No.801 2014/02/25(Tue) 00:35:27
お礼が遅くなってしまいましたが、返信ありがとうございました。返信を待っている間に自分なりに考えたことと新たに頂いたアドバイスをもとに、ここ最近は内面の自己分析を主に行っていました。その結果、かなり手応えを得られる結論に至りましたのでお知らせしたいと思います。
今までの人生を通して流れていた怒りと復讐の感情について考えるにあたり、まず思い至ったのは幼少期の私と兄の関係についてです。現在は全く違いますが、そのころ私は事あるごとに兄から否定、怒り、嘲りの言葉を受けていました。「バカ」「グズ」とよく言われ、兄を怒らせたら「ごめんなさいもうしません」と言う決まりでした。
順当に考えればまず理不尽な否定をしてきた兄に対する怒りだとなりますが、これはどうも違和感が残ります。特に気になったのは、その当時の私は兄に対して一切反発したり自己主張したりしなかったことです。いつかの投稿でも書いた気がしますが、怒りを向けられることは当時の私にとっては世界の終わりのように感じられ、ただ目の前が真っ暗になるような恐怖があるばかりでした。ということは、その時既に「理由は分からないがとにかく自分は悪だ」という自己否定感情があったことになります。そうなるとここからさらに遡る必要があるのか?とも考えましたが、これはもう「物心ついた時から」としか言いようがないように思われました。そしてこれこそが「自分は人並みでない」と幼い頃から私が思い続けていたことでもあります。私は親に虐待されたわけでもなく、兄との関係にしても別段珍しくもない兄弟間のいざこざと言える。それなのに周囲の多くの人と違って自分は心の自立に向かうことに失敗し、心をめぐる問題に苦しんでいる。 しかしこれでは論理性も何もないため、「人並み」や「悪」について今の自分はどう考えるかと問うてみました。そして気づいたのは、自分に何かが欠けているという考えは後付けのものにすぎないということです。そもそも「少なくともこれだけのものは持っていないといけない」といったって、生まれたばかりの赤ん坊は何も持っていないとも言えます。今の私が執着している容姿や能力にしても、それさえあれば注目と尊敬そして愛が得られるようなものとして描かれますが、そんなことを言いだしたら私を含め殆どすべての人間に愛される資格はないことになってしまいます。この価値観は明らかに歪んでいる・・・そこで閃きのように次の考えが浮かびました。理不尽な否定を受けたことも、そして物心つく前にあったであろう愛への挫折も、自分に落ち度があったわけではない!と。
今までは「悪いのは自分、変わるべきは自分」という大前提の上に立っていたことがはっきりと意識されました。そう考えると、前回の投稿で書いた小学生の時の決断も自分にとってはきわめて自然なこととして成されたであろうことが分かります。認められるためには自分が変わらなければいけないと。
ここまで自己分析が進んだところで、また怒りがふつふつと湧いてくるのを感じました。そして同時に、幼い頃の自分が望んでいたことが初めてはっきりと思い出されました。それは「この苦しみを、そして自分は悪くないんだということを理解して欲しい」というものです。
小さな子供が泣きながら怒り狂っている姿は大人からすれば微笑ましいとも思えるものでしょう。しかし、私が何よりも深く傷ついたのはそうやって軽くあしらう態度によってだったのだと思います。理不尽な否定を受けたことそれ自体によって引き起こされたのは恐怖や悲しみまでのようです。怒りを感じたのはその後、傷ついた自分を誰も顧みなかったことに対してです。まあ今考えれば私は自分の正当性を主張するようなことは自己否定感情に妨げられてできなかったわけですが、それでも誰か大人に真剣に向き合って欲しかったと思います。両親が共働きだったことも関係しているかもしれません。
あの時の私に必要だった言葉とは、「ひどかったね、君が悪いわけじゃないんだよ」といったものになるでしょう。否定される理由が分からないというのは幼い私にとって存在に関わる重大なことでした。ただ今となっては自分で自分自身にその言葉をかけてやるより他はありません。それで心がどう変化するか今はまだわかりませんが、少なくとも刺さっていたトゲが抜けたようなすっきりした感じはあります。
それでもまだ、なぜ自己否定感情を抱くようになったかは納得のいく答えが得られないままです。正直に言うと不思議でならないのです。私は両親から十分に愛されたという記憶しかありません・・・そこで最後に一つ質問したいのですが、「幼少期に挫折した愛への望み」というものは今の私が意識で感じ取れるものなのでしょうか?それとも、今試みているところですが、すでに存在している自己否定感情の不合理性と向き合うことしかできないのでしょうか。お聞かせください。 |
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No.812 2014/03/05(Wed) 15:24:16
『入門』の原稿が佳境部分で頭がふさがれていたためお待たせしました^^。
内面取り組み(自己分析)の役割位置づけ
