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記事No.720に関するスレッドです


人間関係について / にーな 引用
No.710 2013/11/27(Wed) 00:03:27

島野さん、こんばんは
読者広場での皆さんの質問、参考にさせていただいています。
私も身近な具体例が出てきましたので質問させてください。

日常生活の中で、なんとなく苦手な人がいます。最初から苦手と感じたり、途中から何かをきっかけにそう感じたり、状況は様々ですが、自分の中に相手に対して何かしらのストレスを感じることが内的に起きています。 さらに自分の心の中を見ていくと、その人の言動や行動に対して否定的な感情があります。それをただ流すことはできます。そして、ストレスを溜めない程度の適度な距離を作ることはできます。
ただ、これが自分の中にある「否定価値」から来ているのだろうか、自分は相手を否定しているのだろうかと思うと、なんだか自分が根本的に間違っているような気持ちになります。相手を否定することによって「自分は正しい」という傲慢な気持ちもあるようです(自分が神になる…でしょうか?)。また、その相手から自分も疎まれているような気もします。疎まれていることについては、ストレスを溜めてまで付き合いたくないので、別に構わないと思います。しかし、自分が嫌っていない別の人物からちょっと距離を置いたような態度を取られると、「そういうこともある、嫌われているかどうか断定できるものではないし、第一嫌われているとして、自分の生活全体に影響を及ぼすものではない」と表面の意識では納得しつつ、内面では「どうせ自分なんて」という落胆と悲しみを感じます。
このような状況における、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみにする」学び・取り組み実践は具体的にはどういったことになるか教えていただけないでしょうか?


 
内面感情ではなく「場面」に取り組む^^ / しまの 引用
No.720 2013/12/03(Tue) 09:28:16

取り組み実践の手順

>このような状況における、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみにする」学び・取り組み実践は具体的にはどういったことになるか教えていただけないでしょうか?

取り組み実践は、どのような状況においても、
『入門 - 3.取り組み実践』
「外面・内面・外面」と繰り返す「向き合い」の実践
で説明した、
1)「心の健康と成長に向かい得る行動法」の理解
2)それについての自分の納得、および内面感情への向き合い
3)それを踏まえての行動の結論検討

という手順で進めます。

多くの人ありがち、というか大抵の人そうなるのが、上記1)のステップが抜けてしまうものです。ハイブリッド心理学の方向性に沿った、「心の健康と成長に向かい得る行動法」良く分からないまま、内面に向き合おうとします。そして自分の「気持ち」「感じ方」のどこが悪いのだろうと考え始めてします。
するともうもう全く違う方向、今までの思考の繰り返しになってしまいます。3)の行動結論も、出ようもない。

書いて頂いた内面向き合いも、ちょっとそんな感じかもですね。


否定価値はどう働くか・・

まず以下についてコメントしておきますと、

>ただ、これが自分の中にある「否定価値」から来ているのだろうか、自分は相手を否定しているのだろうかと思うと、なんだか自分が根本的に間違っているような気持ちになります。相手を否定することによって「自分は正しい」という傲慢な気持ちもあるようです(自分が神になる…でしょうか?)。

「否定価値」まああるのでしょう。それをもし脱しているようなら、こうした問題とうの昔に解決可能なものへと解きほぐされると思います。

ただ、上記引用「否定価値」どう働いているのかを言うならば、相手への否定感情湧くことよりも、「自分が根本的に間違っているような気持ち」というのが、「否定価値」直接働いている部分なんですね。
また少し後の、
>内面では「どうせ自分なんて」という落胆と悲しみを感じます。
という部分。それが、まさに「否定価値」働いて、意識の表面に現れているもののように見えます。

それに比べりゃー相手について否定的感情湧くのは、書いて頂いた状況ではむしろ恐らく健康な話で、実際相手に何か嫌なところがある(^^;)からだと思います。それを無理してつき合っているのが問題・・行動結論まで安直に進めるとまた元も子もないので、上記のような取り組み実践手順しっかりと踏まえましょうというになるわけです。


「楽しみの共有」vs「友達約束同盟」

するとどうなるかごく手短に書いてみますと、問題場面は恐らく仕事場面ではなく交友として、ハイブリッド心理学からの「心の健康と成長に向かい得る行動法」とは、
これも『入門 - 3.取り組み実践』の中の『「学び」の主要テーマ』の中では、
4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法
で書いた、
==================
「愛」 ・・・ 「分かり合い認め合う」というものではなく、より純粋「喜びと楽しみの共有」として位置づけ目指す
==================
という、最も基本的な話該当します。交友であれ恋愛であれ、さらには家族関係であれ、これが基本になります。

