■ 今問うべき「自立した心の世界の建設的行動法」^^ / しまの |
引用 |
No.776 2014/01/30(Thu) 18:02:33
克服成長への心の仕組み
まず克服成長への心の仕組みの理屈部分^^。
>?@ >これは、不合理だと理解して、「行動戦略型自己理想」につながる「建設的行動法」を見据えて、現実行動に出ようとしても、「人物印象方自己理想像」を持って同じ現実行動に出ようとした時と同じような否定感情が沸かざるを得ず、現実行動が妨げられ、実行ができなくなる、という事でしょうか?
いえ、「人物印象型理自己想像」が不合理だと感じ、意識思考の上では捨てたとしても、それだけではまだ、「人物印象型理自己想像」が働きを続けているかのような否定感情が湧く、という話です。 分かりやすいかもしれないストーリーで言えば、たとえば「主婦の理想像」の信念を抱きながらもそうなれずに「うつ」になる、といったケース。カウンセリングを受け、そんな完璧な主婦などいないという言葉に納得し、心が楽になったのを感じる。そうして意識思考の上ではもう理想信念は持たなくなるのだが、ふとまた自分よりもそうした理想像に近い他人を見かけた時、心が沈んでいき、無気力が起きてくる・・。そんな流れ。 つまり頭では「こんなマイナス感情に値する問題ではない」と思いながらも、心はというか体は引き続きマイナス感情を起こす、というような話です。 まあこれは要は一言で、理想を捨てれば低い自己評価、自信のない状態が解決するというわけではないということだと言えるかと。理想を捨てればいい、ではなく、自信を持てるようになる何かを持てることが真の解決、と。
で、それについて「現実」における克服成長への取り組みをしましょう、という話です。 それが「建設的行動法」になる、という話。 ですので、「建設的行動法」を見据えて現実行動に出れるようになってくれば、かなり話が違ってくると思います。
ただしこの2つつまり「不合理な自己理想を捨てる」と「建設的行動法ができるようになる」の間には、かなり距離があります。一度に切り替えることができるようなものではありません。 まず「人物印象型理自己想像」の不合理を理解し、それを捨て去ることで一段階。心がそれをどう受け入れられるかに、多少とも時間がかかるでしょう。 次に、「建設的行動法」を学ぶので一段階。それをどう理解納得できるかに、また多少時間がかかるでしょう。ここでもやはり、心がそうした新しい心の世界に向かうことができるかどうかが、問われてくるかも知れません。 実際の行動ができるようになるのがまた次の段階。 年単位で、一歩一歩を歩んでいくものになります。
「自己理想」を問う前に行動法を学ぶ
>ここがよく理解できません。「空想の感情」?つまり、こんな自分を演じられたところで現実における成長も問題解決も出来ていないということでしょうか?
「演じる」とは、本当ははそうでないから(言葉は悪いですが)その振りをする、という話になると思います。シナリオ作成から結果評価までをふんだんに「空想」を駆使して。 真の問題解決は、もはや何の意識も働かせる必要もなく、自動的に、安定したプラス感情が湧き出るようになることです。「これはどう?」と、人がどう思うかなどの空想を働かせる必要もなく、好ましい「結果」を「現実」において生み出せることで。 そのために、「建設的行動法」を学ぶことから始めるものとして、「現実における克服」に向かいましょうという話。 ただし「演じる」というのが全く無駄ということではなく、「その場しのぎ法」としては役に立つ場面もあります。これも結構重要^^。
>「行動戦略型自己理想」を組み立てるために「建設的行動法」をベースにした、一つ一つの場面や問題に対しての言葉、行動を選択するということですか?
