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記事No.776に関するスレッドです


(No Subject) / こたろう 引用
No.768 2014/01/26(Sun) 00:33:43

はじめまして。12月頭からハイブリッド心理学を学び始めました。
一通り全ての文章に目は通したのですが、まだまだ理解できない部分も
多い事ご容赦いただき、質問させていただいたいと思います。

何から質問してよいか・・・という感じですが、
タイムリーなトピックと問題点がリンクしてそうなので、
これについてまず質問させていただこうかなと。

?@
>我々は「人物印象型自己理想像」にまつわる感情動揺の不合理な面を解きほぐし捨て去ることで、そのインパクトを多少減らすことができたとしても、その自己理想を基準にして起きる動揺や否定感情(たとえば怖れや気力低下さらには抑うつ感情など)によって現実行動が妨げられるという事実は、もはや捨て去りようのない心の現実さらには真実でさえあるものになる、ということです。


>「理想像内容の不合理」つまり「動揺内容の不合理」を捨て去ることができたとしても、「動揺によって妨げが起きている事実」は捨て去れないというのは、「人物印象型自己理想」を抱く前からあった動揺と妨げが、前からそうであったのと何の変わりもない深刻さで、ほぼそのまま続いているものにすぎないのです。


これは、不合理だと理解して、「行動戦略型自己理想」につながる
「建設的行動法」を見据えて、現実行動に出ようとしても、
「人物印象方自己理想像」を持って同じ現実行動に出ようとした時と
同じような否定感情が沸かざるを得ず、現実行動が妨げられ、実行ができなくなる、
という事でしょうか?


>自分の心の未熟と妨げについて、「こんな自分になれれば」と「人物印象」として自己理想を抱いて、そうなれれば解決する、そうなれなければ駄目だと考えた思考と衝動の全体が、そもそも結局「空想の中の感情」であって、「現実における成長と問題解決」とは全く無関係なのです。
話は単純であり、当然なのです。「こうなれれば」「なれなければ」と考えている時の感情動揺の全てが、「現実」における成長や問題解決とは、関係ない。それでも「現実」において問題や妨げがあるのであれば、その問題や妨げに対して、直接、「現実」における克服と成長への取り組みをすればいいのです。


ここがよく理解できません。
「空想の感情」?つまり、こんな自分を演じられたところで現実における成長も
問題解決も出来ていないということでしょうか?
なぜならその「こんな自分になれれば」のもとになったのは、
その思考が生まれる前の来歴における基本的不安が原因であるから。

それでも現実において妨げがあるならば、直接「現実」における克服と成長への
取り組みをすればいい。

「行動戦略型自己理想」を組み立てるために「建設的行動法」をベースにした、
一つ一つの場面や問題に対しての言葉、行動を選択するということですか?


しかしそれに取組む事に対しての妨げは、
「行動戦略型自己理想」を作ったところで同じようにのしかかってくる、
のではないのですか?


「行動戦略型自己理想」が確かな物に感じられた上で、
現実に対した場面で、妨げの感情が沸き、行動できなかったという経験が、
進みようがない心を自覚させて崩壊に向かうということなのでしょうか。





?A建設的行動法に対しての疑問


ハーバード交渉術も購入し一通り読みました。
原理原則型行動法は自尊心のためであり、
楽しみの共有は愛を守るための行動法。

理屈も納得ができました。


自分は2年前に、島野さんが「悲しみの彼方への旅」で書いていた、
合宿での精神的破綻と同じような状況になりました。

それまでは多くは無いですが大学に友人もいました(内面的なつながりはなかなか感じられませんでしたが)
しかし、いわゆる明るく、広い交友関係を作るタイプの人や、女子とは
話せず、内向的で関わりづらいイメージの目を向けられている印象を、同じ教室の
たくさんの人に対して抱いていました。

島野さんと同じように合宿に行くことになり、その同じ教室のたくさんの人と
普段は接していないのですが、グループ分けをして接することとなりました。


友人たちの数名も同じ合宿にいたのですが、彼らはその明るく、広い交友関係を
作るグループの人たちと馴染んでいきます。日中の作業が終わって、夕食の時間、
風呂の時間、みな大声をあげて笑っています。
普段、友達の前ではある程度明るく振舞っていましたが、
その時の取り残されていく感覚と、自分の中にある明るい人たちへの、近づきたいという
感情と、うすっぺらな人間だと軽蔑する感情がうずまき、自分の化けの皮が
どんどんはがれていく感覚で、時間がたつにつれてどんどん元気がなくなっていき、
顔から血の気が引いていく感じでした。
友人たちの「どうしたんだ?」という心配そうな顔や声がけに、「いや・・・」としか
答えられない自分。
その時は、あるがままの感情を感じつくせば、それを抜けられる、といった
スピリチュアルの実践をしていて、夜は寝たフリをしながらずっと自分の恐怖感を
感じつくそうと力んだり、逆にあるがままに流すんだと力を抜いたりを繰り返し、
朝になってしまいました。


その日に限界を迎え、合宿の引率の先生にか細い声で「かえらせてください」といって
別室にいくと、そこで大声でむせび泣いてしまいました。
こんなに泣いた事は10年ぐらいなかった、というくらい。
そのまま、合宿から帰ることになり、当時の友人たちにどう説明していいかもわからず、
心配して送ってもらうメールも全て無視し、そのまま大学を休学しました。

そこからはひきこもり同然の生活をしながら、瞑想合宿にいってみたり座禅をしてみたり、自然の中にでかけたりしながら、1年10ヶ月が経ってしまいました。


話が膨らんでしまったんですが、
合宿の時明らかに自分が破綻するような状態になったのですが、
ようは自分で破綻に誘導するようにはできないということですよね。

現実に対して向かい合う具体的な行動をたずさえて、
その行動が上手くできれば内面とのギャップからそれが破綻に向かったり、
行動が出来ないほどの妨げがあればそれがみえることで破綻に向かうなど。


復学する前に破綻を繰り返せれば、とか思うんですが、
そうはいかないと。

現実を生きる中で・・・そう考えると、また新たに作った人間関係が
全て崩れてしまう恐怖感がありすぎて、行動できません。

それが全て壊れるとわかっていながら現実に向かう・・・。


あ、そうではないですよね。壊れずに作れるという行動法が以上の
ものですよね。


しかし、お互いを理解しあうというものから、
楽しみの共有のほうが明らかに健康系だとわかっても、
その「楽しみの共有」の場を自分がぶち壊しにしているという
感覚に襲われます。


