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「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問 / こたろう 引用
No.946 2014/08/06(Wed) 10:26:47

*管理者メモ*
これは
『(No Subject)』 こたろうさん No.931 2014/07/01(Tue) 17:20:52
へのレス
『Re:』 こたろうさん No.941 2014/07/25(Fri) 17:48:59
として入れて頂いたものを、この
新規トピックとして移動させて頂きました。
今後も、
話のテーマが変わった場合新規で入れて頂くとよろしいかと^^。タイトルも適当に入れて頂くとなおよろし^^。


ありがとうございます。
仕事の部分の向かい方に関しては、まだ少しひっかかる部分があるので
また少し考えて見ます。


また、スレッドが長くなってきてしまっているのですが、
入門編下巻の前半部からの質問になります。


●開かれた世界
=自分だけに注がれる特別の目がない。なぜなら「人物」をあまり問わない世界だから。
価値ある行動をすることができれば、人物を問うことなく評価されるが、その場限りである。
人々は「身内」ではなく、「他人」なのである。
それぞれが別の存在として、それぞれが唯一無二の方角へ向かっている世界なのですから。


であるからして

●閉ざされた世界
=身内と感じられる人々の中で、自分が特別な存在になりえる閉ざされた世界に
惹かれつづけてしまう。
具体的な思考を見失い、再び人の顔色が基準になりはじめる。


●閉ざされた世界で惑う時・・・・
=問題は、あるべき姿にかなえないこと、に感じられるが、
実際は違う。本当の問題は、「閉ざされた世界」における「愛に」、「嘘」が混じることになる。
そして「嘘」が許せなくなる。それはあるべき姿にそぐいようもない、まがいものですから。


●愛と嘘の表裏一体の罠
=愛されるために、ありのままの自分を隠して、別の人間を演じようとする。
そこに「嘘」がはじまることになる。
「嘘」だけはどんなに心が健康であろうとやんでいようと、心の根が善人であろうと悪人であろうと
ほとんど変わること無く、人間が本能的な嫌悪を感じるものなのです。
かくして、愛されるために嘘をつき始めた心は、ほぼ必然的に破綻への道をたどります。

それは
●「あるべき姿」を演じるのが難しいからではなく
●愛されるためにでも「嘘を演じること」をしている、自分自身が嫌になってくるのです。

ありのままの自分を感じ取る感受性が損なわれていなければ、自分が求めているのは
愛であり、それを得るためには自分に嘘をつかなければならないという心の現実、
そしていかなる外面行動を行おうとしても、そこに「自分への嘘」がつきまとい、自分がそれを
激しく嫌悪していることを、感じ取るかもしれません。


あるべきものがある世界では、自分に嘘をつかねばならない。

であるからして、それに絶望して、

開かれた世界へと旅立つ。

その絶望とは「自分に嘘をついて愛することはできない」ということ。
自分に嘘をついた時、私たちは自ら愛する事が根本的に出来なくなる。
それは、価値を感じなくなってしまうということなのです。


<勝手にまとめてしまっている部分もありますが、以上引用>


という事ですが、
疑問となるのが以下の部分です。


●自分だけに注がれる特別の目がない。なぜなら「人物」をあまり問わない世界だから。
価値ある行動をすることができれば、人物を問うことなく評価されるが、その場限りである。
人々は「身内」ではなく、「他人」なのである。
それぞれが別の存在として、それぞれが唯一無二の方角へ向かっている世界なのですから。


⇒開かれた世界が人物を問わないというのがよくわからない。
定められた姿を守らなければいけない環境よりも、開かれた世界で自己の純粋な
個性を発揮できれば、元いた存在の規律のある世界の人々からは嫌われたり、
のけ者にされる事は考えられても、嘘のない姿に惹かれる人々が出てくる事が
考えられる。
そうならば、そこで生まれるつながりは「他人」というほど遠くない
、むしろ特定の「人物」として評価を受けるし、それは一過性の評価ではない事も
多いのでは?