まずは「建設的行動法」とはどんなものかを学ぶことからです。自己理想をどう描けるか以前に。 その習熟が豊富になるほど、やがて「行動戦略型自己理想」も描けるようになってくる、という道筋です。
>しかしそれに取組む事に対しての妨げは、「行動戦略型自己理想」を作ったところで同じようにのしかかってくる、のではないのですか?「行動戦略型自己理想」が確かな物に感じられた上で、現実に対した場面で、妨げの感情が沸き、行動できなかったという経験が、進みようがない心を自覚させて崩壊に向かうということなのでしょうか。
順番が逆で、自己理想(人物印象にせよ行動戦略にせよ)をどう描くか以前のさまざまな「建設的行動法」に習熟することで、妨げが減っていき、「行動戦略型自己理想」が描けるようになってきます。 「崩壊」については次の話の方に含めましょう。
「心の死と再生」・「依存」から「自立」の転換
>?A建設的行動法に対しての疑問 >話が膨らんでしまったんですが、合宿の時明らかに自分が破綻するような状態になったのですが、ようは自分で破綻に誘導するようにはできないということですよね。
その通り、基本的にはできません。自分の足首つかんで足元さらって自分を転倒させられるかと言えば、できないと思います^^; それと同じです。 自分の意識が破綻する可能性もある体験の場に、その可能性を想定した上で、勇気を持って向かうというのは可能ですね。ただしその場合でも、意識の破綻崩壊は、「破綻崩壊したい通りに破綻崩壊」などど安易に受け入れられるものとして起きるのではなく、感情としてはあらゆる面において受け入れられないものとして起きます。まさにそうであるからこそ意識が死んで再生するものであることを知っておき、耐えてやり過ごすことが大切になるわけです。
さらにただし、そうした体験が「再生」としての意味を持つのは、心が「依存から自立へ」という転換への姿勢を持っている場合です。その時、今までの「依存」に根ざしていた心が死に、「自立」の心の足場を一歩強めた心が再生されます。 でないと、駄目な体験がまた一個、だけで終わってしまう^^;
この「依存から自立へ」という転換への姿勢については、まずは関連内容の掲載途中ですが、 『入門 - 4.心の成長変化 / 「心の成熟」の法則』 の 3)「愛」を単一軸とした「心の成熟」 を参照。 そこで書いているように、その転換とは、「今までの心」のまま行動法を変える工夫というレベルのものではなく、「今までとは別の心」へと向かう、という転換であることが重要です。 そこで「大自然を生きる一匹の獣」という話をしていますが、人間以外の動物は、「自意識」をあまり持たないので、自然とその大きな転換に向かいます。その最初の転換は、しばしば親獣から突き放されるという形で。それは子獣にとってその時失意になったとして、「自意識」をあまり持たない獣の心では、「命」が生み出す「自立」への力が直接働き、ほどなくして「自立する心」へと切り替わるわけです。 人間は「自意識」があるので、大抵「今までの心」にしがみつき、「今までの心」の中で思考しようとします。まあいつまでも親を始めとする他人や社会の庇護の下で生きるという生活様式もあり。
それを超えることが重要になるわけです。つまり「今までの心」のまま行動法を変える工夫というレベルのものではなく、「今までの心」とは全く違う「新たな心」の芽が自分の中にあることを感じ取り、それに立って、新たな行動法に向かう、という取り組みになるわけです。もちろん社会の庇護から外に出るなんてことではなく(ターザンでもなし^^;)、社会というものを自分が生きる大自然としてうまく使うものとして。
「依存から自立へ」の転換と共にある「建設的行動法」
ですので、「建設的行動法」と一言でいっているものも、実は「依存から自立へ」という、「行動法」というテーマよりもさらに根本的根源的な、「依存から自立へ」というテーマを含んでいるものであることを、ご理解頂ければと思います。
それはつまり、即実行に移せるプラス行動法であると同時に、実行するしないに関わらず自分の中にある「新たな心」に気づくためのヒントでもあるということです。このような行動法をする心とは、どんな心なのだろうか。自分の中に、それはあるのか・・と向き合うこととして。 そしてそうした行動法に向かうことができる自分の心の存在に気づいた時、その行動に向かうという新たな局面が始まるでしょうし、そうではなくとも、そうした学びも心の懐に入れながら、心が潜在的に「依存から自立へ」という転換を受け入れ始めた時、今までの心ではもう先にいけないというどん詰まりの体験の中で「意識の破綻」が「心の死と再生」になるということが、起き得るようにもなる、ということです。
ですので、我々が意識実践として行うことができるのは、まずはとにかく「依存から自立へ」という姿勢を込みにしたものとしての「建設的行動法」を学び、その理解納得を問うことからになるわけです。 それが、 『入門 - 3.取り組み実践 / 「取り組み実践」の3ステップ』 で説明している、「応用の学び」と「向き合い」という手順です。結局全てこれを通るんですね。