自分がその場に入ることによって、その場が悪いものになってしまう。

ぎこちないものになってしまう。


どこにも入らない事が一番世の中のためだ・・・
という感情。深刻系ですよね。


人の輪の場に入るたびにその感覚に打ちのめされ、しばらくひきこもり、
また別の輪に入ってみて打ちのめされ、しばらくひきこもり、を繰り返して
きてしまいました。


ようは、「建設的行動法」はトラブルの無い関係を作ることは出来ても、
「楽しみの共有」を取り合えず、表面的にでも維持できることは難しいという
印象を受けます。


その場合、例えば「会話術」「雑談術」などを学ぶことも
建設的な行動法になるのでしょうか。
穏やかにでも盛り上がる。

中間距離の人との雑談(バイトの業務での会話ではなく休憩など)などが
ダメダメです。


大学生という「ノリ」が関係に大切?な時代だから、もあると思いますが。


自分の場合は、そういった表面的な盛り上がりや雑談がもう少しできれば、
ある程度安定した関係性を築けるような気がするのですが。



具体的な不安としては

●2年前の同級生のほとんどは卒業するが、研究室のタテのつながりであうこともある。
また、ほかにも休学していた人がいて、その人たちと会ったら、自分の当時の状況と休学の2年をどう話して良いかわからない。

●少なくとも当時友達として毎日一緒に授業を受けていた人たちには会いたいし、
突然連絡もとれなくなったから、関係をまた作るには自分のことを説明するべきか。
それとも、対人恐怖感などは自分の中の感情として、適当な言い訳を作った方が
いいのか。


●新たな関係を築く事になる人たちは、年下だが、自分の状況、休学についてどう
話していいかわからない。また年齢や学年について、どういう関係性(学年が下だから下として敬語が良いか?)がいいのかわからない。

●そもそも、研究室などで継続的な関係を築ける気がしない、また自分が
斜にかまえて関わりづらく、空気を乱しているという感覚で、ろくに話せず
取り残されるとしか思えない。
⇒これに関しては今の感情で未来をとらえているので、
少なくとももう少し良い展望が抱けるくらいの人間関係作りを復学前にしておきたい。


?B「楽しみと喜びの共有」について

人に対しての愛情を保つために、行動や発言は「楽しみと喜びの共有」へ。

心を開いて、では結果的に破滅的な結果にしかならない。
ということですよね。

上の質問のくくりでもあるのですが、(対人恐怖傾向を、なかなか人とうまくやれない、とカミングアウトしたほうがいいか?という疑問)
「自己開示」についてです。

楽しみと喜びの共有を中心にすえた人間関係においても、
「自分の弱さを認める」というのは、関係作りに積極的な価値を持つことが
あると思うんです。


例えば、人見知りだといわれれば人見知りの人は安心感を持つ場合がある。


相手もリラックスして「喜びと楽しみの共有」がしやすくなる。


こういう動機でのカミングアウトならば、「建設的な行動」といえるのでしょうか。


これが、「人見知り」だということを認めてもらい、閉鎖的な依存関係に
もって行きたい、という動機であれば、それは「愛を破壊する」発言といえる。


この理解はどうでしょうか。





まとまっていなくて申し訳ありません。


 
今問うべき「自立した心の世界の建設的行動法」^^ / しまの 引用
No.776 2014/01/30(Thu) 18:02:33

克服成長への心の仕組み

まず克服成長への心の仕組み理屈部分^^。

>?@
>これは、不合理だと理解して、「行動戦略型自己理想」につながる「建設的行動法」を見据えて、現実行動に出ようとしても、「人物印象方自己理想像」を持って同じ現実行動に出ようとした時と同じような否定感情が沸かざるを得ず、現実行動が妨げられ、実行ができなくなる、という事でしょうか?

いえ、「人物印象型理自己想像」不合理だと感じ、意識思考の上では捨てたとしても、それだけではまだ「人物印象型理自己想像」働きを続けているかのような否定感情く、というです。
分かりやすいかもしれないストーリーで言えば、たとえば「主婦の理想像」の信念抱きながらもそうなれず「うつ」になる、といったケースカウンセリングを受け、そんな完璧な主婦などいないという言葉納得し、心が楽になったのを感じる。そうして意識思考の上ではもう理想信念は持たなくなるのだが、ふとまた自分よりもそうした理想像に近い他人を見かけた時、心が沈んでいき、無気力が起きてくる・・。そんな流れ
つまりでは「こんなマイナス感情に値する問題ではない」と思いながらも、はというか引き続きマイナス感情を起こす、というような話です。
まあこれは要は一言で、理想を捨てれば低い自己評価、自信のない状態が解決するというわけではないということだと言えるかと。理想を捨てればいい、ではなく、自信を持てるようになる何かを持てることが真の解決、と。

で、それについて「現実」における克服成長への取り組みをしましょう、というです。
それが「建設的行動法」になる、という
ですので、「建設的行動法」を見据えて現実行動に出れるようになってくれば、かなり話が違ってくると思います。

ただしこの2つつまり「不合理な自己理想を捨てる」「建設的行動法ができるようになる」には、かなり距離あります。一度に切り替えることができるようなものではありません。
まず「人物印象型理自己想像」不合理を理解し、それを捨て去ることで一段階がそれをどう受け入れられるかに、多少とも時間がかかるでしょう。
に、「建設的行動法」学ぶので一段階。それをどう理解納得できるかに、また多少時間がかかるでしょう。ここでもやはり、がそうした新しい心の世界向かうことができるかどうかが、問われてくるかも知れません。
実際の行動ができるようになるのがまた次の段階
年単位で、一歩一歩を歩んでいくものになります。


「自己理想」を問う前に行動法を学ぶ

>ここがよく理解できません。「空想の感情」?つまり、こんな自分を演じられたところで現実における成長も問題解決も出来ていないということでしょうか?