これはまず取り組み実践における内面取り組み(自己分析)の役割位置づけについておさらいしておきますと、 『入門 - 3.取り組み実践 / 「外面・内面・外面」と繰り返す「向き合い」の実践』 で説明している通り、
【外面】 「日常生活と人生における問題課題と望み」への 外面行動法についての学び ↓ 【内面】 それについての自身の納得理解への向き合い ・内面感情の解きほぐし理解(自己分析) ↓ 【外面】 今取るべき外面行動法の結論検討
と、「外面→内面→外面」という一連の向き合いを一つのサイクルとする、というものになり、 「自己分析」は内面取り組みにおいて登場するものになります。
「来歴への怒り復讐」への取り組み
で、上記報告頂いたのは、前回の 『外面と内面』 りょうたろうさん No.782 2014/02/04 での僕のアドバイス・・まあ「内面感情の理解」の、かなり大上段からのポイント説明などになってますが、その終わりで言った ======= 「怒り復讐」とは一体何をどうされたということかというテーマを片付けると、かなり心がすっきりするのではと推測する次第です。 ======= に対応したものだと思います。
それについては、上記「外面→内面→外面」における「外面」としてハイブリッド心理学から示す「学び」は、 「今そしてこれからにおいては、怒り復讐の行動化はしない」さらには、 「彼らの行動に何か落ち度があったとしても、それは彼らの悪意ではなく未熟と不完全さによるものであり、非難はしない」 という姿勢を、まず取る、取れるか?と自分に向き合うというものになります。
その姿勢を選択できる上で、書いて頂いたような自己分析が展開されたということでしたら、それなりに「治癒」につながる一つの解きほぐしだと思います^^。
一方そうではなく、「彼ら」を非難したいという気持ちしか見えない状態での自己分析であれば、それは解きほぐしではあるかも知れないが、「治癒」にはまだあまりつながらない。 一応念のためその場合は、一言で、「自ら幸福に向かうことができるようになること」の全般に取り組みます。日常生活と人生の問題課題の、具体的材料ベースでです。自分から幸福に向かうことができるならば、人は復讐を無駄と感じ、自然と放棄するからです。それができない時、怒り復讐に固執する、という心理メカニズムがあるからです。 参考:『入門編下巻』P.78より ===== 「自ら幸福に向かうことができる」と感じている人は、怒りや憎しみを放棄することが、かなり簡単にできます。これは怒り憎しみの「正しさ」などという理屈の問題ではなく、自分の未来の幸福が見えるのであれば、「復讐」よりそっちの方が美味しそうに見えるという、単純な話です。そして実際、当然そっちの方が美味しいものです。 =====
まずアドバイスできるのは、こうした取り組み順序説明ですね。それについて今りょうたろうさんが実際どこに立ち、どっちに向いているのかについて、ご自身に向き合ってみて頂くというのが取り組み実践になります^^。
いずれにせよ、一つの取り組みサイクルで起きる心の変化は微量であり、一回向き合って俄かに変化するようなものではありませんので、これから出会うさまざまなことがらに、「外面→内面→外面」という取り組みであたってみて頂ければと思います。変化は、その積み重ねになります。
「自己否定感情」へのアプローチ
>それでもまだ、なぜ自己否定感情を抱くようになったかは納得のいく答えが得られないままです。正直に言うと不思議でならないのです。私は両親から十分に愛されたという記憶しかありません・・・そこで最後に一つ質問したいのですが、「幼少期に挫折した愛への望み」というものは今の私が意識で感じ取れるものなのでしょうか?それとも、今試みているところですが、すでに存在している自己否定感情の不合理性と向き合うことしかできないのでしょうか。お聞かせください。
テーマごとに視点とアプローチがあります。それを全て把握するのは大変ですが、まず一つ一つの問題テーマについての取り組みアプローチを自分自身でしっかり理解することからになります。 これは身体の病気からの回復にあたり、原因から対処法までをまず理解できることが必要であり、次に、それを実践できるかという順序になります。 心の問題も同じで、まずテーマごとの取り組み法を理解することからになります。その後に、長い実践の日々が始まります。 一つ一つ、こつこつと。生涯の学びと実践になる次第です。 たとえば「怒り復讐」への取り組みについては、アプローチは上述のような道筋というのもその一つ。
・・という前置きはさておき、
「自己否定感情」については、その克服のためのアプローチは、 ・自己否定感情の原因ではなく、自己肯定感情を高めることにどう向かうことができているかに取り組む必要がある というのが、大大大原則(キーボード打ちすぎミスではなく^^;)になります。 なぜ自己否定感情を抱くのかではなく、自己肯定感情を高めることをどうできているかを確認する。そうすれば、自己否定感情の原因も自ずと分かってきます。 まず言えるのは、今これから自己肯定感情を高めようとしている方法に誤りがあれば、自己肯定感情に向かわず自己否定感情に傾くのは当然。 自己肯定感情を高める方法として正しいものができ、それでも自己否定感情があるのであれば、そこから、自己否定感情そのものに着目して、その原因から探るという取り組みが意味を持つようになります。