⇒続いて、自分に嘘をつくと人を愛する事ができないということについて。
それは、価値を感じなくなってしまうことだ、と。
これは、嘘をついて演じている自分で関わらねばならない人を愛せないということなのか?
それとも、嘘をついている自分がいる以上、他人全般、あるいは世の中のほかの様々な物に価値を感じなくなるということなのか?



⇒さらに、頻出する「嘘をついて愛される」について改めて整理したいです。
これは、「あるべき姿」を演じなければならないという事。


まず、集団は

@存在の規律のない集団(開かれた世界の集団)
A存在の規律のある集団(閉ざされた世界の集団)

実際は相対的な違いなので、度合いの違いになるかと
思いますが、こう分けられます。


存在の規律の濃い集団、はそれぞれ規律の内容が違います。


それぞれの
集団内において、愛される事を目的にした時に、
存在の規律に合致した条件を持つ人物は自分に嘘をつく必要はありません。
なぜなら、ありのままの自分で愛されるから。
一方、集団において、存在の規律に合致した条件を持たない人物は、自分を偽る
必要があります。


⇒つまり、存在の規律に合致した条件を持つ人物は、
閉ざされた世界にいても自分に嘘をつかないでいられるということになりますね。
つまり、愛する事も出来る。

「偽る」というのは如何なるものか?

⇒「趣味?」「性格?」「キャラクター?」



ここで、存在の規律に合致しない人物は、
@集団内で自分を偽る事に成功する
A集団内で自分を偽る事に失敗する
のどちらかになります。

Aの場合は、集団内で愛される事が出来なくなります。
@の場合は、集団内で愛される事は出来るが、
いくら愛されても「偽りの自己が愛されている」だけなので、
自分から愛する気持ちは持てません。よって、愛されている事にも
価値を感じる事が出来ないし、
嘘をついて愛されようとする「傲慢さ」に無意識に苦しみます。


そこで、どっちにしてもその現状を打破したいという
欲求が出てきます。その時、嘘をつかずにいれる集団に入る事が
考えられます。

@「存在の規律」の条件が、自分の持っている条件に合致する集団に入る。
A「存在の規律」がない集団に入る。


@が成功した場合、その人は自分を偽らずに済むので、閉ざされた世界に
いながら、その集団の人を愛する事が出来ます。
Aの場合は、開かれた世界にいるので、人を愛する事ができます。


⇒ここまで整理して、開かれた世界に行かなくても、
より自分の性質に合致した閉ざされた世界にいれれば
愛されながら愛する事が出来るのではないだろうか?という疑問が沸く。
つまり閉ざされた世界にいながら「嘘」の自分じゃない自分でいられる
ということです。



●自分の経験として、開かれた世界を価値観として持った集団は、
怖いです。なぜなら、そこではそれぞれの人が「何がしたいか」ということと
「自発性」を持って関わりあっていて、自分にはそれが欠けているからです。
いわゆる、学校で良い子ちゃんをしていたような人は少なく、
それぞれがそれぞれの趣味思考があって、芯があって。
「何をすればいいのか」という正解探しの姿勢では、浮いてしまう。
これは、僕には「自発性」「自立性」の「存在の規律」に感じられる。
「存在の規律」を人に対して課さないという「存在の規律」みたいな。

「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを認める」
ことが開かれた世界の性質だとすれば、上記のような感覚を持つ集団は
「開かれた世界」の集団ではないのかもしれません。

あるいは、「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを
認める」という性質を持っているのに、自分が勝手に人間として自分の方が
圧倒的に劣等だという見方をしてしまっているだけなのかもしれません。



●嘘を許す姿勢が、重要な選択になってくる。

人が弱く不完全な存在である時、どうしても「嘘」をついてしまう場面が
出てくることになります。
嘘を決して許すまいとしたとき、人は「嘘」をさらに「嘘」によって隠そうとし
はじめるからです。「嘘」を許さない姿勢によって、「嘘」は深まるのです。


