しまのたかしハイブリッド人生心理学 島野隆ブログand掲示板
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●島野の著作そしてハイブリッド心理学に関する感想・質問・ご意見など投稿して頂けます^^。
●心の悩みのご相談
については、ハイブリッド心理学「取り組み実践」を進めるためのポイントヒントなどを、ここではごく簡潔アドバイスいたします。
*より詳しくアドバイスするとどのようなものになるのかは、
 
メール相談事例集実践編書籍など読んで頂くと参考になるかと思います^^。
返答入れて頂いた順に返していきます。日数がかかることもありますので、ごゆっくりお待ち下さい^^。

ご案内 2023.6.1記

最近島野日々の生活そのものほぼ完全がふさがれ執筆関連まわす時間あまりない一方、時折ここで寄せられるご相談に対してまずできるアドバイスほぼ同じものになるであろうことを感じています。
それをここで記しておきましょう。
それは、そのお困りの状況に関連して、ハイブリッド心理学の「取り組み実践」の観点をまず考えてみて下さい、というものです。
「ハイブリッド心理学の取り組み実践の観点から考えてみて」ではなく、です。
つまり、組み実践観点から今の問題どう克服されるかという答えすぐ行くのではなくこの問題関連するハイブリッド心理学「取り組み実践」観点とは何か、その観点としてハイブリッド心理学どのよう言っているのか、を再度確認し、自身理解納得問うことを、行うのです。
そこで理解正しく納得行くものであれば、自然と、では今のこの問題その観点からはどう考えられるか、という検討思考進むことができるでしょう。
一方、理解納得進んでいないまま、この問題一体どう克服されるのかと、「取り組み実践」思考無理にそして性急当てはめようとしても、空回りに、そしてもちろん「取り組み実践」として誤った考え方なりがちに思われます。
つまり一にも二にもまずハイブリッド心理学の「取り組み実践」の観点そのものについてまず考えてみて下さい。これが大抵およせ頂くご相談への最初アドバイスになります。そしてそれを考えてみて、こういうことかと、「取り組み実践」観点そのものについて質問頂くと、理解納得進み自然問題克服への具体的応用思考へと進みやすくなると思います。

そして重要なことして、それぞれの方の問題の最終的な克服がどのようになるであろうかについて、島野は意見を言うことはできません
それはハイブリッド心理学「取り組み実践」が、
『辞典』 全体−2 「学び」の全体構成
イメージ図示する、自分という運転して進む道のりだとして、島野アドバイスできるのは、その個々要素つまりハンドルさばき地図見方基本といった、教習所できることであるのに対して、それぞれの方問題最終的克服とは、教習所出てそれぞれの方人生どこ行きたいのかの、進み方問題になるからです。そしてそれぞれの方人生それぞれ唯一無二であり、島野人間人生成り立ちはそれとは全く異なるであろうから、最終的克服について島野からこんな歩み方で、こんな心持ではいかが、といった短絡的アドバイスは、できないように感じています。

そんなとして、一にも二にも、まずハイブリッド心理学「取り組み実践」観点そのものについてまず考えてみて頂ければ^^。その確認のために、この読書広場掲示板活用して頂くと、最も有益になるであろうものとして、この掲示板引き続き運用していこうと思います。

一つ踏み込んだアドバイス記しておきましょう。動揺困難出会う全てケースにおいて、まずは外面行動への着実的確答え出せることが、荒波進む航海のための、役目果たします。それによりまず流されることのない足場持ち、そこから、自分どの方角向かうのかを、模索するのです。
それがないと、いかに進む方向正そうとしても、そして正すことができたとしても、立ち位置流されていてばかりで、人生という航海における自分位置を、前進させることができないのです。
もちろんその「外面行動への着実で的確な答え」は、ハイブリッド心理学「取り組み実践」の、外面向け観点合致していることが、この人生航海における前進全体が、ハイブリッド心理学の考える成長治癒豊かさへの前進向かうための、条件になるでしょう。ただ外面良くすればいいというのとは全く次元異なるハイブリッド心理学が考える心の豊かさへの歩みも、そこから、始まり得るでしょう。


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泣くことについて / しまの 引用
No.1176 2016/05/04(Wed) 09:24:39

ブログ記事(4/27)触れたように、最近以下のような趣旨ご質問を入れて頂きました。ご質問自体その後取り下げられておりますが、今までまとまった考察整理をしていなかった興味深いテーマと思いますので、取り上げさせて頂きコメント掲載などしようかと思います^^。

ご質問内容
泣くのは体にいいという古い記事を読みましたがどうにも泣けません。というより、泣くのは究極的には無くすべきだとも思います。泣くというのは一時的にスッキリするだけ問題何も解決していない現実何も変わってないと思います。あんまり泣いてるとどうでもいいこと泣けてきますから生活にも影響が出ます。むしろ泣かない方いてスッキリしたにくる後味の悪い不快感を感じずに済みます。問題泣くかどうかではなく理性物事を見る、納得することだと思います。

記事ではテレビで見たものに泣いたそうですが、これはいわゆるお涙頂戴ものではないでしょうか?今の世の中お涙頂戴氾濫しすぎです。泣いて泣いてせがんできます。まるで泣かないことかのようにも思えてきます。
最たる例が、んで泣く大切な人んで泣くです。本当にそれが正しいのでしょうか。んでも泣きたくないです。本当強いなら泣かないはずです。わざわざ葬式など行くから泣けてくるんです。現実正しく見据えた人間ならば泣かないはずです。親離れできないから泣くんです。自立すれば泣きません。 納得すれば人の死受け入れたことにもなりますし感動ポルノを見ても理性当たり前の現実としか理解しませんので泣きません。一々泣いてらエネルギー使い果たしてしまいます。

泣くこと体にいいことと感動ポルノを見ても泣かない両立するには感動ポルノ見なければいいかもしれませんが、泣く要素至る所転がっています。見る泣いてしまうなら見なければいいで片付ける問題でもないと思います。泣かないならば感動ポルノ騙されることもなくなります。芸能人感動ポルノ泣いたりしてるもいますが聖人君子装っているようで気持ち悪いです。裏の顔持っているくせに自分善人仕立て上げようとしているのが見え見えです。

このように泣くという行為に対して良いイメージ抱けません 私の望みは最終的に泣かない。そして理想から自分を操縦しようとしない、です。泣かないという目的は既に達成済みだったのですが泣くと体にいいのかと思い最近泣いてしまいました。しかし後味の悪い不快感しか残らず後悔しております。

そこで泣くこと理想から自分を操縦することからの脱出役に立つのかどうか、また泣くという行為に対しての現在見解を教えてください。


 
「泣くこと」と心の成長 概説^^(前) / しまの 引用
No.1177 2016/05/04(Wed) 10:08:57

>そこで泣く事が理想から自分を操縦する事からの脱出の役に立つのかどうか、また泣くという行為に対しての現在の見解を教えてください

「泣くこと」「心の成長」、というテーマとして考えられることなど「概説」として整理してみましょう。
まあ「泣けばいいという話ではない」とは言えるかと思いますが、涙の中で脳が変化していくというような特別な成長治癒現象あるようであり、まあ本が一冊書けるテーマでもありそうですが、超サマリーを書いてみましょう^^。


「泣くこと」の心身健康への効用・一般考察

まず、
>泣くのは体にいいという古い記事を読みましたが

というのは僕が書いたものなのか、それとも新聞やネットなのかやや定かでない(前者かな)ですが、いずれにせよしばしば言われる話でもあるでしょうし、今の僕の考えとしても基本的にはそのように考えます。
こう表現できるものとしてです。

・「泣くこと」は「笑うこと」と同じように、ストレス解除とリラックス状態の表れであり、心身の健康と成長に沿ったものである。
と。
この表現ミソは、健康と成長「沿ったもの」という言葉にあります。つまりそれが健康と成長「生み出すもの」では必ずしもない、ということですね。
たとえば北アルプス登山などでもバテない体を作るべく近所山登り(+その翌日の近所階段上り)トレーニング3日周期で行っており、かなり効果が出てきているのですが、それと同じように、「泣くこと」定期的に行うことで心の健康と成長効果が出る、というようなものでは恐らくない

そうした言葉言うのであれば、結局は、「思考法行動法」そして「価値観」「生き方姿勢」全体健康と成長に向かうものあること、そしてその先生きる体験の全ての積み重ねが、心の健康と成長生み出すのだ、というのがまずハイブリッド心理学考えだと言えます。
その中で、「泣く」という体験自ずあったりなかったりするであろう、と。
ですので、「泣くこと」だけを単独に取り上げて、それが心の健康と成長に役立つもののように扱うことは、ハイブリッド心理学ではしないですね。まあもしそう扱うのであれば、『ハイブリッド人生心理学辞典』「実践の学び」の中にも「泣くエクササイズ」のような項目出てくるという話。そうはしてないですね^^。


「泣くこと」の心身健康への効用・ハイブリッド心理学考察

それでも、「泣くこと」健康と成長どう「沿ったもの」か考えるならば、ハイブリッド心理学としての視点幾つか整理することができます。
その中には、「泣くこと」心の健康と成長「生み出す」特殊な面もあるのが見えてくるようなものとしてです。

まずハイブリッド心理学としての指針「泣くということ」についても、
・内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみ行う
という、一貫とした「感情と行動の分離」基本姿勢対処実践向き合います。

ですので、内面感情としてどうか、そして外面行動としてどうかという視点があり、そこにもう一つ涙が流れるという生理的現象側面どう考えるかという、大きく3つの視点出てくることになります。


「泣くこと」と内面感情

内面感情から見ていきますと、まず、泣く原因もしくはきっかけとなる内面感情種類とはどんなものか、というテーマが考えられます。それに応じて、泣くこと心身健康良いか悪いか違ってくるのでは、と。

すると言えるのは、泣く原因となる感情とは、実に多種多様であることです。たとえば「悔し涙」「嬉し涙」というように。
恐らくは、人間の感情全ての種類が、泣くこと原因きっかけなり得る喜怒哀楽という基本種類を考えてもそうだし、たとえば「不安」「安心」伴って流す涙といったものもある、というように。

すると、泣くこと心身健康良いか悪いかという問い自体があまり意味がない、というか二義的なことではないかというにもなってくる可能性出てくる。あるのはその感情が心身健康に良いか悪いかであり、そこに伴う泣くこと単独取り上げて健康に良い悪いないのでは、あるいは感情の違いによって、泣くこと健康への良し悪し違ってくるのではないか、と。
たとえば「怒り」ハイブリッド心理学が考える、心身の健康に害のある感情の代表であり、それに伴う涙、たとえば「悔し涙」流すことが心身健康に良いとは、とても思えない^^; 「嬉し涙」というのになると、心身健康に実に良さそうではあるが。


「泣くこと」の生理的学的効果

そこで、そもそも感情が極まって涙を流して泣くということの、医学的生理学的な機能とはどんなことなのか、という視点出てきます。涙が流れるということ自体ごく身体生理的な現象であるが、それが感情の極まりによって起きる意味とは。

それについてちょっとネットで見たところ、泣くというのは人間にのみあることで理由医学的科学的には今も解明されていないとかの記事もありましたが、一方見受けられたのは、泣くこと脳内ストレス物質の解消幸福物質の放出効果あることがかなり明確らしいこととして言っているものが結構あることです。
泣くこと大いに推奨しているものですね。

以下など。
涙の数だけストレス解消!(養命酒元気通信2013.3)
泣くことによるストレス解消や疲労回復効果/科学的に解明

そうした踏まえ考えるに、人間「泣く」というのは、薄っぺらい「心」「魂」と「命」につながる、一つの「貫通口」のような役割持っているのではないか、ととしては考えています。
つまりこういうことです。人間以外動物は、「心」基本的「命」のまま生きており、もとから備えるものである脳内ストレス物質解消幸福物質放出動きも、感情の揺れ動きに応じて連続的自動的に働く上流から下流への川の流れのように。
それが人間場合「自意識」出現により「心」「命」からはがれた薄っぺらいものとして働くようになる「心と魂の分離」起き日常的感情の揺れ動きが、本来備えるものである脳内ストレス物質解消幸福物質放出へと、つながりにくなる。仕切られ流れのようにです。

その結果感情の動き脳内ストレス物質解消幸福物質放出つながるのが、堰を開けるような非連続的切り替わりとして起きるようになったのではないか、と。
それが「涙を流して泣くという心身反応」なったというもの。
そこには、
・感情の極まり
・身体生理反応
・・・涙を流すという涙腺系反応しゃくり上げるという呼吸器系反応
結びつきあるわけですが、ストレス物質幸福物質「流す」「吐き出す」という脳の動作が、そうした身体生理反応のための自律神経機能を、いわば間借りするような機能するようになったのでは、というのが僕の想像です。

その結果脳内一度に大量ストレス物質解消幸福物質放出行われるというのは、どうしても「泣く」というのを伴わないと起きにくい、ということになっているのではないかと。
これが僕の考えであり、「泣くのは体に良い」よく言われることと、僕の考え大体同じだということになります。

つまりここまでの話総合すると、こう言えるかと。まず感情の種類に、心身健康への良し悪しがあり、それがまずは大きく方向決める
その上で、どの感情のケースにおいても、涙を流すことが、ストレス解消効果や幸福感増大の効果加えることにもなる、と。
まあ「怒り」心身健康害があるとして、そこで涙を流した時、多少その緩和する作用あるかも知れない、とも考えられますね。


「泣くこと」と心の成長成熟

そこにもう一つ考察加えることができます。本題にもなりますが、「泣くこと」「心の成長成熟」生み出すのか、もしくは何らかの関係があるのか。
上のネット記事でも触れられていますが、「泣く子は育つ」という言葉あったりする。これは本当か

これについては身近な人物事例2つあり、一人妹の子で、3、4歳物心ついた頃は、超人見知り慣れないことは何でも嫌がりすぐビービー泣くとしてもこんなに泣く子見たことがない程で、身内の間でも将来がちょっと心配・・という感じの子でしたが、それが育つにつれて明るい性格変化し、中学では何と生徒会長になり、身内の間でも驚いたというもの。

もう一人他ならぬ僕自身ですが、「よく泣いた時期」というのが僕の人生2つほどあります。
どちらも著作反映しており、一つ『悲しみの彼方への旅』大学4年頃、そしてもう一つが、ハイブリッド心理学の整理大きく前進した2004年から2007年頃43歳から46歳という時期でした。前者本のどの辺かはいいかとして、後者は、メール相談女性心の窮地思って泣いた(*1)とか、「自己操縦心性」起源「傷ついた自分自身への愛」であったのが分かった時、自分自身の心理学によって初めて涙を流した(*2)とか、「永遠の命の感性」獲得節目書いたものですが、「命」を看取った時、魂に魂が宿る。そこにおいて「愛」は永遠となる、と分かって泣いた(*3)とか。
それら涙の意味とは一言で、前者は、自分の病んだ心向き合いながら赤剥けの心就職もしくは大学院へという人生の進路向かおうとした苦しみでのであり、後者は、ハイブリッド心理学の執筆により「魂の機微」向き合う中でのだと言えるでしょう。
*1 理論編上巻 4章 「愛」と「真実」の混乱と喪失−1 「傷ついた者への愛」パラグラフ
*2 理論編下巻 5章 「未知」への大きな前進−2 「自己操縦心性の起源は「傷ついた自分への愛」だった!」パラグラフ
*3 入門編上巻 10 章 人間の真実「愛」と「命」 「「永遠の命の感性」へ」パラグラフ
(P.330)


いずれにせよそうした「よく泣く時期」というのは、心の成長成熟変遷対応したものだ、ととしては考えます。
心の成長成熟変遷とは、詳しくは省略しますが(*)一言で、
「依存の愛」から旅立ち、「自立の自尊心」を経て、「成熟の愛」に向かう。
というものです。
場合大学4年の頃「依存の愛からの旅立ち」であると同時心の病みからの抜け出し、そして40代中盤「成熟の愛」へと向かう人生特徴的な時期であった、と。
*詳しくは『概説』 4章 心の成長変化 ・心の成長変化のベクトル 4 「成熟」 など参照^^

この「依存の愛からの旅立ち」「心の病みからの抜け出し」そして「成熟の愛」といったテーマは、涙が似合うものだと言えます。
では場合はどうか。これはまだ「依存の愛」生きている中でののようだが・・。


良く泣けば泣くほど心が豊かになる?

