが。

ちなみに自分の執筆を、「人間のための仕事」と感じる感覚でやっているのですが、「人類愛」となるとどうも・・という感じですね^^; 自分が「愛」を向ける相手とのしての人類全体なんて、とてもじゃないけど僕のイメージ能力の中には入らない。
島野はあくまで俗人凡人ということで・・^^ゞ

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「愛」と「欲」と「絆」 / しまの 引用
No.664 2013/10/20(Sun) 12:03:07

まず言葉定義としては、

「愛」・・・相手を大切に思う気持ち
「絆」・・・「愛」によってつながりが保たれる様子

とするのが良いと僕としては考えています。
「愛」それぞれの人内面の気持ちの話。「絆」は、内面「愛」という気持ちがあった上で、外面現実において実るもの、という話。
まずは言葉使い方としてですね。

一方人と人のつながり生み出すのは「愛」だけでなく、相手を大切に思うのではなく、とにかく自分が大切で、相手を自分の「欲」のための利用するものとしてつながるものもあります。これは「絆」とはあまり呼べないと感じます。外からは一見そのように見えてもです。

まず言葉定義をそうするならば、

>恋愛中の相手を思う心は、絆の2つのポイントと同じ内容と言えますが、恋愛は、絆というより「愛」が妥当かなと感じています。
>恋愛中は絆より愛の比率が高いでしょうか。

については、「恋愛」「愛」よりも「欲」の比率が高いと感じますね^^。

>また、絆の人数についても聞かせて下さい。

「絆」には太いものと、細いものがあると思います。
一番太いものは、親子関係と、生涯を共に生きる相手だと思います。つまりまず「通常」というか単純に数えてみると、まずは親2人、生涯のパートナー、子供と、せいぜい片手で数えられる前後のものですね。
いつまでも年賀状を送り合うような相手も、「絆」一つではあると思います。これは細い「絆」で、数的にはもう人それぞれですね^^。
ただfacebookで友達3ケタなんてのは、もう「絆」とは言えないものもかなり出てくると思います。

>疾患となる依存でも、自分のことよりも相手のことを尽くしてしまうなど、不安からくる過度の相手へなどと心配してというポイントが異なりますが、真の絆の考え方と一部重なる部分があると思います。

「依存」はどっちかち言うと「愛」よりも「欲」によるつながりと言えるかも知れませんね。相手に尽くすというのも、相手を自分のものにしたいからというのであれば、「欲」の話になってくる。

もちろん、相手を大切に感じるから相手を自分のものにしたくなるというように、「愛」「欲」重なってしまうのも、心が若く未熟であるほど起きてくることだと思います。
それについては、内面の気持ち「愛」「欲」見わけるというに、つながりの行動を「喜び」と「楽しみ」の共有においてのみ行うという外面の行動法重視しているのがハイブリッド心理学です。そうした外面の行動法があった上で、内面自己分析時に役立てることで、「絆」になり得ない「欲」自ずと淘汰されていきますので^^。

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