書いて頂いたのは、多分「分かり合い認め合う」という姿勢モードでの、交友だと思うんですね。
「友達なんだから、こうするよね」というモードそうならない時、「嫌いなの?」という、本来プラスの世界のはずの「交友」が、マイナスの世界の「もめごと」のようなものと化してしまいます。「友達約束同盟」姿勢と呼べるものですね。

そうではない、「楽しみの共有」として交友を築く姿勢を、まず「選択」するか問いのテーマになります。
それは、楽しくないのであればつき合わない、というか一緒の行動を特に無理にしない、という姿勢であり行動法です。
さらにこれをカドを立てることなく実現するため、「言葉の使い方」極めて重要になるものとしての、
3.行動学
具体的実践も出てきます。
ごく入門的な例を言えば、「私はそれには参加しません」という否定形の言葉ではなく、「私はその日はこれに行く予定です」といった肯定形の言葉のみ使う
どーでもいい話ですが最近会社時代親友遊びに来た時、事前の連絡時親友そうした言葉の使い方をしているのを見て、続く友達っていうのはやはりそうなんだなーと感じたひと駒がありました^^。


「内面」ではなく「場面」に取り組む

そうした観点から、「外面行動は建設的なもののみ、内面感情はただ流し理解する」ことに取り組むということです。
上に書いた手順の通り、具体的場面における「心の健康と成長に向かい得る行動法」が、ハイブリッド心理学の方向性からは具体的にどうなるかを、知ることからです。
そしてそれについて自分の理解納得を問うことから、自分の内面感情理解することが始まります。

そのようなものとして、まず「場面」取り組みます。
これは蓮さんへのレス
『課題は「離反」ではなく「依存」^^』 しまの No.712 2013/11/29
でも書いた
最初から「内面」に取り組むのは、誤った取り組み法です。それは船の碇を下ろさないまま、海の上の作業をしようとするような話です。感情という海流流されたまま、その感情どこからどの方向に流れるのか、どう役立てればいいかもつかめなくなります。
海の上で作業をしたければ、まずをおろして自分の思考と行動を安定させることが必要です。根本的な目的海流つまり感情把握し、それを役立てることだったとしても、自分という安定していないのであれば、まず思考と行動に取り組むことだけを、先に行う必要があります。

ということで、
>このような状況における、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみにする」学び・取り組み実践は具体的にはどういったことになるか
は、

>最初から苦手と感じたり、途中から何かをきっかけにそう感じたり、状況は様々ですが、自分の中に相手に対して何かしらのストレスを感じることが内的に起きています。
さらに自分の心の中を見ていくと、その人の言動や行動に対して否定的な感情があります。


というのが、いったいどのような内容「場面」のことなのかの、正確で詳細な把握理解からです。その一つ一つについて、ハイブリッド心理学から「心の健康と成長に向かい得る行動法」を言えます。そしてに、それについての理解納得を問うことから、「内面」への取り組みが始まる。

「状況は様々」なのを、一つ一つどういう状況なのか詳しい把握からです。そこに、それが自分にとってどういう意味の出来事であったのかの、まさに「分析」始まります。
具体的場面内容ありきの取り組み開始になりますので、差しさわりない表現範囲詳しい場面状況など一つ一つ取り上げて頂ければ、それぞれについて具体的アドバイス返していけますので^^。


動揺根本消滅までの道

補足として、こうした動揺根本的にゼロへと消滅するまでの道のり大まかに書いておきますと、まずは
1)「楽しみの共有」行動法への納得を問う段階
2)その実際の実践を問う段階

を通して、実際他人との間で、外面においてはもう完全にカドが立つことなく交友行動を行うもしくはやめるの判断決断ができるようになることのは、最後
3)実際自分が相手をどう好きかそうでないかの「望み」に向き合い、そうした行動法を携えて向かう中で、「望み」そのものが成熟していく、つまり相手をどう好きかによってどんな交友を続けるかの結論が、次第にブレのないものになっていく。

という道のりになると理解しておいて頂くといいでしょう。
「感じ方」について、「正しい」「悪い」という尺度で取り組むことは、そこにはないのだ、というになります^^。

またこの文脈「否定価値の放棄」には、まずは触れることはできません。他の取り組みも含めて、自分「強く」なったことを足場に、ものごとの悪い面に目を向ける衝動向き合う作業として取り組みますが、「神的なものへの思考」などといった哲学宗教的なテーマかなり本腰を入れて取り組む作業になります。道順としては、上記2)3)あたりです。


