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記事No.767に関するスレッドです


■ 勉強法について / りょうたろう 引用
No.758 2014/01/06(Mon) 20:56:12

あけましておめでとうございます。
お礼が遅れてしまいましたが、前回の返信ありがとうございました。今回は最近の取り組みの報告と、新しい質問をさせていただこうと思います。

年末年始は地元に帰り、久しぶりに家族と過ごしました。その中で、内面と外面において変化が感じられる場面がいくつかありました。例えば私は兄とよく本の薦め合いをするのですが、今までと違って「お互い楽しめる本に出会えたらそれでいい、自分の貸した本が相手の好みに合わないならそれは仕方のないことだ」と思えるようになっていました。今までは相手を楽しませなければという力みがあり、貸した本がつまらなかったと言われれば自分が否定されたような気持ちになっていたものです。また、携帯電話の機種変更のためショップに行った時も、契約や質問事項を主眼にして店の人と応対し、同伴していた父よりも自分の方がしっかりしているという印象を勝手に持ったりもしました。そして今回の帰省で新しく気づいたのが、たとえ家族内であっても、原理原則に従えば信頼を得られるし楽しみの共有を意識すれば快適に過ごせるというのは変わらないんだなあということです。

また、「悲しみの彼方への旅」を改めて通読して、大きく感銘を受けました。最近では以前よりは確実に現実に向かって向上していることを感じはするのですが、そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。ただ最近は「今ここに現れている感情だけを感じる、去っていく感情は追わない」という姿勢が身についてきたせいか、感情が果てしなく悪化することはなくなってきたように思います。感情を想像によって再現しようとするのは途方もないエネルギーを使うことに気づいたための変化かもしれません。

最後に、少しアドバイスをいただきたいと思うことを書きます。勉強法についてです。
自分なりに調べて実際に検証してみた結果、「いくら頑張って憶えても繰り返さなければいずれ忘れる」「試験の合格だけを考える場合、網羅的な学習よりもいかに問題が解けるかが重要」といったようなことはひとまず勉強における原理原則と言えるかなあと考えています。こうして見ると当たり前のことのような気がしますが、目指したいのはこういうことをたくさん知っている人だなあと今はしみじみ思います。受験生時代は「この勉強法で一発逆転」などと謳うものに飛びついたものですが。
何か勉強法についてアドバイスがあれば、ぜひお聞かせください。

本当はアルバイトでの行動法についての質問もあったのですが、長くなってしまうので新規トピックで改めて質問させていただこうと思います。よろしくお願いします。


 
□ 「動機づけ勉強法」^^ / しまの 引用
No.763 2014/01/15(Wed) 22:05:16

あけましておめでとうございます^^。
ここ数日、雑用ですっかり忙殺されている中、『悲しみの彼方への旅』で「心の圧制者」と呼んだものである「自己操縦心性」について再考している間にすっかり日が経っている今日この頃です^^ゞ

取り急ぎ、「勉強法」について、3年くらい前にメール相談で「記憶法」についてアドバイスしたものを、そのまま転載します。

これは法律学校に通っていた方へのアドバイスです。一般の大学の場合、この中で言っている「想像力」の働かせ方にさらに工夫が必要になるかも知れませんね。
まずは取り急ぎ転載部分を。追加アドバイスなどまた後日^^。

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■記憶法

これはまず心理学的には、2段階を考えるのがいいと思いますね。
1)動機づけ
2)実際の作業法


1)動機づけについては、とにかく記憶力がモノを言う場面に自分を置くことです。試験の話ではなく、実際に役立つような場面の話として。
そうすりゃ、脳が勝手にいやおうなく記憶力を発揮し始めます。

まあ実際にそんな社会現場に立つ前の話としては、想像力を生かすことですね。
法律の話で言えば、例えば、『行列のできる法律相談所』のゲスト弁護士として自分が出演することになった場合のことを考えます。
次の収録は、遺産相続がらみの話らしい。となれば、いやでも民法の該当項を勉強する気になりますね。

勉強する都度、次の勉強範囲について、そうした「動機の空想」などしてみて、やる気が高まってから取り掛かるという習慣にできれば、ベストだと思います。

まあ僕自身は、まとまった受験勉強という形でそうしたやり方を使った経験はあまりなかったですが、社会人になってからの知識吸収というのは常に「必要性動機」が強くあって行うという形となり、次の実際の作業法とも合わせ、かなりの記憶力でいったと感じています。

2)実際の作業法としては、棒暗記的な方法も一概に悪いとはいえず、極端な例ではサヴァン症のような話として単純記憶に秀でた人もおり、結局人それぞれが自分に最も合ったやり方を模索するしかないと思います。
ただ、Aさんが現時点でそうした方法をあまり取り入れてないということは、合っていればとうの昔からやっていたであろうこととして、実際そうしたやり方がAさんにはあまり合ってないということだと思います^^; ま僕もそのタイプかな。

それとは対照的に、とことんしっかり理解しながら記憶していく進め方になりますね。
「深い理解」を携えながらがお勧めです。法律であれば、「法の精神」というものがあります。該当する法律における「法の精神」とは何かと、言葉で言えるようになって欲しい。まあ基本的には根本社会制度のようなことになるのだと思いますが。