「演じる」とは、本当ははそうでないから(言葉は悪いですが)その振りをする、というになると思います。シナリオ作成から結果評価までをふんだんに「空想」を駆使して。
真の問題解決は、もはや何の意識も働かせる必要もなく、自動的に、安定したプラス感情が湧き出るようになることです。「これはどう?」と、人がどう思うかなどの空想を働かせる必要もなく、好ましい「結果」「現実」において生み出せることで。
そのために、「建設的行動法」学ぶことから始めるものとして、「現実における克服」向かいましょうという話。
ただし「演じる」というのが全く無駄ということではなく、「その場しのぎ法」としては役に立つ場面もあります。これも結構重要^^。

>「行動戦略型自己理想」を組み立てるために「建設的行動法」をベースにした、一つ一つの場面や問題に対しての言葉、行動を選択するということですか?

まずは「建設的行動法」とはどんなものかを学ぶことからです。自己理想どう描けるか以前に。
その習熟豊富になるほど、やがて「行動戦略型自己理想」描けるようになってくる、という道筋です。

>しかしそれに取組む事に対しての妨げは、「行動戦略型自己理想」を作ったところで同じようにのしかかってくる、のではないのですか?「行動戦略型自己理想」が確かな物に感じられた上で、現実に対した場面で、妨げの感情が沸き、行動できなかったという経験が、進みようがない心を自覚させて崩壊に向かうということなのでしょうか。

順番で、自己理想(人物印象にせよ行動戦略にせよ)どう描くか以前のさまざまな「建設的行動法」習熟することで、妨げが減っていき、「行動戦略型自己理想」が描けるようになってきます。
「崩壊」については次の話の方に含めましょう。


「心の死と再生」・「依存」から「自立」の転換

>?A建設的行動法に対しての疑問
>話が膨らんでしまったんですが、合宿の時明らかに自分が破綻するような状態になったのですが、ようは自分で破綻に誘導するようにはできないということですよね。

その通り基本的にはできません自分の足首つかんで足元さらって自分を転倒させられるかと言えば、できないと思います^^; それと同じです。
自分の意識破綻する可能性もある体験の場に、その可能性を想定した上で、勇気を持って向かうというのは可能ですね。ただしその場合でも、意識の破綻崩壊は、「破綻崩壊したい通りに破綻崩壊」などど安易に受け入れられるものとして起きるのではなく、感情としてはあらゆる面において受け入れられないものとして起きます。まさにそうであるからこそ意識が死んで再生するものであることを知っておき、耐えてやり過ごすことが大切になるわけです。

さらにただしそうした体験「再生」としての意味を持つのは、「依存から自立へ」という転換への姿勢持っている場合です。その時、今までの「依存」に根ざしていた心死に、「自立」の心の足場を一歩強めた心再生されます。
でないと、駄目な体験がまた一個、だけで終わってしまう^^;

この「依存から自立へ」という転換への姿勢については、まずは関連内容掲載途中ですが、
『入門 - 4.心の成長変化 / 「心の成熟」の法則』

3)「愛」を単一軸とした「心の成熟」
参照
そこで書いているように、その転換とは、「今までの心」のまま行動法を変える工夫というレベルのものではなく、「今までとは別の心」へと向かう、という転換であることが重要です。
そこで「大自然を生きる一匹の獣」というをしていますが、人間以外の動物は、「自意識」あまり持たないので、自然とその大きな転換向かいます。その最初の転換は、しばしば親獣から突き放されるというで。それは子獣にとってその時失意になったとして、「自意識」あまり持たない獣の心では、「命」が生み出す「自立」への力直接働きほどなくして「自立する心」へと切り替わるわけです。
人間「自意識」があるので、大抵「今までの心」にしがみつき、「今までの心」の中で思考しようとします。まあいつまでもを始めとする他人や社会の庇護の下で生きるという生活様式もあり。

それを超えることが重要になるわけです。つまり「今までの心」のまま行動法を変える工夫というレベルのものではなく、「今までの心」とは全く違う「新たな心」の芽が自分の中にあることを感じ取り、それに立って、新たな行動法に向かう、という取り組みになるわけです。もちろん社会の庇護から外に出るなんてことではなく(ターザンでもなし^^;)社会というものを自分が生きる大自然としてうまく使うものとして。


「依存から自立へ」の転換と共にある「建設的行動法」

ですので、「建設的行動法」一言でいっているものも、実は「依存から自立へ」という、「行動法」というテーマよりもさらに根本的根源的な、「依存から自立へ」というテーマを含んでいるものであることを、ご理解頂ければと思います。

それはつまり、即実行に移せるプラス行動法であると同時に、実行するしないに関わらず自分の中にある「新たな心」に気づくためのヒントでもあるということです。このような行動法をする心とは、どんな心なのだろうか。自分の中に、それはあるのか・・向き合うこととして。
そしてそうした行動法向かうことができる自分の心存在気づいた時、その行動向かうという新たな局面始まるでしょうし、そうではなくとも、そうした学び心の懐に入れながら、潜在的「依存から自立へ」という転換を受け入れ始めた時、今までの心ではもう先にいけないというどん詰まりの体験の中で「意識の破綻」「心の死と再生」になるということが、起き得るようにもなる、ということです。

ですので、我々意識実践として行うことができるのは、まずはとにかく「依存から自立へ」という姿勢を込みにしたものとしての「建設的行動法」を学び、その理解納得を問うことからになるわけです。
それが、
『入門 - 3.取り組み実践 / 「取り組み実践」の3ステップ』
で説明している、「応用の学び」「向き合い」という手順です。結局全てこれを通るんですね。

そこで妨げ軽ければ「建設的行動法」への理解納得がすんなり進み、行動に向かうことができるかも知れない。
妨げ深かった場合2パターンが考えられる。
a)今までの「依存」の心へのしがみつきが続いてしまうかも知れません。「建設的行動法」への理解納得ができない。これはハイブリッド心理学による取り組み進まないケース。その場合の他の取り組み方法は、僕は知らない^^; (僕の専門はあくまでハイブリッド心理学ということで^^)
b)そうではなく「建設的行動法」への理解納得ができ始める。「習熟」などはまだ遠く妨げが強く向かうこともできない。「崩壊」が起きることが考えられるのはこの段階です。つまり今までの心ではもう先にいけないことを、意識よりも深いところ心が感じ取る段階です。だからと言って「今までの心」が自分で自分を「新しい心」に入れ替えることなどできないわけです。だからそこで一度「今までの心」が死ぬということが起きます。そし新たな心再生されます。
『悲しみの彼方への旅』がまさにこの段階の様相を書いたものであるわけです。