⇒上記、存在の規律、における「自分に嘘」をつく、
あるいはここの部分の「嘘」。「嘘」というのがよく出てきますが、
抽象的でわかりません。
ハイブリッドで述べられている嘘とは何なのでしょう。性格を偽ること?キャラクターを偽ること?思っているのと違うことを言うこと?自分の欲求をごまかすこと?
出てくるごとにバラバラなものを指しているのかもしれませんが、
「嘘」というワードになって漠然としてしまってわからない感じがします。



一連の「閉ざされた世界」から「開かれた世界」への選択、
「嘘」を許すというのはどんな時のどんな嘘をどう許すという事なのか?
例えばある特定の人物のストーリーとして、対比的に描かれていればより理解できる気がし
ます。

というのは難しいかもしれませんが・・・・


 
Re: 「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問 / しまの 引用
No.947 2014/08/06(Wed) 10:35:53

「2つの心の世界」

まず言葉の理解から整理しますと、「開かれた世界」「閉ざされた世界」というのは、
『入門編下巻』「5章 3つの心の世界」
書いているものになりますね。

でそれが何を言っている話かと言うと、
・人と人との絆を得ようと、あるいは保とうとする仕方に現われる「病み」と、そこから抜け出すためにまず目を向けるべき世界
という、かなり特定テーマについてのだと理解頂くとよろしいかと思います。

そこにおける「病み」とは、
・「こうであれば愛してあげよう。そうでなければお前は生きる資格がない」というような「存在の規律」「存在の裁判」という心の世界
であり、
それに適うよう、自分に嘘をつくことで愛され生きようとする心の世界
です。これが「閉ざされた世界」

そこから抜け出すために、「開かれた世界」目を向ける、というになります。
それは人物を問うことなく、生み出すものにおいて尊重される世界であり、一方、自分だけに特別に注がれる目のない世界だ、と。

これはあくまで、「病みからの抜け出し」の際に目にするものを描写しているものであり、「病み」なければ(気づかなければ)、あるいはそこから抜け出そうとしなければ、特にそうした2つの世界対比意識することもないかも知れない、というにはなりますね。


「3つの心の世界」

さらにを話しますと、そうして「閉ざされた世界」から抜け出すために「開かれた世界の行動法」学ぶのですが、「開かれた世界」「自分だけに特別に注がれる目のない世界」であり、そこで「愛」得ようとし、「自分だけに特別に注がれる目」再び欲した時、「閉ざされた世界」再び向かってしまう、という流れ説明しています。

つまりこの「閉ざされた世界」「開かれた世界」という2つの世界行き来だけでは、答えが出ないというです。
そこに第3の心の世界現われる、と。
それが「魂の世界」になる、という話になります。

かなり難解かと思いますが、その先説明しているのが
・『入門編下巻』のその後の部分
・『概説 - 4.心の成長変化(1〜4)』

とうことで説明はそちらに譲り

実践面においては、重要なのは、
「閉ざされた世界」と「開かれた世界」の対比をしっかりと見据え、外面においては「開かれた世界」の建設的な行動法で生きる模索を始める
という部分になると思います。
それによって「心の成長」始まり「心の成長」によってその人の心における「閉ざされた世界」「開かれた世界」「魂の世界」勢力関係の全体変化していく、という流れです。「魂の世界」次第に優勢になる、とここでは手短に言っておけるかと^^。


「2つの心の世界」への疑問質問へのコメント

まずはざっとそんな話の全体だという前提で、ご質問にそれぞれ簡潔にコメントしますと、

>⇒開かれた世界が人物を問わないというのがよくわからない。
>嘘のない姿に惹かれる人々が出てくる事が考えられる。そうならば、そこで生まれるつながりは「他人」というほど遠くない 、むしろ特定の「人物」として評価を受けるし、それは一過性の評価ではない事も多いのでは?