該当する法律項目が、そうした精神から生まれていることを理解しながら覚える。一文一句も、分からない言葉を含んだまま次に進むのはお勧めではありません。そうした個所から記憶が後で崩れて消えていくんですね。
自分としての意見も持つことです。例えば刑法で時効がありますが、僕は廃止すべきだと考えています。そうした意見の一方で、現法ではこうこうである、という、単に受身に覚えるのを超えた姿勢で勉強するのがお勧めです。

そうした姿勢で漏れのない記憶を築いていくという勉強法は、最初は時間がかかるように一見見えますが、記憶の定着度がバツグンに強いので、長い目ではアドバンテージがあると思います。棒暗記では5回読む必要があるのが、この方法だと2回で強く記憶されると思います。

最後にごく手先の作業法の話ですが、記憶を高めるためには、やはり目で追うだけではなく、手を動かすのがいいと思いますね。中高生が良く英単語の記憶をカードめくりでやっていますが、手を使う動作が記憶の定着を促しているのだと思います。

法律文で考えるなら、単語を一つ一つ指やペン先で指さしながら読んでいくような読書法。
また僕自身年齢を重ね、より短い時間で有効に覚えるよう自然に身につけた方法ですが、ペンで書き込んでもいいコピーを取り、読む行をレ印でチェックし、キーワードには下線を引くなどしながら読み進めます。どの行までどんなキーワードで読んだかも一目瞭然で、中断後の再開もスムーズですし、その紙はしばらく持っておいて、後でちょっと再確認が必要な時に瞬時に必要個所が見つかるという風に役に立ちます。実はメール相談で受け取るメールもその方法で読んでいるんですけどね。
僕がそのやり方をするようになったのは、ITの仕事で超有能なプロジェクトマネージャーがそうしているのを見てからだったかなー・・。
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□ 「人物印象型自己理想」の克服への歩み(前) / しまの 引用
No.766 2014/01/25(Sat) 17:50:16

では引き続き、進み方全体についてのアドバイスですが、先日のブログ
2014-01-23『時間食ってます^^;』
でお知らせした通り、ただアドバイスコメントというより、「自己操縦心性と人物印象型自己理想」などというテーマについて現時点での僕の考えを一通りまとめることになり、その結果あまりに文章量が増え、解説部分をブログ記事化など考えましたがいまいちすっきり抜き出せず、全部このトピックで入れてしまいます。

まあ長い人生の歩み方の要(かなめ)テーマの話になりますので、人生の参考書がてら心の懐に入れて頂くと良いかと。
それにしてもあまりに長いので、レスを3つに分割しようかと。
まずおおよそのテーマ理解の部分を『(前)』と『(中)』で。


ということで、報告して頂いた頭の部分からです。最初の方は先に書いていたのですが、その後の話があまりに長くなり、「勉強法」について上にワンポイントで入れておいた次第です^^;

「目の前の対処」と「長い目からの展望」

>今までと違って「お互い楽しめる本に出会えたらそれでいい、自分の貸した本が相手の好みに合わないならそれは仕方のないことだ」と思えるようになっていました。今までは相手を楽しませなければという力みがあり、貸した本がつまらなかったと言われれば自分が否定されたような気持ちになっていたものです。

一歩前進ですね^^。

>そして今回の帰省で新しく気づいたのが、たとえ家族内であっても、原理原則に従えば信頼を得られるし楽しみの共有を意識すれば快適に過ごせるというのは変わらないんだなあということです。

その通りですね。相手が家族であろうと赤の他人であろうと、いかなる相手に対しても一貫として取ることのできる行動法です。
「対人行動と社会行動の全てを、これらの行動法で行うようにする」ことを指針と謳っているゆえんです。
(『入門』 - 3.取り組み実践 - 「学び」の主要テーマ - 3.行動学)

多少追加アドバイスなど書いておけば、取り組み実践としては、
1)そうした「目の前の課題への具体的対処」というものと同時に、
2)自分が人生でどこに向かうのか、そこにおいて自分はどのように変化し得るのかの、「長い目からの展望」
を持つようにする、というのをやると良いと思います。

それで言いますと、前段のお兄さんやお父さんとの出来事については、それはそんな感じでいい話として、家族外との関わりになるとどんな感じになるかに、検討の目を広げることかな・・と。
まこれはまた具体的材料ありきの話にもなってきますね。


「心の圧制者」 (「自己操縦心性」)

一方、より「長い目からの展望」という観点でちょっとコメントしておきたく感じたのが以下について。

>そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。ただ最近は「今ここに現れている感情だけを感じる、去っていく感情は追わない」という姿勢が身についてきたせいか、感情が果てしなく悪化することはなくなってきたように思います。感情を想像によって再現しようとするのは途方もないエネルギーを使うことに気づいたための変化かもしれません。