・・と話が膨らむにつれ、話のテーマ自体良く分からないお感じの方出てくる気配ちらほらですが(^^;)、要は「泣くこと」上述のように脳内ストレス物質解消幸福物質放出加えて、心の成長ホルモン放出呼べるような効果があるのか、というテーマです。
つまり平たく言えば、良く泣けば泣くほど、心が豊かに成長成熟していくのか、ということです。より穏やかで安定した心で、自分から人を愛せるような、豊かな心へと・・。

上で「泣く子は育つ」という言葉引用しましたが、それは泣いたから育ったのか、ということです。泣かないと心は成長しない?
「寝る子は育つ」という言葉もあります。これについては、もう医学的にもそれが正解であるのが確かであるのはほぼ周知睡眠の中で身体成長ホルモン放出されるからです。
それと同じように、泣くこと心の成長ホルモンようなもの放出されるのか


「泣くこと」と「自己操縦心性の崩壊」

膨らませついでさらに話を膨らませると、病んだ心治癒としてハイブリッド心理学が考える「自己操縦心性の崩壊」も、泣くこと大いに関係があります。
・・とこれはついでの話というより、

>そこで泣く事が理想から自分を操縦する事からの脱出の役に立つのかどうか、

というご質問テーマそのもの関係してきますが、「自己操縦心性の崩壊」治癒大抵大泣きを伴います。恐らくその人にとって、人生で最大の大泣き一つに、まずはなるのが間違いないようなものとしてです。
その大泣き中で、あるいはその大泣きよって無意識の自分によって自分が操縦される、その病んだ心溶けて消えていくかのように・・。

これも詳しく省略しますが(*)「自己操縦心性」とは、最新整理としてはのように定義できるでしょう。
(*)まずは『概説』の 4章 心の成長変化 / (4)「心の死と再生」という特別形 -「自己操縦心性の崩壊」の治癒 などご参考

幼少期において意識破滅につながるような、破滅的自己否定感情を意識から切り離し葬り去る代わりに、思春期に発動する、半ば無意識化された自己理想化像を基準としたストレスに支配される心の状態、であると。
これが各種心身疾患土壌になるものと言えます。そして、
その情緒構造は「現実を見下し、自分を追い詰めることで自分を支える」という極めて理不尽なものであり、その治癒は、この心性が、ありのままの現実に立って生きようとする心の動きとの戦いに破れ、自らへの深い断念に至る、というものになる。
そうしたものとして、「自己操縦心性」は意識理性による修正はできず、その克服は、意識表面では一度「完全なる絶望」を通ることでまっさらで健康な心が生まれてくるという、「心の死と再生」の一形態になることへの理解がとても重要になる。

など言えるでしょう。ま最新最短定義文書いても、どうしてもこの程度の字数は必要になるもの。

そうして、「今までの生き方」への深い断念成されるのが、表面では「大泣き」として表われる、というわけです。


・・と大分長くなっていますが、ここまでが、「泣くこと」と心の成長とはどんなテーマかという、テーマそのもの理解のための視点洗い出しです。
これを踏まえテーマどう理解するか、そして島野の考え結論へと続けましょう。そしてご質問の文面垣間見られる、ご質問者本当の問題なのか、そしてそれへ取り組みどのようなものになるのか、へと続けます。3つくらい分けて入れが良いかと^^。


 
「泣くこと」と心の成長 概説^^(中) / しまの 引用
No.1180 2016/05/16(Mon) 11:53:41

「泣くこと」と心の成長というテーマ

「泣くこと」と心の成長というテーマそのもの理解のための視点洗い出しから始めましたが、まとめるこんな話です。

まず基礎心理学からは、泣くという心身反応はおよそあらゆる種類の感情によって引き起こされ得るものであり、泣くこと単独に取り上げ心身健康への良し悪し言うのではなく、その時感情心身健康良いものであるかどうかずは問われるだろう。
それでも生理学的には、どんな感情場合であっても、泣くこと脳内ストレス物質解消および幸福物質放出つながるのが、かなり確かなことらしい。

そうした一時的ストレス解消および幸福感だけでなく、さらに人生通して心の成長成熟(「自らによって幸福になる能力の増大」)泣くこと寄与するのかどうかについては、島野の経験的印象2つ言える。
一つは、「よく泣く」ことが「似合う」とも言える、心の変遷段階というものがあること。「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という変遷における、「依存の愛からの旅立ち」「成熟の愛への向かい」です。
もう一つは、「自己操縦心性の崩壊の治癒」には、「大泣き」「つきもの」であること。まさにその大泣きで、自らの無意識によって操縦それる、その病んだ心溶けて消えていくかのように。

以上踏まえて、「泣くこと」と心の成長というテーマとは、ハイブリッド心理学からはこのようなことだと言えるでしょう。
それは、「泣くこと」が、心の成長変化5つのベクトル(方向性)である「成長」「治癒」「浄化」「成熟」「超越」(*)の、「成長」「治癒」そして「成熟」寄与するのか、というテーマである、と。
(*)『概説』 4章参照

それぞれ一言で、のような心の変化としてです。
「成長」・・・「現実」を生きる能力と内面の強さの増大
「治癒」・・・「病み」の傾向の克服解消
「成熟」・・・自分から愛せる感情、「自発的幸福」の増大

なお「浄化」「超越」はそれぞれ、荒廃しすさんだ心が清らかさを回復する変化、そして「自分」を超えたものを見出し「自分」という惑いを捨て去る変化という、特別情緒変化であり、今回「泣くこと」の寄与というテーマ考える上では、それぞれ「治癒」「成熟」一環としてまとめて考えるので良いでしょう。

つまりこういうテーマだということです。
ハイブリッド心理学では、心の成長を、あくまで生き方の全体が心の成長に向かった上での人生の体験の積み重ねにおいて生まれるものと考え、その中で「泣く」のもストレス解除リラックス状態の表れとして自然に起きるものと位置づけ、それ以上に「泣くこと」を単独に取り上げてエクササイズのように推奨することはしていないが、それでも、心の成長の歩みの中で、泣いた時に、泣かない時に比べて、単にストレス解除や一時的幸福感だけでなく、特別に「成長」「治癒」「成熟」の心の変化が促進されるような効果はあるか。脳内におけるストレス物質解除や幸福物質放出だけではなく、心の成長ホルモン放出が起きるようなものとして。
というテーマになる、と。


島野の考え結論

そうしたテーマとして「泣くことの効用」今回初めて僕自身の考えじっくり整理してみたのですが、その結果僕自身としてちょっと意外な結論になった次第です。
つまりまあ、泣くこと単独にエクササイズのように奨励するものではない、というのは考察整理しても変わるものではなく脳内においてストレス物質解除や幸福物質放出だけではない心の治癒成長ホルモン放出のようなものが起きるのかという問いについては、大方「ノー」という結論になるのではという感覚考え整理していたのですが、結論「イエス」に近いものへと至った次第です。

つまり泣いた時、泣かない時には起きないような、心の治癒成長変化が、脳で起きるようだ、と。単に一時的ストレス解消ではなく。
ではそれをエクササイズ化するのもアリかというにもなってくるのですが、これはやはり違う

どういうことかと言えば、まず一言で、単純な話ではないということですね。
考察視点を、を追って書いてみましょう。

まず単純視点として、寝ることで体の成長ホルモンが良く分泌されるのと同じ構図で、泣くことで心の成長ホルモンが放出されるようなことはあるのかという問い仕方をするならば、それは恐らくないだろうと。
理由は、もしそうであれば世の中が少し違って見えるだろうという、ごく主観的観察判断です。もしそうなら、良く泣く人だれもが、心が成長し豊かな人へと変化しているのがそれとなく見えるのではと。実際はそうではないですね。良く泣く人そうでない人も結局、結構な歳月でもあまり変わりばえなく生きている様子が、まずは私たちの目に映るものになります。
実際のところ我々自身「体が健康で丈夫に育つ人=良く寝る人」という図式問うなら、「うんそうだ」感じるでしょうが、「豊かな心へと成長する人=良く泣く人」という構図となると、まずは「そうかなあ・・?」という感じになるのではと。それがさらに言葉を足し「豊かで強い心へと成長する人=良く泣く人」という構図となると「えっ違うような・・」となるのではと。またそこで「良く泣く人」という言葉部分「あまり泣かない人」置き換えて考えてみても、「う〜んそれもどうかなぁ・・」という感じになるのではないかと思います。

つまりは、人生豊かで強い心成長することとに対して、良く泣くことというのは、やはりあまり一義的なことではない、ということになるのではないかと。やはりまず生き方と体験の全体ありきであって、そこで良く泣くかどうかは、人それぞれ個人差のようなものでしかない、と・・。


心の成長につながる泣き方とつながらない泣き方

それでもやはり泣くこと心の成長完全に無関係とは言い切れない側面問い方というのも、すぐ考えることができると思います。
たとえば、良く泣いて、豊かで強い心へと成長した人もいれば、泣くばかりであまり成長しない人もいる。この違いは何か。

ここでハイブリッド心理学視点が入ってきます。
一言でこれはつまり、泣く姿勢2種類がある、泣き方の2態がある、というだ、と。
一言で、「自分を支えられずに泣く」のと、「自分を受けとめて泣く」のと。前者心の成長につながらない泣き方であり、前者心の成長につながらる泣き方です。

これも説明を始めるとあまりに長くなる恐れがあり、まずはごく具体的例として分かりやすそうなものをあげると、前者典型「怖さ」泣くものです。たとえば注射が怖くて泣く子供様子
一方後者どんな感情で泣くものかというやや複雑で、それよりも実際人物例などあげると良いかと思いますが、今多くの人が知っているであろう例として僕にまず浮かんだのは、ソチ五輪フィギュアフリー演技を終えた瞬間浅田真央天を仰いだまま嗚咽した涙です。
平たい言葉を使えば、前者子供の涙であり、後者大人の涙とも言えますね。ただこの言葉使い始めると、全ての子供の涙が心の成長にはつながらず、大人の涙ならつながるのかといった、本質をはずした議論にもなってしまうかと思いますので、まずは「自分を支えられずに泣く」のと、「自分を受けとめて泣く」という表現にしておこうかと思います。

この両者違い、そしれ後者心の成長につながるというのは、ハイブリッド心理学大きな3つのテーマつながりになります。
ハイブリッド心理学著書の全てを通してこれを説明しているようなものになりますが、それぞれ一言書いておくと、
(1)「心の依存」から「心の自立」への転換(心の基盤テーマ)・・・「気持ちを人に受けとめてもらう」という心の基盤から、「気持ちを自分自身で受けとめる」という心の基盤へ。
(2)「魂の感情」への出会い・・・「心の自立」に立ち、失意超えて自分自身の「望み」を受けとめる先に、訪れるもの。
(3)「心の成熟」の最終メカニズム・・・「魂の感情」総合的燃焼量に応じて「自発的幸福」増大するという、シンプル法則による。これは我々自身「意識」超えて、「命」つかさどる
この十分な理解ハイブリッド心理学の全体学ぶというになりますが、簡潔にまとめたものとしては以下など参照
(1)『概説』 5章 歩みの道のり (2)真の前進へ / 「心の依存から自立への転換」(pdf版P.84)
(2)『概説』 4章 心の成長変化 (2)「心の業の捨て去り」と「魂の望みの感情」による心の成長の本格的前進
/ 「魂の望み」の感情の異質性(pdf版P.37)
(2)『概説』 4章 心の成長変化 (3)「浄化」「成熟」そして「超越」という心の成長の真髄
/ 取り組み実践による「心の成熟」への歩み - 3)「魂の望み」への向き合い (pdf版P.54)


そうして説明ならいくらでも膨らむような話として、心の成長つながらない泣き方つながる泣き方とあるけですが、ここでご質問へのアドバイス一つ差し挟めるのが、前者の世界だけで考えていないか、という見直し視点です。
そうだとどうしても「泣くという行為」が、不面目な弱さの露呈「善人ぶり」など、人目ありきになってくる。ま「心の依存」の世界ですね。
心の成長につながる涙の世界というものも、視野入れることを考えてみるか。すると質問全体変わってくると思います。この後者の世界では、もやは「泣くという行為」のは「行為」ではなく、あくまで「心身反応」になりますね。作為的ではなしの。

そうしたアドバイス的な話はまたこの後まとめてとして、泣くことの効用考察整理続けますと、ここでの「心の成長につながる涙」も、やはりあくまでその時その人行動や感情体験の全体心の成長つながっているのであり、泣くという心身反応だけ単独に考えれば、効用はあくまで一時的ストレス解消幸福感加えている、ということだけだと考えられます。
その心身反応は、心の成長ホルモンまで放出するようなものではない、と。

しかし、視点次に移すと、話が違ってきます。


体験を通して知る「泣くことで脳が変わる時」

そうして僕自身泣くことで心の成長ホルモン放出のような効果まではないだろうという感覚考察整理続けたのですが、最後のケースに至り、どうも話はそれでは済まない、というのが出てきた次第です。

『(前)』コメント触れた、「自己操縦心性の崩壊の治癒」の際の「大泣き」です。
その、間違いなく人生で最大の大泣きの一つになるであろう経ることで、に、「脳が変化した」という表現単なる比喩イメージではない事実であるように見えるような、すがすがしく軽快な心の状態現われるのですが、その際大泣きというのは、その治癒の体験に付随して起きたものというよりも、その大泣きが治癒を生み出している、少なくとも促進しているように見えるふしがあることです。

自らの、優に10回以上は超えるその体験通して、そのことを直感的感じ取りハイブリッド心理学整理の中で僕自身加速度的心の成長治癒向かう頃「今、泣く時だ」とばかりにどっと涙を出すようなことも何度かあるような感じでした。その尽きる頃自分自身とは別のものが自分の頭を持ち上がらせ、目線が上に向くような感じに。
そこで起きることとは、尽きた頃「自分が別の人間になっている」という言葉ぴったりのようなものとしてです。
また、メール相談開始(今は終業^^)ご相談者の「自己操縦心性の崩壊の治癒」立ち会うようなことも数度あったのですが、そこでご相談者大泣きしているらしい様子に、内心「しめしめ(^^;)、これでこの人も健康な心に回復するだろう」といった期待をし、また実際相談者その後に、本人自身で驚くような自分の心の安定変化体験していました。

*なお上記のような僕自身「自己操縦心性の崩壊」プチ体験記述しているものとして以下がありますのでご参考^^。
・初期原稿 『ケース・スタディ』
 02 ハイブリッド療法の姿勢と感情分析過程が典型的に現れた数日間の体験
  5■ 2002年12月10日(火)  自己分析(2) 埋もれていた自己欺瞞が明らかになる
執筆活動の中で唯一の、僕から相談援助を申し出た、深刻な人格障害女性との関わりの中で、僕自身自分の感情があったことに次第に気づき、「自己操縦心性の崩壊」プチ体験のようになったもの。
その時の日記紹介しています。以下が該当部分
--------
・・とまで考え、はっと気づいた。僕は確信を持って、吐き捨てるように、“克服しないんだよ!”と自分に言った。
 そして何と泣き出してしまった。まさに、これが答えなのだ。それ以外には何もない。最も分りやすい例題としてサイトにも紹介できる。その皮肉を思い浮かべ、笑いながら泣いた。--------


涙によって「ストレスから生えた心」が消える

そのように、泣くことで、一時的ストレス解消や幸福感超え「泣き終わった時、別の人間になっている」とでも表現できるような効果あることがある。
これをどう考えるか。
一考すると、面白い答えました。

まず泣くことで、脳内心の治癒剤心の成長ホルモンが放出されるという単純な図式のものではないという考えは、変える必要はないと思われます。もしそうなら、良く泣く人全て心が健康で強く豊かに変化するでしょうから。実際はそうではない。
つまり泣くこと直接的脳生理作用は、あくまでストレス解消だという考え変わらないわけです。
そしてその一環として、「泣き終わった時、別の人間になっている」いうようなこと起きることがある、というもののように思われるわけです。

どういうことか。つまり基本として起きているのはやはり「ストレスの解消」なのですが、そこで起きているのは、心の内部でのストレス解消いうよりも、心の外部土台におけるストレス解消考えると、実にしっくりとします。
つまり心の内部ストレスが消えるのを超えストレスから生えていた今までの心が、消えるわけです。


「命」の領分へのつながり

キモは、ハイブリッド心理学が考える心の成長変化が、「今の心」維持した中での調子の良し悪し変化ではなく、「今の心」「新たな心」へと意識土台から変化していくような変化言うことにあります。
するとそれ意識努力意識体験による心持ち変化というレベル超え生理構造的レベル起きることであり、人間の場合「心」「命」からはがれているものであることにおいて、ハイブリッド心理学が考える心の成長変化は、基本的「心」領分ではなく、「命」領分にある、ということになります。

そう考えるならば、「泣くことが似合う」という「成熟」、さらには「成長」一般においても、泣くことストレス解消ではなく、心の変化の促進になることも考えられるように思われます。
たとえば「成熟」については、「心の成熟」最終メカニズムについて触れ、それは「魂の感情」総合的燃焼量に応じて「自発的幸福」増大するというものだと述べましたが、実際どのよう「魂の感情」燃やし尽くされればどう成熟するのかは、結局「命」が支配する、というのがになります。
つまり、泣くこと直接的効果ストレス解消であったとしても、それが「命」につながる心身反応であることにおいて、「心の成熟」メカニズムも、より直接的に作用させるものになることが考えられる、ということです。