「人物を問わない」というのは、「閉ざされた世界」からの「抜け出し」局面(言わば直後)において鮮明になる様相だと言えます。
もちろん、「新たな場」時間が経つほど、「人物への認識」強くなってきます。そこで嘘のない面で評価され愛されるのであれば、それに越したことはない。
しかしそれで済まず、再び「愛されるための自分への嘘」直面し、再び「抜け出し」必要になるかも知れない。その繰り返しです。
そこで重要なのは「抜け出し」とは必ずしも外面においてその社会や集団を抜け出すということではなく、まずは内面において抜け出すということです。自らに積極的に自分に嘘をつく姿勢から抜け出すその上で、その社会や集団建設的な関係を続けることを、まずは模索する。
こうした模索の積み重ねで、心が成長変化します。


>⇒続いて、自分に嘘をつくと人を愛する事ができないということについて。
> これは、嘘をついて演じている自分で関わらねばならない人を愛せないということなのか? それとも、嘘をついている自分がいる以上、他人全般、あるいは世の中のほかの様々な物に価値を感じなくなるということなのか?

両方です^^。


>まず、集団は @存在の規律のない集団(開かれた世界の集団) A存在の規律のある集団(閉ざされた世界の集団) 実際は相対的な違いなので、度合いの違いになるかと 思いますが、こう分けられます。

「存在の規律」と呼んでいるものと、「組織の規則」あるいは「参加の条件」というもの一般違いを、まず理解すると良いでしょう。
「存在の規律」は、「こうでなければ存在を許さない」というもの。
「組織の規則」「参加の条件」は、ただ単に所属のための条件やルールそうでなければ、その組織や集団からは抜ける必要があるが、その先にどう生きるかは自由「存在の規律」は、そうした自由さえも認めないものです。
「存在の規律」強い集団は、病んだ集団です。「カルト宗教集団」そうしたの多いかもですね。


>⇒つまり、存在の規律に合致した条件を持つ人物は、 閉ざされた世界にいても自分に嘘をつかないでいられるということになりますね。つまり、愛する事も出来る。

これはその通りで、上述の「病み」なければ(気づかなければ)」の(気づかなければ)≠ノ該当するということになるかも知れませんね。
ハイブリッド心理学では、あくまで本人が病みに気づき自ら抜け出すという段階からを取り上げていますので、それについて特に言うことはありません。


>⇒ここまで整理して、開かれた世界に行かなくても、より自分の性質に合致した閉ざされた世界にいれれば 愛されながら愛する事が出来るのではないだろうか?という疑問が沸く。つまり閉ざされた世界にいながら「嘘」の自分じゃない自分でいられる ということです。

それができていれば上述の通りハイブリッド心理学から言うことは何もありません。
現にそうはできない、というところから、ハイブリッド心理学としては取り組みを始めます。


>自分の経験として、開かれた世界を価値観として持った集団は、怖いです。なぜなら、そこではそれぞれの人が「何がしたいか」ということと 「自発性」を持って関わりあっていて、自分にはそれが欠けているからです。
>これは、僕には「自発性」「自立性」の「存在の規律」に感じられる。「存在の規律」を人に対して課さないという「存在の規律」みたいな。

正真正銘の「閉ざされた集団」の方が、ずっと怖いと思いますヨ^^; カルト集団とか、暴力で支配された集団とか^^;
いずれにせよ、「自発性」があって関わることができるというのは、「存在の規律」とか「参加の条件」以前の、人間の宿命もしくは摂理、もしくは自明の法則とも言えるもので、まず自分が何をしたいかというものを持つにそれが集団「参加の条件」合致しているのであれば、大いに参加を検討すればいい。合致しないのであれば、その集団への参加諦めなければならない。
そうして、まず自分が何をしたいかという「自発性」「自立性」によって、自らの進路を定め歩んでいく、ということになると思います。それができるのが自由であり健康ですね。