まず「感情を想像によって再現しようとするのをやめる」「去っていく感情は追わない」という姿勢は、まずはいいと思います。「感情はただ流す」という方向性として。
また、そうして悪感情をただ蒸し返すのはやめる一方、一つの感情に混在する要素を感じ分けるために、「蒸し返し」ではなくとも多少「反復吟味」するというのが、自己分析の上級編(^^;)になると多少出てくる、という知識は持っておくと良いと思います。まおいおいそんなことが必要になることもあるかも知れない、と。今は上記姿勢で良いとして。

そこで次に重要になってくるのは、「追わない」かわりに「何に向かうか」です。

ちょっと心の仕組み解説も一緒に書いておきますと、『悲しみの彼方への旅』の中で「心の圧制者」と呼んだのは、ハイブリッド心理学用語(^^;)で言う「自己操縦心性」のことですね。
「自己操縦心性」については、最近ではNo.630などでも触れていますが、そこでは“根源的自己否定感情を原動力として、「もしこうなれれば」という空想の衝動によって意識・・というか精神の全体が支えられていた状態”とか書いていますね。
より手短に、「空想によって心が支えられている状態」とか言えるかと。

『悲しみの彼方への旅』でどう表現していたかと検索するに(電子書籍はこれが便利♪)、
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今まで私の人生を支配し、そして苦しめ続けていた自己。失わされた世界を見返すために、なるべき自分の姿を掲げ、走り続けようとした自己。それは、ありのままの現実を生きようとして立ち上がり始めた無垢な自己に、その座をあけ渡すことを決して許そうとはしません。この心の圧制者は、そのためならば自らの人生を捨てることをささやくのです。(P.161)
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ま「空想によって心を支えている様子」の描写ですね。
さらに自分で読み返して、より重要なポイントが次の描写にあるかと。
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事実、「現実」こそが、心の圧制者の忌み嫌うものでした。
この下らない現実はお前の生きる世界ではない。お前が特別な存在であり続けることができる空想の世界こそが、お前の生きる世界なのだ。
そうして心の圧制者は、この人間に「自己像を生きる」という一つの人間の存在様式と、分裂した人格を強制します。栄光ある自己像を描けないのであれば、世界から迫害された異端者の絶望さえも望むところなのです。(P.210)
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心の圧制者が再び、現実世界を見下すことを私に囁きます。(P.212)
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つまり「自己操縦心性」とは、「自己理想像の空想によって心を支えている状態」であり、それはさらに、「現実を見下す」ことによって心を支えている状態、ということになる。

ま余談ですが、「現実を見下すことによって心を支えている状態」なんていうとんでもないものであったことを、そこから抜け出して間もない頃だったからこそ書けた感じですね。自分を支えるために「現実」を見下しているのですが、それは同時に、「自分の現実」を見下すということでもある。自分を潰そうとするものから自分を守り支えるために行っていることが、自分を潰すものになるというメビウスの輪状態。
抜け出したことさえ記憶から薄れている今となっては、「自己操縦心性とは」と考えてもそこまで浮かばない。あれ、空想過剰程度のことだったかしら・・という感じ。
空想過剰程度ではない、人間の心の悲劇が、そこにあったわけですね。その中にいたからこそ書けた過去の文章(日記)が、これからの僕の執筆にとって宝のようになるだろうと感じる今日この頃です。

その結果、「自己操縦心性」というのは基本的に「破綻」「崩壊」に向かう性質を持っています。どんな自己理想を抱こうが、いざそれを実現しようと「現実」に出会った瞬間、大元にある自己否定感情が刺激されて、意識の全体が破綻し崩壊するするという心の構造としてです。
そしてそれが逆に、「心の死と再生」への大きな転換になり得るわけです。本人の自我が、「現実における成長」を強く望んでいた場合、ということになるでしょう。でなければ、「自己操縦心性の崩壊」をなんとかやり過ごして心の安定化が多少生まれる程度、もしくは巻き込まれて本当に潰れてしまう、というおよそ3つの分かれ道が現れるかと。
それが『悲しみの彼方への旅』の主題でもありますね。ぎりぎり、3つ目の道を免れて、1つ目の道に向かったわけです。僕自身の力だけでは、それはできなかった・・と目が潤む感^^;

そんな訳で、小説中で「心の圧制者」と呼んだところの「自己操縦心性」自体は、かなり病的な心の状態を指しているものでもあります。
その点りょうたろうさんの場合の

>そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。

は、文面の印象からはかつての僕の場合ほど(^^;)深刻ではないという印象^^。「破綻」「崩壊」による「再生」といった話は、あまり一番手に考えず、そうしたことも起こり得るという知識程度に心の懐に入れておくので良いかと思います。

(続く)


 
□ 「人物印象型自己理想」の克服への歩み(中) / しまの 引用
No.767 2014/01/25(Sat) 17:57:13

(続き)

「人物印象型自己理想」と「行動戦略型自己理想」

いずれにせよ、コメントしたいと思ったのは、

>それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。

における「理想の自分」の内容そのものの話です。

まず「自己理想イメージ」というもの全般について心理学的整理などしておきますと、
「自己イメージ」というのは、先日
『「自己イメージ」 概説^^』 しまの No.747 2013/12/22
で解説したように、
1)基礎的自己イメージ(健全形)
2)評価づけした自己イメージ(健全形)
3)人の目の中の自己イメージ(煩悩・惑い・病み形)