ということで、結局「取り組み実践」としては、まずは今直面する問題課題についての、「依存から自立へ」という姿勢を込みにしたものとしての「建設的行動法」学んで頂き、まずそれについて自身の理解納得に向き合って頂く、というものからになるわけです。


理解納得できていない自分に気づくことが第一歩

そこで「自身の納得理解に向き合う」という段階で、重要なポイントを言っておきますと、
「自身の納得理解を問う」とは、「いかに自分は納得理解していないか」を自身に明瞭にすることから始まる。
ということです。
これは上記妨げが軽い場合も、深かった場合でもです。

というのは、まずは、心底での納得をしないまま、自分に当てはめてみるという思考姿勢始めるからです。
それで多少うまくいく面もあれば儲けもの。でもどうもやはり言われた通りには行かない。そこまで行って、初めて、入り口立つわけです。自分の心底での本当の感じ方考え方こうなのだ、と自覚することから始めるものとして。
そうして自分がいかにハイブリッド心理学が示す「建設的行動法の学び」とは違うものに向いているかを認めることができた時こそが、第一歩踏み出した時だと言えるでしょう。
まあこの第一歩の間に、起きるべき「崩壊」あるのなら起きているでしょう^^。


今問うべき「自立した心の世界の建設的行動法」

ということで、上記引用の文章に書いて頂いたお悩み内容については、その言葉一つ一つコメント入れるのではなく、ざっと全体を見て、ハイブリッド心理学から示すことができる「学び」はこうだ、というのをずばり短文で出しておきましょう。
それはこんな感じのものです。
     *     *     *     *     *
貴方がこれから(今)向かう人間集団は、特定の目的の下に運営されるものであり、その中における馴れ合い親しみの和は、第一の目的ではない。まずその「特定の目的」を果たすことに、徹しなければならない。学校であれば勉強。授業を受けること。
また、与えられた集団で馴れ合い親しみの和があり、その中に入れることを「あるべき姿」と感じるのは「ティーンの世界」までのことであり、まずはその世界に別れを告げなければならない。少なくとも外面行動としては。
人との親しみの和に加わりたければ、自分のことを話して分かってもらって、というものではなく、自分が心底から興味と楽しみを感じる、「自分」ではない「ものごと」についての話題を共有するという行動法のものによって、行わなければならない。それが見出せない、そこに加わることを心底から楽しめないのであれば、孤独を受け入れるべきである。
そしてそもそも、これからまず向かうべきは、人との和に入ることではなく、「社会に出る」ことを見据え、そのための情報を得ることなどから実際にその活動へと向かい、また社会を生きるスキルについても基本的な学びを得始めることである。

そうして一度今までの「依存の愛」から旅立ち、「社会で生きるスキル」による「自立の自尊心」を得てから、再び「愛」という人生の課題に向き合うと良い。その時、心はもう別のものへと変化しており、全てが、今とは違う見え方をするであろう。そこで「愛」に向かうことに再び妨げが現れたとしても、まさにその克服の模索によって、今の心からは全く未知なる答えが、見出されるだろう。
     *     *     *     *     *

といったものです。

まず言えるのは、「どうすれば談笑の輪の中にいられる自分に」というテーマに、心が虜の状態だと思います。しかし「今向かうべき成長」は、もうそれではないのだ、ということです。
それについて僕の感慨を書いておけば、「幸せなティーンの時代」を得るために、それは必須なものだと感じます。しかしそれを得る人間と、得ることができないまま人生の次の段階に向かわなければならない人間がいる。
後者でした。そしてこたろうさんも、今の段階では後者でしょう。それを受け入れず、そうした「幸せなティーンの時代」を得てから「社会に出る」という観念に、しがみついているという印象。でに、「談笑できない自分のままでは社会に出られない」なんていう恐怖感とらわれるようにもなる。そうして多数の若者が、社会に出ることにへの誤った不安恐怖あえいでいる昨今・・。

これから向かうべき成長とは、社会に出て必要となる「仕事のスキル」などであり、それは「談笑できること」なんてのとはもう全く別のものです。この点は今の学校教育が、そうした現実の社会を生きる術教えていないことに弊害があると感じるのですが・・まあ教師が実際社会を知らないのだから始まらない・・なんてはさておき。
この辺具体的な話は、この掲示板「仕事の普遍的スキル」なんてワード検索してもらえれば、どんな話多少つかめると思います。

まあその上で、「談笑できるようになること」なんて目標持っておくのもいいと思いますヨ。「仕事のスキル」得るとは、そこに必ず人とのコミューニケーション材料を、今までの学生時代の馴れ合いの輪の中の談笑とは全く違う形で、得ていくことでもあります。そこからに、仕事以外の場における人との交友への入り方というものも、見えてくるかも知れません。
それが、「幸せなティーンの時代を得なかった者が、やがて豊かな人間関係を築く」ための、僕が知る王道です。
「仕事」なんてまだピンと来ないという状況だとしても、大学に入ればもうその視野は持てる段階です。これについては、りょうたろうさんへのちょっと前のコメント
『「勝てる原理原則」は人生の駒を動かした先全てで学ぶ^^』 しまの No.744
2013/12/17

など読んで頂くとよいかと。


マイナス内面は表現しないのが基本

今回は以上をまずはアドバイスとし、まずそうした大きな話について、どう感じるか向き合ってみて頂くと良いかと思います。

ご相談文面後半は、そうした大きな視点を全く持たずに細かい話を書いて頂いているようなので、逐一コメントを返すのは省略し、ちょっと気づいた点、もしくは上記最初に言った「やり過ごし方として結構重要」な点などを書いておきましょう。上述大きな話向き合うことで、細かい点多少対処が見えてくると思うのですが・・。

>その人たちと会ったら、自分の当時の状況と休学の2年をどう話して良いかわからない。
>関係をまた作るには自分のことを説明するべきか。それとも、対人恐怖感などは自分の中の感情として、適当な言い訳を作った方がいいのか。
>新たな関係を築く事になる人たちは、年下だが、自分の状況、休学についてどう話していいかわからない。また年齢や学年について、どういう関係性(学年が下だから下として敬語が良いか?)がいいのかわからない。