 
Re: 人間関係について / にーな 引用
No.727 2013/12/06(Fri) 00:55:14

>ただ、上記引用で「否定価値」がどう働いているのかを言うならば、相手への否定感情が湧くことよりも、「自分が根本的に間違っているような気持ち」というのが、「否定価値」が直接働いている部分なんですね。また少し後の、内面では「どうせ自分なんて」という落胆と悲しみを感じます。という部分。それが、まさに「否定価値」が働いて、意識の表面に現れているもののように見えます。

これ、目からウロコでした^^;。自己処罰ですよね?
他人に嫌な感情をもっちゃいけないと自分に強いていたようです。でもそういう感情も自然なことなんだと理解できたことで、なんだか肩の荷が下りたというか、楽になりました。
同じようなシチュエーションが子供の頃ありました。私が姉に対して何か気に入らないことを言ったのだと思いますが、「そんなこと言っていると人に嫌われるよ」と言われました。内容は思い出せませんが、まぁ意地悪なことを言ったかもしれないとして、その時点ではそれを嫌っているのは姉であり、他人が本当はどう思うかはわからない、千人いれば千差万別の受け取り方があると今の私なら思います。もしかしたら、自分の都合のいいように動いてくれない妹に対する姉側の意地悪であった可能性すらあります。でも幼かった私にその言葉は何かの刻印のように感じられ、それ以降、何か言葉を発する時は他人の気持ちを逆なでしないか勘ぐり、合わせるようになっていたという記憶があります。それでも逆なでしてしまった時には、何か自分が悪いことをしたんだというお決まりの思考の流れでした。

>具体的場面の内容ありきの取り組み開始になりますので、差しさわりない表現範囲で詳しい場面状況など一つ一つ取り上げて頂ければ、それぞれについて具体的アドバイス返していけますので^^。

今回課題となっている場面・状況について書かせていただきます。
ある趣味を共通とする女子会のような集まりがあり、その日は7名程度が参加しました。
その中に初参加の方が2名程いたため、端から自己紹介をしようという流れになりました。
ところが、1人目の方が自己紹介をしているうち、発言者もしくは外野からの質問などで、どうしても自己紹介が頓挫してしまい、一人が終わるのに長い時間を要していました。どちらかといえば、既参加者の方からの新参加者への質問によって反れる事が多かったです。最初はそういった状況に対して可笑しさもあり、爆笑のムードでもあったわけですが、3人目の時に全くそういった流れが改善されなかったため、私は、「もういいんじゃない、話しているうちにお互いにわかってくるし」と笑いながら言いました。場は穏やかな笑いのムードであり、私の発した言葉はその雰囲気にも乗るような違和感のないものだったと自分では感じます。自己紹介をそこでストップさせようというような強い意図もなかったです。あまりにも頓挫するので、ついポロッと出てしまった…という感じでしょうか。名前と出身地程度の紹介は事前に全員終わっていたという背景もあります。すると、その会をどちらかといえば仕切っているタイプの一人の方から、「にーなさんは知っているからいいかもしれないけど、初参加の人がいるんだから、どうしてそう自分のことしか考えないのかな」と感情的な強い口調で言われました。それ以来、彼女のことが苦手となりました。
その後、しばらく疎遠になっていたのですが、ある日、パソコンの調子が悪いから教えてくれないかというメールが来たんです。それをきっかけにまた元の楽しい関係が戻ったように一瞬見えました。それでもその方との付き合いについては慎重になるべきだったのに、また自分を苦しめるようなことをしてしまいました。ちょうどメールをもらった同日にある有名歌手のライブチケットに当選し、チケットに余りがあったため、つい彼女を誘ってしまったんです。その日メールが来なければ誘わなかったと思います。その後、やはり別のことで彼女のことを嫌だなと思うことがたび重なり、手に入りにくいチケットだから、もっと自分が一緒にいて楽しい人を誘うこともできたのに、なぜあんな人を誘ってしまったのだろうと今は後悔しています。

ざっと、今回のストーリーになります。
せっかく楽しみにしていたライブが少し台無しぎみです。ちなみに2人きりで行くわけではないので、そんなには悩んでいません。チケット代は払ってもらうんだし、ライブはライブで楽しもうというのが今できる建設的思考行動法でしょうかね?
今はライブを最後にもう個人的には関わりたくないという気持ちです。どうして自分で自分の首を絞めることをするのだろうと自分のバカさ加減がほとほと嫌になります。島野さんが示してくださった「動揺根本消滅までの道」の途中のブレている状態に今はあり、過去の過ちに対する後悔よりも、今後、望みへ向き合っていく中でブレないものとなっていくと思っていてよいでしょうか?
相手に嫌悪感を抱きながら、少し関係が和らぐ雰囲気があるとまた近づくという不安定な行動を取ってしまう根底には、人と関われない時に感じる「空虚感」を恐れているからではないかと思います。これは、愛情要求症候の消極形でしょうか?
周りから誰も居なくなること覚悟で(実際には家族もいるし、そういうことは考えられませんが)、この空虚感を受け入れる以外無いと思われますか?