という3層構造で積み重なり複雑化するものとしてあります。

そこで「心の成長」の観点からの位置づけなども書きましたが、要点をまとめるとこのようになります。
人はおおよそ「未熟」の中で、得てして膨張させた「人の目の中の自己イメージ(煩悩・惑い・病み形)」からスタートし、「依存」にとどまった場合はその惑いと病みをただ深める方向に向かい、「自立」へと向かう中で、より安定した「評価づけした自己イメージ(健全形)」へと移行していく。
それは「依存」の中で、「自己イメージ」は「人の目」に映るために、得てして自分自身に嘘をついて「演じる」ために使われる傾向が強くなるのに対して、「自立」においては、まず重要になるのは具体的場面における「行動法」であり、「自己イメージ」はその達成状況について抱かれるという結果的なものとして、安定するごとにことさら意識するものではなくなってくる、とい位置づけの違いによる。
といった話になります。

そこにちょっとキーワードを追加しておきたいのは、「人物印象型自己理想」と「行動戦略型自己理想」というものです。
「未熟」というスタート地点から、「依存」の姿勢であろうと「自立」の姿勢であろうと、人は「自己イメージ」として「自己理想」を描き、それに向かおうとするのですが、そこで重要なのは、姿勢によって「自己理想」の内容性質が方向づけられるのと同時に、「自己理想」として描くものの内容性質によって姿勢が導かれも、あるいはまた縛られもする、ということです。
「自己理想」の描き方に、以下の2種類があるものとしてです。

「人物印象型自己理想」は、人の目にこんな印象の人物として見られるという自分の理想イメージです。主に「容姿」と「性格」の組み合わせと言えるでしょう。「性格」としては、優しさ、明るさ元気さ、自意識過剰であるなし、などなど何でも。
この「人物印象型自己理想」は、「未熟」と「依存」の中で抱かれやすく、同時に、そうした自己理想意識の中で心が「未熟」「依存」「病み」に縛られる傾向があります。
一方「行動戦略型自己理想」は、こんな行動をしてこんな結果を得ることのできる自分という理想イメージです。
これは人の心を、基本的に「自立」と「成長」へと向かわせるものです。その「行動」が、目の前の場面のみではなく、「人生」という長い道のりを視野に入れたものになるほどに。
またそこでの「行動」の方法とは、もちろん、「人物印象を演じる」というものではなく(これは「人物印象型自己理想」の話)、「行動学」「仕事の普遍的スキル」といった知恵とノウハウの実践であることがもちろんその条件です。

どうしてそうなるのかを一言で言うならば、「心の成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」であり、それにどう向かうことができるかは、思考と行動の過程がいかにそれに向くかの全てに依存するのだが、「自己理想」の描き方というのが結局、思考と行動の過程の始まりの要となるものであり、その後の意識過程もそれに従って大方方向づけられるからだ、とまずは言えるでしょう。


「人物印象型自己理想」の問題点

そこでの「人物印象型自己理想」の問題点を具体的に考えてみると、まずはざっと以下3つほどを言うことができます。

1)「どうすればそうなれる」という知恵を欠いている

それは基本的に「人の目の中の自己イメージ」として描かれるのだが、「どうすればそうなれるか」の理解と知恵を欠いたままでは、人物印象理想を自分にただ押しつけるストレスと、「理想と現実」をめぐる動揺さらには心の病みの傾向(*)につながりやすい。
(*)心の底での深い自己イメージと、意識の表面の「人の目の中の自己イメージ」に、病んだ食い違いがあるもの。No.747コメント参照。

一方、「人物印象理想」を抱き、どうすればそうなれるという思考法行動法の要件、そして何によってそうなるという心の成長の歩みについての理解へと、分析展開して考えるのは良いことです。これは自ずと、「人物印象型自己理想」が、「行動戦略型自己理想」へと移行展開していくのが、健全、もしくは成長に向かうものだということになります。

2)「心の妨げ」の「症状」として生まれる

「人物印象型自己理想」さらには人の人物印象の理想像を抱くという心の動きそのものが、一般的に何らかの心の妨げの表現もしくは「症状」として起きることです。
これはかなり難解な心理メカニズムも含んでいる話ですが、まず比較的分かりやすい話で言えば、幼少期に家族愛に恵まれなかった場合に、人は家族のような親しさで誰にでも接する人物印象に、強烈に惹かれるというものです。もう少し屈折したものだと、自分の自意識過剰に悩む人にとって、「心を開いて」人に接することのできる様子の他人が、あまりの輝きに見えて圧倒されてしまうといった感情が起きる。どちらも、僕自身が多少とも、というかかなり強烈に体験したものです。
こうした「引きつけ誘因」は、他人の内面について、偏った、あるいは病的な美化認識を起こすことがあります。またその逆パターンとして、そうした理想印象のない他人への、偏った、あるいは病的な軽蔑感情を執拗に生み出す傾向があります。
『悲しみの彼方への旅』にも、そうして極端な「美化と軽蔑」の2極に彩られた心の世界(^^;)の描写が出てきますね。以下など。
===========
他人であろうと自分であろうと、服装の着こなしに僅かでも欠点を見ると軽蔑を感じてしまう。
見るものの全てが、軽蔑に出会う。世界の全てに、軽蔑がまとわりついている。
あの子ただ一人が、そうした否定的まつわりを持たない唯一の人物として、象徴的な輝きを持っている。そして初恋の女性だ…。(P.252)
===========