「分かってもらう」ための説明など一切いらず、「つなぐための言葉」言えればよろしい。たとえば「ちょっと軽いうつで休学していたけど復帰し、今後授業の方頑張りたいのでまたよろしく」とか。とにかく話の向き先込み入ったことに向かないよう言葉を配置するのがポイントです。前向き言葉で終えるなど。この辺は「言葉の選び方」という人生の日常の学びですね。
面と向かって言いずらいが伝える必要のある言葉先にメールで送っておき、会った時にはもう触れない、というのがこういう場合一番洗練された行動法になると思います。まもっと熱い会話を好む人など、人による好みはあると思いますが(僕はあっさりドライな方が好き♪^^;)
新しい学年では、聞かれない限り話す必要はないでしょう。ごく一般的な敬語かタメ口でいいと思いますヨ。

最悪、「輪に入らない普通の人」「演じる」ことも考えるといいかもですね。あまりにビビってしまうなら、どうやって「会う」かは諦め、一人おとなしくするしかない^^;

>(対人恐怖傾向を、なかなか人とうまくやれない、とカミングアウトしたほうがいいか?という疑問)「自己開示」についてです。
>こういう動機でのカミングアウトならば、「建設的な行動」といえるのでしょうか。

「自己開示」しません「自己開示」という発想は、人に心を閉ざす感情によって妨げられている人が、明るく人と接する人というのは「心を開いている」のだと、誤ったイメージを抱いた結果観念です。明るく人と接する人は、「自分」を開示することでそうなるのではなく、話題となる、「自分」ではない「ものごと」が、心底から面白い楽しいと感じているからです。それだけのことです。心底から面白いと感じずに、話が盛り上がる人間になどなれないということです。

マイナスの内面は、「カミングアウト」のみでなく全ての形において、表現しないのが基本です。一度表に出した自分のマイナス内面は、必ず一人歩きを始め、おうおうにしてそれが自分の内面を回復する妨げになります。そうでなくとも、何らかの「後始末」が必ず必要になります。面倒この上ない。
回復したいなら、マイナスの内面表現しない回復しなくて固定させていいのなら、好きにしていい。(おざなりアドバイス^^;)

あっあとこれ。

>自分がその場に入ることによって、その場が悪いものになってしまう。ぎこちないものになってしまう。

「幸せなティーン」の絵「あるべき姿」という善悪思考にまで高めてしまった結果。これはよろしいですかな。


ともかくまずは大きな話からですね^^。


 
Re: / こたろう 引用
No.778 2014/02/02(Sun) 00:38:06

前半部分の、依存の状態では破綻が成長の糧にならない、などの記述、
参考になりました。
細かい向き合いに関してはもう少し深め、また質問したいことが出たら
お願いします。
今回は取り合えず後半部分の
「幸せなティーン」の部分に関して・・・


>人との親しみの和に加わりたければ、自分のことを話して分かってもらって、というものではなく、自分が心底から興味と楽しみを感じる、「自分」ではない「ものごと」についての話題を共有するという行動法のものによって、行わなければならない。それが見出せない、そこに加わることを心底から楽しめないのであれば、孤独を受け入れるべきである。

コレに関してはおおむね納得できるのです。が、輪の個人個人との付き合いが
深まっていく過程で、「ものごと」ではなく「自分」に関しての情報のやりとりが
増えていくと思うのです。
物事、に関しての話ばかりではなんだか自己閉鎖的で、とっつきにくい印象を
抱かれているような感覚がします。
そのうちに周りが仲良くなっていって、取り残される・・・という恐怖感で
その場から逃げ出してしまう、ということが多い。


大人同時の集まりでも、近況や「感情」の共有によって仲が深まっていっている
印象を受けました。

えと、これはそもそも「物事」と「自分をわかってもらう」という
会話内容についての区分があまりハッキリしていないのかもしれません。
それに関して、具体例などありましたらお願いします。


>で逆に、「談笑できない自分のままでは社会に出られない」なんていう恐怖感にとらわれるようにもなる。そうして多数の若者が、社会に出ることにへの誤った不安恐怖にあえいでいる昨今・・。

そうですね。実際、アルバイトでそういう雰囲気を感じました。
仕事のスキルに関してはほとんど問題なく(まぁ、アルバイトなので)
むしろ休憩時間や、お客さんが居ない時間の雑談、あるいは帰りに一緒に駅まで
歩く、といった状況の苦痛に耐えられずに、やめてしまった。という感じで。


>まあその上で、「談笑できるようになること」なんて目標を持っておくのもいいと思いますヨ。「仕事のスキル」を得るとは、そこに必ず、人とのコミューニケーション材料を、今までの学生時代の馴れ合いの輪の中の談笑とは全く違う形で、得ていくことでもあります。そこから逆に、仕事以外の場における人との交友への入り方というものも、見えてくるかも知れません。

こういうものは、いわゆる「雑談術」などのビジネス本から得るのでしょうか。
島野さん的なノウハウは何かありますか?



>とにかく話の向き先が込み入ったことに向かないよう言葉を配置するのがポイントです。前向き言葉で終えるなど。この辺は「言葉の選び方」という人生の日常の学びですね。


●「ちょっと軽いうつで休学していたけど復帰し、今後授業の方頑張りたいのでまたよろしく」

ここらへんと、自己開示、に関してもですが、ここの部分で「どこまで話せばいいのか」という部分で惑いがあって、結果関係をフェードアウトするパターンが多い事に
気がつきました。

2年間顔を合わせていないのに、いきなり軽いうつだったけど復帰したけどよろしく、
っていうのでは納得ができないのではないか?と感じます。
不信感を持たれるというか。

あるいは、その時にそう返して納得されても、また一緒になるタイミングで
聞かれることもあると思います。結局どういうことだったの?みたいな感じで。

いつそれを聞かれるかという恐怖におびえていたら、その人を避けることに
なりそうです。

そうなると、相手がある程度納得でき、不信感を抱くこともなく、
かつこれから気を遣いすぎないような言葉で伝えられたら
その後過ごしやすいと思うのですが。


それと、自分の全てを話せること自体に「強さ」を感じている感覚があります。
弱さをさらけ出せないのは自分を強く見せようとしているからだ、という自己処罰
感情が起こります。