いずれにせよ実践的には、「存在の規律」見えていたものを、自分自身の内面でそう解釈しただけものであり、実際の外界には「開かれた世界」の面があることを、まず捉えることからです。そして「開かれた世界の行動法」学び実践していく、という順番になります。


>あるいは、「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを 認める」という性質を持っているのに、自分が勝手に人間として自分の方が 圧倒的に劣等だという見方をしてしまっているだけなのかもしれません。

そいういうことだと思います^^。で、そうした内面感情については「ただ流し理解する」のみとし、「生み出すことによる自尊心」へと、姿勢論精神論ではなく、日常生活社会生活における具体的場面取り組んでいくのが実践になります。いつかそうした具体的場面ベースでの自尊心が、人と自分の比較による優越感劣等感といったものを超えていく、と。


>ハイブリッドで述べられている嘘とは何なのでしょう。性格を偽ること?キャラクターを偽ること?思っているのと違うことを言うこと?自分の欲求をごまかすこと?
>一連の「閉ざされた世界」から「開かれた世界」への選択、「嘘」を許すというのはどんな時のどんな嘘をどう許すという事なのか?例えばある特定の人物のストーリーとして、対比的に描かれていればより理解できる気がします。

「愛されるために自分に嘘をついていた」自覚されるもの全てです。
「嘘を許す」とはそうして「嘘をついたこそ」そのものへの批判糾弾は、しないということです。嘘によって起きた「実害」そのものについては、しかるべき処罰があったとしても。これは『入門編下巻』P.171説明した話ですね。

ストーリー一つあげるなら、こんな感じ。ある若者が、友達に好かれるようなキャラを演じていたが、そこに無理があり次第に苦しくなる。そしてそのキャラが、自分への嘘であったのを自覚する。そして友人達の輪に入るのが怖くなり、できなくなる。
「嘘を許す」とは、この若者に対してその友人達が、「なんだお前は、いかさま野郎だったのか、許せない」と攻撃を仕掛けてくるようなことはせずこの若者輪に入らないことをただ黙って見守る、ということです。そしてその若者は、無理をして友達の輪に入ることからはいったん退却し、本当が自分が何をしたいのか向き合う日々に、嘘のない自分で人と接することへと向かっていく。
そんなストーリーになりますね^^。
もちろん、それがその友人達の輪再び入るという結末になるのか、それはもうなかったという結末になるのかは、人それぞれ唯一無二の未知になりますね^^。


 
Re: 「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問 / こたろう 引用
No.948 2014/08/08(Fri) 17:12:27

下巻135ページより。


開かれた世界だけで生きる事に徹しようとした時、空虚となる。

深みを欠いた、刹那的、もしくは機械的で些末な事柄に心を奪われて生きるだけの繰り返しです。
それは人生を失うに等しいことです。


→なぜそうなるのでしょうか。
理由と具体例があればお願いします。


 
「開かれた心の世界だけで生きることに徹しようとする空虚」^^ / しまの 引用
No.949 2014/08/13(Wed) 12:04:57

「開かれた心の世界」とは「人物を問うことなく、生み出すことで尊敬される世界」であり、それは同時に、特定の相手との深いつながりは、まだない世界です。
ですので、「開かれた心の世界だけで生きることに徹しようと」という表現使うような姿になった時、それは誰とも深いつながりは持たないという生き方なってきてしまいます。
それは「空虚」だ、という表現
これで説明になりましたかどうか^^。

具体例で言えば、前コメント「ストーリー」として書いてみた話で言えば、友達に好かれるよう演じていたキャラに無理があり、苦しくなり、いったん友達の輪から離れ自分をみつめる
そこから、「開かれた心の世界」の中で、自分に嘘を演じることなく人と親しくすることを学んでいければいい。そこから再び特定の相手との深いつながり模索へと向かうことになるだろう。
ところがそこで、もう特定の相手との私的な関わりは面倒、仕事だけして生きていければいい、といった生き方思考になってくると、そこで言う「開かれた心の世界だけで生きることに徹しようとする空虚」になってきますね、といった具体例を言えます^^。
これで説明になりましたかどうか^^。