「成長」
という基礎的変化も、同じ話になります。それは上記のように「現実を生きる能力と内面の強さの増大」であり、「現実を生きる能力」そのものについては「泣くことの効果」ないでしょうが、「内面の強さの増大」という側面については、涙を流す体験によってより強く促進されるかも知れません。これは何か自らの手痛い失敗を通して生き方を学んだような、痛みを伴う成長体験について当てはまるでしょう。


泣くことの「成長」「治癒」「成熟」への効果結論

かくして結論こうです。
ハイブリッド心理学が考える「成長」「治癒」「成熟」という心の変化ベクトルへの、「泣くこと」効用とは以下の通り。

まずそれは「心の病みの傾向の解消」である「治癒」において、泣くことによるストレス解消効果がさらに、「ストレスから生えた心」解消効果へと拡大することで、「泣き終わった時、別の人間になっている」とでも言えるような劇的心の治癒効果生むことがある。

「成長」「成熟」ベクトルにおいては、「治癒」ベクトルにおいてほどの直接的作用ないが、それでも「泣く」という心身反応「命」への接点であることにおいて、心の変化がより促進されることが考えられる
ただしこれは「愛」主テーマとなる「成熟」比べて、「現実を生きる能力」「自尊心」主テーマとなる「成長」ベクトルでは、泣くこととは無縁な、力強い前進行動による成長促進より主体になる言えるであろう。

さらに、「ただし」として言えるのは、これら全てが、泣くことに効果があると聞いて泣く努力をするのは、全くの無駄であり効果がないのは火を見るより明らかです。
心の変化を生むとは、自意識超えた心身反応、「魂」の反応として起きたものであり、それを開放したときに、上述のように心を変化させる効果がある、ということです。

また、泣くこと単独に心の変化効果を生むのではなく、本人の生き方姿勢と、その時の体験そのものが「成長」に方向づけられているのが前提であるのは、言うまでもありません。『(前)』コメント述べたように、堰を開くことに相当するとして、堰の前後の水路が、稲の苗を植えられた田に豊かな水を正確に導くものなっていないと意味はない、ということですね。


以上今回テーマへの僕自身の考察整理として、ご質問文面拝見して感じたことなど、簡潔に書いておきましょう。


 
「泣くこと」と心の成長 概説^^(後) / しまの 引用
No.1182 2016/05/21(Sat) 09:42:38

以上踏まえて、ご質問へのアドバイス簡潔にまとめておきますと、まあ一言で、
泣くことを単独に取り上げてその良し悪しを考えるのではなく、心の成長の全体に取り組む。
一言尽きますね^^。
それに向かうならば、ご質問全体が、もう違うものになるだろうと。

そうしてご質問文面一つ一つへのコメントここではもう省略してよろしいかと思いますが(おおまか^^;)一つだけ、

>私の望みは最終的に泣かない。そして理想から自分を操縦しようとしない、です。

は、それがまた「理想から自分を操縦する」ことになってしまうと思います。
考え方としては、「〜しない」という「消極形」理想望み考えると、「理想から自分を操縦する」ことになってしまう。
それを「〜する」「〜できる」という「積極形」理想望み考えるように取り組むそうするならば、その望み理想自分にとって真のものであるならば、それに向かって「自分を操縦する」ことは、何の惑い混乱持たないものになると思います。
望み理想自分にとっての嘘を含むものである時、「自分を操縦している」というそのストレス不毛感が、問題として表面化するわけですね。

いずれにせよ、ハイブリッド心理学の全体取り組むかどうか選択になりますね、ということで、ご質問への懇切なコメントというよりより僕自身の考え整理することを主旨としたトピックでした^^ゞ
アドバイスとしては正真正銘上記一言なんですけどね^^。

p.s
あっあとこれどーでもいい話ですが、最近全然泣かないですね。
その後確認したところ過去掲示板
『泣くのは体にいい』 しまの No.104 2003/10/31
で、「なんか2日に1度以上は涙を流しているような気が」なんてこと書いていますが、もう雲泥の差で、TV見ててもパネラーがボロボロ泣いていても「良かったじゃーん」口角上げて見ている程度グッとくるもの「こんな話あったんだー」関心しますが、もうここ数年も流してないかも知れないほど、感情の起伏少ない今日この頃です。
これは基本的に、『(前)』コメントで触れた、僕自身「永遠の命の感性の獲得」節目で、もうあまり涙を流さなくなった、という流れのように感じています。が、「心」から「命」につながる堰だとしたら、「心」がおおかた「命」つながった時、もうその堰も役目を持たなくなっている、ということかも知れない、などと考える今日この頃です^^。



被軽蔑感を流す / こたろう 引用
No.1163 2016/03/09(Wed) 02:27:46

現在完全にパニック状態です。就職前なのですが、会社の全ての人間の首を絞めたい、刺したい、そんな衝動ばかりが出てきてきついです。わずかでも愛想よくする事が許せない、なのに営業という立場で、しかも技術的な提案などよりも、足繁く通って、接待などが大切だと言われていました。そんなことはとてもではないけど出来ないという感覚で、すべての社員を刺し殺したい、と。

もう一社はシステムズエンジニア職で、明るさを要求されなそうだから、という理由で選択肢に残していましたが、こちらも全て殺したい、というような暴力的な衝動が出てきて、そのような感情を持ったまま同期の中に入っていき、ガチガチの姿に困惑され、困惑された事に対しての怒りで相手をめちゃくちゃにしてやりたい、、、、という衝動。こんな精神状態で研修を受けて、周りの有名大卒の同期においていかれ、敵意、休憩中に心を閉ざす姿勢から同期に質問もできず そもそもこんな勉強したくない、なぜこんな事になったんだ、全員CENSOREDやる こんな風な事ばかりが頭に浮かびます、、、。


流しても、口をつむいで無口でいる事しかできない、、、それを軽蔑されないとは考えられない。こんな衝動をかかえた人間が働いて良いとは思えない。
困惑する上司を、こんなことしたくないんだよと刺したい。


昨日はサバイバル世界観だから、プログラミングを、覚えて手に職を、、とか考えてそっちにしようと思うと、勉強する事への激しい抵抗と、強烈な敵意と、、、。



無理だからアルバイト、、、なんの夢もないフリーターなんてゴミクズ、、、はじめればそこにいる人間を殺したくなり、、、こんな事ばかりが頭をよぎり、もう身動きがとれません、、、、。


流しても、軽蔑を受けたという形で体は反応してしまうんですよね?
それに対して「自分なんか悪い事した?なんでそんなにびびってるの?」と思われる事は避けられないように感じ、相手を刺したい刺したいという衝動がむくむく、、、。
未熟をみる目なんてあるんでしょうか。弱さならばまだしも、こんな攻撃的で人を人としてみずに、まるでロボットを相手にしているような態度でも、、、
そうじゃないと、わずかな愛想でも絶望的に自己嫌悪が、、、ロボットを相手にするように話しても同じですが。

もうつかれました。暴力的衝動を持ったまま、勉強もしながら仕事をするというのはハードルが高すぎるように思います。絶望的です。
もはや対処の仕方がぜんぜんわかりません。
内面感情はうちにとどめる、、、留めても、もはや隠しきれなく思います。

本当の望みは、人を楽しませることで、楽しませるなんてことをお前が考えていいわけがないだろうとの言葉で、涙しました。しかし、こんな風な感情になると、人を楽しませる事なんてできるはずがない、望みに向かえないと絶望的です。

何回もおえっと嗚咽が出ています。
対処できることはあるでしょうか。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう 引用
No.1164 2016/03/09(Wed) 16:37:32

対人恐怖であることがバレたら、裏切り行為だとみなされて、失望、強力な怒りを向けられるに違いない、
アットホームな職場環境で浮く事への憎しみと、それがみとられての困惑、怒り、殺したい、殺したい、こんな事ばかりが浮かんできます、、、。
いくら仕事内容に精通しても、愛のない姿に、なんだこいつは、変なやつを営業として採用してしまったな、どうなってるんだこれは?と思われて、一人浮いて、殺意を抱くイメージ、、、、。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう 引用
No.1165 2016/03/09(Wed) 23:18:17

成長を見守る、という目線が本当にある事が信じられません、、、。最初からそういうつもりで雇われてたなら、わかるんですが、そうじゃないのに、客前でオドオドしたり、顔がひきつってたりしたら、最低の烙印を押されるとしか思えない。本当にあるんですか?震えたりするのを、そして他人に対して冷めた、ロボットのような声色の人間を、成長を見守るという目線が、、、、。

あったとしたら、挙動不審な人を殺したいくらい軽蔑してるのは自分自身なんですね、、、、。それがまた、自分に帰ってきます、、、。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう 引用
No.1166 2016/03/11(Fri) 08:54:34

これらを流しても、生気のない焦点が定まらないぼーっとした状態になってしまい、 どうしたの?と言われてしまうんですよね、、、。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう 引用
No.1167 2016/03/14(Mon) 12:42:45

申し訳ありません。全く建設的でない、ただパニックになっているだけの記述をつらつらと。

そして、これらの感情の葛藤が極限に達して親に当たって大号泣してしまい、強力に自己嫌悪しています。もう、死ぬ・・・と。

死ぬ・・・というのはポーズで、見せつけによる「甘い嘆き」だと思っていました。
しかし、自ら力を入れて前に進もうという感覚を全て捨てたとき、固まってしまいました。
静まったそこにあったのは、人生への悲しみ。
なんだ、全部嘘だったのかと。本当は、ずっと虚無で、死にたかったんだって。

しかし、それさえもポーズになってしまいました。
その状態で親の前にでて、爆発してしまいました。
自分がなにを考えているのかももうわかりません。


感情と行動の分離といいますが、この先、このような状態になると、
声がでなくなったり、非常にか細くなってしまったりします。
死んだように眠り・・・、次の日が仕事の場合、どうなってしまうのだろうと。


他人に対しての敵意と憎しみ、暴力衝動、アットホームな職場の全ての人間への
見下し感情、隠している自分への吐き気がするほどの嫌悪感、力を抜くと死んだ魚のような
目になってしまう・・・。

一巡目はいいんです。最初の憎しみを流せるなら。しかし、何日もいれば絶対にわかられてしまう。
見下し、敵意・・・。愛があるかないか、そんな事は一時間もすれば誰にでもわかると思います。
そして愛のない人間は、誰にでも見下し、嫌悪される。

出会い頭の「被軽蔑感」は錯覚かもしれませんが、しばらくした後の被軽蔑感は本物としか思えませんし、建設的に行動していても、それは隙間時間の会話などで絶対わかります。

これがぬぐえない限り、絶対働く事はできないとしか思えないです。

拭おうにも、どう言われてもそうとしか思えません。


愛のない人を受け入れられるのって、そうとう心が円熟した人ではないでしょうか。
苦しいです。優しくされると、それに応じて明るい反応をしなければならない拘束感に、吐き気がします。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう 引用
No.1168 2016/03/14(Mon) 13:30:25

豊かな内面感情によって愛される事も、荒んだ感情によって嫌われる事も、
存在の善悪と地位の一つのコインの裏表・・・その不毛さを理解する事が大事、ってありますよね。

そこがわからないです。

豊かな内面感情によって人は愛されるとしか思えません。
荒んだ感情によって人は嫌われるとしか思えません。

荒んだ感情の人が建設的行動法をしているかどうか、それとも内面感情が豊かな人が
建設的行動法をしているかどうか、そのくらいの事はみればわかると思います。

そして前者は、悪だとしか思えません。その嘘こそが、強烈に嫌悪してきたものでした・・・。


 
「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」への対処^^(前) / しまの 引用
No.1169 2016/03/15(Tue) 20:46:21

とりあえず頭3つ入れて頂いたところまで見てアドバイスまとめているところですが、外面行動法の考え方と、内面感情の向き合いかなり毛色の違う話になり、話を簡潔にするのが結構難しいので2つに分けます。
まず外面行動法の考え方について。


一貫した取り組み実践手順

「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」といったものへの対処は、まずは一言でこう言えるかと。
そうした悪感情をどう直接的短絡的に解消できるかではなく、それらはただ流しながら、それとは別の前進感情をどう見出すかの取り組みになる、と。

取り組み実践手順としては、一貫したものになります。
「外面・内面・外面」じっくり取り組む。まず外面行動建設形・健康形での選択肢を考え、内面向き合い最終行動決断する。
辞典「「取り組み実践」の進め方」

上記のような、就職向かおうとする状況というテーマで言うならば、
?@自分の気がかり材料を込みにしての、職種による就職選択の考え方の適正化
?Aそれを踏まえて、自分はどうできそうかの内面向き合い
?B最終決断

という取り組み手順になりますね。
「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」どうこうしようとはするものでないことにご注意下さい。それらは何かの不合理な思考や姿勢から生まれたものかもしれないとして、まずはとにかくそれとは別に合理的な前進を見出すのが取り組みです。それができれば悪感情動揺自然と消えるかも知れないし、原因となった不合理思考姿勢分かるかも知れない。


「就職選択の考え方の適正化」

ということで、まずは最初「就職選択の考え方の適正化」ですが、「こう見られる・・」という受け身思考ではなく、これこれの職種はこれこれの能力資質などが重要となり、自分はこう行けるという、自分自身の考え方をしっかり築くことに取り組むのが重要ですね。
それで言いますと、

>営業という立場で、しかも技術的な提案などよりも、足繁く通って、接待などが大切だと言われて

は、確かそうだと僕も思いますし、それが自分には無理だと感じるのであれば、他の職種を選ぶしかない。

>システムズエンジニア職で、明るさを要求されなそうだから、という理由で選択肢に残して

は、「明るさを要求されなそうだから選択肢」にとできず設計やプログラミングなどの専門技術求められ、それが自分能力適性のあるものだと感じるのであれば、かなり向かい得る候補になる、というになりますね。

>本当の望みは、人を楽しませることで、楽しませるなんてことをお前が考えていいわけがないだろうとの言葉で、涙しました。しかし、こんな風な感情になると、人を楽しませる事なんてできるはずがない、望みに向かえないと絶望的です。

仕事はまずは、「人を楽しませる」ことを行うものではありませんね^^; 社会経済沢山役割歯車成り立っていますので、まずは自分がその中でできるものを行って、収入を得るというのが始まりになると思います。

>対人恐怖であることがバレたら、裏切り行為だとみなされて、失望、強力な怒りを向けられるに違いない、
>成長を見守る、という目線が本当にある事が信じられません、、、。

上述のように、対人恐怖があるかどうかではなく、その仕事が必要とする能力資質があるかどうか、ですね。もちろんそこに偽りがあれば、いずれやっていけなくなる。
成長を見守る目線以前としてですね。「今必要なことができるか」という目線まず基本になると思います。それをに、何が必要か、自分に何ができそうかという、自分の考え持つことが大切です。


というのがまずは「就職の選択可否」といったごく外面的限定テーマへの考え方になりますが、内面側にある「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」については、かなり大きな内面方向性選択のテーマになりますね。
それを後編また後で^^。


 
「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」への対処^^(後) / しまの 引用
No.1170 2016/03/17(Thu) 20:48:18

「心の構造の問題」

上記アドバイスコメントがまずは「就職の選択可否」というごく外面テーマへの答えの考え方として、「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」という内面感情への向き合い視点を、まずは一言でこう言えるかと。
それは外面問題に対応した感情動揺の問題ではなく、心の構造の選択の問題なのだ、と。

心の構造の選択の問題であるとは、それは抜け出さない限り、どんな外面問題に際しても同じように現れてくる、ということです。
今回就職に向かう場面。それはに、その心の構想の問題引き出した外面課題であるに過ぎない。就職という特有の課題が起こした感情動揺ではない。
その心の構造の問題があるなら、その感情動揺別の場面では、家族においても現れるだろうし、学校でも現れるだろう。さらには、特に相手を特定せず社会全体を相手現れるかも知れないし、道ですれ違う全ての他人を相手に、現れるかも知れない。
金太郎飴のように。・・という喩えいいかどうか^^; というかちょっと言葉の遊びで言ってみたかった喩え^^ゞ

ともかくまずは、感情動揺がそうして外面問題そのものへの反応というより、心の構造の問題の表出なのだというのを、漠然と、あるいはうすうすとでも感じれば、外面課題と内面感情動揺をいったん切り離して、外面課題はごく外面的行動学的な答えによって淡々とこなすという可能性も、多少は見えてくるかも知れません。
それが今回就職選択という課題については、上記アドバイスコメントのようになる、という次第です。
まこれは応急措置的段階ですね。