 
「まずは原理原則行動法でイザコザを回避」から^^ / しまの 引用
No.733 2013/12/10(Tue) 11:17:36

「交友行動をあるべき姿で律しようとする」という問題・・?

これは問題かなり明瞭で、ずばり、「楽しみの共有」としての行動を取れていないケースになりますね。

まずごく外面の行動内容を見ますと、ちょうど昨日チェンジさんへのレス
『Re: 愛想笑い』 しまの No.728 2013/12/07
で、
「こうした方がいい」という比較的肯定的な言葉を使っても、相手が自分で何も問題を感じていないのなら、まずは相手の否定になる、というのが当てはまります。そこにどんな問題があるのか、それを相手に指摘する必要があるのか、から検討するのが良い、と。

>「もういいんじゃない、話しているうちにお互いにわかってくるし」と笑いながら言いました。場は穏やかな笑いのムードであり、私の発した言葉はその雰囲気にも乗るような違和感のないものだったと自分では感じます。

についても、笑いながら言ったとしても、かなりの否定行動として受け取られる危険があると思います。この辺「言葉の慎重さ」は、人生を通しての勉強課題にしたいものです。
ともかく「行動学」的に分析するなら、なぜそこで止めようとしたのかです。「もうコンサート始まっちゃうよ」なら、カドは立たないですね。ではこの場合にーなさんなぜ止めようとしたのか。

そこから言えるのは、交友行動が、「楽しみの共有」ではないものになっている、というかより正確的には、交友行動が「楽しみの共有」だとして、それが「あるべき姿」として律せられるべきもの、律するべきものと感じておられるのではないか、ということです。
もちろんそうした側面「団体行動」にはあるものであり、その場合はそれなりの「組織化」「規則の明確化」が、具体的行動場面先立って必要になってきます。「幹事」明示し、仕切るための発言権を与える、イベントの際に先立ってスケジュ−ル表を作り、時間の制約があるのであれば、「自己紹介は一人3分以内にて」添えておいたりする。そこまですれば、あとはもう「時間切れ〜」笑って言えることになってきます。
そうした前提条件なしに、ただにーなさん自分の心の中「自己紹介はスムーズに回るべき」と考えていただけの話であった場合は、にーなさん自分の考えだけでものごとを動かそうとしていると見られても仕方がなくなってしまうと思います。
文章を拝見する範囲では、その場はまだあまり規則立てた団体行動ではなく、時間が許す限りいくらでも脱線していてもいい場のような・・。となると、「場は穏やかな笑いのムード」を維持したようですが、内心ではかなり引いていた、あるいはショックを感じた人さえいた危険もあると言えるように思います。


「あるべき姿からの他人への否定」に取り組む

そうして前後に書いて頂いた内容を見るに、感じられるのは、こうした問題が、かなり根が深く、広く、人生の中で起きているらしい様子です。ちょっとこんな表現ご容赦ですが、印象として、まあそれほど重くないものだとして、自分で気づいていない病気を人生の中で持っている、という印象
まあその病気(^^;)とは、交友を「楽しみの共有」としようとしてはいるが、そこに「あるべき姿からの否定感情」がすぐに入り込んで、そもそもの「楽しみ」を破壊してしまう、というもの。
実はそうした「あるべき姿」があって、

>少し関係が和らぐ雰囲気があるとまた近づくという不安定な行動

取るのかも知れませんね。

ですので、まず取り組むのがいいのは、ずばり、「あるべき姿からの他人への否定」になると思います。
それを自分はどう心の中で他人に向けているか。そして場合によりそれを行動化してしまっているか。お姉さんとのから察するに、小さい頃はそれをふんだんに行動化してしまっていた可能性が高いと思われます^^; はそうではないと思いますが・・。
その否定行動の強さが深刻というよりも、その否定行動が自らの欲する他人との親愛を自ら破壊しているものであることに、自分で気づいていないならそれが深刻な問題、という感じがします。右手がしていることを左手が知らないというやつ^^;

それを行動化してしまったら、あとはもう後の祭りというか、相手がそれを見逃してくれるかどうかの運不運になってきますね。
その点、今回その友人は、にーなさんと同じく「こうあるべき」という観念からの否定行動を持つ人であるように思われます。つまりにーなさん似た者同士なんですね^^; そうした相手が、どうもにーなさん苦手とする相手であるように推測できます。