(No Subject) / こたろう 引用
No.931 2014/07/01(Tue) 17:20:52

実例はいくらでもあると思います。

例えばコストダウンによって
良質な衣服が貧困層の人々でも買えるように
なりました。
これは価値の産み出しといえます。
一方で、工場となる東南アジアでは
低賃金労働が問題になります。
あるいは機械が発達して労働が集約されれば
今まで働いていた人が失業するわけです。
明らかに産み出された価値によって生活が
破壊される人々かいるわけです。

豊かな食生活を送ることは
世界の飢餓人口を維持します。
肉に使われる飼料は人間と競合します。

サポート性の高い靴が足の筋肉を
劣化させます。

生活に関わる物事に家電やインフラが
整うことによって、家族の共同作業やそこから
産まれる喜びが破壊されるかもしれません。


マーケティングでは
いかにいらないものをいると思わせるか、
欲を煽るかという事が鍵になっていますよね。
必要がないものまで求めさせる事によって
資源や自然が余分に破壊されます。

そもそも生み出すためには何かを破壊
しなければならないはずです。


自分が望ましいものに取り囲まれるという事は
その分のものがどこかから移動してきているわけですし。


 
Re: / こたろう 引用
No.932 2014/07/01(Tue) 17:36:47

いくら生み出す事をしている本人とその
価値を享受する人間が純粋な気持ちで幸福だとしてもも、一方で
必ずその価値が破壊する物事や人々の生活がある。

これは事実だと思います。

しかし、もしかしたら全ての人や自然界や
物事にとって本当に幸福になれる何かが
あるのではないか、という完璧主義的な理想を
求めているのだと思います。
最大多数の最大幸福ですか。

これを高尚な理想として抱きながら、
安易に価値を生み出したと喜んでいる人々に
見下した目を向けてきました。
一面からみた価値を万物にとっての
価値のように思って、うわついている人を糾弾して
やりたいという欲求。
そしてこれが自己に向かい、生み出すという事に
向かえない一つの要因のようです。何かを破壊しているのに、
絶対的に良いことをした、
素晴らしいことをした、と喜ぶ自分が許せないからですね。


 
現実的で地道な「建設」から^^ / しまの 引用
No.934 2014/07/10(Thu) 18:40:10

執筆の方ちょっと手放せなくなり遅くなりました^^。


「建設」の不完全性

これはまず
>実例はいくらでもあると思います。
の下書いて頂いたもの、そして
>いくら生み出す事をしている本人とその 価値を享受する人間が純粋な気持ちで幸福だとしてもも、一方で 必ずその価値が破壊する物事や人々の生活がある。これは事実だと思います。

これは、「ある幸福の建設」他の「不幸」の「遠因」なり得る、あるいは何らかの望ましくない副産物同時に生み出す、ということですね。
それはもちろん、ということになると思います。

そもそもこの世界のものごとは、必ずどこかでつながっています。それをたどっていって全てがつながるのだから、ある者が幸福になる建設は、ある者を不幸にする破壊だという思考が、成り立ち得ます。
その点、我々生み出し得るものは、かなり「不完全」なものだと言えるでしょう。


「基本行動様式」

一方、ハイブリッド心理学「基本行動様式」として「破壊」「自衛」「建設」言っているのは、そうした「不完全さ」さておきそれぞれの者何かしら「望ましいもの」判断した上において、それについてどんな行動モードをするかの話になります。
「破壊」は、「望ましくないもの」判断したものに対して、攻撃破壊する行動
「自衛」は、「望ましくないもの」判断したもの出くわさないよう、先回りして避ける行動
「建設」は、「望ましいもの」判断するものを、自ら生み出す行動

