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「人物印象型自己理想」の克服への歩み(後) / しまの 引用
No.769 2014/01/27(Mon) 15:21:11

続きです^^。

克服への歩みの道のり

もちろんそこで「ではどのような人物印象を理想と考えれば合理的で現実的か」と考えても全くの堂々巡りであり、そこに「学び」始まる、ということです。

「感情と行動の分離」からの指針明確です。それはつまり、「人物印象」として感じ考えることの全てを、「内面感情」の側の軸として扱うということです。
そして「外面行動」の側の軸として、今何が「実際に外面行動として対処すべき問題」なのかの見極めから、始めるのです。
まずはこれを基本考えるので良いでしょう。

歩みの道のりとして考えると、ポイント以下のようになるかと。全体としては5年10年、というよりももっと長いスパンの、生涯の歩みそのものとしてです。

1)成長への最初の段階

一言で言うならば、指針以下の通り。
自己理想以前の行動法の学びを得ていくと共に、「人物印象型自己理想」の先に自分が期待しているものを明瞭にし、そこにある不合理にも向き合うと良い。

「自己理想以前の行動法の学び」については良いかと。日常生活とで、自己理想を描くまでもなく出会う問題課題への対処法学ぶ沢山知恵とノウハウ心の外部にあり、かなりの範囲において「自分」という意識が無用であることを感じ取るのがミソになると言えます。若い時期にありがちな、病的なほど過剰な、「自分がどう」という自意識依存傾向軽減役立つでしょう。
上記「感情と行動の分離」からの指針の通り、「人物印象」に関連するものごと「内面感情」側の軸とし、「外面行動」側の軸として実際に対処すべき問題どのように捉えるかが、その始まりとして重要になります。

「人物印象型自己理想の先に自分が期待しているものを明瞭にし、そこにある不合理にも向き合う」は、上述「3)「人物印象」の不実と内容の誤り」言っているような「内容の誤り」自己分析するようなになります。自己理想内容「不実な誤り」自覚することは多少とも失意と幻滅を生み出すでしょうが、「現実における成長」へと向かうための通過点と言えます。

この最初の段階でどのように前進できるかは、それまでの心の状況によってかなり様相異なってくる部分でもあります。
心に抱えた妨げそれほど深くなかった場合、上述の進み方すぐ前進力を持つことも期待できる。
一方心に抱えた妨げ深かった場合、2つの隘路(あいろ)が考えられます。
a)自分から成長に向かうという姿勢があまり持てず、「依存」の姿勢の中にい続ける場合 ・・・ 「学び」内容への納得理解がなかなかできないというパターンに。
b)「自己操縦心性」が強度なケース ・・・ この場合は、本人「現実における成長」への望み持ち得るかどうか行き先分かれてくることが考えられます。持ち得ない場合は、「空想を生きる」という心の状態とどまる持ち得る場合は、「現実を受け入れる意思」によって「自己操縦心性の崩壊」が起き、「理由の不明確な絶望感」によって心が圧倒される状態起きる可能性がありますが、健康な心が再生される通過点であることを知っておき、ただやり過ごすことが大切です。

心の成長前半的な段階というのは、「人物印象型自己理想」として、「まさに実際にはそうでないからこそ抱く絵に描いた餅の自己理想」という構図なりがちだと思います。たとえば超ビビリ「動じない自分」という理想を描いたり、自意識過剰で緊張傾向の人が「気さくで親しみやすい自分」の理想を描いたりと。それで実際の場面になると、そうした理想の自分を演じようとしたもののあまりに食い違う自分の現実にガッカリ、といことになりやすい。
それを、上述「感情と行動の分離」両輪で始まる学びによって、社会向かうためにそうした理想像でなくても可能な行動法、たとえばビビッても可能な勝てる行動自意識と緊張バリバリでも行動できる親しみ行動といったものを見出していくことで、未熟ゆえの稚拙に絵に描いただけの自己理想の巨大なはりぼて構築物(^^;)を、まず取り崩していくのが道筋になるというのが、僕自身の歩みを振り返っても考えられるものになります。