「行動法」と「価値観」への取り組み

ですのでそこからまずは、やはり「建設的行動法」への取り組みですね。
内面何をどう感じるかはさておいても、外面行動として「破壊」になるのではなく「建設」になる行動法、言葉の使い方、話の持って行き方取り組む相手の行動をやめさせたいのであれば、まず相手に問題をどう認識させるかから、というように。そこでもまた言葉を慎重に選ぶことを学ばねばなりません。さらに言えば、それが問題だと感じる自分の感覚が本当に妥当なものなのかも、確認しなければならないでしょう。
そうして、結局のところ自分を窮地に陥らせる行動を、まずはいかに事前に敏感に察知し踏みとどまれるようになるか。

それによってしっかりと安全弁を用意しつつ、という話になると思いますが、「価値観」本格的に向き合う必要がありますね。
交友行動が「あるべき姿」として律せられるべきもの、律するべきものと感じている感覚思考がないか。あるいははっきり信念のようなものがあるかも知れない。『実践詳説』で書いた「道徳の授業型人生観」でもありますね。正しい自分が愛されるべき、と(P.123「人生観」の学び
さらにもっと直接、広く目を向けてみるものとして、自分がどのように人への批判否定の感情や思考を向けるているかを、しっかりキャッチするのがいいでしょう。おそらく、「こうあるべきなのに」という観念を伴いながら抱くであろうものとして。

これはつまり結局前の方での
>ただ、これが自分の中にある「否定価値」から来ているのだろうか、自分は相手を否定しているのだろうかと思うと、
というのが、実際その通りだということになるでしょうが、それをまたさらに
>なんだか自分が根本的に間違っているような気持ちになります。
と感じるのがまた否定価値働きであり、問題の克服には全くつながらないわけです。そして
>自分の生活全体に影響を及ぼすものではない」と表面の意識では納得しつつ、内面では「どうせ自分なんて」という落胆と悲しみを感じます。
が、もう問題解決からは遠く離れた谷底甘い自己嫌悪耽るというものになってしまうわけです。


まず「行動学」を学ぶことから

取り組み実践としては、まずは「行動学を学ぶ」一言につきます。

上に書いた「団体行動」「組織化」「規則の明確化」と言った話は、「原理原則行動法」です。「楽しみの共有」という「建設的対人行動法」ができるためにも、まず楽しみ以前トラブル防止できるためにhも、「原理原則行動法」必須になります。

これからの対人行動場面のちょっとしたイザコザなどを、全て、まずは「原理原則行動法」で解決できるようにする。まずはこれが目標になるかと。
その取り組みの中で、「価値観」についても、自ずと分析できると思います。「原理原則行動法」としてはこう、という基準ができれば、後は、それとは違うものとして動く自分の思考も感情も、即座にピタリとその歪みが測定できるという次第です。それが前コメントで言った、海の上で作業するためのです。
上に、交友行動が「あるべき姿」として律せられるべきもの、律するべきものと感じている感覚思考、また自分がどのように人への批判否定の感情や思考を向けるているか、という検討課題を書きましたが、これを先に意識するとまた否定価値で自分を否定する繰り返しだけになる可能性がかなり大きく、まずはあくまで「原理原則行動法」の習得が先だとするのが良いでしょう。
情報としては、まいどのリンク掲載ですが以下などから。
2010.05.18 3つの「行動学」
2010.05.19 「原理原則立脚型行動法」(前)
2010.05.20 「原理原則立脚型行動法」(中)
2010.05.21 「原理原則立脚型行動法」(後)
より本格的に学ぶなら、「ハイブリッド心理学指定の必読書」として
ハーバード流交渉術 (知的生きかた文庫)

まあ推測できるのは、僕自身経験ありなのですが、「自分は正しく、皆間違っている、このままでは駄目になる」という、中身をあまり問わない宙に漂うような感情流れており、それがちょっとした出来事を捉えて他人への批判否定観念生み出す、というのが起きているかも知れませんね。
いずれにせよそうしたものどう「分析」「反省」したところで、それは克服できません。それの代わりになるものを築かなければ。血が悪くなる病気治療として、悪い血を抜き出すとして、そこに替わりとなる健康な血がなければ、また悪い血が生み出され体を満たしてしまいます。健康な血を用意しておき、悪い血を抜き出したらすぐに健康な血を埋めることで、やがて根本の造血機能健康化されるという次第です。

ということで、

>過去の過ちに対する後悔よりも、今後、望みへ向き合っていく中でブレないものとなっていくと思っていてよいでしょうか?