「愛されることを求めて相手を破壊攻撃する」という心の構造

そうしてまずはその金太郎飴的感情動揺(結局使う喩え^^)と、就職とかの外面課題切り離し後者ごく外面行動学によって対処する一方余力内面感情動揺じっくり向き合う、というのがまずは取り組み方法になると思います。

じっくり内面向き合い視点は、その感情動揺は、「愛されることを求めて相手を破壊攻撃する」という心の構造だ、というものになります。
それは「絶望感」至るのが必至心の構造だと言えます。愛されることをめ、愛されない時怒りに転じ、愛されようとしたその相手破壊攻撃することで、まさに大元愛されたいという望み自ら完全に打ち砕くのだからです。
この心の構造基本形言えるものは、人間以前の高等動物の段階すでに芽生えている、かなり本能的なものではないかというのが僕の考えです。これは『理論編上巻』
5章 「愛」と「真実」の混乱と喪失−2  −心の真実への断片−

心の真実への断片−1:怒りに変わる愛
詳しく解説していますので一読あれ。

その原稿に話したような姿「愛されることを求めて相手を破壊攻撃する」という心の構造の、まあ「本能形」呼べるとして、人間場合は多少分析的捉えることができます。変化へのとなる、意識姿勢要素などの視点でです。
・人からの愛情への欲求願望の強さ。これは未熟から始まる心の成長において健康なものです。
・怒り破壊に価値を置く攻撃性。これも未熟帯びやすいものですが、意識思考として「破壊から建設への選択」どう向かうかが、この人その後心の成長人生大きく影響します。
・「自尊心」を「愛されること」「打ち負かすこと」に置く姿勢。これも未熟帯びやすいのですが、ここにターニングポイント的心の歯車連結発生することになります。
つまり、愛情への願望から始まる心の動きが、うまく愛されない時、ただ愛されない不幸ではなく、自尊心を損なわされた、つまり「軽蔑された」「バカにされた」という屈辱反応に転じるという歯車連結です。
これが、切羽詰った状態であるほど、3つの歯車強力に回り、互いにバッティングを起こしながら連結して、自分は愛されないという屈辱憎悪収束する、というメカニズムだと言えます。

ということで、愛されない悲しみ怒り変わるのがこの心の構造「本能形」
それがさらに屈辱憎悪発展するのが「人間形」と言えます。
そしてもう一つ、そうした屈辱憎悪が、本人相手との本来の関係性とは不合理な不釣合いさ他人に向けられる姿です。無差別的な「全ての他人」向けられたり、あるいは最近の事件で言えば、告白して断られたという理由相手をめった刺しにして殺害した、予備校生の事例
詳しい考察記述省略しますが、ここには「宇宙の愛」こそが真実であり自分に向けられるべきという幻想意識、それに満たないもの「ニセへの憎悪」を、「空想と現実の逆転」の中で生み出すという、「自己操縦心性の嘘」絡むといった話になるかと。『理論編』の世界ですね。
これがこの心の構造「人間の業(ごう)形」になるかと。


抜け出し

とうことで、まず最も大きく俯瞰した時の指針は、書いて頂いたような、
「就職選択」という課題と、「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」という内面感情動揺は、全く別の問題なのだ、という一言につきます。
両者を、別の問題として向き合い対処する必要がある、ということです。

就職選択課題については、ごく外面的行動学的な答え添って対処する。
内面感情動揺は、自分心の構造への向き合いになる。

まず必要なのは、その2つの問題を分離する、ということになります。
そのために、
就職選択課題については、客観的に見た自身の能力・資質・適性によって選択判断する・・・前アドバイス内容への理解納得向き合う
内面感情動揺については、上記個々の歯車ごとに、別のものへの転換を見据える、というものになります。
感情動揺が強くなり辛くなったからといって、別のものを選ぼうなとしても無理でしょう。まずは、今までの自分の姿勢が、今の感情動揺の母体であることを、自覚することからになると思います。
そして今すぐに「選ぶ」ことなどできないとして、別の方向性があることを、自分の心の目の前にしっかりと据えることからです。
破壊攻撃ではなく、「生み出す」ことに価値を置き、愛されるために何かを演じるのではなく、ありのままの自分の現実を原点として、できることから行っていく
それを、客観的現実空想しっかり分けて、外面行動は客観的現実を相手に行うこととして始める。
じっくり書く一冊の本になるようなですが、手短に書くとそんなことになるでしょう。


ということで、残りの部分については、

>豊かな内面感情によって愛される事も、荒んだ感情によって嫌われる事も、存在の善悪と地位の一つのコインの裏表・・・その不毛さを理解する事が大事、ってありますよね。そこがわからないです。

そういう話は書いてないと思います^^; 書いているのは、絶対的な理想基準からの自己賞賛と自己嫌悪が一つの不毛なコインの表裏であり、「成長」という豊かなコインは別のものだといった^^。

>豊かな内面感情によって人は愛されるとしか思えません。荒んだ感情によって人は嫌われるとしか思えません。荒んだ感情の人が建設的行動法をしているかどうか、それとも内面感情が豊かな人が建設的行動法をしているかどうか、そのくらいの事はみればわかると思います。そして前者は、悪だとしか思えません。その嘘こそが、強烈に嫌悪してきたものでした・・・。

そういうこともあるでしょうが、「就職」「仕事」そういうテーマの場ではあまりないですね^^。「善悪」よりも、「役割」「能力・資質・適性」とかのテーマの場
先のwさん質問へのアドバイスコメント
『「焦りなく作業する技術」 本格解説^^』 しまの No.1162 2016/02/25
のようなテーマ思考法行動法扱うのが、就職仕事です。
内面の豊かさによって愛される云々といったテーマは、内面の問題として分けて、またじっくり向き合っていけばいい。それがまずはアドバイスです^^。

>客前でオドオドしたり、顔がひきつってたりしたら、最低の烙印を押されるとしか思えない。本当にあるんですか?震えたりするのを、そして他人に対して冷めた、ロボットのような声色の人間を、成長を見守るという目線が、、、、。

仕事の内容いかんだということですね。もし今そうなってしまうとすれば、まずはそれでも可能な仕事から探す、ということになると思います。そうしたどん底からのスタートという成長への目を、まず自分自身に対して持つことが人生の第一歩になります。

前アドバイス内容からじっくり検討してみて頂ければ^^。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう 引用
No.1171 2016/04/10(Sun) 17:52:07

就職、仕事はそういうテーマの場ではない、という事ですが、現在新入社員で研修をしている期間で、浮いてしまっています。当初は、「被軽蔑感」を空想として流しながら、建設的な行動を心がけていましたが、豊かな、というか当然であるともいえる、一般的な愛を持って交友関係を培ってきた同期の皆への強烈な敵意から、会話がなかなかできず、支離滅裂な発言をすでにしてしまっています。話せば話すほど、言葉につまります。目標としては、オドオドしてもいいので、敵意ではなく人に向かっていこうという態度を出そうと思っていましたが、屈辱感が強すぎて、お前の愛など必要としていないという風に装うという衝動にどうしても抗えず、誰ともあまり口を聞かずに、ピリピリした空気を出す、という態度になってしまいました。会話もどうしても受動的になってしまいます。また、そのような自分が一度人の目の中でさらされてしまったという絶望感から、研修の中で行われるグループワークなどでも萎縮した自己を出す以外の選択肢がなく・・・全員に壁をつくっているのに、作業の時だけ突然饒舌にしゃべりだすという気持ち悪さに耐えかねてですが・・・。結果的に、傍観者のような立場になってしまい、チームワークに支障が出ています。フィードバックの共有をチームで行いましたが、「もっと参加したほうがよかった」とか「ほとんど発言がなかった」という風に言われます。自分の態度が問題であると思います。なぜか、発言をしていないのに、おもいついた事を突然言って、あとは君たちが考えてくれ、とでもいうかのような傲慢な態度になってしまっています。また、どうせ嫌悪されるから、と人と目を合わす事も避けてしまい、一人一人自己紹介をして少し話す、という課題では、途中で話す事がとぎれ、イライラした面持ちで目をそらしたりしています。私はあなたとは知り合いになりたくありません、必要な情報以外の話を私にしないでください、そのくせ、自分が話したいと思った時には友好的な感じで会話をしてくれ、とでもいうかのような態度を、すでに外面印象において与えてしまったと思います。周囲は、「〜さん」という呼び方をすでに卒業し、あだ名や君付けで、業務外でも飲み会などが開催されています。「楽しみの共有」を、自分の興味がない事には一切触れない、という風に勘違いしたわけではないですが、むっとした態度で参加するのも気が引けて、このような状況になりました。学生の延長のような、ワイワイガヤガヤしたやりとりも、遠い記憶を掘り出せば、できない事はないですが、もう心がそう動いてくれません。


一度そうした形になると、そのことばかりが気がかりになってしまい、
必要な準備とかもできず、また日直などで必要な行動(鍵を開ける、朝のスピーチ)なども
上の空になってしまい、自分が何をしているのかを把握するのも難しく、それがさらに非軽蔑感のイメージになり・・・という有様です。


分かり合い認め合う事が愛だとは思っていないですが、自分自身は宇宙の愛が与えられるべきであり、理解されるべきであるという論理の感情はありますね。

困るのは、周囲の話を聞いているとやはり、「分かり合い認め合う」ことによって関係を築いてから、「喜び楽しみの共有」をしているように思えることです。
なんというか、「喜び楽しみの共有」というと、相手と自分との間にある対象物でのみのつながりに終わるという感じがします。僕自身、その方が気が楽です。初対面、その場限りの関係ならそれで全然楽ですね。しかし、実際には、それを通して相手自身に興味を持つ、そして相手の個性「〜さんは〜なところがあるからなぁ」といったやりとりによって交友を作っているパターンが多いです。

「分かり合い認め合う」事について、健康な人は、そこまで闇を抱えていなければ、
あるある〜という形で、深刻でないレベルの辛さや苦労などの「認め合い」で仲を深めているように思えます。


●それは外面問題に対応した感情動揺の問題ではなく、心の構造の選択の問題なのだ、と。

については承知しています。選択・・・難しいですね。


 
具体的場面ごとの行動課題・「人の内面感情の健康形」への理解^^ / しまの 引用
No.1173 2016/04/17(Sun) 10:27:45

具体的場面ごとの行動課題で考える

>就職、仕事はそういうテーマの場ではない、という事ですが、現在新入社員で研修をしている期間で、浮いてしまっています。

そうですね、取り組み実践としては、
・具体的場面ごとの行動課題を正確に把握する
・外面行動法の答えを知るだけではなく、そこでの人の内面感情の「健康形」についても理解する

というのが重要になります。
それによって、「自分は浮いてしまっている」といった感情動揺場面において、外面行動の答え見出す同時に、そうした内面動揺単に押さえつけるのではない向き合い生まれてくると思います。

まず「具体的場面ごとの行動課題」について言えば、研修中グループ演習課題の時間と、それ以外親睦のための時間とは、行動課題違ってきます。
前者の場合は、それこそ完全「親愛」「浮く、浮かない」切り離して、演習課題の内容そのものをテーマにする必要があります。それをしっかり押さえることでグループ活動をこなし後者親睦時間では行動がうまく取れず浮いてしまうというのを、何とか補えるというのが、僕自身の経験を踏まえても、向かうことができる路線になると思います。
まあ前者(演習課題)については答えがすぐ出せるが、後者(親睦行動)生涯の歩みを通して自分なりのものを模索するしかない、というようなものになるというですね。だからこそ、後者巻き込まれず前者取り組みまずこなし後者取り組みへの足場にもしたい。
このアプローチ全体感よろしいでしょうか。


「投影」「外化」への注意

「人の内面感情の健康形」については、ずばり、「人の内面感情」として自分が感じ取ったもの信じ込まないこと、そして人の内面感情というものを画一的に考えないことが重要です。
ぜひ注意したいのは、「人の内面感情」として感じ取ったものが「ありありと見える」かのように感じるものほど、「妄想」という性質を帯びている可能性があることです。

これは「投影」「外化」などと呼ぶ心のメカニズムで、自分の心の内部の感情を他人に映し出して感じ取るというもの。
解説としては以下などがありますね。初期の原稿の方が扱っていますが、
『「自己建設型」の生き方へ』収録6.対人関係を阻害する「外化」
理論編上巻 6章 「自尊心」の混乱と喪失−1「「荒廃化」と「外化」の中で進む心を病む過程」パラグラフ
など、時間の折一度じっくり読んで頂ければ。


「人の内面感情の健康形」への理解

そうした心のメカニズム留意しながら、さらにより大きな視点から、「人の内面感情の健康形」を理解するためのポイントは、次の3つの観点からして、人の内面感情を外見様子などからそう簡単に推し量れると考えない方が良い、そして感じ取れたと感じたものを信じ込まないのが良い、というものになります。
つまりまあ、「人の内面感情の健康形」を理解するとは、人の内面感情は自分にはそうは分からないものであることを理解するのがポイント、ということになりますね。

3つの観点とは、人の内面感情を人が感じ取ることについて、一般に言えること「未熟」の影響「病み」の影響です。
それぞれごく手短に書きますと、

一般に言えること・・・人の内面感情本来「見えない」ものであり、それを感じ取るというのは「空想」に過ぎない。まあ完全にそうは言えない面あるかも知れないが、人の内面感情比較的正確に感じ取るのが可能なのは「痛い」「心地良い」「暑い」「寒い」「旨い」「不味い」といった生理的感情であり、複雑な社会行動場面での感情といったものになるにつれて、人の内面感情正確に感じ取るのは難しくなる。

「未熟」の影響・・・人の内面感情感じ取ることが可能なのは、自身が体験して「知っている感情」の範囲だけにおいてであり、この点で、「未熟」段階の心は、より成長成熟した段階の心の感情を「感じ取る」ことはできない

「病み」の影響・・・心の病みの程度比例して、「空想」を「現実」と思い込む程度、つまり上記「投影」「外化」によって「感じ取った他人の内面感情」「事実」「現実」だと信じ込む度合い強くなる。

ということで、

>豊かな、というか当然であるともいえる、一般的な愛を持って交友関係を培ってきた同期の皆

や、

>出会い頭の「被軽蔑感」は錯覚かもしれませんが、しばらくした後の被軽蔑感は本物としか思えませんし、建設的に行動していても、それは隙間時間の会話などで絶対わかります。
>荒んだ感情の人が建設的行動法をしているかどうか、それとも内面感情が豊かな人が建設的行動法をしているかどうか、そのくらいの事はみればわかると思います。

については、人の内面感情についてあまり画一的考えず、結局人がどう感じているか分からない面がある、と割り引いて考えるのがお勧めになります。


「無感情」「淡白」が健康形

そしてこれも僕自身の経験を踏まえて、「内面感情の健康形」とはこんなものもある、という知識出すならば、結構、相手人物については特に意識していない、何かを感じていない(別のことにもっと興味がある)というのが、かなり言えると思います。「荒んだ感情」でもなく「豊かな感情」でもない、「無感情」「淡白」(^^;)基本だったりもする。でないとすぐ疲れてしまいますね。
仕事のような不特定相手場面では落ち着くごとに感情は揺れなくなり、濃い感情家族恋人など重要な相手との関係で持つ、というのが「健康形」一つ参考基準になると思います。
つまりまあ、今の僕もし新しい仕事場研修などに置かれたら、回りの人荒んだ感情か豊かな感情かなんてものは意識しない、というようなとして参考にして頂ければ。

ただしそうした「健康形」考えることで動揺をなだめる、というアプローチではありません。あくまで、人がどう感じるだろうからではなく、自分としてどんな問題にどんな向かい方をするかという、課題解決への揺らぎない思考法行動法築くことが取り組みになります。人がどう感じるかについても、それを映す形で、より落ち着いた感じ方ができるようになると思います。

そんなものとして、上述のように、まずグループ演習課題の時間については、演習課題の内容そのものをテーマにするというのが、僕から提案アプローチです。
演習課題の内容を書いて頂ければ、成果物考え方など、より具体的なアドバイスもできるかも知れませんね^^。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう 引用
No.1174 2016/04/17(Sun) 20:15:59

グループワークそのものの課題については、そこまで困っていません。むしろ、グループワークがはじまるまで、全く相手との関係を築いていないのに、グループワークになると饒舌にはなしている事への違和感を持たれる事に困っています。
繰り返しますが、これがインターンシップや、一時の集まりなどであれば別ですが、今後も研修は長く続き、その後も情報交換が出来る事が望ましいです。

僕としては 会話が苦手なら苦手なりに、共通点を見いだす事、相手に、どういう人間なのかの一貫としたイメージをもってもらう事は、その場限りではなく、今後も付き合いのある同期として最低限必要だと思います。

トイレですれ違ったり、休憩時間に、目を反らして口をつむぐ態度は、明らかに問題ありますよね。


個々によって、コミュニケーションのスタイルが違うという事は、今更だけどよくわかります。
淡々と共通の興味について話しているようなコミュニケーションが好きな人もいれば、二言目には冗談をいうようなコミュニケーションが当たり前の人もいます。その人たちがお互いにプライベートでずっと過ごす事は考えづらく、そのような中でも最低限コミュニケーションをとって円滑な関係を築くものだと。



ところで、嘘のない自分、を考えると、
幼稚園児のようにコミュニケーションをしたいというのが出てきますが、これはどう捉えたらいいのでしょうか?