2)中盤の段階

「感情と行動の分離」によって、「人物印象理想」内面感情側として扱う実践の歩み同じです。
以降、心の成長段階によって「人物印象型自己理想」感じ方どのように変化するのか流れを書いてみます。

とりあえずキーワードのレベルで書いておけば、実践の「習得達成目標」として「否定価値の放棄」大きな通過点になります。
これは特定「人物印象理想」「神」のような圧倒感とともに抱く感覚減少し、誰もが同じ人間という、人それぞれ長所短所の程度の差にすぎないという感覚へと移行するものと言えるでしょう。
「望み」大きく開放され、それを原動力とした人生の前進は、「人物印象型自己理想」よりも「行動戦略型自己理想」によって、大きく押し進められるものになります。
もちろん「人物印象型自己理想」持たなくなる、というのではなく、それは特に「愛」「望み」向かう時に、自分そうした理想どう近づくことができるか引き続き意識の上で重みを持つものになります。
言えるのは、この段階においては、自分の人物印象理想は、もはや「演じる」ことができるかと問うものではなく、自分が何をどのように感じどんな行動ができるかという、具体的側面に分解して問うものになってくる、ということです。

そうして具体的場面での建設的行動法習熟してくるごとに、自分の人物印象イメージは、格段に良くなってきます。これは
『「自己イメージ」 概説^^』 しまの No.747 2013/12/22
で、
============
「自己イメージ」位置づけが、
「自立」においては、自ら幸福へと歩む、そのためありのままの自分を受け入れ、現実世界を生きる知恵と能力を獲得していく、その達成状況について自己イメージが抱かれる
============

と書いたものとしてです。
やがてそれは、一般的対人場面社会行動場面においては、自分が理想的な人物印象の人間に、実際なれ始めているという自信感へと、高まっていくことが可能です。理想像を先に描いてそうなろうとするという結果としてではなく、行動法の理想を追求した結果、自ずと人物印象も理想的になってくるという結果としてです。

その先に、「人生で最も重要な愛」(人物であれものごとであれ)に向かうという、心の成長における山の頂のような課題控えていることになりますが、その最後の段階まで、ここで説明した流れ順調な前進で到達できるかどうか、多少の別れ道が出てくることが、再び考えられます。
順調な前進で到達できれば、無論それに越したことはない。しかしハイブリッド心理学は、心に躓きと妨げを抱えた来歴から始まり成長への前進に向かってもなお、心に残された妨げによって限界が現れ、さらにそれを超えるもの訪れるというに、異次元の世界への心の成長道筋があるのを見出します。

3)終盤の段階

そこで起きることとは、
『入門 - 4.心の成長変化 - ・「心と魂と命」の3次元的成長変化と最終ゴール』
で書いたように、
==========
「心」「魂の望み」受けとめ尽くした時、さらに異質「命の感情」現れる自己別の人間へと変化し、「魂の望み」感情役目を終え、消え去っていく。
==========
という変化流れです。
向かい方としては、上記中盤の段階でのもの同じ向かい方によって、「人生で最も重要な愛」向かった時に、内面もしくは外面壁や限界によって思い通りに「望み」を叶えられない時、その「望み」を通して自分が人生で望んだものは何であったのかにさらに向き合う、といったものになります。
そこで起きることポイントは、
『入門 - 4.心の成長変化 -  「心」と「魂」と「命」の意識の仕組み図』
において、中盤の段階まで「心」の領域で起きる変化であるのに対して、この終盤の段階は、「心」の底の仕切りを超え、「魂」と「命」に達する変化が起きる、というものです。