そこで妨げが軽ければ、「建設的行動法」への理解納得がすんなり進み、行動に向かうことができるかも知れない。 妨げが深かった場合、2パターンが考えられる。 a)今までの「依存」の心へのしがみつきが続いてしまうかも知れません。「建設的行動法」への理解納得ができない。これはハイブリッド心理学による取り組みが進まないケース。その場合の他の取り組み方法は、僕は知らない^^; (僕の専門はあくまでハイブリッド心理学ということで^^) b)そうではなく「建設的行動法」への理解納得ができ始める。「習熟」などはまだ遠く、妨げが強く向かうこともできない。「崩壊」が起きることが考えられるのはこの段階です。つまり今までの心ではもう先にいけないことを、意識よりも深いところで心が感じ取る段階です。だからと言って「今までの心」が自分で自分を「新しい心」に入れ替えることなどできないわけです。だからそこで一度「今までの心」が死ぬということが起きます。そし新たな心が再生されます。 『悲しみの彼方への旅』がまさにこの段階の様相を書いたものであるわけです。
ということで、結局「取り組み実践」としては、まずは今直面する問題課題についての、「依存から自立へ」という姿勢を込みにしたものとしての「建設的行動法」を学んで頂き、まずそれについて自身の理解納得に向き合って頂く、というものからになるわけです。
理解納得できていない自分に気づくことが第一歩
そこで「自身の納得理解に向き合う」という段階で、重要なポイントを言っておきますと、 「自身の納得理解を問う」とは、「いかに自分は納得理解していないか」を自身に明瞭にすることから始まる。 ということです。 これは上記妨げが軽い場合も、深かった場合でもです。
というのは、まず人は、心底での納得をしないまま、自分に当てはめてみるという思考姿勢で始めるからです。 それで多少うまくいく面もあれば儲けもの。でもどうもやはり言われた通りには行かない。そこまで行って、初めて、入り口に立つわけです。自分の心底での本当の感じ方考え方はこうなのだ、と自覚することから始めるものとして。 そうして自分がいかにハイブリッド心理学が示す「建設的行動法の学び」とは違うものに向いているかを認めることができた時こそが、第一歩を踏み出した時だと言えるでしょう。 まあこの第一歩の間に、起きるべき「崩壊」があるのなら起きているでしょう^^。
今問うべき「自立した心の世界の建設的行動法」
ということで、上記引用の文章の後に書いて頂いたお悩み内容については、その言葉に一つ一つコメント入れるのではなく、ざっと全体を見て、ハイブリッド心理学から示すことができる「学び」はこうだ、というのをずばり短文で出しておきましょう。 それはこんな感じのものです。 * * * * * 貴方がこれから(今)向かう人間集団は、特定の目的の下に運営されるものであり、その中における馴れ合い親しみの和は、第一の目的ではない。まずその「特定の目的」を果たすことに、徹しなければならない。学校であれば勉強。授業を受けること。 また、与えられた集団で馴れ合い親しみの和があり、その中に入れることを「あるべき姿」と感じるのは「ティーンの世界」までのことであり、まずはその世界に別れを告げなければならない。少なくとも外面行動としては。 人との親しみの和に加わりたければ、自分のことを話して分かってもらって、というものではなく、自分が心底から興味と楽しみを感じる、「自分」ではない「ものごと」についての話題を共有するという行動法のものによって、行わなければならない。それが見出せない、そこに加わることを心底から楽しめないのであれば、孤独を受け入れるべきである。 そしてそもそも、これからまず向かうべきは、人との和に入ることではなく、「社会に出る」ことを見据え、そのための情報を得ることなどから実際にその活動へと向かい、また社会を生きるスキルについても基本的な学びを得始めることである。
そうして一度今までの「依存の愛」から旅立ち、「社会で生きるスキル」による「自立の自尊心」を得てから、再び「愛」という人生の課題に向き合うと良い。その時、心はもう別のものへと変化しており、全てが、今とは違う見え方をするであろう。そこで「愛」に向かうことに再び妨げが現れたとしても、まさにその克服の模索によって、今の心からは全く未知なる答えが、見出されるだろう。 * * * * * といったものです。
まず言えるのは、今は「どうすれば談笑の輪の中にいられる自分に」というテーマに、心が虜の状態だと思います。しかし「今向かうべき成長」は、もうそれではないのだ、ということです。 それについて僕の感慨を書いておけば、「幸せなティーンの時代」を得るために、それは必須なものだと感じます。しかしそれを得る人間と、得ることができないまま人生の次の段階に向かわなければならない人間がいる。 僕は後者でした。そしてこたろうさんも、今の段階では後者でしょう。それを受け入れず、そうした「幸せなティーンの時代」を得てから「社会に出る」という観念に、しがみついているという印象。で逆に、「談笑できない自分のままでは社会に出られない」なんていう恐怖感にとらわれるようにもなる。そうして多数の若者が、社会に出ることにへの誤った不安恐怖にあえいでいる昨今・・。