Noです。まず、自分から望みを妨げる行動法克服するのが当然先です。過去の問題についても、そこにどのような行動法の誤りがあったか、正解はどうだったかという答えを出せることが条件になります。
そうした妨げを克服しないまま望みに向き合おうとしたところで、まず起きるのは、今回の話で言えば、「親愛」の「望み」を向けることのできる相手に、何かの歪みを伴った限定が生まれることです。「この相手でなければ」と。ここでが、当初のご相談内容にも見事に重なってきますね^^。

>周りから誰も居なくなること覚悟で

は、もうまさに、自分の問題の克服を知らないまま、問題に加担する発想過去に成立した愛への病的な執着後悔にもつながってしまうものです。

ということで、「まずは原理原則行動法でイザコザを回避」することからですね。それが全ての足場、そして自己分析の糸口になると思います。
心の惑い動揺があるほど、心ではなく客観的場面内容に取り組むのが近道です。「自分」「相手」「どっちが正しい」といった思考法で、全てが惑い動揺の繰り返しになりますので、それにはまらないようしっかり目を配りながら「この場合の行動法は?」という思考取り組んでみて頂ければ^^。


 
Re: 人間関係について / にーな 引用
No.740 2013/12/14(Sat) 23:25:39

島野さん、レスありがとうございます。

>ともかく「行動学」的に分析するなら、なぜそこで止めようとしたのかです。

前のレスにも書きましたが、止めようという意図は全くなかったんです。もし私が「こんな進まないのもう止めようよ」とはっきりと止めようとしたら、あの反応は理解できるのですが、他の人は聞き流してしまうようなつぶやきのような言葉にあんなに激しく反論されるのは、いまだに正直理解できずにいるところがあります…特に最後の「なぜ自分のことしか考えないのかな。」という言葉が無かったら私は不快に思わなかったでしょう。そんなことない、他人のこともちゃんと考えているし、みんなが続行したいというなら全然構わない、と本心では思っていたからです。その本心を伝えた方が良かったのでしょうか…?現実には、彼女の勢いに自分が固まってしまい、反射的に何も言えませんでした。
ただ、止めようとする意図はないにしても、言葉に出してしまった時点で破壊行動になっているということは理解できました。特に馴れ合いがある私的な場面では盲点となることかと思い、改めて考えさせられました。公私にかかわらず「建設的行動法」が大事であるということですね。無意識にやってしまっていたということは、島野さんが推測されるように、恐らく生育からくる根の深いものかもしれないです。
実際には、自己紹介はそこで終わってしまい雑談の流れとなったので、自分はつぶやきのつもりでも、影響は大きかったのだなと今さらながら感じました。
後日談ですが、その相手とは現在は普通に交流が復活し、共有できる楽しみはやっぱりあるものだなぁと今のところは感じています。そして関わりの中で良い面が見えてくるようになりました。ただ、彼女と関わる時に、自分の中に以前には無かったちょっとした緊張感が流れます。自分の心にどんな変化が起こるか、もう少し様子を見ていこうと思います。

ひとつ疑問があります。貼ってくださったリンク2010.05.21 「原理原則立脚型行動法」(後)のマンション購入具体例についてですが、この場合の原理則立脚型行動法は、?@相手に対して常に肯定的であること ?A契約前であるから申し込みを取り消す権利がある…等になるのでしょうか?ストーリーを拝見する限り、担当者は感情を害しているし、荒げていると見受けられます。そうすると、原理則立脚型行動法というのは単に相手の感情を荒げないような行動をするのとは違いますよね?そんな風に生きなければならないならストレスフルです。自分の今回のケースを擁護するものでは決してありませんが、相手側の問題があるため、その場に順応する言葉に対しても過剰に反応する人がいるということはないでしょうか?

>まあその病気(^^;)とは、交友を「楽しみの共有」としようとしてはいるが、そこに「あるべき姿からの否定感情」がすぐに入り込んで、そもそもの「楽しみ」を破壊してしまう
>その否定行動が自らの欲する他人との親愛を自ら破壊しているものであることに、自分で気づいていないならそれが深刻な問題


これを読んだ時、あまりのショックで動揺してしまいました。「相手だって嫌なこと言っているわけだし、自分ばかりが悪いんじゃない、なんで島野さんはこんなことを言うのだろう」なんて的外れな思いが出てきたりして(すみません)… でも、いろんな場面を思い出しているうちに、これが自分を苦しめてきた大元なんだという理解に至りました。そして、そういう行動を取っている他人の姿もわかるようになりました。関係性の中で何が起きているかが見えてきて、否定行動で出てきた相手に否定行動で返すことがいかに愚かなことか、エネルギーの無駄かがわかりました。家族や続いている友人は、自分のそういった部分を見逃してくれていたんだなと思うと、ありがたい気持ちにもなりました。
これまでの取り組みの中で閉塞感を感じていたのには、学んでいるようでいて、実は「そのように感じるようにしてみる」といった「当てはめ」をやっていたことにも気付きました。 本当の意味での「原理原則行動法」「建設的対人行動法」を意識してここ数日過ごしたところ、感情の基調が少し上がってきたような気がします。