詳しい話『入門』引き続きの部分などに譲り、ここでは「自己理想意識」どうなるのかと言うと、「自己理想意識」というもの自体基本的「心」領域「自意識」によってつかさどられているものであり、結果、「自己理想意識」というもの自体が消えていく方向に向かい始める、ということです。
「人物印象」というものを、自分のことであれのことであれ、思い浮かべることも減ってきます。これは「自発的幸福」増大により、基本的他人の位置づけが小さくなってくることによるものと思われます。「否定価値の放棄」による「不完全性の受容」流れの先のものとして、「無条件の愛」「豊かな無」といった感情増大してくるということからも、「人物印象」あれこれ評価することなどなくなってくるというのが理解できるかと思います。
「人物印象」ではなく、ごく外面の理想、また「行動戦略型自己理想」引き続き役割を果たすでしょうが、人生でやるべきことを尽くしたという満足感増えるほど、「理想」という意識の全体が薄れてくると思われます。手前味噌ですが僕自身最近は多少そんな感じになってきています。まこの体験談(?^^;)はいつか『日記ブログ』などで^^。

まとめれば、
成長への最初の段階 ・・・ 「学び」得ながら「人物印象型自己理想」不合理な側面捨てていく
中盤の段階 ・・・ 「否定価値の放棄」成し「望み」開放させ、「行動戦略型自己理想」によって人生の前進
終盤の段階 ・・・ 「心と魂と命の3次元的変化」によって「自己理想」意識そのもの役割を終え消え始め
ということになります。

「自己理想」をめぐる心の惑い動揺克服への流れということで説明しましたが、その最終的な答えとは、自己理想基準にしてどうなるか、にではなく、自己理想への向かい方によってやがて導かれるものとしてある、ということになります。
自己理想を基準にしてどうなるかとは全く違うところにある答えが、ですね。


「今向かうべき学びと成長」を問う意識から

ということで、以上が、

>そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。ただ最近は・・(略)・・

について、「目の前の対処」「長い目からの展望」という2つ持つのがいい、というにおける「長い目からの展望」のために必要な知識になる次第です。
「目の前の対処」としては、そこで報告頂いたように「去っていく感情は追わない」というのでまずは良し
一方「長い目からの展望」は、ここでの説明全体を、心の懐入れる必要が出てくる。

まあ実は単刀直入な話、上記文章を読んで僕がアドバイスしたくなったのは、

>男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく

という「理想の内容」について、ちょっとケチつけたく(^^;)なったわけです。それをただケチつけるコメントだけ書いてもあまりに無骨(「洗練されていないこと。無作法なこと」の意^^)なため、どんな視点からそんな話になるのかを一通り整理すると、そうした話になるというのをまとめた次第です。「自己操縦心性」位置づけも含め。

その理想内容について言えば、
・男前を鼻にかけないことを理想と感じることにおいて、鼻にかけ(ようとし)ている
ちょっと説明加えておくと、男前を理想にするのは大いに結構。一方鼻にかけるかけないといった話は、「自意識過剰」克服として、「浄化」なども含め別の流れの話になってきます。)
・そうした人間になって、その先どうなるという話か。社会に出てからは、そうした「理想的人物」も、もう大した理想とも扱われず、それだけでは仕事もできないし収入も得られない
、といった^^;
ところが「自己操縦心性」は、そうした「人物印象理想」を、そうなれれば全ての人の尊敬と愛情が捧げられる栄光像のように、熱狂と共に描こうとするかも知れない。まずはその不合理面にも向き合いながら、まずは流すことだ、
といったになる次第です。
(それはまだ社会に出ていない若さでの「馴れ合い」世界の中でこそ理想像になるものと言えます。)

これは上記最初の段階での、「学びを得ながら、人物印象型自己理想の不合理な側面を捨てていく」における、不合理な側面を捨てるための検討視点ということです。
一方で、「学びを得る」は、「人物印象」とは全く別の問題としてある行動法の知恵とノウハウを、これもまた自己理想がどうかに関わらず出会う生活人生の課題において学んでいくということであり、この点ではりょうたろうさんは上記勉強法なども含め、まさに向かい始めているので心配ないかと^^。
その先に、いずれ「自己理想」というテーマは、人生の中大きな変遷をしていく。そうした長い目での展望持っておく良いという話になります。

もちろん、先を急いで、成長の先の段階を自分に当てはめるという姿勢ではなく、こうした知識心の懐に持っておいたで、「今向かうべき学びと成長は何か」自分の心に、さらには自分「命」問いかけていくという姿勢によって、その時その時において向かうべきもの見えてくると思います^^。
まあはもちろん、「社会に出る」という大きなテーマの下で、おおよそ全体を考えるので良いかと^^。