これから向かうべき成長とは、社会に出て必要となる「仕事のスキル」などであり、それは「談笑できること」なんてのとはもう全く別のものです。この点は今の学校教育が、そうした現実の社会を生きる術を教えていないことに弊害があると感じるのですが・・まあ教師が実際社会を知らないのだから始まらない・・なんて話はさておき。 この辺の具体的な話は、この掲示板を「仕事の普遍的スキル」なんてワードで検索してもらえれば、どんな話か多少つかめると思います。
まあその上で、「談笑できるようになること」なんて目標を持っておくのもいいと思いますヨ。「仕事のスキル」を得るとは、そこに必ず、人とのコミューニケーション材料を、今までの学生時代の馴れ合いの輪の中の談笑とは全く違う形で、得ていくことでもあります。そこから逆に、仕事以外の場における人との交友への入り方というものも、見えてくるかも知れません。 それが、「幸せなティーンの時代を得なかった者が、やがて豊かな人間関係を築く」ための、僕が知る王道です。 「仕事」なんてまだピンと来ないという状況だとしても、大学に入ればもうその視野は持てる段階です。これについては、りょうたろうさんへのちょっと前のコメント 『「勝てる原理原則」は人生の駒を動かした先全てで学ぶ^^』 しまの No.744 2013/12/17 など読んで頂くとよいかと。
マイナス内面は表現しないのが基本
今回は以上をまずはアドバイスとし、まずそうした大きな話について、どう感じるかに向き合ってみて頂くと良いかと思います。
ご相談文面の後半は、そうした大きな視点を全く持たずに細かい話を書いて頂いているようなので、逐一コメントを返すのは省略し、ちょっと気づいた点、もしくは上記最初に言った「やり過ごし方として結構重要」な点などを書いておきましょう。上述の大きな話に向き合うことで、細かい点は多少対処が見えてくると思うのですが・・。
>その人たちと会ったら、自分の当時の状況と休学の2年をどう話して良いかわからない。 >関係をまた作るには自分のことを説明するべきか。それとも、対人恐怖感などは自分の中の感情として、適当な言い訳を作った方がいいのか。 >新たな関係を築く事になる人たちは、年下だが、自分の状況、休学についてどう話していいかわからない。また年齢や学年について、どういう関係性(学年が下だから下として敬語が良いか?)がいいのかわからない。
「分かってもらう」ための説明など一切いらず、「つなぐための言葉」を言えればよろしい。たとえば「ちょっと軽いうつで休学していたけど復帰し、今後授業の方頑張りたいのでまたよろしく」とか。とにかく話の向き先が込み入ったことに向かないよう言葉を配置するのがポイントです。前向き言葉で終えるなど。この辺は「言葉の選び方」という人生の日常の学びですね。 面と向かって言いずらいが伝える必要のある言葉は先にメールで送っておき、会った時にはもう触れない、というのがこういう場合の一番洗練された行動法になると思います。まもっと熱い会話を好む人など、人による好みはあると思いますが(僕はあっさりドライな方が好き♪^^;)。 新しい学年では、聞かれない限り話す必要はないでしょう。ごく一般的な敬語かタメ口でいいと思いますヨ。
最悪、「輪に入らない普通の人」を「演じる」ことも考えるといいかもですね。あまりにビビってしまうなら、どうやって「会う」かは諦め、一人おとなしくするしかない^^;
>(対人恐怖傾向を、なかなか人とうまくやれない、とカミングアウトしたほうがいいか?という疑問)「自己開示」についてです。 >こういう動機でのカミングアウトならば、「建設的な行動」といえるのでしょうか。
「自己開示」はしません。「自己開示」という発想は、人に心を閉ざす感情によって妨げられている人が、明るく人と接する人というのは「心を開いている」のだと、誤ったイメージを抱いた結果の観念です。明るく人と接する人は、「自分」を開示することでそうなるのではなく、話題となる、「自分」ではない「ものごと」が、心底から面白い楽しいと感じているからです。それだけのことです。逆に心底から面白いと感じずに、話が盛り上がる人間になどなれないということです。
マイナスの内面は、「カミングアウト」のみでなく全ての形において、表現しないのが基本です。一度表に出した自分のマイナス内面は、必ず一人歩きを始め、おうおうにしてそれが自分の内面を回復する妨げになります。そうでなくとも、何らかの「後始末」が必ず必要になります。面倒この上ない。 回復したいなら、マイナスの内面は表現しない。回復しなくて固定させていいのなら、好きにしていい。(おざなりアドバイス^^;)
あっあとこれ。
>自分がその場に入ることによって、その場が悪いものになってしまう。ぎこちないものになってしまう。
「幸せなティーン」の絵を「あるべき姿」という善悪思考にまで高めてしまった結果。これはよろしいですかな。
ともかくまずは大きな話からですね^^。
→関連スレッドを表示 |
|