具体的にいうと、意味不明な言葉を連呼したり、
牛乳のみまちゅ!とか、おいちいね!とか。
相手にもそんな自分を笑って欲しいとかではなく、
当然のようにそれに応じて欲しいと。


もちろん頭には、そういう言葉を発する事を冗談と捉えて「何言ってんだよ笑」「馬鹿じゃないの笑」という思考が浮かびますけど、それは周りの人と円滑にコミュニケーションをとるために用意された思考です。

その下には、やっぱりそういうやりとりが一番自然体だ という感覚が控えているんです。


えー!すっごおい!やったあ!うれしいい!



とか、感情強制をやめようとすると、
すごく稚拙な自分が出て来るんです。
口をつむいで、まわりの様子を伺いながら、はにかんだ笑いを浮かべるような。


同時に、その感覚の中にいると、周りの同じくらいの年齢の人を、すごく年上に感じるんですよね。
お姉ちゃん、お兄ちゃん、遊んでよ!みたいな感じです。
当然、同い年で大人同士の遊びなわけですから、
そのような態度ではいられません。


その自分への強烈な否定感、絶対外に出してはいけないという拘束感があります。年齢相応のコミュニケーションをとるためには、年齢相応の笑いのツボを把握して、そこで笑ったりしないと、話になりません。けど、それが嘘だとしたら?
僕はどうコミュニケーションを取ればいいのかさっぱりわからなくなってしまいました。
そしてそんな自分に一番困惑するのは周囲でしょう。


 
「応用思考」の実践^^ / しまの 引用
No.1175 2016/04/26(Tue) 10:34:50

ちょっと遅くなりました^^ゞ

>ところで、嘘のない自分、を考えると、幼稚園児のようにコミュニケーションをしたいというのが出てきますが、これはどう捉えたらいいのでしょうか?
>年齢相応のコミュニケーションをとるためには、年齢相応の笑いのツボを把握して、そこで笑ったりしないと、話になりません。けど、それが嘘だとしたら?僕はどうコミュニケーションを取ればいいのかさっぱりわからなくなってしまいました。

これについてはまさにアドバイスした通りです^^。
具体的行動場面課題ごと考えます。そこで自分として本心からこれが行動法として適切だと思える答え出せたら、それは「嘘」というものでもないでしょうし問題ないと思います。
問題そこで考えた行動法が、ハイブリッド心理学が考えるもの方向を共にするか。たとえば仕事場面であれば原理原則的なもの望ましいし、交友場面であれば、「喜び楽しみの共有として向かい、それが見出せないのであれば孤独を受け入れる」、です。

ただし内面においては、望み思いっきり開放する。これについては、
『実践詳説』
10章 「自らによる心の成長」と「人生の前進」の歩みへ

人生の前進と「望み」への向き合い
パラグラフ後半
===========
一般「欲求」「衝動」「願望」「望み」といった心のエネルギーの感情は、「これは感じていい」「こんなものを感じてはいけない」という風に、それが湧き出ようとするところ「検閲」し場合によって「抑圧」するというのではなく、まずは湧き出るままに、心の中で思いっきり開放することが、心の健康と成長にとって良いことであるのは言うまでもありません。・・(略)・・
===========

以降部分(P.175-176)読んで頂くと良いでしょう。

まあ指針的なものとしてアドバイスできるのは、上もそうですが恐らく既出紋切り型アドバイスになると思います^^; それで考えるとどうなるか、という「応用思考」実践して頂くと、前進つながると思います^^。これは
『メール相談事例集』
はじめに・「取り組み実践」とメール相談 / 自己独力での「学びの応用思考」へ
などご参考^^

いずれにせよ具体的場面ベースご質問頂けれれば、また懇切具体的アドイバイス返せるかと思いますので^^。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう 引用
No.1178 2016/05/05(Thu) 22:02:51

場面ごと・・・ですか。
個人的には、「内面が成熟していない」事によってそういう風になるのだろうな、と思っていたので、それは外に出す感情(感情というか表現?)ではなく、内面にとどめておくものかと思ったのですが、、、。


それから↓

同時に、その感覚の中にいると、周りの同じくらいの年齢の人を、すごく年上に感じるんですよね。
お姉ちゃん、お兄ちゃん、遊んでよ!みたいな感じです。
当然、同い年で大人同士の遊びなわけですから、
そのような態度ではいられません。


の部分についてハイブリッド心理学から何か解釈はないでしょうか?


2chのスレッドでも、「心が大人にならない病気」だかなんだかのスレタイで、
ひたすら小さな子どものような発言を羅列しているスレッドがあり、
ああ、こういう人も多いのだなと、非常に共感しました。


 
「幼児返りした愛情欲求」への向き合い^^ / しまの 引用
No.1181 2016/05/19(Thu) 06:55:43

>お姉ちゃん、お兄ちゃん、遊んでよ!みたいな感じです。当然、同い年で大人同士の遊びなわけですから、そのような態度ではいられません。の部分についてハイブリッド心理学から何か解釈はないでしょうか?

「幼児返りした愛情欲求」とでも呼べるものになるかと。

やはり「感情と行動の分離」で、「内面感情はただ流し理解する」ですが、そこから自分対人行動なり人生の生き方なりの前進への決断つなげることが重要になります。

>2chのスレッドでも、「心が大人にならない病気」だかなんだかのスレタイで、ひたすら小さな子どものような発言を羅列しているスレッドがあり、ああ、こういう人も多いのだなと、非常に共感しました。

まずありのまま「ただ流す」。それで似た人共感するのはいいとして、「で、どうするか」ですね。そうした人達コミュニティ作って一緒に遊ぶのをこれから交友活動とするか。そうした決断つなげていく。
そうした前進決断際して、心の健康と成長向かうために理(利)にかなったものか否か考えるものとして、「ただ流す」の次の「理解する」来るわけですね。

「健全性」「有用性」2つの視点になると思います。
「健全性」・・その願望欲求衝動は、健全なものか。それとも歪みや病みを含むものか。
「有用性」
・・その願望欲求衝動は、自分の生活と人生前進のための行動に、役に立つものか行動化して良いものか
まあまずは、最初の視点「歪みや病みを含むもの」は、次の視点大方は「ノー」になると思います。
一方、最初の視点「健全なもの」あっても次の視点「ノー」になることもある。たとえば血気盛んな若い男満員電車薄着うら若き女性密着した時、ムラムラっとするのは健全(^^;)だろうが、行動化してはマズい

「幼児返りした愛情欲求」については、
まず「健全性」は、幼少期の純粋なその感情心の中で蘇るようなものは、健全な範囲でしょうし、それが「魂の愛への望みの感情」であれば向き合うことにとても意義がある感情だと言えるでしょう。
一方、歪みを帯びてくるものとしてまず考えられるのは、同年代対象との対等な友愛築くことへの深刻な障害がある場合に、穴埋めのようにそうした衝動への執着とそれによる膨張起きてくる、というものです。そうした「障害」「執着」「膨張」といったものの度合いが、「病み」度合い言えるものとしてです。
一方「有用性」は、歪みを帯びたものはもとより、健全な範囲のものであっても、もちろん持ちえませんね。少なくとも成人望ましい行動としては。
ただまあ同じようなメカニズムで、性欲対象が異性人物ではなく異性が身に着ける物品などに執着する「フェティシズム」などに比べ犯罪行為につながる危険度少ないと感じますね。まドン引きされる程度^^; 相手健康な成人である限り。

ということで、

>場面ごと・・・ですか。個人的には、「内面が成熟していない」事によってそういう風になるのだろうな、と思っていたので、それは外に出す感情(感情というか表現?)ではなく、内面にとどめておくものかと思ったのですが、、、。

は、そうした幼児的感情はもちろん、内面にとどめるものになります。
重要なのは、その上で、自らが行動化し得る別の感情なり意志なりを、どう見出すかです。
それが場面ごとの、細かい学び向き合い模索試行錯誤の、積み重ねになります。
まあ一言で、
内面の問題感情の解釈は人(島野など)に聞けば一定の答えが出るが、前進への感情は自分自身で見出すしかない、一定の答えなどないものになる。その答えは問題感情の理解の中にはなく、問題感情を流し理解しながら建設的な行動を自分自身で模索する向き合いに立つ、足元の強さから生まれる。
などとアドバイスできますね^^。



(No Subject) / w 引用
No.1161 2016/02/19(Fri) 18:34:05

 結果を意識せずに作業に集中する具体的な方法について解説いただけませんか。
 「焦りの解除」の記事で、出来た結果に意識が集中すると、目の前の作業がおろそかになる旨書かれていたと思います。自身、まさしくその状態であり、作業が少し進むたびに、「まだこんなにも残っている」、「もうあと少しだ」と、自分を鼓舞しながら作業を進め、へとへとになって作業を終えます。
 そのように焦って作業をした場合、一つ一つの作業内容がおろそかになり、いつのまにか作業目的がただ「早く終えること」になってしまっているのを感じます。その結果、再度やり直しが必要になったり。
 一つ一つの作業を丁寧にやるほうが結果的には効率的かもしれないですが、とりあえず早く終えて安心したい、という気持ちのほうが勝り、気づいたら作業に集中出来なくなって、「あーまだこんなにある・・・」とやる気がなくなってしまいます。
 自分としては、全体の作業の半分をとりあえずの目標にしてやるようにしています。半分を終えたら後は気分的に楽で、ゴールが射程に入るからか、作業がゴールというご褒美に向かって加速するからです。100やることがあれば、とりあえず50を目指す。50を目指すに当たって、25を目指す。25を目指すに当たって、13を目指す。13なら2時間程度でできそうである。その時点で着手する。ただ、13を終わった時点で、100を意識してしまって、「あーまだこんなにある・・・」と思い、不安が大きくなり、作業が手につかなくなってしまう。
 ただ、「全体を見て、今の位置づけを確認することも大事」とも思うので、作業に集中するだけなのもいかがなものかなとも思います。
 具体的な方法論を提案していただけるとありがたいです。


 
「焦りなく作業する技術」 本格解説^^ / しまの 引用
No.1162 2016/02/25(Thu) 10:43:57

「焦りを解除して落ち着いて作業できる技術」といったテーマになりますね。
僕自身仕事経験なども踏まえて、本格解説など^^。


「焦らず集中して作業できる技術」の3段階要件

まず書いて頂いた状況考慮して、まず理屈まとめますと、3段階要件になる、ということになるかと。
1.一つの作業ごとの、自分なりの高品質な作業手順と必要時間の積もりを確立する
2.適宜の進捗管理による調整
3.その作業そのものに面白みや価値などの魅力を感じられること


1つ目「高品質な作業手順と時間積もり」よろしいかと。「これじゃーやり直し!」ならないよう、不具合なく高品質にその作業をやるための、自分なりの作業手順の工夫を、自己点検なども含めて確立し、一つの作業でおおよそどのくらいの時間必要かの目安持つ
ノウハウ的なポイントとしては、全速力でそれをやった場合の最短所要時間と、余裕を入れてそれができる通常所要時間という、2つの数字把握するというのが、「進捗管理」重要になってきます。

2つ目「進捗管理」は、ある程度大きなくくり作業の進み具合計画実績比較チェックして、があればそれに応じた調整行うものです。
例えば遅れが出ていたらスピードアップ、それでも挽回が難しいようなら、最終成果の目標「下方修正」したり「延期」したりする。予定より進んでいたら、後ろの作業余裕を多めにいれる、あるいは最終成果の目標「上方修正」したり「前倒し」したりする。
ここでのポイント2つ
まず「計画」上記「時間見積り」の、「通常所要時間」を使って計算します。これをカッコつけて(^^;)「最短所要時間」を使って目標を立てるのが、最終的な失敗が火を見るより明らかな、経験不測の人やりがちなものです。
そしてもう一つがまさに「焦らず集中して作業できる技術」になるものですが、こうした進捗管理調整作業は、そもそもの作りこみ作業とは完全に切り離して別に行わなければならない、ということです。
これをまさに、作りこみ作業が進捗管理調整作業を伴うものであるかのように行うのが、作業に落ち着いて集中できず、焦りによってミスを頻発しやすい作業姿勢です。最終結果目標間に合うかどうかが気になり、作業そのものに集中できなくなる。その結果ミスも起きやすくなり、間に合わない結果を招く。
書いて頂いた状況が、まさにこのやり方やってしまっているものかと^^。それを、適宜「進捗管理タイム」本来の作業とは別途で入れるようにすることで、「あとこれこれの間はこれこれのペースでやればいい♪」という安全線見極めることで、その「あとこれこれの間の時間」は、もうほとんど進み具合結果については心配することなく、本来の作業そのもの、つまり上記1で確立した自分なりの作業手順に専念した作業が、可能になるわけです。

ですので、

>結果を意識せずに作業に集中する具体的な方法について解説いただけませんか。

というご質問言葉尻(^^;)を取り上げて正確に言うなら、「結果を意識せずに作業に集中する方法」なんてものはない、というのが僕からのアドバイスです。
あるのは、「これで行けばよい結果になる」という意識に守られて、作業に集中できる、ということです。そのための技術として、「進捗管理」というものがある、と。
それは本来の作りこみ作業とは完全に切り離して行う必要があるというのが発展して、大規模なITシステム構築などにおいては、「進捗管理担当者」というのが開発技術者とは別に設けられるようにもなったりする次第です。

まずは以上2つのポイント「自分なりの作業手順と所要時間見積もり」「進捗管理」が、「結果をいったん気にせず落ち着いて作業に集中」できるための技術になりますね。
あとは、その作業多少とも面白み感じられるか。でないと、意識が結局、作業そのものよりも、いつ終わらせられるか・・という結果の方ばかりに向かってしまう。まこれはもう問題作業集中の意識技術ではなく、その仕事への適性あるかどうかというですね。今回のご質問テーマとはもう別のものですが、一応検討事項としてはそれがある頭に入れておけば良いかと思います。


具体例

具体例として、僕ならこんな仕事の進め方をする、というのを考えてみましたので書いてみましょう。
たとえば玩具のぬいぐるみ作成バイトパーツはできており最終縫製を行う。月から金9時から5時まで、昼休み1時間1日50個ノルマにて、最初の1週間見習い時給1,000円で、残業代はないが、1日50個よりも多く作れるようになれば自給アップも。ただし検品担当者不具合見つけたものはマイナスカウント、といった条件想定しましょう。

まず最初の1週間で、ミスなく1日50個作れるかトライです。一通りの作り込みをして、出来上がった不具合が出やすい部分について自己点検までして終了最初パーツをあべこべに付けてしまってやり直しとか繰り返しながら、やがて何とかミスがない形で作れるところまで習熟する。
ここでタイム計測8分かかる。余裕を含めて1個10分とすると、1時間6個、7時間作業42個
これではノルマ達成できないことになります。作業手順手先の動かし方工夫重ね6分でできるようになった。では1個8分計算してみると、1時間7.5個、7時間作業で52個これで行けそう、と。
これが3日目として、4日目には一日の作業配分検討、としたいところです。午前3時間午後4時間として、とりあえず午前20個(7.5*3=22.5)午後30個(7.5*4=30)とするか。チェックポイントを10個ごとに置くことにすると、午前10時半昼休みに入る12時午後2時半4時と・・あれっ終わりがうまく合わない。これは午前に余裕多目の20個を基準に計算したせいですね。
仕切り直して、午後3時ティーブレイク10分ほど取る習慣のようなので、午前22個(7.5*3=22.5)午後ティーブレイクまで2時間15個(7.5*2=15)残り2時間弱13個、をまずは指標にすると良いだろう。うん、これで決着、と。
あとは「進捗管理」どんなタイミングでやるか。まあなら、こうなればもう何個単位でというより、エクセルとかで1個目から50個目(さらにプラスもあり)ごとに、予定時刻あらかじめ埋めておき、実績時刻ブランクにした印刷して、一つ作ったごとに時刻を実績記入、というやり方を考えますね。予定時刻8分刻みで、まずは落ち着いて作業して7分くらいでできるペース基準にして、予定時刻との差異に応じて、次の一個もう少し早いペースで、あるいはかなりゆっくりでも大丈夫意識の上取り掛かる
これで作業していって5日目にはもうかなり落ち着いたペースで午後5時少しまえに50個作れるようになってれば、「おっ島野くん十分行けそうだね♪」とも言われる状況になるという算段
計画の立て直し発生部分なども含め、僕ならという思考過程例そのまま書いてみました^^。