(終わり)(^^; ハハ・・)

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「人物印象型自己理想」の克服への歩み(中) / しまの 引用
No.767 2014/01/25(Sat) 17:57:13

(続き)

「人物印象型自己理想」と「行動戦略型自己理想」

いずれにせよ、コメントしたいと思ったのは、

>それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。

における「理想の自分」内容そのものです。

まず「自己理想イメージ」というもの全般について心理学的整理などしておきますと、
「自己イメージ」というのは、先日
『「自己イメージ」 概説^^』 しまの No.747 2013/12/22
解説したように、
1)基礎的自己イメージ(健全形)
2)評価づけした自己イメージ(健全形)
3)人の目の中の自己イメージ(煩悩・惑い・病み形)

という3層構造積み重なり複雑化するものとしてあります。

そこで「心の成長」観点からの位置づけなども書きましたが、要点まとめるとこのようになります。
はおおよそ「未熟」の中で、得てして膨張させた「人の目の中の自己イメージ(煩悩・惑い・病み形)」からスタートし、「依存」にとどまった場合はその惑いと病みをただ深める方向に向かい、「自立」へと向かう中で、より安定した「評価づけした自己イメージ(健全形)」へと移行していく。
それは「依存」の中で、「自己イメージ」「人の目」に映るために、得てして自分自身に嘘をついて「演じる」ために使われる傾向が強くなるのに対して、「自立」においては、まず重要になるのは具体的場面における「行動法」であり、「自己イメージ」はその達成状況について抱かれるという結果的なものとして、安定するごとにことさら意識するものではなくなってくる、とい位置づけ違いによる。
といった話になります。

そこにちょっとキーワード追加しておきたいのは、「人物印象型自己理想」「行動戦略型自己理想」というものです。
「未熟」というスタート地点から、「依存」姿勢であろうと「自立」姿勢であろうと、「自己イメージ」として「自己理想」描き、それに向かおうとするのですが、そこで重要なのは、姿勢によって「自己理想」の内容性質が方向づけられるのと同時に、「自己理想」として描くものの内容性質によって姿勢が導かれも、あるいはまた縛られもする、ということです。
「自己理想」描き方に、以下2種類があるものとしてです。

「人物印象型自己理想」は、人の目にこんな印象の人物として見られるという自分の理想イメージです。「容姿」「性格」組み合わせと言えるでしょう。「性格」としては、優しさ明るさ元気さ自意識過剰であるなし、などなど何でも
この「人物印象型自己理想」は、「未熟」と「依存」の中で抱かれやすく、同時に、そうした自己理想意識の中で心が「未熟」「依存」「病み」に縛られる傾向があります。
一方「行動戦略型自己理想」は、こんな行動をしてこんな結果を得ることのできる自分という理想イメージです。
これは人の心を、基本的「自立」と「成長」へと向かわせるものです。その「行動」が、目の前の場面のみではなく、「人生」という長い道のり視野に入れたものになるほどに。
またそこでの「行動」の方法とは、もちろん、「人物印象を演じる」というものではなく(これは「人物印象型自己理想」)、「行動学」「仕事の普遍的スキル」といった知恵とノウハウ実践であることがもちろんその条件です。

どうしてそうなるのか一言で言うならば、「心の成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」であり、それにどう向かうことができるかは、思考行動過程いかにそれに向くかの全て依存するのだが、「自己理想」の描き方というのが結局、思考行動過程始まりの要となるものであり、その後の意識過程もそれに従って大方方向づけられるからだ、とまずは言えるでしょう。


「人物印象型自己理想」の問題点

そこでの「人物印象型自己理想」問題点具体的に考えてみると、まずはざっと以下3つほどを言うことができます。

1)「どうすればそうなれる」という知恵を欠いている

それは基本的「人の目の中の自己イメージ」として描かれるのだが、「どうすればそうなれるか」理解知恵欠いたままでは、人物印象理想自分にただ押しつけるストレスと、「理想と現実」をめぐる動揺さらには心の病みの傾向(*)につながりやすい。
(*)心の底での深い自己イメージと、意識の表面の「人の目の中の自己イメージ」に、病んだ食い違いがあるもの。No.747コメント参照。