また心理学的な観念から自己肯定感情の原因(責任)を幼少期に求めることがよくありますが、それは「今これからの成長」を知らないまま自己肯定感情を持ちたいと願う、誤った姿勢です。しばしば、「今これからの成長」に向かうことができていないというその人の姿勢こそが、自己否定感情の最大の原因です。
ですから、まずは自己肯定感情を高める方法として正しいものをどう選択できているかに、取り組む。上述の、具体的材料ベースでの、「外面→内面→外面」アプローチとして。 「正しいもの」についての「学び」として、 『入門 - 3.取り組み実践 / 「学び」の主要テーマ』 のような内容をしっかりと踏まえながら。
「自己否定感情」へのアプローチとしては、大よそそうした話になります。 りょうたろうさんのご相談について言えば、「自己否定感情」と一言で言っておられることを、もっと詳しく明瞭に、自分の何をどう感じているかからが、「分析」の活躍するものです。そこで感じている細かい内容によって、またアプローチも違ってきます。 これは 『実践詳説』 - 「学び」の一覧表(電子書籍版P.6) の「悪感情の克服」の項目などで参照可能です。 たとえばそれが「自己嫌悪感情」というようなものであれば、 ======== 自己嫌悪・・・これにそのまま直接対処しようとするのは誤りであり、 改善向上すべき、もしくはハンディとして受け入れるべき外面問題と、 自分の内面衝動の何かに対する自己嫌悪に、まず分けるのが基本です。 前者は外面向けテーマへ、後者は内面向けテーマおよび心の成長の全体への 取り組みへ。その先に、「魂の感情」によって浄化されるという 道のりになります ======== と書いていますが、まず「外面の問題」「内面の問題」といったものに、しっかり分けることから。そこから、上記ではごく短文で表現している、膨大な取り組みが始まります。
上の「怒り復讐」の話ともつながりますが、まず問題として何があってそうした話になっているのかという、話の始まりを明瞭にすることからですね。
「幼少期に挫折した愛への望み」
「幼少期に挫折した愛への望み」というテーマについて言えば、それを思い出せば即座に何がどうなるとは言えないながらも、「問題の根源」として探求するのが良いもの、という理解でまずは良いかと思います。 問題の「原因」として、ではなく。
このテーマは、「望みの根源」を探求する、という姿勢で当たるのが正解です。そこに、「魂の望み」があるからです。「魂の望みの感情」は、それを体験し、自分自身で受けとめることで、心に成熟作用が起きます。 「望みに向かう」という取り組みの根本の一環として、それに向き合えばいい。
幼少期において愛への望みに挫折したのが自己否定感情の原因だという目線で取り組むと、完全に方向違いになりますのでご注意です。自己否定感情の原因についての正解は上述の通り。 その目線は、そもそも「依存」なんですね。「依存」の中にとどまることも、自己否定感情の大きな原因の一つになります。
ですので、まず「今からの成長」として、上述の通り、自己否定感情の原因に取り組むよりも、自己肯定感情を高める方法の正しさに取り組む。 それは結局、「社会を生きるスキル」とかの話です。それを足場に、「望み」に向き合う。その中で、「幼少期に挫折した愛への望み」が一体どんなものであったかが、思い出されるかも知れない。
あるいは最後まで、それは思い出せない可能性もかなりあります。それはそれで仕方ないことであり、それで別にいいことです。 なぜなら、意識の構造つまり脳の構造が、もう違っているからですね。 参考:『入門編下巻』P.196より ===== もうお分かりだと思います。本当の問題の始まりとは、出生のごく早期において、自他未分離の、混沌とした意識の「魂」において起きた、挫折だったのです。 もの心ついた以降の私たちの意識で、それを思い出すことはできません。なぜそれが起きたのか、悪いのは自分だったのか、それとも他人だったのかを知ることはできません。なぜなら、それはもともと自分と他人の区別のない、渾然一体の意識世界で起きたことだったからです。 =====
いずれにせよ、「幼少期の回想」は、それ自体が心の治癒成長のために必要というものではなく、あれば解きほぐしの一環になる程度に考えておいていいと思います^^。
ということで、 ・「外面→内面→外面」という取り組み手順 ・そこで特に「外面」において、どんな問題があり、結局最後に(内面向き合いを経て)どんな行動法を選択すればいいか を検討するのが取り組み実践だという理解で進めると、より整理しやすくなると思います^^。 これは 『入門 - 4.心の成長変化 / ・「成長」と「治癒」の相互依存関係 』 で、 「外面側の軸が主輪、内面側の軸が補助輪」と言っている通りです^^。 |
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