おそらく自分の今の感覚では、自分自身の弱さや思考、惑いなどのマイナス面を
開示せずに、人に「信頼」や「親しみ」を感じてもらうことは難しいという感覚が
あります。


一方で、この感覚自体が少し歪んでいて、それによって、相手が別に「もっと心を
開いて欲しい」と思っていないにも関わらず、そうできない自分を責め、結果
勝手に「自分をさらけ出さないことで不信感をあたえて空気を悪くしている」という
感覚におそわれ、常に緊張しているという状況もあると思っています。



>一度表に出した自分のマイナス内面は、必ず一人歩きを始め、おうおうにしてそれが自分の内面を回復する妨げになります。そうでなくとも、何らかの「後始末」が必ず必要になります。面倒この上ない。

ここを具体例で説明していただけると助かります。
マイナス感情は全て出さないというのはやはり極端だし、そういう人は不自然だし
逆に人から避けられる気がします。良い人だけど人間味が無くて、とか。

そういうケースも多いが、それでも自分の内面の成長、を目的にするなら出さない方が
絶対に良い、というなら納得できると思うので、
どういう意味で「後始末」が必要なのか、「一人歩き」とはどういう事なのか
具体例があればお願いします。


 
「交友行動」が課題ではない人生の段階へ^^ / しまの 引用
No.783 2014/02/06(Thu) 11:52:22

2種類の交友行動法

これはまずは、ごく一般的な交友行動法として、「かなり深いつき合い」相手「まだ浅いつき合い」相手とでは、多少行動法が異なるということから考えると良いかと思います。

書いて頂いたように、
・「自分」についての情報のやり取りが増える
・ナイマスの内面を表現することも絆を深めることにつながり得る

のは、基本的には「かなり深いつき合い」相手ですね。家族親友恋人などごく少数相手

一方、社会に出て「まだ浅いつき合い」相手への一般的な行動法としては、
・自分のことばかり話すのではなく、相手と楽しめる話題があればそれについて話す
・マイナス内面は表現しない

というのが基本になると思います。そこから、いかに相手とのつき合いを深められるかは、自分が相手と心底からつき合いを深めたいと感じるか、相手がそう思っているかに、まずは拠りますね。どっちかがそう感じてないなら、ちょっと無理^^; まあこれは恋愛に限らず「片思い」というのが人生で体験するものですね。それを見分け、スマートな行動法にすぐもっていけるようになるのが、人生経験の積み重ねによってになってきます。
それもまずは、「まだ浅いつき合い」の相手への一般的な行動法ができることからだ、というになると思います。それができればまずは安全、というものとして。
はっきり共有することに楽しめるもの見出すことから。それがないなら無理に交友を強めようとする行動しない、と。

社会に出る、また「大学」という段階からは、「まだ浅いつき合いの相手」さらに「つき合いもしない相手」への、友好的な行動法というものが基本になると思います。
それに対して、小中高でまず最初に出会った友だちとの行動法でもって、大学以降の交友行動も考えると、とてもぎくしゃくしてしまうと思います。もちろん「大学」さらには「就職」においても、「最初に出会った仲間」とは、最初から「かなり深いつき合い」交友行動取れるケースもある。そんな相手ができるのは人生の賜物一つですね。
しかし、一度それを「逃してしまった」ら、深いつき合いはその形ではもう得られるものではなく、「まだ浅いつき合い」の行動法をしっかり取ることから始め、「かなり深いつき合い」にできかどうかをじっくり探るというモードに、切り替えなければならない、と言うことができると思います。


「まだ浅いつき合い」が行動法ベース

ということで、こたろうさん場合も、「かなり深いつき合い」の行動法だけで考えているのが一因ともなっている、ぎくしゃく度かなり重症(^^;)なものと言えると思います。
もちろん考え方だけではなく、来歴に由来する根深いマイナス感情の問題もあるでしょうが、その克服のためにも、まずは行動法を安定させることからになると思います。まず行動法を安定させ、それでできてくる余裕足場に、じっくり根深い問題にも取り組めるようになる。

重要なのは、「まだ浅いつき合い」の行動法ベースに考えるのみでなく、実際それをベースに行動できることです。それができて、その中で、どう深められるかを探り、そうできる材料をしっかり見つけたら、深めていく。
これは「行動学」からも、つまり行動法の効果理屈で考えても言えることです。実際
a)まず「まだ浅いつき合い」の行動法取ってから、「かなり深いつき合い」の行動法模索し向かうというのは、基本的対人関係の「豊かさ」に向かう方向性なのですが、これがに、
b)まず「かなり深いつき合い」の行動法行動法を取って、「まだ浅い深いつき合い」の行動法模索し向かうというのは、基本的には難しいことであり、そこでは関係が「破局破綻」そして「消滅」に向かうというものになります。

また、心理学からは、「まだ浅い深いつき合い」の行動法取れない状況で、「かなり深いつき合い」の行動法どう取れるか悩むというのは、まず言って相手がそれを求めている、自分はそれに応えなければという思考によってになるのですが、これは得てして「関係妄想」の原型と言えるものです。「現実」に出てそれが覆った場合、程度の深刻さバリエーションはあると思いますが精神的破綻が起きます。
まあそれがに、本人「依存」を脱し「自立」に向かう姿勢があったならば、「今までの意識の崩壊」による健康化つながる道になるのですが、そうではなく本人がたとえば攻撃性を伴う依存にとどまったままだと、ストーカー的行動へと道をそれてしまうことも出てきます。

そうした話を踏まえ、こたろうさんのケースで言えるアドバイスとしては、「かなり深いつき合い」の行動法多少とも検討し得るとしたら、相手からそれに相応しい働きかけが、今実際にある場合です。今現時点において、深く心配するような連絡があるのであれば、検討できる
しかし2年も会ってないということであれば、いったん全てリセットされたものとしてゼロから、という想定で、具体的行動法を検討するのがベスト、ということになると思います。


「目的ベースのコミュニケーション」と「雑談」

以上が考え方の、前回からの補足として、細かいご質問への返答など書いておきますと、

>えと、これはそもそも「物事」と「自分をわかってもらう」という会話内容についての区分があまりハッキリしていないのかもしれません。それに関して、具体例などありましたらお願いします。

僕自身の体験で言いますと、僕の場合心の健康化に大いに役立ったものとして、会社のスキー部への参加がありました。そこは基本的心が健康で明るい人々の輪でしたが、まずはスキーの話盛り上がるわけです。どの斜面どんな滑りとか。
まず「自分」のことから話す人はいない感じですね。
ごく短いこの話で、違いが多少分かるかどうか。

>>「仕事のスキル」を得るとは、そこに必ず、人とのコミューニケーション材料を、今までの学生時代の馴れ合いの輪の中の談笑とは全く違う形で、得ていくことでもあります。そこから逆に、仕事以外の場における人との交友への入り方というものも、見えてくるかも知れません。
>こういうものは、いわゆる「雑談術」などのビジネス本から得るのでしょうか。島野さん的なノウハウは何かありますか?