一方、「人物印象理想」を抱き、どうすればそうなれるという思考法行動法要件、そして何によってそうなるという心の成長歩みについての理解へと、分析展開して考えるのは良いことです。これは自ずと、「人物印象型自己理想」が、「行動戦略型自己理想」へと移行展開していくのが、健全、もしくは成長に向かうものだということになります。

2)「心の妨げ」の「症状」として生まれる

「人物印象型自己理想」さらには人の人物印象の理想像を抱くという心の動きそのものが、一般的何らかの心の妨げの表現もしくは「症状」として起きることです。
これはかなり難解な心理メカニズムも含んでいる話ですが、まず比較的分かりやすい話で言えば、幼少期に家族愛に恵まれなかった場合に、家族のような親しさで誰にでも接する人物印象に、強烈に惹かれるというものです。もう少し屈折したものだと、自分の自意識過剰に悩む人にとって、「心を開いて」人に接することのできる様子の他人が、あまりの輝きに見えて圧倒されてしまうといった感情が起きる。どちらも、僕自身多少とも、というかかなり強烈体験したものです。
こうした「引きつけ誘因」は、他人の内面について、偏った、あるいは病的な美化認識を起こすことがあります。またその逆パターンとして、そうした理想印象のない他人への、偏った、あるいは病的な軽蔑感情執拗に生み出す傾向があります。
『悲しみの彼方への旅』にも、そうして極端な「美化と軽蔑」の2極に彩られた心の世界(^^;)描写が出てきますね。以下など。
===========
他人であろうと自分であろうと、服装の着こなしに僅かでも欠点を見ると軽蔑を感じてしまう。
見るものの全てが、軽蔑に出会う。世界の全てに、軽蔑がまとわりついている。
あの子ただ一人が、そうした否定的まつわりを持たない唯一の人物として、象徴的な輝きを持っている。そして初恋の女性だ…。(P.252)
===========


まあそうした複雑な心理メカニズムなど考えなくとも、「人物印象の魅力」というのは、心の未熟から成熟へと向かう最初の方の段階ほど、抱くのがごく自然なものですね。
それをネタ(^^;)にするのがドラマ映画というものでもあるでしょう。大勢の人が、そこに登場する、たとえばクールで強靭、情熱的、純粋さ、太陽のような暖かさ優しさ、といった「人物印象」惹かれ、それらを見るわけです。
こうしたごく自然「人物印象の理想」抱かれる惹かれる感情も、
『入門 - 4.心の成長変化』 ・「心の成熟」の法則
「2)「自発的不幸」から「自発的幸福」へ」流れで考えることができます。
つまり人は「自発的不幸」段階にいるほど、自分に幸福を与えてくれるものとして他人の位置づけ大きく感じられ、その「人物印象」大きな問題として感じ取る感情強く生まれることになる、というものです。その延長で、自分の人物印象他人がどう感じるかを、過大に捉えるようになります。

心が成長成熟するごとに、それとはに、「人物の印象」というものは、重みを減らしていきます。
それはまずは、「自発的幸福」生まれ始め、そして増大するごとに、他人の位置づけ小さくなっていくという心の土台背景と、自分の生き方確立し、目標を持って生きていく時、日々意識の前景としても「人物の印象」よりも、もっと具体的な行動内容の方が関心事になってくる、という2つの側面によるものと言えるでしょう。

3)「人物印象」の不実と内容の誤り

まとめれば、「人物印象の理想」というものが、自分のことであれ、魅力を感じる他人のことであれ、人生歩み始め「未熟」段階において、しばしばそこで体験した妨げ反動のようなものとして、重要さ重みを帯びて、「どうすればそうなれる」という知恵を欠いたまま、抱かれる、ということになります。
その結果起きるのが、そうした「人物印象」だけで自分や他人のことを考えることがもたらす、「不実」「誤り」だと言えます。
「不実」とは、何の自己の成長も、人との関係の向上も、そして人や社会に接する行動能力の向上もたらすことなく、心を動揺させるという「不実」であり、「誤り」とは、そこで抱かれる「人物印象」が、実際他人自分「現実」そして「真実」からすれば、おうおうにして間違った内容のものであるという「誤り」としてです。