まあそうした複雑な心理メカニズムなど考えなくとも、「人物印象の魅力」というのは、人が心の未熟から成熟へと向かう最初の方の段階ほど、抱くのがごく自然なものですね。
それをネタ(^^;)にするのがドラマや映画というものでもあるでしょう。大勢の人が、そこに登場する、たとえばクールで強靭、情熱的、純粋さ、太陽のような暖かさ優しさ、といった「人物印象」に惹かれ、それらを見るわけです。
こうしたごく自然な「人物印象の理想」が抱かれる惹かれる感情も、
『入門 - 4.心の成長変化』 ・「心の成熟」の法則
の「2)「自発的不幸」から「自発的幸福」へ」の流れで考えることができます。
つまり人は「自発的不幸」の段階にいるほど、自分に幸福を与えてくれるものとして他人の位置づけが大きく感じられ、その「人物印象」を大きな問題として感じ取る感情が強く生まれることになる、というものです。その延長で、自分の人物印象を他人がどう感じるかを、過大に捉えるようになります。

心が成長成熟するごとに、それとは逆に、「人物の印象」というものは、重みを減らしていきます。
それはまずは、「自発的幸福」が生まれ始め、そして増大するごとに、他人の位置づけが小さくなっていくという心の土台背景と、自分の生き方を確立し、目標を持って生きていく時、日々の意識の前景としても「人物の印象」よりも、もっと具体的な行動内容の方が関心事になってくる、という2つの側面によるものと言えるでしょう。

3)「人物印象」の不実と内容の誤り

まとめれば、「人物印象の理想」というものが、自分のことであれ、魅力を感じる他人のことであれ、人が人生を歩み始める「未熟」の段階において、しばしばそこで体験した妨げの反動のようなものとして、重要さの重みを帯びて、「どうすればそうなれる」という知恵を欠いたまま、抱かれる、ということになります。
その結果起きるのが、そうした「人物印象」だけで自分や他人のことを考えることがもたらす、「不実」と「誤り」だと言えます。
「不実」とは、何の自己の成長も、人との関係の向上も、そして人や社会に接する行動能力の向上ももたらすことなく、心を動揺させるという「不実」であり、「誤り」とは、そこで抱かれる「人物印象」が、実際の他人や自分の「現実」そして「真実」からすれば、おうおうにして間違った内容のものであるという「誤り」としてです。

「印象だけで人を判断してはいけない」とよく言うものです。それが印象だけで人への好き嫌いを抱き、対人関係が偏ったり狭まったりするうちはまだ害も少ない(?)として、下賎な話、人が詐欺に遭うのは大抵、「相手の印象は良かった」という状況においてです。印象で判断するようなものではない、別の堅固な思考体系と、それに基づく行動法を持つことが重要になってきます。たとえば「原理原則行動法」が、ハイブリッド心理学からの代表的なその答えとして。
人を印象で判断すると、その本性を見誤る、とも言います。人に深く接した時、浅い接触の中で抱いた印象が、完全に誤りであったことを知る。これは人生経験の重要な一駒です。そうした人生経験を積むごとに、人を印象では考えないようにもなります。人を印象であれこれ考えるのは、人生経験の浅さの表れでもあります。まあ歳が若いうちは仕方ないことでもあるでしょう。

人が「人物印象型自己理想」を抱いたところで、なかなかその通りになるような向上が得られないのは、「どうすればそうなれる」という知恵を欠いているだけではなく、実はその理想像内容そのものが間違っている・・まず言って矛盾をはらんでおり現実には成立し得ないものであるのが大概だからでもあります。
たとえば「自意識過剰ではない気さくな人柄」を自己理想とする意識を、この上ない自意識において抱く、というように。
これは上に述べた「自己操縦心性」において鮮烈なものとなるのですが、結局人が「人物印象型自己理想」を抱く時は、同じ構図の矛盾の中でではないかと、僕としては感じています。たとえば、「人への思いやりができる人間」という自己理想を、実は人に「思いやりのある人間」として尊敬と愛情を向けて欲しいという、実に利己的自己中心的願望において抱く、というように。
これが「行動戦略型自己理想」として、こんな場面においてはこうした行動を取れる自分に、という自己理想であれば、そうした矛盾を脱し、本当に思いやりある人間へと自分を変え得るかどうかを、問える問題になってきます。この違いはよろしいでしょうか^^。