これについては、まず「仕事場面のコミュニケーション」については、
『はじめまして』 きてれつさん No.541 2013/02/10
への第2レス
『仕事場面への向かい方など』 しまの No.547 2013/02/21
=========
「100円ショップの商品の品出し」であれば、・・(略)・・
=========

のところなど読んで頂くと良いかと。「雑談術」というより、仕事の知識そのものですね。というか「雑談術」「ビジネス本」ではないような・・「自己啓発本」ではあるかも・・まどーでもいい話^^;

上述スキー部の会話、また仕事場面のコミュニケーションも、「楽しみ」伴うか否か違いはあるとしても、どちらも「目的」がかなりはっきりしたコミュニケーションです。前者スキーの楽しみ共有後者は仕事

それに対し「雑談」というのは、そうした「目的」がない会話ですね。
ごく手短に言えば、これはコミュニケーション術としては2番手になると思います。まず1番手目的ベースのものとして。
まずこの優先順位しっかり踏まえそうした「雑談術」が必要か、という問題からになると思います。
これもごく手短に言えば、にとってはそれはあまり必要なく、「雑談術」も特に持たない結果となった次第です。まあそれがあれば宴会が苦手とか克服できるのではと考えたこともありましたが、そんな漠然としたものより、スキー部への参加人生のパートナーの模索といった人生の歩みの中で心が成熟し、やがて執筆に心血注くようになったという経緯で、「雑談」というのは今は特に必要とも感じない次第です。というかちょっと時間の無駄を感じる面も・・^^;
まこれはあまり参考にならないコメントかもでしたね^^。


マイナス内面は出さない原則

>ここを具体例で説明していただけると助かります。マイナス感情は全て出さないというのはやはり極端だし、そういう人は不自然だし逆に人から避けられる気がします。良い人だけど人間味が無くて、とか。
>どういう意味で「後始末」が必要なのか、「一人歩き」とはどういう事なのか具体例があればお願いします。

「一人歩き」は、最近の言葉で言えば、「話が拡散する」というようなことです。
たとえば「対人恐怖傾向をカミングアウト」といったものが、話が拡散して友人知人にまず「対人恐怖の誰々さん」という認識のされ方になる可能性があります。人づてで面識を持つ際も、「あ、対人恐怖の誰々さんね」と、そうした話が先行する交際になる可能性があります。
一生それで良く、それで心が楽になる(?^^;)のであれば、カミングアウトするも良しということです^^。でない場合は、どうにかして、自分はもう対人恐怖ではありませんということを、知人友人に納得させる行動必要になってきます。これが「後始末」という話。

これも考え方の話に戻れば、マイナス内面の表出は、ごく限られた「かなり深いつき合い」では、場合によっては絆を深めることにもつながるかも知れません。
しかしそれも、それによってそのマイナス内面の克服の方向性がある場合はです。たとえば受験就職への不安などはそうした類かも知れません。

「対人恐怖傾向」の場合は、カミングアウトによって克服するものなのかは・・う〜んどうなんでしょうね(←長嶋さん口調?^^; いや無用なジョーク失敬^^;)
ハイブリッド心理学では、自己取り組みによって克服するものになりますので、少なくともハイブリッド心理学の取り組み実践するのであれば、カミングアウトはなしになります^^。

マイナス感情を出さない人不自然だと人に嫌われるなんてことはないと思いますヨ^^。実際の人の様子良く観察してみれば分かると思います^^。
最初の方で書いて頂いた

>例えば、人見知りだといわれれば人見知りの人は安心感を持つ場合がある。相手もリラックスして「喜びと楽しみの共有」がしやすくなる。

も、実際大抵の人むしろ緊張してしまうと思います。言わないでおくのが華です^^。


「交友行動」が課題ではない人生の段階へ

ということで、大きな話に戻って総括しますと、こたろうさんの置かれた状況においては、まず何よりも、「交友行動」が課題ではない人生の段階へ向かう、そのための知恵とノウハウを得ていく、という大きな視点何よりも重要になると思います。
そこにおいては、今交友行動がうまく取れないことも、妨げにはならないのだという心の視野得ることが、なによりも心の支えになるのではと。

そのためには、当面の行動法については、上述の通り、交友関係かなりリセットスタートという前提で行動法を安定させ、安定した日常のリズム中で、ハイブリッド心理学の取り組み法についても時間の折にじっくり読んで学んでいく、という今後の進め方ができれば、というのがアドイバスになります^^。

あっあと、より大局的人生の歩み方として、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という流れの中にあるというのが一番大きな話になりますので、それについては『入門』今掲載中の部分(次に掲載予定の「取り組み実践による「心の成熟」への歩み」など引き続きじっくり読んで頂ければと^^。


 
Re: / こたろう 引用
No.787 2014/02/09(Sun) 18:11:13

>まず「かなり深いつき合い」の行動法の行動法を取って、次に「まだ浅い深いつき合い」の行動法を模索し向かうというのは、基本的には難しいことであり、そこでは関係が「破局破綻」そして「消滅」に向かうというものになります。

>また、心理学からは、「まだ浅い深いつき合い」の行動法が取れない状況で、「かなり深いつき合い」の行動法をどう取れるか悩むというのは、まず言って相手がそれを求めている、自分はそれに応えなければという思考によってになるのですが、これは得てして「関係妄想」の原型と言えるものです。「現実」に出てそれが覆った場合、程度の深刻さにバリエーションはあると思いますが精神的破綻が起きます。


