■ 課題は「離反」ではなく「依存」^^ / しまの |
引用 |
No.712 2013/11/29(Fri) 14:58:51
課題は「離反」ではなく「依存」
これはずばり、取り組み課題は「離反」ではなく「依存」かもですね^^。
つまり、まだ「人に与えられた枠の中で生きる」という生き方姿勢と行動法の中にいるために、行動様式が「服従か反発か」というものになってしまっています。これは基本的に「依存」の中にいるからです。
「破壊」と「自衛」と「建設」という行動様式を言っていますが、その選択を問えるようになるのは、「自立」からです。 「依存」では、行動様式は「服従」と「反発」という別の話になります。そこで「服従」か「反発」かの選択を問うことは、あまり成長に向かうことではありません。後者を「選択」したとしてもです。 まず「依存」を抜け出すことです。それが課題です。
書いて頂いた内容の印象を一言でいえば、「人に教えられた誤った生き方を引きずって、自分からハズレくじばかりを引いている」というもの^^。 まず、人に教えられた誤った生き方から、抜け出すことです。そうすれば、当りくじとハズレくじがあるのが、見えるようになります。そしたら話は簡単です。手を伸ばして、当りくじをつかめばいい。
いずれにせよ「取り組み実践」としては、『入門』の 「外面・内面・外面」と繰り返す「向き合い」の実践 で説明しているように、 1)課題場面における「心の健康と成長に向かい得る行動法」は具体的にどのようなものになるのかの理解 2)それについての自分の理解納得、および対比としての内面感情への向き合い 3)それを踏まえて今取るべき外面行動の結論検討 と進めるものです。 重要なのは、1)の「心の健康と成長に向かい得る行動法」が、「健康な心の世界」を前提にすることです。「健康な心の世界」における「心の健康と成長に向かい得る行動法」を、まずはどう想定できるか。 それにまず取り組みます。
書いて頂いたものにはおおよそ5つほど題材があるかと思いますが、それぞれ手短に書いてみますと、
1. >ただ、「人生のパートナー」という課題に関しては、「自由」と「安全」への望みが強いためか、異性への恋愛感情すら芽生えない状況。極論すると「現実の異性なんて信用できるか!」というところでしょうか^^; そういう望みが強いのも、人間関係であんまりロクな目に遭ってないため、既に人間不信に陥っていることが原因なところまでは自覚しています。 これは逆に、どうであれば「信じられる」という話なのか。一度持てた間柄は何があっても変えないことを約束してくれることを求めているようなことはないか。
2. >自分を含め、一緒に行動している人同士が互いに運動部の顧問のような目を向けている状態だったのを思い出すと、今でも気持ち悪さを感じます。社会人になってからも、プライベートで人と接するときにそういう環境が多く、かなりゲンナリしました。 そのような閉鎖束縛的ではない、オープンで自由な交友の和を、具体的にどう考えることができるか。 「自分を含め」となると、「人間不信」とはちょっと自分を棚に上げた話ではないかということになってくるかもですねぇ^^;
3. >「いつもギリギリに出勤してしまう。余裕をもって出勤しようとしても内面で強烈に拒絶してしまう」 >似たようなことで、同僚から「減量したいなら徒歩で通勤してみては?」と提案されたのですが、「こんなトラブルまみれの職場のために、何時間も移動時間を割くのは嫌だなあ…」という感覚が湧いて、適当にやり過ごすだけにとどめた、ということもありました。どうやら、登校拒否の中高生のような心境に陥ってる模様です。 これはもう書くまでもないですね。自分としてはどんな行動戦略を持つか。それがまるでなしですね^^;
4. >人を頼るのが苦手な傾向に気付きました。 >過去の職場でも、他の部署から急ぎの作業をいくつも振られた時、のんびりやってる他の先輩たちを尻目に一人で焦って錯乱する場面を何度も経験したのを記憶しています。急ぎの作業が増えたのでお願いしますと頼んでも、じゃあやっといて、の一言で済ませられてしまうこともしばしば。「なぜ自分だけ追いつめられてるんだろう」と精神的に疲弊し、仮病を使って数日欠勤したこともありました^^; 今考えてみると、人間不信がいろんな場面に悪影響を及ぼしてきたなあと。 これは具体的なコミュニケーション技術が課題ですね。言葉の使い方一つで事態が変わります。
5. >登校中などに「死ぬまでこんな面倒臭い人生がずっと続くのかなあ…」などと、小学生らしくないことを考え、ゲンナリしていたことも結構多かったように記憶してます。 >考えてみると、怒りに覆われてる時も、「こんな世の中生きてても何も面白くないし、親の弔いが終わったら俺の役目は何もなくなるから死んでもいいや」という自暴自棄な思考を日常的に持っていたのを記憶しています^^; まあこれは過去の話として、「ではどうであればいいか」の具体的思考がないままの感情という、総合的な表現ですね。
ということで、問題は全て、自分としてどんな行動法が取れればという戦略がないまま、与えられた枠への不平に流れる、というものになっていると思います。 僕からは、言葉の表面の印象以上に、まず良い環境が与えられることを求めている、子供の心がある・・というか働いているという印象。 そんな話として、取り組み課題は「離反」ではなく「依存」だという話です。 まず課題は、「自分としての行動法の戦略を持つ」ことです。
「自分」ではなく「場面」に取り組む
「取り組み実践」は上述のように、まずハイブリッド心理学からの行動法の答えはこうだというのを、知ることからです。で、それについて自分はどう感じるかに向き合うことから始める。
そこで取り組み課題材料にするのは、「場面」です。「自分」ではありません。 「場面」に応じて心の健康と成長に向かう行動法があり、それに取り組むことで、次に「自分」における取り組み課題が分ってきます。そこからさらに詳しい分析取り組みもできます。
「自分」を最初から「課題」に考えるのは、結局、「自己理想像」にそぐわないものを取り上げるという取り組み姿勢になります。 「自己理想像」をとっかかりとして取り組むこと自体は悪いことではありませんが、それだけでは心は固定化されます。成長に向かうことなく、長い目では心は停滞と貧弱に向かってしまいます。
また「離反」は一般的に言って、取り組み課題にはできません。「離反」は、「場面」への対処がうまくできない場合に、最後に自分の心を守るための、比較的健康な反応だからです。 取り組むべきは、「場面」への対処を知らないでいる状態の克服です。 さらには、「離反」に覆い隠された、「望み」が、取り組み課題になります。
ということで、まずは上記引用で番号を振った、2、3、4あたりからの取り組みになりますね。ハイブリッド心理学からの答えはどんなものか、見当つきますか。分からなければまたご質問頂ければ。 そうして、まずは社会で自分が生きるための、自分から持つ行動法への自信というのが、異性とのおつき合いの足場になるという順番として、やがて1の話にも取り組めるようになる、という道順です。 そうした道順の有無で、話が全く変わります。現状の、自分としての生き方および行動法の戦略をあまり持てない状態のまま、異性への望みを考えても、一体どんな完璧無比の異性を求めるのか、ちょっと見当もつかない^^;
ちょっと辛口アドバイスだったかもですが、検討あれ^^。
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