「人物印象型理想像」の「感情動揺の非現実性」と「妨げの現実性」

つまりここまでの話をまとめれば、「人物印象型自己理想」というのは、心の未熟や妨げを背景として、内容的に矛盾しており現実には成り立ち得ないような絵に描いた理想像が抱かれ、それを基準に、そうはなれない自分への動揺を生み出すものだということになります。
結果、これは「なれようもない自己理想から、そうなれない自分への否定感情ばかりが起きる」というものに、おうおうにしてなるわけです。
多くの人が、この意識の理不尽を漠然と感じ取り、自己理想を抱く意識、そして「自意識」の全体から逃れよう、捨ててしまおうと考え始めるのも無理はありません。そうできさえすれば心が楽になれるのでは・・と。

とこれがそうはいかない面が、かなりあるんですね。
手短に言えば、こういうことです。我々は「人物印象型自己理想像」にまつわる感情動揺の不合理な面を解きほぐし捨て去ることで、そのインパクトを多少減らすことができたとしても、その自己理想を基準にして起きる動揺や否定感情(たとえば怖れや気力低下さらには抑うつ感情など)によって現実行動が妨げられるという事実は、もはや捨て去りようのない心の現実さらには真実でさえあるものになる、ということです。

実はここに、「人物印象型自己理想」とは一体何なのかの、本質への鍵があります。
つまりそこで、「理想像内容の不合理」つまり「動揺内容の不合理」を捨て去ることができたとしても、「動揺によって妨げが起きている事実」は捨て去れないというのは、「人物印象型自己理想」を抱く前からあった動揺と妨げが、前からそうであったのと何の変わりもない深刻さで、ほぼそのまま続いているものにすぎないのです。
結論はこうです。自分の心の未熟と妨げについて、「こんな自分になれれば」と「人物印象」として自己理想を抱いて、そうなれれば解決する、そうなれなければ駄目だと考えた思考と衝動の全体が、そもそも結局「空想の中の感情」であって、「現実における成長と問題解決」とは全く無関係なのです。
話は単純であり、当然なのです。「こうなれれば」「なれなければ」と考えている時の感情動揺の全てが、「現実」における成長や問題解決とは、関係ない。それでも「現実」において問題や妨げがあるのであれば、その問題や妨げに対して、直接、「現実」における克服と成長への取り組みをすればいいのです。


以上、おおよそのテーマ理解になります。
引き続き、取り組み実践のポイントについて話を続けます^^。


 
□ 「人物印象型自己理想」の克服への歩み(後) / しまの 引用
No.769 2014/01/27(Mon) 15:21:11

続きです^^。

克服への歩みの道のり

もちろんそこで「ではどのような人物印象を理想と考えれば合理的で現実的か」と考えても全くの堂々巡りであり、そこに「学び」が始まる、ということです。

「感情と行動の分離」からの指針は明確です。それはつまり、「人物印象」として感じ考えることの全てを、「内面感情」の側の軸として扱うということです。
そして「外面行動」の側の軸として、今何が「実際に外面行動として対処すべき問題」なのかの見極めから、始めるのです。
まずはこれを基本と考えるので良いでしょう。

歩みの道のりとして考えると、ポイントは以下のようになるかと。全体としては5年10年、というよりももっと長いスパンの、生涯の歩みそのものとしてです。

1)成長への最初の段階

一言で言うならば、指針は以下の通り。
自己理想以前の行動法の学びを得ていくと共に、「人物印象型自己理想」の先に自分が期待しているものを明瞭にし、そこにある不合理にも向き合うと良い。

「自己理想以前の行動法の学び」については良いかと。日常生活と人生で、自己理想を描くまでもなく出会う問題課題への対処法を学ぶ。沢山の知恵とノウハウが心の外部にあり、かなりの範囲において「自分」という意識が無用であることを感じ取るのがミソになると言えます。若い時期にありがちな、病的なほど過剰な、「自分がどう」という自意識依存傾向の軽減に役立つでしょう。
上記「感情と行動の分離」からの指針の通り、「人物印象」に関連するものごとを「内面感情」側の軸とし、「外面行動」側の軸として実際に対処すべき問題をどのように捉えるかが、その始まりとして重要になります。

「人物印象型自己理想の先に自分が期待しているものを明瞭にし、そこにある不合理にも向き合う」は、上述の「3)「人物印象」の不実と内容の誤り」で言っているような「内容の誤り」を自己分析するような話になります。自己理想内容の「不実な誤り」を自覚することは多少とも失意と幻滅を生み出すでしょうが、「現実における成長」へと向かうための通過点と言えます。

この最初の段階でどのように前進ができるかは、それまでの心の状況によってかなり様相が異なってくる部分でもあります。
心に抱えた妨げがそれほど深くなかった場合、上述の進み方がすぐ前進力を持つことも期待できる。
一方心に抱えた妨げが深かった場合、2つの隘路(あいろ)が考えられます。
a)自分から成長に向かうという姿勢があまり持てず、「依存」の姿勢の中にい続ける場合 ・・・ 「学び」の内容への納得理解がなかなかできないというパターンに。
b)「自己操縦心性」が強度なケース ・・・ この場合は、本人が「現実における成長」への望みを持ち得るかどうかで行き先が分かれてくることが考えられます。持ち得ない場合は、「空想を生きる」という心の状態にとどまる。持ち得る場合は、「現実を受け入れる意思」によって「自己操縦心性の崩壊」が起き、「理由の不明確な絶望感」によって心が圧倒される状態が起きる可能性がありますが、健康な心が再生される通過点であることを知っておき、ただやり過ごすことが大切です。