すみません。「まだ浅い深い付き合い」とはどういうことでしょうか?
確かに、深い付き合いを求められているという感覚にすぐになってしまうのは
心当たりがあります。

「まだ浅い付き合いへの行動法」がよくわからないという部分もあると思いますが、
どちらかというとその距離感のまま安定(安心?)をある程度持って
その場にいる、というのが難しい感じがします。


「まだ浅い付き合い」だと認識していながら、一緒に行動するという
感覚に耐えられなくなってしまう。
これはやはり「自分を絶対に否定されたくない」「全て理解されていないとリラックスできない」、つまり自分の気持ちを自分で受け止めるのではなく、目の前の人に
受け止めてもらいたいという心の動きかたですね。


>僕自身の体験で言いますと、僕の場合の心の健康化に大いに役立ったものとして、会社のスキー部への参加がありました。そこは基本的に心が健康で明るい人々の輪でしたが、まずはスキーの話で盛り上がるわけです。どの斜面でどんな滑りとか。
まず「自分」のことから話す人はいない感じですね。
ごく短いこの話で、違いが多少分かるかどうか。

これは、わかるんです。
例えばスキーにしても「自分はこうこうこういうスタイルが好きだ」とか
「自分はこういうやりかたです」とかありますよね。
こういう話は「自分の話」とは括らないということですよね?

スキーに関しての自分の思いや知識を、スキーを共通点とした友人と
話す。

しかしそれだけでは間が持ちません、と思うのですが。

島野さんはスキー合宿にいって、スキーの話以外のコミュニケーションを
とらないんですか?

例えば自分は子供がいなくても、相手に子供が居た場合、
その子供の近況などの話を聞いたり、兄弟どうしてる?とか、
そういう話もしますよね。

あ、この場合は、「自分が子供に興味がある」から、その意味で
共通部分の楽しみという括りになるんですかね。


それに自分と趣味が全く異なるけど、その話を
聞いていることがそんなに苦痛じゃないこともありますし、
新しい発見をすることもありますよね。


これも「興味がある範囲で」「楽しめる範囲で」聞いて、
あとは積極的に取り上げない。


それを、相手の悩みを解決してあげたいとか、どんな悩みがあるのか
理解したい、一生懸命相手の好きなものの話を聞いてあげないと仲良くなれない、
とかいう風になってくると、徐々に不健康系になっていく、という感じですかね。


同じ空間にいるほかの二人が、
自分の入れない話題で盛り上がっていると、自分もそれに興味を持って
話を聞かなきゃいけないような気分になる、このケースが確かに多いです。
やはりどこかでどちらの人にも「一番に楽しい人間になりたい」という衝動が
根っこにありますね。
しかしこれは不可能ですし、全体を通して島野さんが今回言うように
「自己の重心」や「自立」にまったく背を向けた姿勢ですね。

そこは「孤独を受け入れる」ですね。
決して「興味を持って仲良くその場に入っていられない」から『仲間はずれ」ではなく、
その集団が健康ならば、あの人とはこの話、あの人とはこの話、といった感じになると。


その時に内面に「仲間はずれ、いないほうがいい」という感情が流れるとして、
頭の理解では「いや、そもそも共通部分以外は共有できなくても、それが最善の関係。」という理解をもつ、と。


 
Re: / こたろう 引用
No.793 2014/02/17(Mon) 15:12:02

やはり依存から抜け出せません。
もう復学してもまた同じようにひきこもりになるイメージしかわきません。
しかし3年間の休学になるともう仕事の選択肢が...
それどころかバイトも雇ってもらえないのではないかと
思うといかなくてはいけないのに、
もう無理...
破綻してるのに心はしがみついたままです。
質問になってないですね。

どうしたらいいんでしょう


 
「今なすべきこと」の優先順位づけから^^ / しまの 引用
No.794 2014/02/17(Mon) 18:03:09

>「まだ浅い深い付き合い」とはどういうことでしょうか?

「まだ浅いつき合い」打ち間違いです^^; コピペ使ったせいもあり^^ゞ

「交友が深まる中で出てくる話題」というのは、書いて頂いたような話として言えますね。その場の目的限定した話題から、徐々にプライベートな話題へ。
ただに、「出せば必ず交友が深められる話題」というのは、言えないですね。いきなりプライベートな話題をしても引いてしまう人もいるかも知れないし、いきなり悩みの語り合いを望むのはやっぱあまり健全形ではない^^;

結局、交友が深まるのは、かなり総合的な要因の結果だと思います。人間的な近しさや、互いにとっての魅力、そして一緒にいる安心感信頼感など。
ですので、基本的に、ストレスに駆られて交友を持とうと思っても、交友はあまり成立しない。これをしっかり心に踏まえることが大切になると思います。


「今なすべきこと」の優先順位づけから

・・・等々、書いて頂いた質問一つ一つアドバイスしようとしても収拾つかない雰囲気を感じましたが、一番重要なのは、「自分の人生で今本当にすべきこと、できること」見極めができていないのが問題ではないかと。
それで言えば、「会話でどう間を持たせられるか」なんてのは、今それどころではない状況ではないかと^^; どう会話できるかよりも、まずとにかく学校に出席するといった「優先順位づけ」重要です。

そうして「自分の人生で今本当にすべきこと、できること」の最低ラインから見極めて、行動する。その積み重ねで次第に心は成長し、心が成長すれば気持ちに余裕も生まれ、友人との会話といったことも考えられるようになるかも知れない。

>3年間の休学になるともう仕事の選択肢が...それどころかバイトも雇ってもらえないのではないかと思うといかなくてはいけないのに、

についてであれば、バイトのためには前レスでの

まず「仕事場面のコミュニケーション」については、
『はじめまして』 きてれつさん No.541 2013/02/10への第2レス
『仕事場面への向かい方など』 しまの No.547 2013/02/21
=========
「100円ショップの商品の品出し」であれば、・・(略)・・
=========


といった視点です。

結局、今はまず雑談など一切しなくてもできる行動というものを見極めるというになりますね^^。前の2つのレスもそうした優先順位づけのための知識です。

あるいは、「自分の人生で今本当にできること」とは、何かサポートを得ることかも知れない。大学の何かそうした相談機能とか。
それも含め、検討してみて頂ければ^^。



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