ということで、上記例でも次の一個このくらいのペースでやればいい「意識の上」、と強調したように、「結果を意識せずに作業に集中」なんてことは全然ないんですね。「これでやればいい結果になる」という意識によってこそ、あとは結果を心配することなく、作業に集中できるということです。
ということで、「自分なりの作業手順と所要時間見積もり」「進捗管理」確立が、方法論です。
そこにおける「数字の確度」「チェックのタイミングの最適化」こそだと言えます。

なおそれこそ本当「結果を意識しない集中法」、たとえば時限爆弾解除作業恐れずできる強靭な精神鍛え方、なんてテーマハイブリッド心理学範囲外になりますのでご了承あれ。ま僕自身軟弱でひ弱な神経の持ち主自負しており(自慢できる話ではない^^;)、それでも焦り怖れ根本克服できる、というのを探求した結果ハイブリッド心理学になりますので^^。

検討頂ければ。もし上記例とは大分異なる種類作業についてということであれば、どんな作業かなど書いて頂ければ、それについても僕ならこうするという例をあげてアドバイスできると思いますので^^。


「仕事の普遍的スキル」

付け加えれば、上記の話「仕事の普遍的スキル」一つですね。作業への習熟過程と進捗管理を自分で構成できること。
こうした「仕事の普遍的スキル」身につくと、社会にある大抵の仕事こなせるようになってきます。このやり方で、一日の大半の時間を使ってもしまう「仕事」というものを、どうせやるならよりやりがいのあるものへと向かうのが、人生一つの大きな側面になりますね^^。



(No Subject) / こたろう 引用
No.1159 2016/02/09(Tue) 22:43:53

最近は、 「望みを抑圧し、立派である事を目指す事によって何か立派な人物に愛され、すべての苦しみが帳消しになる」という価値観に気づきました。
これは、父や祖父を想定している部分が大きかったです。

父や祖父は、否定価値を持ち、自分を否定して、立派である事をしたときに評価くれるように見えました。

同時に、二人が両方とも、優秀でありながら人と解け合えない苦しみを感じているように見えました。
人に対して強がっているのは、弱さであり、望みを抑圧しているからであるようにみえました。


立派な人物に愛される事で、そのために被ったすべての苦しみが帳消しになる魔法を求めていたのだ、と思いました。
父も祖父も、自分の人生に精一杯でありながら、自分も幸せに出来ていない、弱い人間でした。
愛というベクトルでは、未熟だったんです。
彼らに愛されて、そのために被った苦しみを帳消しにしてもらう事は不可能でした。


そして、彼らを超えるより立派な誰かにも、それは出来ないのだろうなと思いました。
それがあると思いたい、というのは、宇宙の愛を世界に求めた世界観の結果だと思います。
宇宙の愛を望む自己に入り込み、その中から世界を見つめてみました。電車では個々人が個々人の人生を生きていました。その部分に入ると、それが衝撃的な事実に感じられました。全ての他人が自分のために生きているはずなのに、だれも自分の事を見ていない。
日常意識では当然だと思っているのに、その部分に入ると、軽くパニックになります。

それを完全に受け入れたわけではないですが、
それをきっかけに、他人が自分の高貴な苦しみを評価して、それを帳消しにする事なんてありえないんだ、と感じるようになりました。

それは、内面の苦しみを帳消しに出来ないのと同時に、外面においての物理的な援助も、否定価値によって自分をむち打っている事を評価して僕に与えてくれる人はこの世界にはいないのだと。

今まで騙されつづけていた。立派であれば、自己否定していれば、幸せにしてやる、と言われていると思っていた。
しかし、それができる物は存在せず、ただの虚構だったんですね。


見渡せば、自分を否定して別人を演じる事を全く求めておらず、ありのままの自分でいる事を子供に対しての一番の望みとしている人もたくさん存在すると、今は思います。
否定するどころか、否定せずにいる事を求めている人もいるのだ、と考えると、そんな中で生きられたら、どんな自分でいられただろうと。
そんな自分は、腹の底に生きていて、これからこの押し込められた自分を、表舞台に引き上げられるなら、何て素晴らしいことだろうと。

僕は、否定する事自体が立派であるという空気の中にいて、それを自分の生き方として受け入れた。それによって、自分自身が押し込められる事を正しいこととし、押し込めた側の作られた自己で人間関係を作ってきてしまった。非常に悲しいです。


過度に自己否定を誇張したり、普通という基準に従って自分を攻撃するのは、少し和らぎました。
それによって評価してくれる何かがもはや虚構に思えるからです。

自分が汚れてしまっていても、自己否定や、人の中に入って望みに向かう事を、望む資格によって断ち切る事で、自分を幸せにしてくれる誰かがいないなら、
多少他人の迷惑になっても、望みに向かうのだと。



ここまでが最近の内面向き合いの進捗です。


ここから、行動の質問に入ります。


僕の中で、困っているのが、

1.人の世話になるのが怖い。
2.謝罪の時には罪悪感や自己否定がどうしても必要に思えてしまう。


という二点です。

1については、一定以上人の世話になるのが怖いです。
一定とは、感情をこめた感謝をしなければならないくらい、です。
例えば、1日で終わるような集まりで世話になったり、お金を払う形式的なセミナーなどでは、あまり恐怖は感じません。ありがとうございまーす。と軽く言えばいいし、そのくらいの感情は持っていると思えるためだと思います。

しかし、何日も世話になったり、お金を払わずに色々な世話を受けたりするのは、健康な心を持った人物であれば、ありがとうございますに感情が強くこもるのがわかるので、それが自分にないことにまず苦しくなり、かつそれを感謝する相手に見取られて人でなしだという目を向けられ、嫌われる、、、そしてそれに対して反発しようとする自分の心、、、といった状況です。
特に、世話になった側が複数で、その中で自分以外の人間が非常に感謝の気持ちを感じていて、表明している時に、その中に自分がいると、もうどうしていいのかわからなくなります。


感謝の気持ちが沸かないのは、やはり根底に宇宙の愛を求めている気持ちがあるからだと思います。
どれだけやってもらっても、やってもらって当然なのです。それどころか、たくさんやってもらうほど、実際には感謝を要求されているようで、感謝しなければならないという事がむしろ相手への敵意としてより強くなるようです。


行動法としては、自分が嫌にならない程度に、相応の感情を作り出して、それをこめて感謝を表します。
それが現状です。


2については、先日車をぶつけるという事件があった事からテーマにあがりました。すぐに、罪悪感を作り出して、表現しようと言う風に心が動きました。
罪悪感は作り出すものであり、実際には、ないんだと思います。めんどくさいな、何をしても許されるはずなのに、とこちらも宇宙の愛を求める気持ちが根底にあります。
ハイブリッド心理学では、罪悪感については、リカバーする行動が大切であり、自己否定は重要ではない。という事だったと思います。

罪悪感については、相手が自己否定感情を反省ととらえていて、それを見ることによって気が晴れるという人物だった場合には、有効だと思いました。

それなしに、リカバーの行動をするのは、
これやっときゃいいんでしょ?といった風にとられるとしか今は思えず、結局行動と共に自己否定感情を強く強制する形になってしまっています。


これについてはどうでしょうか。


 
「気後れ」「罪悪感」などへの取り組み実践^^ / しまの 引用
No.1160 2016/02/17(Wed) 18:14:20

>他人が自分の高貴な苦しみを評価して、それを帳消しにする事なんてありえないんだ、と感じるようになりました。
>今まで騙されつづけていた。立派であれば、自己否定していれば、幸せにしてやる、と言われていると思っていた。
しかし、それができる物は存在せず、ただの虚構だったんですね。

>自分が汚れてしまっていても、自己否定や、人の中に入って望みに向かう事を、望む資格によって断ち切る事で、自分を幸せにしてくれる誰かがいないなら、多少他人の迷惑になっても、望みに向かうのだと。

「成長」、とくに「心の自立」向かう中で、感じ方変化出てくる一こまですね^^。

さらこんな目線も加えるいいかも、というのを言っておくなら、それそのように「騙された」のですらない、ということかも知れませんね。人が騙して押しつけたのではなく、自分自身でそうした虚構の世界観を解釈して、自分自身に押しつけていたのでは、と。
まこれは「言われていると思っていた」という言葉多少とも含まれているかと^^。
いずれにせよ、人にどう言われていると思うこと、さらには実際人に言われる可能性もあることを超えて、自分自身の生き方思考確立することが重要になる、と。
で、

> ここから、行動の質問に入ります。僕の中で、困っているのが、
1.人の世話になるのが怖い。
2.謝罪の時には罪悪感や自己否定がどうしても必要に思えてしまう。
という二点です。


それは行動の質問ではなく、感情の質問になってますね^^;・・というのはいいとして、それはまさにかなり細かい「行動法」問題になってきますね。
「行動学」です。

ハイブリッド心理学取り組み実践としては、具体的場面内容の、かなり詳細レベルでの検討になります。
「人の世話になる」「謝罪の時」といった大きなくくりではなく。
上の
>多少他人の迷惑になっても、望みに向かうのだと
というくくりにも関係してきますね。実際何をどう行動できるか。

「気後れ」「罪悪感」などへの取り組み手順としては、以下の通り。
1.行動法検討・・・社会行動として、また自己の成長のために、妥当な行動法はどうなるかの検討。
2.感情の健全形の想定・・・その場面で、健康な心であればどんな感情の揺れの範囲になるかを想定してみる。
3.自分の内面感情の分析解きほぐし・・・健全形を超えた感情動揺があれば、その原因を自己分析する。


まず最初1.行動法検討としては、
「人の世話になる」というであれば、どん間柄においてどんな世話になる範囲であれば、社会的に問題ないものであるか。また自分人生設計においてそれがどう必要かといった視点から、具体的場面内容についてじっくり検討します。
「謝罪の時」というであれば、相手にかけた迷惑や害というのものが、実際社会的に言ってどのように重い害なのかそれとも実はそうではなく各自の自由な権利の行使のことなのか、といった「害そのものの把握」、そしてそれに基づいて、「適切な謝罪および補いの行動法」どうあるべきかといったことへの、まず自分自身の考えをしっかり持つこと、そして実際社会においてそれが信頼されるものになるよう、洗練させていくことが人生の取り組み課題になります。

いずれにしても、「社会行動の原理原則」思考が、極めて重要になります。
その「原理原則」が、いかにこの社会において正しく、信頼されるものなるかです。でないと、自分は正しい意識の表面では考えながら、独りよがりで、社会行動としてうまくいかず心の底自分は社会でうまく行動できないという不安抱えたままで生きてしまいます。

ということで、まずは一にも二にも具体的行動場面内容に応じた社会行動法の検討取り組み入り口になります。
それが方向性ほぼ決する
2.感情の健全形の想定についても、どんな社会行動法健全で合理的考えるかで、おおよそ方向性出てきます。
そしてそれが自然と、3.自分の内面感情の分析解きほぐしにつながっていく。

ということで、「人の世話になる」についても「謝罪の時」についても、より具体的内容場面に応じて、上記検討手順にて何か取り上げたいものがあれば、さらに具体的アドバイス可能かと思います^^。

まあ完全にそうだったのですが、難解な心理を問うまでもなく、若く未熟とは概して人の世話にならざるを得ず迷惑もかけがちながら素直に感謝や謝罪ができないものなので、自分の未熟に腹をくくって上述の地道な取り組みに向かうが勝ちお勧めできますね^^。



社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / こたろう 引用
No.1133 2015/11/05(Thu) 17:05:06

ハイブリッド心理学では、存在する(ように思える)レールでまずは仕事をする事により、この現実社会というジャングルを知る事、
まずその中で生きていく自信をつける事がスタートであるという論調があり、
それぞれの唯一無二の生き方というのは望ましいが、そうやって枠組みを作り終えた先に、心が現在の仕事に全く
向かわなくなる事を皮切りに、始めざるを得ない事である、とあります。

これは、仕事というものが何か平準化できるスキルによって、おおよそ同程度の教育を受けた人物ならば
代替できるものが多数を占めているという事が前提であるように思います。

最近、人工知能についてさかんに取り上げられています。何冊か本を読みました。
日本は比較的遅れているようですが、米国ではすでに自動化の波がホワイトカラーにも押し寄せているようです。
人工知能が、価値を生み出す過程で発生する、大量のデータをもとにしたリサーチ、情報を加工する事、伝える事、
理知的に相手の言っている事をくみ取る事、相手のニーズを把握する事、などの面で、平均的な人間の能力を上回るように
なってきているという事です。

ざっくりいってしまうと、「理知的な能力が必要とされる課題に対して、より早く正確でミスのない思考、分析、対処をする」事においては、
すでに人工知能に席を奪われている仕事が発生していますし、こうした性質の仕事はこれからどんどん奪われていく事は
間違いないと思います。

さらに、ロボットのハードの部分も進化しています。
3Dプリンターや、ロボットアームなどは、センサー技術の進化と共に、どんどんミクロな物を扱えるように進化しています。
これによって、空間認識力と肉体の動きを組み合わせた能力が必要とされていた、物理的な課題に対処する能力もどんどんアップしているといえます。


そんな中で、僕が考える今後も人工知能に代替されない仕事は以下のようなものです。


第一に、生み出される価値そのものに人間である事の意味が存在しているものです。消費者としては、対象となる人間そのものが商品であり、それが
コンピュータおよび機械になった場合、多くの人が「価値を感じる気持ち」を抱かなくなるであろう、と推測できます。
アスリート、ミュージシャン、ドラマや映画や舞台の俳優、お笑い芸人、ダンサー、大道芸人、マジシャン、マッサージ師、アイドル、風俗嬢やホスト、
レンタル彼女、カウンセラーなんかもそうですね。


第二に、生み出される価値自体には、人間は直接存在しないけれども、それを人間が「作った」事が商品の大きな付加価値になるものです。
舞台演出家、作家、映画監督、音楽家、何か人を感動させるような思いやストーリーを持った職人、料理人(この場合は、精巧で上質なものを作り出せるだけでは勝負できないと思います。空間認識技術と加工技術の向上で、精巧で正確であるという軸では近いうちに必ず人間は逆転されるはずです。)
このグループは、生み出される価値が「人間の感情の動きへの共感」を含んでいる事において、それを生み出した人自身の心情などに思いを馳せる事が
商品そのものの価値として付与される性質があるために、たとえ人工知能が発達する事によって、人間の感情のパターンがアルゴリズム化されて同じような成果物が作れるようになったとしても、この付加価値の差によって残り続けるであろう仕事だと思います。音楽家、料理人などを含む職人という括りでは、成果物そのものは単純な意味で「味覚」「視覚」「嗅覚」「触覚」「聴覚」を満足させる意味では人工知能には勝てなくなっていくでしょう。音楽も、人間の生理反応をモニターしてビッグデータ化すれば、人工知能にも「聴覚」を満足させるものが作れるようになるはずですし、料理に至っては正確な調理時間などを調整出来るようになれば、常に高いレベルの味を出せるようになります。この人が作ってくれたから」というストーリーとしての嬉しさを付与価値としてもてなければ、同程度の質を維持できたとしても淘汰されるでしょう。ストーリーとは、その人の思いや、哲学や、歴史における感情への共感です。
「ウマイもの」「上質なもの」ではなくて、そのストーリーを買いにいくといってもいいでしょう。


上記の性質がもはや前提として要求される仕事の他に、
上記の性質が付加価値になる仕事もあります。すぐに思いつく所でいうと、セールスマンや販売士です。
これらの仕事は、様々な能力が結果に影響します。今まででいうと、「より正確で細かい情報を常に把握していて、メリットデメリットをしっかり話してくれる事」が
大事な要素の一つだったと思います。しかし、これはビッグデータを扱える人工知能が得意とする所です。人間では限界のある膨大な他社製品との比較も、
コンピューターにとっては大した負荷ではないでしょう。さらに、嘘をつかれる可能性も非常に低いです。
自らが問題だと感じた課題を解決するためにニーズが生まれますが、問題解決にとって適切なものをニーズとして設定する事は、解決策になるものの分野に
詳しくないとなかなか出来ません。そのため、その分野に明るい人と話をする事によって、その方により適切な解決策を示してもらえるという事があります。
このようにニーズを掘り起こす、再設定する事が出来るのはセールスマンや販売士の能力として強いものの一つだと思います。そのためのコミュニケーションは、
相手の方の理解度などを図った上で言葉を選んだり、難しい内容を相手の方にあった形に加工して説明する技術など、「理知的に課題を解決するため」のものですが、まだ少し人間に優位性がある気がします。ただこれも、徐々に人工知能が出来るようになっていく事でしょう。例えば、その人の学歴やスマートホンの閲覧履歴などのデータから、その人にあった難度の言葉に文章を加工したり、その人にとってひっかかりとなる言葉を文章に上手くちりばめたり、といった能力は、
現在のamazonのあなたへのおすすめ、googleのネット広告などの技術の延長線上にあります。