心の成長の前半的な段階というのは、「人物印象型自己理想」として、「まさに実際にはそうでないからこそ抱く絵に描いた餅の自己理想」という構図になりがちだと思います。たとえば超ビビリが「動じない自分」という理想を描いたり、自意識過剰で緊張傾向の人が「気さくで親しみやすい自分」の理想を描いたりと。それで実際の場面になると、そうした理想の自分を演じようとしたもののあまりに食い違う自分の現実にガッカリ、といことになりやすい。
それを、上述の「感情と行動の分離」の両輪で始まる学びによって、人や社会に向かうためにそうした理想像でなくても可能な行動法、たとえばビビッても可能な勝てる行動、自意識と緊張バリバリでも行動できる親しみ行動といったものを見出していくことで、未熟ゆえの稚拙に絵に描いただけの自己理想の巨大なはりぼて構築物(^^;)を、まず取り崩していくのが道筋になるというのが、僕自身の歩みを振り返っても考えられるものになります。

2)中盤の段階

「感情と行動の分離」によって、「人物印象理想」は内面感情側として扱う実践の歩みは同じです。
以降、心の成長段階によって「人物印象型自己理想」の感じ方がどのように変化するのかの流れを書いてみます。

とりあえずキーワードのレベルで書いておけば、実践の「習得達成目標」として「否定価値の放棄」が大きな通過点になります。
これは特定の「人物印象理想」を「神」のような圧倒感とともに抱く感覚が減少し、誰もが同じ人間という、人それぞれの長所短所の程度の差にすぎないという感覚へと移行するものと言えるでしょう。
「望み」が大きく開放され、それを原動力とした人生の前進は、「人物印象型自己理想」よりも「行動戦略型自己理想」によって、大きく押し進められるものになります。
もちろん「人物印象型自己理想」を持たなくなる、というのではなく、それは特に「愛」の「望み」に向かう時に、自分がそうした理想にどう近づくことができるかが引き続き意識の上で重みを持つものになります。
言えるのは、この段階においては、自分の人物印象理想は、もはや「演じる」ことができるかと問うものではなく、自分が何をどのように感じどんな行動ができるかという、具体的側面に分解して問うものになってくる、ということです。

そうして具体的場面での建設的行動法に習熟してくるごとに、自分の人物印象イメージは、格段に良くなってきます。これは
『「自己イメージ」 概説^^』 しまの No.747 2013/12/22
で、
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「自己イメージ」の位置づけが、
「自立」においては、自ら幸福へと歩む、そのためありのままの自分を受け入れ、現実世界を生きる知恵と能力を獲得していく、その達成状況について自己イメージが抱かれる
============

と書いたものとしてです。
やがてそれは、一般的な対人場面や社会行動場面においては、自分が理想的な人物印象の人間に、実際なれ始めているという自信感へと、高まっていくことが可能です。理想像を先に描いてそうなろうとするという結果としてではなく、行動法の理想を追求した結果、自ずと人物印象も理想的になってくるという結果としてです。

その先に、「人生で最も重要な愛」(人物であれものごとであれ)に向かうという、心の成長における山の頂のような課題が控えていることになりますが、その最後の段階まで、ここで説明した流れの順調な前進で到達できるかどうか、多少の別れ道が出てくることが、再び考えられます。
順調な前進で到達できれば、無論それに越したことはない。しかしハイブリッド心理学は、心に躓きと妨げを抱えた来歴から始まり、成長への前進に向かってもなお、心に残された妨げによって壁と限界が現れ、さらにそれを超えるものが訪れるというに、異次元の世界への心の成長の道筋があるのを見出します。

3)終盤の段階

そこで起きることとは、
『入門 - 4.心の成長変化 - ・「心と魂と命」の3次元的成長変化と最終ゴール』
で書いたように、
==========
「心」が「魂の望み」を受けとめ尽くした時、心にさらに異質な「命の感情」が現れる。自己は別の人間へと変化し、「魂の望み」の感情は役目を終え、消え去っていく。
==========
という変化の流れです。
向かい方としては、上記中盤の段階でのものと同じ向かい方によって、「人生で最も重要な愛」に向かった時に、内面もしくは外面の壁や限界によって思い通りに「望み」を叶えられない時、その「望み」を通して自分が人生で望んだものは何であったのかにさらに向き合う、といったものになります。
そこで起きることのポイントは、
『入門 - 4.心の成長変化 -  「心」と「魂」と「命」の意識の仕組み図』
において、中盤の段階までは「心」の領域で起きる変化であるのに対して、この終盤の段階は、「心」の底の仕切りを超え、「魂」と「命」に達する変化が起きる、というものです。