「印象だけで人を判断してはいけない」よく言うものです。それが印象だけで人への好き嫌いを抱き、対人関係が偏ったり狭まったりするうちはまだ害も少ない(?)として、下賎な話、詐欺に遭うのは大抵、「相手の印象は良かった」という状況においてです。印象で判断するようなものではない、別の堅固な思考体系と、それに基づく行動法持つことが重要になってきます。たとえば「原理原則行動法」が、ハイブリッド心理学からの代表的なその答えとして。
人を印象で判断すると、その本性を見誤る、とも言います。人に深く接した時、浅い接触の中で抱いた印象が、完全に誤りであったことを知る。これは人生経験重要な一駒です。そうした人生経験を積むごとに、人を印象では考えないようにもなります。人を印象であれこれ考えるのは、人生経験の浅さ表れでもあります。まあ歳が若いうちは仕方ないことでもあるでしょう。

「人物印象型自己理想」抱いたところで、なかなかその通りになるような向上が得られないのは、「どうすればそうなれる」という知恵を欠いているだけではなく、実はその理想像内容そのものが間違っている・・まず言って矛盾をはらんでおり現実には成立し得ないものであるのが大概だからでもあります。
たとえば「自意識過剰ではない気さくな人柄」自己理想とする意識を、この上ない自意識において抱く、というように。
これはに述べた「自己操縦心性」において鮮烈なものとなるのですが、結局「人物印象型自己理想」を抱く時は、同じ構図の矛盾の中でではないかと、僕としては感じています。たとえば、「人への思いやりができる人間」という自己理想を、実は人に「思いやりのある人間」として尊敬と愛情を向けて欲しいという、実に利己的自己中心的願望において抱く、というように。
これが「行動戦略型自己理想」として、こんな場面においてはこうした行動を取れる自分に、という自己理想であれば、そうした矛盾脱し本当に思いやりある人間へと自分を変え得るかどうかを、問える問題になってきます。この違いはよろしいでしょうか^^。


「人物印象型理想像」の「感情動揺の非現実性」と「妨げの現実性」

つまりここまでの話まとめれば、「人物印象型自己理想」というのは、心の未熟や妨げを背景として、内容的に矛盾しており現実には成り立ち得ないような絵に描いた理想像が抱かれ、それを基準に、そうはなれない自分への動揺を生み出すものだということになります。
結果、これは「なれようもない自己理想から、そうなれない自分への否定感情ばかりが起きる」というものに、おうおうにしてなるわけです。
多くの人が、この意識の理不尽漠然と感じ取り、自己理想を抱く意識、そして「自意識」全体から逃れよう、捨ててしまおうと考え始めるのも無理はありません。そうできさえすれば心が楽になれるのでは・・と。

とこれがそうはいかない面が、かなりあるんですね。
手短に言えば、こういうことです。我々は「人物印象型自己理想像」にまつわる感情動揺の不合理な面を解きほぐし捨て去ることで、そのインパクトを多少減らすことができたとしても、その自己理想を基準にして起きる動揺や否定感情(たとえば怖れや気力低下さらには抑うつ感情など)によって現実行動が妨げられるという事実は、もはや捨て去りようのない心の現実さらには真実でさえあるものになる、ということです。