ではその先に残る人間の優位性は何なのか?というと、
「より満足のいく、信頼におけるベストな提案ができる」事ではなく、
「その人といる時間、その人から買った事実が付加価値になる」事なんじゃないかと思うんです。

法人同士の契約においては、これに流される事は、特に質の軸が「正確さや精工さ」にある分野ではよろしくない事だと
思います。ハイブリッドの言葉でいえば、原理原則や科学的思考よりも、感情に流された判断をしてしまった、という事になると
思いますが、いうなれば、感情に流された判断を起こさせる事が出来る人材が、あえて人間にセールスをさせる上での
必須価値になるのではないでしょうか。何だかあの人は好きだから、一緒にいて気持ちがいいお客さんだから契約を続けている。
営業マンは商品の前に「自分を売れ」という、ある種古臭くも思える価値観が、価値としてより強まるのではないでしょうか?
それも、「より間違いのない良い提案が出来る」事は武器にならない中で、です。


個人が販売士から買う場合、その責任は自分に帰ってくるだけですので、
「その人といる時間、その人から買った事実が付加価値になる」事に流されてしまう可能性はぐっと上がると思います。
これも同じで、意識的、無意識的に最終的な成果物ではなくてその人といる時間やその時の感情、「ストーリー」を買いに行っているといえます。


看護師や介護福祉士や教員をはじめとして、対人的な仕事全般が同じような競争にさらされると思います。
特に看護師や介護士は「いたわり」といった気持ちを暗黙裡に求められやすい職種であるからなおさらですが。
教員は、すでにネットで大学の授業が全て受講できるようになっていたりしますね。理解度を図るためにはスマートホンで日々テストを行って、
自動的にレベルにあった問題が出るようなプログラムの方が、教員が一人一人を見るよりも、はるかに勉強の無駄を省けます。
逆に教員に求められるのは、その人と一緒にいる事によって人間的に成長できるような、直接的なコミュニケーションが出来る事であったり、
「思考力」ではない人間の能力を伸ばしてあげられる事でしょう。

つまり、こうした仕事において今まで一義的に必要だとされていた「理知的な思考、分析」「わかりやすい説明や相手の意図を理解するコミュニケーション力」、「肉体を使った作業」のみが出来る人間は、
人工知能やロボットにとって代わられるのは時間の問題であり、今まではあくまで二義的だった「一緒にいて楽しい、気持ちいい、リラックスできる、嬉しい」
など、ポジティブな感情を、生み出した成果物によってではなく、自分自身の身体表現、コミュニケーションによって人に喚起する事が出来る人間が、
職業人として生き残っていくという事です。
それが必須事項ではなかった職種も、徐々にそうなっていくのではないかと思います。


これが何を意味するのかというと、「社会に需要があるスキル」が全く変わってしまうという事です。
こうして、もともと重宝された能力が陳腐化するというのは、歴史においてずっと続いてきた事ですが、
僕としてはこんな事を思ったりします。
自分自身の身体表現や直接的なコミュニケーションによって人とポジティブな感情を共有する事につまづきを抱えた人間が、
社会で何とか自信を持つための足掛かりとして選べる仕事が、まもなくほとんど、なくなってしまうんじゃないだろうか、と。


最終的な価値に、人間が物理的に存在しないもの。正確さや精工さや効率が質の尺度になるもの。
それを生み出す事において、おそらく今まで多くの心につまづきをかかえた人が、なんとか生み出す自尊心を培い、それを支えに生きてきたと思います。
農家、工場労働、職人、エンジニア職、裏方と呼ばれる仕事、などなど・・・。プロセスや、誰が作ったか、その人の人格、
そんなものよりも、最終的にできたものの価値が重要だったわけです。

しかし、上記のように、僕が考えた限りでは、表現として、あるいはストーリーとしてのプロセスそのもの、誰が作ったか、その人の人格、これこそが
仕事として、今後社会における「人間」の需要になっていくという事はどうしようもない事実に思います。


それが、近い将来の「大自然としての社会」なのではないでしょうか?


そうなると、必要とされる仕事のスキルというのは、
今ある面白さをさらに発展させたものを生み出す技術、人を目の前で楽しませる技術、人にしかしてもらえない事を、この人にしてもらいたいと
思ってもらえるような技術、自分の体で、声で、言葉で、直接人を癒す事が出来る技術、遊びを発想する技術、遊び方を楽しく教えられる技術、こういったものになっていくのではないでしょうか。
二義的にこういったものが求められるとされた職種でも、です。
そして、一にも二にもこうしたものが求められない職種は人工知能と機械にとってかわられるでしょう。
理知的な思考力などが特別に優れている人は、人工知能の上に立つ立場として生き残りますが、
今後必要とされるレベルが上がるばかりですし、ごく一部の人に限られると思われます。


これは、大筋でいうと、自分自身が直接「愛される事」がスキルになるという事が多分に含まれる事になると思われます。
愛せるようになるための自尊心を築くために、社会において価値を生み出す事が必要になるならば、
それに愛される事が足掛かりとして、今まで以上に必要になる。

社会において有能であるという事は、自分から離れた成果物の価値によってではなく、
自分自身という人間が、プライベートで愛される事とほとんど同義になっていく。


つまりプライベートでは欠損をかかえながら、社会人としては自信を持って行動できるようになる、
という段階を経る事ができなくなるという事です。
これはいわば、顔の見える関係の中で生きてきた「村」の時代に回帰するようなものでもあるように思います。


こうなると、ハイブリッド心理学の「社会を生きるスキル」における、属人性を弱めた「開かれた世界」の行動法の前提が
揺らぐのではないでしょうか。もちろん分かり合い認め合う事を求めるという事ではないですが、「この人と」や「この人だから」が
重要なポイントになる事において、だれが、が重要になるという点。
仕事において、直接生み出そうとしている価値を価値言葉で話すだけでなく、
それ以外の話で、そして身体表現で、相手の感情を喚起できる事が必要になる点。
原理原則の判断を超えた、感情のレベルで相手を動かす事が出来る能力が価値として求められる点。

ここにおいては、最初から感情が豊かな人は勝ち組です。
対人的な仕事において、人を自分自身の身体表現やコミュニケーションによって喜ばす事が
出来る可能性が高いです。

さらに、世間的に求められる「立派」や「正しさ」を追い求めてきた人よりも、
自分自身の唯一無二の望み、嗜好をひたすら追い続けてきた人が、仕事にありつけるようになります。
なぜなら、その嗜好に対しての「思い」そのものが、その人の豊かな感情を引き出し、それ自体が価値であり商品であるからです。
本当に好きな人が好きなものを指導してくれる事、語ってくれる事は、その時間自体がそうでない人から伝達される単なる情報よりも
高い価値を持つからです。


これ自体は、ハイブリッド心理学がゴールとする生き方と親和性の高い社会の需要だと思います。
特に後者は。実際に今まで遊びだとされていたものが、どんどん仕事になっている流れがありますね。
もちろん唯一無二の生き方が、そういったものばかりではないですが、今まで「安定」と考えられていた仕事から「不安定」である
リスクを抱える仕事に、とされていた多くの事が、逆転するような事態も想定できると思います。


逆に言うと、「安定」を自尊心の足掛かりとして、そこから自分自身の唯一無二の望みを解放していく、という
プロセスが難しくなるのではないか、と思います。
最初から、その人が本当に望むものに、没頭している人が一番求められるようになるからです。


そして、感情そのものが豊かでない段階から、身体的で直接的なコミュニケーションにおけるプラス感情を喚起する能力が求められる事において、
人によっては容易に「自分を偽る事」につながってしまうような、
「面白さ」や「人を喜ばす」事の技術的な習得が、非常に重要になってくるという事。
感情強制につながりやすい、感情表現そのものが、仕事のスキルとして非常に重要になってくる事。


社会における仕事の需要が変化することで、
ハイブリッド心理学の色々な部分が前提として崩れてしまう感じがしています。


未熟でまだ論点がまとまりきってない部分もありますが・・・
考察をお願いします。


 
Re: 社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / tom 引用
No.1134 2015/11/06(Fri) 09:32:10

突然横レスしてすみません。人工知能は未来の「提案」はできるのでしょうか。


 
Re: 社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / tom 引用
No.1135 2015/11/06(Fri) 09:48:58

>社会における仕事の需要が変化することで、
ハイブリッド心理学の色々な部分が前提として崩れてしまう感じがしています。

うちの上司に聞いてなるほどそうかと思ったのは、生活が(先に)あって、仕事があるのだ、ということです。育児による休暇や休職に文句言わない人でした。
また人間は人工知能に従っても、地球は従わない。


 
Re: 社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / tom 引用
No.1139 2015/11/06(Fri) 11:14:22

すみません、論点がずれてるかと思いますのでスルーしてください。邪魔して申しわけありませんでした。島野さん申しわけありません。


 
Re: tomさん / しまの 引用
No.1140 2015/11/06(Fri) 11:28:59

了解です。もし関係するポイントがあれば手短には書くかもということで^^。
スレ違いの方は削除しておきます^^。


 
「ロボット優位社会」・「匿名性」^^ / しまの 引用
No.1144 2015/11/09(Mon) 09:58:10

では引き続きこのご質問
テーマとしてはにこの2つかなあと読みましたが、

・「ロボット優位社会」とでも言えるものが到来した時、ハイブリッド心理学が言う「社会を生きるスキル」も話が違ってくるのではないか
・ハイブリッド心理学では「匿名性において生み出す」ということを言っているが、社会では「匿名性」ではなく「誰が」という「人物性」が重視されるのではないか

それぞれ手短に^^。


1.「ロボット優位社会は来ない」が島野の思想

まず、技術の進歩に応じて、社会で必要とされるスキル変化があるのはもちろんですね。たとえばかつてそろばん習字だったものが、今はパソコンインターネット、というように。
そうした、技術進歩に乗り遅れないことも重要。これはハイブリッド心理学以前常識になると思います。

僕の考えでは、起きるのは全てその範囲のことだ、というものです。ロボット人工知能いかに進化しようとも。
つまり、その範囲を超えた変化とは、人間ロボット(人工知能)関係が、のように変化する世界訪れることだ、ということになる。

【現在までの世界】
    上司(人間)
      |
 自分(人間)−同僚(人間)
      |
  道具(ロボット)


【新世界】
    上司(ロボット)
      |
 自分(人間)−同僚(ロボット)


こうした構図における「新世界」は、永久に来ない、というのが僕の考えです。
まあ少なくとも今そうだし、来年そうでしょう^^; なら、まず今の人間社会構造において生きていくスキル模索することだ、と。

こうしたテーマでの考え方のキモになるのは、
・「人工知能」が「意識」に目覚め独自の「感情」や「意志」を持つようになるなんてことがあるか
という命題かと思います。まSFの世界ですね。
僕の考えは、「No」です。人工知能「意識」を持つなんてことは未来永劫なく、それはあくまで電気回路の一つでしかない。
一応これについては、心理学コンピュータをどちらも多少専門的学んだ立場として、僕なりの哲学として整理しています。かなり過去原稿ですが、関心あれば以下一読頂ければ。
過去原稿 - 島野の心理構造理論
収録の、
「付 感情の科学論 - (4)意識はどこにあるのか−島野の仮説−」

いずれにせよ、人工知能膨大データ処理いかに進化しようとも、それらは「道具」過ぎないのだ、と。
使いこなせることが重要使いこなせないとは、道具逆に振り回されたり、道具過信妄信するといった姿です。そうならないように、と。
この点ハイブリッド心理学の思想本質は、かなりレガシーだと言えます。人間と社会の本質は、太古の昔から変わらないという、底流思想を持つ心理学です。
思想ですので、かなり違う人間観社会観を持つ別の思想や心理学もあると思います。どれを取るか選択ですね^^。


2.「高い人物性」への方法論としての「匿名性において生み出す」

に、社会では「匿名性」ではなく「誰が」という「人物性」重視されるのではないか、については、
・社会の目は匿名性から人物性へと向かう
とでも言えると思います。

たとえば村上春樹ほどになると、書いたもの小説であろうとエッセーであろうと長編であろうと短編であろうと、中身を見ずとも売れる
それが「人物性」の頂点姿として、最初「匿名性」つまり誰ともつかない者として、まずその行いの中身見るところから始まる

それが「社会の目」だとして、ハイブリッド心理学「匿名性において生み出す」は、そうした社会の中で、いかに自らの人物性を高めていくかの、一つの方法論だと言えます。
自分人物性高めたければ自分の人物性を追うのではなく、自分生み出す価値を追求することだ、と。自分という人物がどう見られるかという邪念超えてそれが逆に、自分の人物性を高めていくのだ、と。
ですのでこれは、「個人の姿勢」です。そこにおけるノウハウです。

個人の姿勢として、この「匿名性」「自己顕示性」「自己アピール性」というものになり、一般の仕事場ではちょっと敬遠されるもの、というになってくる。
ただ最初からタレント業目指すのであれば、「自己アピール性」についてのそれなりのノウハウ出てくると思います。からも多少は何か言えるかも知れない。
課題場面内容いかんですね。


いずれにせよ、ハイブリッド心理学としては、というか僕の執筆活動としては、社会文化論議論にはあまり手を出すものではなく、生活人生具体的場面課題ごとに、僕自身の社会人体験、人生経験見出したノウハウアドバイスするものになります。それを取るかどうかお任せということで^^。
ということで、より詳しく具体的場面課題材料ごとご質問ご相談をして頂ければ、より具体的アドバイスができるかと思います^^。


 
Re: 社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / こたろう 引用
No.1152 2015/11/27(Fri) 12:54:38

ロボットが意志を持つかどうか、という話はしてないです。それも議論のある論点ですが、挙げた例は、別にそうならなくても実現可能性があると言われているものです。おそらくマネジメントやロボットを使う立場の仕事はなくならないですが、産業革命の時と違って、代替された作業の失業者に与えられる新しい仕事は、席としては圧倒的に少ないという予測が主流になってます。

問題設定は人間が基本的にはする事になりますが、その問題を解決するための、パターンから共通項や傾向を抽出する原因究明は人工知能が担う事になると思います。そこから新しい問いを生み出し、またそれをビッグデータを参考に検証し、という所までもが視野に入っているのが怖いな、と感じますが。


匿名性において生み出すのは、人物性を高めるための、、、またよくわからなくなってしまいました。その人に付随する能力は全て匿名性においての能力ととらえるという事でしょうか?僕の場合は、属人的でない、唯一無二性のない能力=匿名性において生み出すもの、と今まではとらえていたようです。

上のスレッドで言ったように、「価値そのものに人間が存在するもの」で生み出される価値は、僕は匿名性において生み出す物ととらえていませんでした。確かに、声楽家も村上春樹さんの例と同じで、最初はその「声そのもの」に惹かれたために、その人に惹きつけられるわけです。モデルさんも同じで、その人の「顔」に惹かれて、「たたずまいの美しさ」に惹かれて、その人に惹きつけられるわけです。好きなカフェの店員の、「距離の取り方のうまさ」「対応の物腰の柔らかさ」に惹かれて、通ったりするわけです。これも全て「匿名性において生み出す価値」と捉えていいでしょうか?