詳しい話は『入門』の引き続きの部分などに譲り、ここでは「自己理想意識」がどうなるのかと言うと、「自己理想意識」というもの自体基本的に「心」の領域の「自意識」によってつかさどられているものであり、結果、「自己理想意識」というもの自体が消えていく方向に向かい始める、ということです。
人の「人物印象」というものを、自分のことであれ人のことであれ、思い浮かべることも減ってきます。これは「自発的幸福」の増大により、基本的に他人の位置づけが小さくなってくることによるものと思われます。「否定価値の放棄」による「不完全性の受容」の流れの先のものとして、「無条件の愛」「豊かな無」といった感情が増大してくるということからも、人の「人物印象」をあれこれ評価することなどなくなってくるというのが理解できるかと思います。
「人物印象」ではなく、ごく外面の理想、また「行動戦略型自己理想」は引き続き役割を果たすでしょうが、人生でやるべきことを尽くしたという満足感が増えるほど、「理想」という意識の全体が薄れてくると思われます。手前味噌ですが僕自身が最近は多少そんな感じになってきています。まこの体験談(?^^;)はいつか『日記ブログ』などで^^。

まとめれば、
成長への最初の段階 ・・・ 「学び」を得ながら、「人物印象型自己理想」の不合理な側面を捨てていく
中盤の段階 ・・・ 「否定価値の放棄」を成し、「望み」を開放させ、「行動戦略型自己理想」によって人生の前進へ
終盤の段階 ・・・ 「心と魂と命の3次元的変化」によって「自己理想」の意識そのものが役割を終え消え始める
ということになります。

「自己理想」をめぐる心の惑い動揺の克服への流れということで説明しましたが、その最終的な答えとは、自己理想を基準にしてどうなるか、にではなく、自己理想への向かい方によってやがて導かれるものとしてある、ということになります。
自己理想を基準にしてどうなるかとは全く違うところにある答えが、ですね。


「今向かうべき学びと成長」を問う意識から

ということで、以上が、

>そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。ただ最近は・・(略)・・

について、「目の前の対処」と「長い目からの展望」という2つを持つのがいい、という話における「長い目からの展望」のために必要な知識になる次第です。
「目の前の対処」としては、そこで報告頂いたように「去っていく感情は追わない」というのでまずは良し。
一方「長い目からの展望」は、ここでの説明全体を、心の懐に入れる必要が出てくる。

まあ実は単刀直入な話、上記文章を読んで僕がアドバイスしたくなったのは、

>男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく

という「理想の内容」について、ちょっとケチつけたく(^^;)なったわけです。それをただケチつけるコメントだけ書いてもあまりに無骨(「洗練されていないこと。無作法なこと」の意^^)なため、どんな視点からそんな話になるのかを一通り整理すると、そうした話になるというのをまとめた次第です。「自己操縦心性」の位置づけも含め。

でその理想内容について言えば、
・男前を鼻にかけないことを理想と感じることにおいて、鼻にかけ(ようとし)ている
(ちょっと説明加えておくと、男前を理想にするのは大いに結構。一方鼻にかけるかけないといった話は、「自意識過剰」の克服として、「浄化」なども含め別の流れの話になってきます。)
・そうした人間になって、その先どうなるという話か。社会に出てからは、そうした「理想的人物」も、もう大した理想とも扱われず、それだけでは仕事もできないし収入も得られない
、といった話^^;
ところが「自己操縦心性」は、そうした「人物印象理想」を、そうなれれば全ての人の尊敬と愛情が捧げられる栄光像のように、心に熱狂と共に描こうとするかも知れない。まずはその不合理面にも向き合いながら、まずは流すことだ、
といった話になる次第です。
(それはまだ社会に出ていない若さでの「馴れ合い」世界の中でこそ理想像になるものと言えます。)

これは上記最初の段階での、「学びを得ながら、人物印象型自己理想の不合理な側面を捨てていく」における、不合理な側面を捨てるための検討視点ということです。
一方で、「学びを得る」は、「人物印象」とは全く別の問題としてある行動法の知恵とノウハウを、これもまた自己理想がどうかに関わらず出会う生活と人生の課題において学んでいくということであり、この点ではりょうたろうさんは上記勉強法の話なども含め、まさに向かい始めているので心配ないかと^^。
その先に、いずれ「自己理想」というテーマは、人生の中で大きな変遷をしていく。そうした長い目での展望を持っておくと良いという話になります。

もちろん、先を急いで、成長の先の段階を自分に当てはめるという姿勢ではなく、こうした知識を心の懐に持っておいた上で、「今向かうべき学びと成長は何か」を自分の心に、さらには自分の「命」に問いかけていくという姿勢によって、その時その時において向かうべきものが見えてくると思います^^。
まあ今はもちろん、「社会に出る」という大きなテーマの下で、おおよそ全体を考えるので良いかと^^。

(終わり)(^^; ハハ・・)


 
□ Re: 勉強法について / りょうたろう 引用
No.775 2014/01/28(Tue) 19:35:08

極めて詳細な解説をどうもありがとうございました!
実は自己操縦心性の話は私にとって非常にタイムリーな話題で、この投稿をしてからの間に私のほうでも激しい内面の動きがありました。そこで起こったことについてまた質問したいので、
まとまり次第また投稿させていただこうと思います。よろしくお願いします。



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