交友を「楽しみの共有」としようとしてはいるが、そこに「あるべき姿からの否定感情」がすぐに入り込んでと思われるエピソードとして先日こんなことがありました。
最近、婚活で知り合った男性がいまして(お付き合いはまだですが)、私の女友達を誘い3人で飲みに行きました。その女友達を誘った理由は、二人きりじゃない時の彼を見てみたいというのもありますし、その男性と女友達には共通の趣味もあり話が弾むのではと思ったからです。女友達は既婚者です。ところが二人の話が弾みすぎて、自分が中に入れないような雰囲気が何度かあり、「彼はもしかしたら彼女に興味を持ったのかも?自分より彼女の方をいいと思っているんだ」という卑屈な感情が何度か流れました。これは、「その男性は当然自分に興味を持つべき、自分ともっと話すべき」というあるべき姿からの否定感情と言えるでしょうか? また、こういった場面での原理原則行動法を教えてください。この日私が取った行動は、わからない話題であれば「私は知らないなぁ」と正直に言って聞き役にまわり、卑屈感で内面的動揺が起きた時は、席を外してトイレに行くことで気持ちをリセットしました。あとは、まぁ、全体的には普通に会話に参加していたと思いますが、卑屈感が流れているために内面は会話に集中できていない上の空な時間が多かったです。


 
「目的思考」「自分自身への論理的思考」でまず現状の思考法行動法を確認する^^ / しまの 引用
No.745 2013/12/18(Wed) 16:43:23

原理原則行動法

>ひとつ疑問があります。貼ってくださったリンク2010.05.21 「原理原則立脚型行動法」(後)のマンション購入具体例についてですが、この場合の原理則立脚型行動法は、?@相手に対して常に肯定的であること ?A契約前であるから申し込みを取り消す権利がある…等になるのでしょうか?

まず「学び」をおさらいしますと、

根本として、「破壊」から「自衛」「建設」へ。

行動法は、喜び楽しみと向上を共有するという「建設的対人行動法」、相手への意見を言うのではなく原理原則を言うという「原理原則行動法」相手を勝たせて自分も勝つという「ウインウイン行動法」。

価値観は、「愛」「分かり合い認め合う」ではなく「喜びと楽しみの共有」として向かい「自尊心」「相手を打ち負かす」「人に認められる」ではなく「現実において生み出す」ことにおいて築くものとする。

行動法として重要なのは、相手への「否定」「破壊」基本的に用いないことです。
これはりょうたろうさんへのレス
『「勝てる原理原則」は人生の駒を動かした先全てで学ぶ^^』 しまの No.744 2013/12/17
でも、こう書いた通り。
========
キモは、我々の「行動」全てを、「破壊」ではなく「自衛」「建設」のものにすることを、目標にすることです。
すると、「楽しみ」共有するというプラス行動「建設的対人行動法」となり、それ以外の、与えられた問題課題達成や、マイナスの状況への対処は、全て基本「原理原則行動法」になるということです。これで、内面「怒り」「怖れ」などのマイナス感情は、行動の原動力として役目を持たなくなります。
========


ただし「相手を肯定する」というのは、あまり前面に出るものではありません。「楽しみや向上を共有する」のであり、「原理原則について言う」のであって。
まあ総じて、行動法としては「相手の肯定」ことさら取り上げない行動法だと言えますね。「相手の肯定or否定」というのは、どっちかというと内面感情の問題として取り組むものになるかも知れませんが、なるべくそれに左右されない、安定した行動法を行うようにします。

ちょっと注意する必要があるのが、「相手に対して常に肯定的」といった観念が、「何でも相手の言うとおりに」「常に暖かい気持ちを向け」「常に笑顔で」というような、固定的な「気持ち」「表情仕草」の枠はめ強制を行おうとするストレス内面にあるという、別の問題を示している可能性です。
そうした内面ストレス影響を受けない行動法として、上記のようなものがあるということです。

それに留意の上、上記で参考頂いたのマンション購入事例では、相手に対して肯定も否定もなくニュートラル「取消権利がある」その通りですね。

>ストーリーを拝見する限り、担当者は感情を害しているし、荒げていると見受けられます。そうすると、原理則立脚型行動法というのは単に相手の感情を荒げないような行動をするのとは違いますよね?