>自分の人物性を高めたければ、自分の人物性を追うのではなく、自分が生み出す価値を追求することだ、と。自分という人物がどう見られるかという邪念を超えて。それが逆に、自分の人物性を高めていくのだ、と。

→例えば上のカフェ店員の「対応の物腰の柔らかさ」も、生み出す価値の追求といえます。
  そのための身体作法、相手をリラックスさせるような声の出し方、そのための体の脱力技術、言葉の選び方、
  これも全て「匿名性において生み出す価値の追求」と位置付けていいでしょうか?
  全て「相手の方の安らぎという感情」をゴールにした価値の生み出しといえます。
  そしてこれは人間がインターフェースでなければいけない価値の生み出しです。

  で、提供される豆の選定、抽出時間、こういったものは、味覚がデータ化されれば人工知能の方が上手く出来る
  分野になります。こっちのほうの追求は当然「匿名性において生み出す価値の追求」として位置づけられるものですよね


 
「社会を生きるスキル」・「価値」と「匿名性」 再^^ / しまの 引用
No.1155 2015/12/10(Thu) 10:06:42

遅くなりました^^。

「社会を生きるスキル」の定義

まず前半ビッグデータうんぬんについては、申し訳ないご質問テーマ何なのか僕の方でちょっと読み取れなかったです^^ゞ

まず一つ確認して頂いておくと良い点は、ハイブリッド心理学「社会を生きるスキル」という言葉言っているもの何かです。
これは、
・実際にその人が生きる社会を相手に、その人が「自分はこの社会を生きることができる」という自信を感じさせるような、さまざまなスキルの総合体
だ、と定義できます。

それは行動学であり、仕事のスキルであり、より広範囲対人的、生活的、人生的な場面の対処スキル総合体です。
自分はそれを獲得した、という自信持てるようになる、またそれが目標になる、人生の段階があるというをしています。僕の経験も踏まえると、まずは30代後半からの段階になる、と。


「スキルの構造」

つまり、「総合的スキル」と、それを構成する「素材スキル」「材料スキル」という、「スキルの構造」がある、というになりますね。
正確には、まずは以下のような3段階構造理解すると良いかと。

          (人生を生きるスキル)
              /  \(「命」につながるスキル)
   社会を生きるスキル
         /|\ ・スキルを舵取るスキル
生活のスキル 対人スキル 仕事のスキル
                     /|\ 
                  個別素材スキル
          (読み書き、身体技能、専門技術、etc)

より大きくは、「社会を生きるスキル」の上にさらに総合的「人生を生きるスキル」生まれる、という4段階があると言えますが、とりあえず今回の話の範囲ではないということでよろしいかと。

で、今回書いて頂いた話題は、個別素材スキルについてのものということになるかと。
これはもちろん、時代の流れに応じて大きく変化する、ということになります。
一方、総合的なスキルほど、その本質時代の流れ超えて不変だ、という考え「社会を生きるスキル」とは、そうして時代によって変化する素材スキルどう自分が持つべきかという、「スキルを舵取るスキル」重要な要素になると言えるでしょう。

ロボット技術などの進化に応じて変化するのは「個別素材スキル」レベルであり、それだけではまだ「社会を生きるスキル」にはなりません。そうした技術スキルどう舵取るか、から「社会を生きるスキル」関係してきます。
技術進歩によって、そうした総合的「社会を生きるスキル」にも大きな変化があるとすればロボット感情持つようになるといった事態起きた時だろうが、それは未来永劫ないだろうというのが僕の考えだというのを述べた次第です。

「個別素材スキル」個々の内容については、「ハイブリッド心理学」としてはあまり踏みこむものではありませんが、僕自身の社会経験を踏まえたアドバイスであれば、多少可能です。
ですので、

>そこから新しい問いを生み出し、またそれをビッグデータを参考に検証し、という所までもが視野に入っているのが怖いな、と感じますが。

これは実際どんな課題場面で、何に困っているというなのか、を絞ってもう少し具体的に書いて頂くと、僕としての意見アドバイスできるかも知れません^^。


「価値」と「匿名性」

>匿名性において生み出すのは、人物性を高めるための、、、またよくわからなくなってしまいました。その人に付随する能力は全て匿名性においての能力ととらえるという事でしょうか?

これもやはり、何の話をしているのかという、テーマ整理しておくのがいいですね。互いが別のものの話をしているのに気づかないまま、かみ合わない議論をしないよう。

「価値」「匿名性」については、今回のような話題範囲としては、3つテーマ事項分けることができます。

1.「価値」そのものの内容種類
「価値」そのものの内容タイプ
「容姿」「声・仕草」「文章」「曲」「デザイン」「レシピ」「製造技術」「社会行為」「品物」「制度」「手続き」エトセトラ、エトセトラ
これら全てが、「価値」あるものです。魅力価値経済価値効率性価値、などなど。

2.「価値」そのものの「人物性」と「匿名性」
上記のような「価値」社会供される時に、それが誰のものか、誰によるものかという情報同時に伴うかどうか。これを「価値の人物性」と呼べるでしょう。
逆に、誰のものか、誰によるものかという情報見えなくなる度合いを、「価値の匿名性」いう言葉呼んでいいと思います。

すると、「価値」内容種類によって、自ずとその傾向が出てきます。
上記内容種類書いたようなに、「価値の人物性」大きいと言えます。「容姿」となると、もうその人そのものですね。あとは名前出るかどうかだけ。
逆に、後ろのものほど「価値の匿名性」大きいと言えるでしょう。誰のものか、誰によるものかというのはあまり表に出なくなる。それでも場合によっては、例えば「アベノミクス」のように、誰が発案したかを冠する、「人物性」の高い「制度」があったりする。まその「価値」どう評価するかはまたによりさまざまとして。

ここまで2つ「価値」そのもの内容性質についてのであるのに対して、3つ目全く違うものになります。
それは内面の姿勢です。

3.「社会を生きる姿勢」としての「匿名性において生み出す」
ハイブリッド心理学「匿名性において生み出す」呼んでいるのは、個人内面の姿勢であり、「価値」そのもの内容性質話ではなく「価値」を生み出すことに生きようとする「社会を生きる姿勢」さらには「生きる姿勢」の、一つのあり方指しています。

前の方takaさん向けアドバイスとして書いた、
『「自己イメージ法」をはるかに超える成長へ^^』 しまの No.1147 2015/11/13
でも触れた、
『理論編下巻』
7章 人生の答え−2  −「魂の望み」への歩み−

「匿名性において生み出す」・「揺らぎない自尊心」への第一歩
での解説ベース理解頂くといいでしょう。
引用しますと、その定義とはまず、
------------
 より純粋な望みへと向かい、「生み出す価値」への目を育てることです。価値を生み出すのが「自分」だということにこだわらずに、生み出す価値そのものを、ただ高めることに意識を注ぎます。
 これを「匿名性において生み出す」と呼んでいます。
------------

とあります。つまり「価値を生み出すのが「自分」だということにこだわらずに、生み出す価値そのものを、ただ高めることに意識を注ぐ姿勢」です。これが「匿名性において生み出す姿勢」定義ということで良いでしょう。

そのきとして、以下のようにあります。重要な言葉太字にしました。
------------
 「匿名」であるとは、誰ともつかないということです。「未熟」から始まるこの道のりの常として、私たちはどうしても「自己顕示欲」の中で、「自分」がどう見られるか、一方で「誰が」どう人に見られているかという、結果イメージばかりに意識が向かいがちです。それがひいては、「こう見られなければ」「こんな風に見られてしまっては」と自分にストレスを加えるという結果を生み出すわけです。
 その視線を、価値を生み出すのが「自分」であろうと「誰」であろうと構わずに、生み出される「価値」そのものに目を向けることです。これが「人物を問わない」魂の感情に実によく馴染みます。
 これがひいては、足手まといの「自己顕示欲」によって動揺する自分を抱えながらも、それに惑わされずに安心して人と接することのできる、しっかりとした方向性を私たちに与えてくれるのです。
------------


ということで、ここで「魂の感情」という新たな視点が出てきています。
これについてはここではあまり話を膨らませずポイントは、「生み出す価値そのものをただ高めることに意識を注ぐ」という姿勢によって、「自己顕示欲による動揺を脱した、安定した対人方向性」向かうという、内面姿勢言っているものだということです。

内面姿勢ですので、そうした姿勢持つかどうかは、人それぞれです。「価値」そのもの人物性匿名性大小関わりなく
容姿声の出し方といった、人物性の高い価値を、ここで言う「匿名性において生み出す」という姿勢追求している人もいれば、「品物」という匿名性の大きめなものを、バリバリの自己顕示欲で追求している人もいるかも知れない。
ハイブリッド心理学の取り組みとは、もちろん、「匿名性において生み出す」という姿勢知り、その選択を自分に問う、というものです。
それが「自らの人物性を高めていくかの一つの方法論」だと言うのは、「自らの人格性」という言葉の方が分かりやすいかも知れませんね。それが「価値の人物性」として人の目出るかどうかさまざまとして。これはよろしいですかな。

ということで後段のご質問についても、まずは以上どう疑問等が残る再整理して、あればまた書いて頂ければ^^。


 
Re: 社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / こたろう 引用
No.1157 2016/01/08(Fri) 17:46:19

前半の人工知能についてのお話、まずはありがとうございます。
納得できました。僕の疑問(というか不安?)としては、コンピュータの能力が人間の能力を現状以上に浸食することで、仕事のスキルの中の個別具体的スキルが、非常に高度な知的能力が必要とされるものと、対人の仕事における豊かな感情表現や、非マニュアル的な対人能力(内面の感情の豊かさが大きなアドバンテージになる。)に二極化する事によって、どちらもそこそこである所をスタートラインにするような仕事が減り、仕事のスキルにおける自信を培う事が出来なくなる人が非常に増えるのではないか、という事でした。
そして自らも、そこに残っていれるのだろうか・・・と。

また仮に、機械の生産能力や人工知能の能力が飛躍的に高まった時に、仕事をしなくていい人が多数派になる時代が来るかもしれませんが、その時に残っている「生み出せる価値」は、やはり自らの肉体を使って人間の感情に直接訴えかけられる事(人物性の高い価値の生み出し)が「生み出す価値」の主たるものになる、と。


「価値そのもの」と「価値を生み出そうとする姿勢」の区別については参考になりました。一応例を考えてみて確認したいのですが、人物性の高い価値を「匿名性において生み出す」というのは、例えばモデルさんや、ダンスなどのパフォーマンスをする人が、
「自分が素晴らしいと思われる」というよりは、純粋に「美しさやパフォーマンスのインパクト、相手に起こす事が出来る感嘆の感情をより膨らませるには?もっとエキサイトして楽しんでもらうためにはどういう風に表現する?」といった視線を持つ、という感じでしょうか。

そこを混同していたので、人物性の高い価値を追求している=自己顕示欲が強い、という構図がなんとなく出来てしまっていました。それが人物性の高い価値について追求する事のブレーキにもなっていたかなと。

ただやはり、人物性の高い価値の中で、自らの身体表現(声、動き、仕草、顔)が実際、価値を受け取る人の五感で感じられる「商品の一部」になる場合、感情の豊かさの土台は
非常に重大な事に思えます。
身体のパフォーマンスは、精神面と非常に関連していますよね。ある程度までは形になっても、どうしても「ふさぎこんだ」感情があると、体に固さが生まれます。
ダンスなどではその差は如実にわかります。ふさぎこんだ感情が、物理構造的に体を縮こまらせてしまいます。解放された身体から生み出されるパフォーマンスは、ただ歩いている姿を見ているだけでもうっとりしてしまいますし、見ているだけで自らの体も緩んでいきます。

有名な整体師の片山洋二郎さんという方が、書籍で、
人間の体は無意識レベルで共鳴しているという事を書かれてました。
直接触れる事がなくても、対面している状態で起こっているという事です。
怪しげなスピリチュアルの書籍であれば信頼できませんが、
長年の他者の肉体観察から導き出された答えだという事で、
なるほどなぁ、確かにそういう部分もあるだろうなぁ、と。


また、直接触れる場合は、さらにそれが顕著になります。
これは自分自身が受けたロルフィングというボディワークで起こって観察した事です。
非常に高いレベルで緩んだ体の方に触れられると、揉んだりしなくても、触れられた部分の筋肉が同期するように緩んでいくんです。施術者の技術というよりは、施術者の身体水準(脱力)が高度であればあるほど、施術効果が高まるという事です。
逆に、緊張した体を持った人に触れられると、それに対して反射的に筋肉に力が入り、
いくらマッサージされても一向に筋肉が緩まない、それどころか受ける前よりも疲れる、という事が往々にしてあるようです。


僕自身が、できることなら仕事としても追求したいなぁと思うのは、こういった「人物性の高い価値」・・・
人物性というよりは、「肉体」を伴う価値の生み出しといった方が適切かもしれないですが、そこでは「柔軟で脱力した肉体」がパフォーマンスを発揮する上での礎であるというのが現在持っている感想です。

そしてあるレベルまでは、物理構造的に適切な体の使い方を工夫したり、
脱力を体に覚えこませるようなワーク、あるいは施術を定期的に受けるなどで
身体の水準を高めていくことが可能なのですが、あるレベルを超えようとすると
やはり「精神的な緊張」が体の脱力、パフォーマンスを向上を阻みます。対人場面での自己操縦心性による圧迫、反射的に嘘の自分を演じるスイッチが入る事で、体が不自然な形に固まってしまう事。


そこに突き当たる事がわかっているので、やっぱり自分には望めないんだ・・・
という絶望感があります。ただ、これが本当に追求したい望みであるならば、
実現する上でのネックが自己操縦心性である事がはっきり見えて、そこで「崩壊」が
起きるのかもわかりませんが。


しかし、先んじて「外面的スキル」を向上させる事が必要という事なので、
やはり難しいのかな・・・と感じてしまいます。


なので、「人物性の低い価値」、「身体の緊張度などがあまりパフォーマンスに影響しない仕事」を選び、そこにおいて「仕事のスキル」の自信を身につける事によって、精神の緊張度由来の肉体の緊張を軽減させて、それからやれるなら、そっちのもっと純粋な望みとして感じられる分野を・・・という風に自分を納得させようとしています。


まとめますと、このように、

「人物性の高い価値」は、「匿名性において追求」する事はできますし望ましいですが、
需要があるのはやはり「あるレベルの精神の健康、開放度があるからこその、脱力した肉体」を身につけられた人物。
「人物性の高い価値」を「匿名性において追求」する場合は、ある時点から物理的に肉体の脱力を維持する技術だけではなく、精神面が必須になってしまう。
であればやはり、精神的不具を抱えた人物が、人物性の高い価値を仕事として
追求するのは困難である事が多いのではないか。

という質問になります。


 
「障害」による「困難」の克服探求が人生^^ / しまの 引用
No.1158 2016/01/15(Fri) 10:16:05

>精神的不具を抱えた人物が、人物性の高い価値を仕事として追求するのは困難である事が多いのではないか。という質問になります。

それはもちろん、「障害」があればそこに「困難」発生する、と言えますね。「困難」生み出すもの「障害」言うという、言葉の定義そのものでもあるでしょう。
それは人物性の高い価値仕事としようとする場合限らずにです。人物性の低い価値仕事としようとする場合でも、たとえば高度な身体障害があれば、それに見合った困難生まれる、ということになると思います。
ですのでこれは「障害」具体的かつで客観的かつ詳細な内容ごとに、検討しなければならないものになると思います。

一方、「精神的不具」というのは多少偏った自己否定イメージになると思います。『悲しみの彼方への旅』でもそうしたものとしてその言葉が出てきたります(P.332)
-------
私に残り続けた問題とは、自分には、自分を人と結びつけるための感情や意欲や性格が根本的に欠損している、自分は人と親密になったり愛情を交わしたりすることのできない、精神的不具者なのだという感情でした。
-------


ということで、「精神的不具」という漠然とした否定イメージではなく、具体的かつで客観的かつ詳細な内容ごとに、検討していきましょー、というのがまずは意見
そしてそうするならば、「障害」を克服するものとしてこそ、「知恵」と「ノウハウ」と「技術」があり、その探求こそが人生になる、というのがハイブリッド心理学からの意見です。
それは克服できるものなのか。克服不可能で終わるものなのか。それは自分にとって大きな喪失か。それとも結局大したものでもない話だったと、人生が大きく転換するか。

これはもう人それぞれ内容ぞれぞれのケースバイケースですね。たとえば人前で喋ることに緊張とどもりの傾向を抱えて社会に出ようとしたが、それを克服したい一念取り組み、やがてTVの人気司会者になってしまうケースもあるかも知れない。あるいはそうした弱点短所を抱えたまま、人と接する仕事よりも手先の技術を生かした仕事を選んで第一人者になったもいるかも知れない。
ちなみに僕の上記の言葉について言えば、結局、一人でマイペースな生活をするのがこの上なく好きな性分であり、浅く広く人と親しく接することができるような「能力」は、もうどうでもいいというお気楽能天気ほぼ完結した今日この頃です・・とこれはどーでもいい話^^;

重要なのは、結果ではなく、いかに可能性と全力を尽くしたか、になります。可能性と全力を尽くすごとに、「命」が答えを出す、ということで。
まあとにかく、お若い状況と思いますので、視野を広く持った上で、具体的かつで客観的かつ詳細なレベルで、自分の得手不得手、克服への知恵ノウハウ技術、そして望む仕事、などの分析検討をするのがお勧めになりますね。

あとはまあ、何か「人物価値」「持つ人」「持たない人」あまり単純に分けない目培うのがお勧めになりますね。でも何らかの障害ハンディを持つのがスタートです。また「持つ人」見えるのは、あくまでそうした断面があり、見る人主観からそう見えるに過ぎません。「脱力できる人」なんてのも、別の人から見れば単なる不注意人間見えるかも知れない^^;

まとにかく、視野を広く持ち、自身の問題については具体的かつで客観的かつ詳細な内容ごとに、細かく検討していくのがお勧めです^^。




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