実はここに、「人物印象型自己理想」とは一体何なのかの、本質へのがあります。
つまりそこで、「理想像内容の不合理」つまり「動揺内容の不合理」を捨て去ることができたとしても、「動揺によって妨げが起きている事実」は捨て去れないというのは、「人物印象型自己理想」を抱く前からあった動揺と妨げが、前からそうであったのと何の変わりもない深刻さで、ほぼそのまま続いているものにすぎないのです。
結論はこうです。自分の心の未熟と妨げについて、「こんな自分になれれば」と「人物印象」として自己理想を抱いて、そうなれれば解決する、そうなれなければ駄目だと考えた思考と衝動の全体が、そもそも結局「空想の中の感情」であって、「現実における成長と問題解決」とは全く無関係なのです。
単純であり、当然なのです。「こうなれれば」「なれなければ」と考えている時の感情動揺の全てが、「現実」における成長や問題解決とは、関係ない。それでも「現実」において問題や妨げがあるのであれば、その問題や妨げに対して、直接、「現実」における克服と成長への取り組みをすればいいのです。


以上、おおよそテーマ理解になります。
引き続き、取り組み実践ポイントについて話を続けます^^。

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「自己イメージ」 概説^^ / しまの 引用
No.747 2013/12/22(Sun) 16:24:42

「自己イメージ」 概説

「自己イメージ」には、正常な機能として必要不可欠部分もありますね。
心理学からは、およそ以下3段階構造のようなものとして考えられるかと。

1)基礎的自己イメージ(健全形)
人間としての日常生活必要不可欠となる、基本的機能(記憶認知)による自己イメージ性別、おおよその身長体重容貌の特徴など。
これがない男女別のトイレやお風呂正しく行けないですね^^; 「性同一性障害」性別における自己イメージ混乱とも言えるでしょう。「相貌失認」という脳の障害があると、人の顔をうまく見分けられないのみでなく、鏡に映った自分の顔も自分と認識できなくなり、家の中ふと鏡に映った自分驚き「誰?!、何してるの!」と叫んでしまったといった事例を先日TVで見ました。

2)評価づけした自己イメージ(健全形)
「自分はこれができる」という、能力的評価加え自己イメージ急いでいる時、走れば何分で着ける、自転車に乗れるといった身体的能力面での自己イメージ実際その行動をしてうまく行かない場合、体の具合が悪いことがわかり対処できたりします。
自分はこれこれの仕事ができるといった社会的自己イメージ。これがあって、会社に勤めていれば毎日同じ席に座り、自分の仕事に向かうといったことが可能になります。社会生活維持必要不可欠です。
自分はこんな生き方、人への接し方をする人間だという自己人格イメージ僕の場合は、人生執筆に注いで生きている人間「怒り」使わずに人に対処する。この辺はもう揺るがなくなっている次第です^^)v (Vマーク余計^^;)
これらの自己イメージ揺らいでくると、自分の生き方や人への接し方に悩む、という現象になるわけですね。

3)人の目の中の自己イメージ(煩悩・惑い・病み形)
これは厳密にはただ「自己イメージ」であるのみでなく、「人の目」「人の心」の空想イメージでもあります。それが自分をどう見るかイメージ。つまり人が自分のことをどう空想しているかを空想するという複雑な意識であり、その分「心の病み」の傾向つながりやすい意識だと言えます。
病みの傾向の深刻さにもかなりバリエーションがあり、比較的健康なのは、特別なものを持つことで人にちやほやされる期待イメージスキーゲレンデに立つと、滑りのうまさで注目浴びるという自意識過剰気分ちょっとなることもあります。あはは^^; いやーまだまだだと、すぐ練習の方に意識転換修正しますが^^。これは「煩悩形」^^;
「惑い形」は、自分でうまく自分の評価ができず、人にどう見られる、どう言われるかに頼ることで自己イメージを持つもの。当然人の言葉に振り回され、次の「病み形」にもつながりやすい
「病み形」は、心の底での深い自己イメージと、意識の表面の「人の目の中の自己イメージ」に、病んだ食い違いがあるものです。つまり、心の底で深い自己否定感情があったまま、それを否定し去るための、人の目の中で燦然と輝ける自己理想イメージ抱くといったもの。この自己理想イメージをめぐって、「人の目」の空想「賞賛」「軽蔑」、その傲慢さ「見せかけ」への「嫌悪」といった、混乱に満ちた、病んだ意識へと向かってしまいます。


「依存と自立」と自己イメージ

とうことで、

>他人に依存する中で自己イメージは重要になってくると思います。そうだとすると自立に向かう中で、自己イメージというのは重要性を失う方向にあるという理解は合っていますでしょうか。