もちろん相手感情を害しており、だからこそ原理原則行動法登場になります。重要なのは、相手が自らをそれに従っていると認めるような原理原則を言えることです。つまり、相手が自らをそれによって納得させてしまう、自らの感情収めてしまう。そうした、強力な原理原則というのが重要になります。
その例では「権利」ですね。そのは一応ビジネスの場であり「権利」という言葉それだけのパワー発揮することはもう間違いない状況ですので、としてはもう何の動揺もなくその言葉を使い、実際それで収まったわけです。

原理原則行動法では、相手の感情を取り上げず相手が重視するであろう原理原則、もちろんそれによってこっちの思う方向に持っていく原理原則を、取り上げます。相手見定めることがかなり重要になります。

>その場に順応する言葉に対しても過剰に反応する人がいるということはないでしょうか?

場と相手に応じた原理原則出せるように取り組みます。この辺はちょっと上級編^^「知識」「言葉の選択」さらには「相手を見究める目」問われる場面もあり、まさに長期的な学びと実践の積み重ね重要になります。

そうして、相手の感情をなんとかなだめなければ、そのために相手を肯定しなければ・・といったストレス無用な形で、問題を解決する行動法だということです。
よろしいでしょうか^^。


「目的思考」「自分自身への論理的思考」でまず現状の思考法行動法を確認する

>交友を「楽しみの共有」としようとしてはいるが、そこに「あるべき姿からの否定感情」がすぐに入り込んでと思われるエピソードとして先日こんなことがありました。
>「彼はもしかしたら彼女に興味を持ったのかも?自分より彼女の方をいいと思っているんだ」という卑屈な感情が何度か流れました。これは、「その男性は当然自分に興味を持つべき、自分ともっと話すべき」というあるべき姿からの否定感情と言えるでしょうか? また、こういった場面での原理原則行動法を教えてください。

それは「あるべき姿からの否定感情」というより、ただいじけてしまった気分であるような・・^^;
原理原則行動法は、「問題」「課題」はっきりとある場面に対して用います。その場面は、原理原則行動法によって解決すべき問題がある場面というものでは、特にないように感じます。
「自分ともっと話すべき」というあるべき姿からの否定感情」言えるかどうか、というより、実際「自分ともっと話すべき」と感じたのかどうかですね。

それが必ずしも不合理な「あるべき姿からの否定感情」だとは一律紋切り型には言えず、たとえばその相手すでに交際を開始した相手で、一般的なパーティでそうであれば、むしろ当然な話になるかも知れない。
ですのでその場面についてはむしろ、なんでそういうメンバー構成で会うことにしたのか、になると思います。

いずれにせよ、ここから先(細かい思考内容)は僕の方であまり先走りアドバイスするのではなく、『実践詳説』繰り返し指摘している
「目的思考」(P.46、思考の素地 「目的思考」
「自分自身への論理的思考」(P.64、自分自身に対する論理的思考
で、
自分は何を意図(何を目的に)して、どんな(その)行動を行ったのか。それによって事がどのように運ぶと考えたのか。
という自らへの問いをして、自身の思考法行動法を確認することから始めるのがお勧めになります。

重要なのは、それぞれの行動によって、自分が幸福になるように自ら向かうという思考と行動に、なることです。に言えば、自ら自分の幸福に向かうのとは違う行動を、取っていないか。そこに「あるべき姿からの・・」といった問題明瞭になるかも知れません。
いずれにせよ、まずは現状での自分の思考詳しく確認、からですね。

>>ともかく「行動学」的に分析するなら、なぜそこで止めようとしたのかです。
>前のレスにも書きましたが、止めようという意図は全くなかったんです。

についてもそうですね。ではどんな意図で言ったのか。ごめんなさい、前のレスでもてっきり何か問題を感じて止めようとしたとしか読み取れませんでした。
「自分はこれこれを意図して、こうなればいいと思って言った」というのを明確にすることで、そこにある思考の問題点への取り組みできるかも知れません。

これは「目的思考」とあわせて、
「現実を見る目」(P.49、「現実を見る目」という全ての始まり
という一番基盤となる取り組み項目になります。自分がこう行動したら、人はどう反応すると思っていたのか。そうした「現実を見る目」歪みがあれば、当然行動法もそれに巻き込まれて歪んでしまいます。

に、「目的思考」「現実を見る目」しっかり取り組むことで、行動法自ずと、ストレートに自ら自分の幸福に向かうものへと変えていく、そのため上述のような行動法検討する、という道順になります。



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