については、実はちょっと逆とも言える感じで、「依存」自分で自己イメ−ジを確立できない「自立」自己イメージを自らしっかりと築く方向に向かう、ということになると思います。

上記3種類について言いますと

「基礎的自己イメージ」は、依存自立かに関わらず正常な日常生活の維持のために必要なもの。

「評価づけした自己イメージ」は、
「依存」だと自分でうまく築けず、人の目人の言葉に頼る。結果、意識自ず「人の目の中の自己イメージ」移る
「自立」だと自ら自己イメージをより高めるための努力をし、高められた自己イメージは揺ぎなく安定する安定するごとに、日ごろあまり意識されるものでなくなる

「人の目の中の自己イメージ」は、
「未熟」から歩み始めることにおいて、誰もがまずは持つものと言えると思います。また、来歴の中で心の病みの傾向を抱え、そこから克服へと歩み始めることもあるでしょう。
そこから、
「依存」とどまることはその自己イメージの病みの傾向ただ深める方向と向かわせ
「自立」はそれをより健全「評価づけした自己イメージ」へと修正していく方向へと向かわせる、
ということになるでしょう。

それは結局、「自己イメージ」位置づけが、
「依存」においては、人の力で自分を幸福にしてもらう、そのために自分は人の目に愛され賞賛される存在になる必要がある、その結果絵に描いた理想が描かれ、それをめぐって揺れ動く自己イメージが抱かれる、というものであるのに対して、
「自立」においては、自ら幸福へと歩む、そのためありのままの自分を受け入れ、現実世界を生きる知恵と能力を獲得していく、その達成状況について自己イメージが抱かれる
という根本的な違いによるものです。

また、自己イメージ内容段階がどのようであれ、
「依存」においては、「自己イメージ」行動場面で「演じるための基準」(^^;)として「使われる」ものである一方、
「自立」においては、相手の実際の様子に対して、どんな「行動法」対処するか重要になり、実際の行動場面では「自己イメージ」はあまり「使わない」ものになる、と言えると思います。総じて、自己イメージそれ自体をあれこれ意識するものではなく、しっかりと心の土台に安定して存在するものになる、と言えるかと。内容的にも、「人にどう扱われるか」よりも「自分がどう人に対処できるか」イメージになる、と言えると思います。

ですので、
>自立に向かう中で、自己イメージというのは重要性を失う方向

一言で、「重要性を失う」のではなく、
「自ら築き高め、揺らぎなくなるごとに、意識する必要もなくなってくる」ものだと言えますね。
「重要性」なくならないと思います^^。とっても重要


「未知」への変化と自己イメージ

>自立に向かう中で自己は形を失い未知になっていくのでしょうか。

「未知」というのは、「心の成長」について、特にそこでの「心のあり方」について言っているです。成長した心は、まだ成長していない「今の心」からは、いかなる形においても「未知」なのだ、と。「今の心」で分かる心のあり方とは、結局「今の心」の中でイメージできる、「今の心」をちょっと変えたバリエーションに過ぎないですね。

ですので、成長できた自分どんな自己イメージを持って生きるようになるのかも、「今の心」からは「未知」だと言えますね。

また、「自己イメージ」はあくまでその時その時の心の状態において持つものですので、「自己イメージ」をどうこう変えることで「心の成長」はできない、とも言えます。あくまで「具体的な思考法行動法」に取り組み、「望み」に向かう人生の体験の中で、心が成長します。
「自己イメージ」をうまく操縦することで心が成長できるというようなことを言っている心理学カウンセリング世には沢山ありますので、それとは大分違う考え方になります。この点は結構重要ですね^^。

「依存」の中にある心は、「自立した心」をイメージすれば自立できるわけではない、ということです。「自立した心」イメージするのではなく、自ら幸福に向かうための、具体的な思考法行動法を学び、実践することです。その中で心は自ず「依存」から「自立」へと成長し、成長できた自分は、「依存」の中にいた自分からは「未知」のものであったことを、感じるでしょう^^。

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