ですので、ここでの「破壊から建設への選択」は、「全てがつながっているから建設も破壊だ」とはならない点、理解頂ければと思います。これはよろしいでしょうか。

つまり2段階選択判断過程が、そこにはあるわけですね。
1)何を「望ましいもの」と判断するか。
2)どの行動様式の行動をするか。



現実的で地道な「建設」から

ハイブリッド心理学からの指針は、一言次のように言えるかと。
抽象的観念論に陥らないよう注意しながら、ごく現実的で地道な「破壊から建設への選択」に取り組み、
その先に
「不完全性の受容」でもある「否定価値の放棄」を成す。
と。

つまり、
「それは望ましいことかどうか」
「そのための建設的行動法はどうか」

を、ハイブリッド心理学では、個別に学び取り組むものとして扱います。

例えばまずは、自分の部屋の掃除をすること。これがどう人の不幸につながる可能性があるという思考は、不要かと。この場合は、取り組みとしては掃除のノウハウへ。
例えば企業の生産活動何らかの「公害」を生み出している可能性がある。それについて検討したいなら、企業の生産活動とその「公害」と思われる現象の、人を納得させられるような、直接因果関係についての論理的思考検討する。

直接的因果関係ありそうであっても、社会全体がそれを選択していることを、まず認める必要があるものもある。
例えば衛生の向上が、アレルギー症の増加の、かなり直接的な原因であるという医学的見解最近出されるようになってきています。だから不衛生を選ぶかどうかは、多少個人の自由範囲がありがらも、社会全体を昔のような不衛生に戻すことが「望ましいこと」とは言いにくい

つまりこれはものごとに常に「良い面」と「悪い面」がある、その全体を見て、「選択」だということですね。
そこに、「良い面に目を向ける」という「姿勢の選択」も出てきます。

いずれにせよ、ハイブリッド心理学では具体的内容ベース検討します。
「一面からみた価値を万物にとっての価値のように」思うこともなくなると思いますので、その辺心配なくごく現実的で地道な「破壊から建設への選択」に取り組むと良いと思います^^。


 
Re: / こたろう 引用
No.935 2014/07/10(Thu) 20:37:27

なるほど、望ましい物事というのは
各々が違う趣向があるとして、
ハイブリッドでいう建設、自衛、破壊というのはそれを実現するための手段としての行動様式を指しているという事ですね。


全ての人や物事に対して
良いことを見つけなければいけない、
それをしなければいけない、
という思考がありました。


でもこれはきっと誰にも批判されたくない
からだと思います。

自分が産み出せる価値が与えられる喜びは、それを価値だと
感じられる感覚が共有できる人々と、
産み出した価値の恩恵を直接、あるいは
間接的に受けられる人々に限られる。
その価値を生み出したことによって
批判も受ける。
それは各人の思い描く理想や各人のの利害に
食い違いがあるから仕方がない。その限界の中で、自分は何を生み出す価値だと思えるのか。

●そこで自分が価値を感じられないなら、
いくらそれに向かっても自信にはならないと
いうことでしょうかね。

ここがやっかいだと感じています。
価値ではないとは思わない。なくなったら不便だと思うし、あったら便利。だけどそれに関わることで生み出す価値は、すごく小さく思える。または替えがきく。そう思える物ばかり
といいますか。
だから、あっと驚く、常識を覆すような
価値にひかれる。
そのものの価値というよりは、
やはりそれに取り組む自分という
自己像が望みに思える分野も多々ありますが...


そうではないとインパクトがないというか、
価値を感じられない。
しかしそういうものほど市場が薄くて
仕事として選ぶのはリスクが大きい。

もっと色んな社会のスタンダードな物事に価値を感じられれば、様々な職種を選択肢として
仕事をして社会で生きる自信を得たい!
という動機になるのになぁと、思います。
そう思えるヒントはないでしょうか。


アレルギーの話、以前牧場に行ったときに
聞きました。子供を牛舎に来させて免疫をつけさせる人もいる、と。
また近い話で、僕は二年以上せっけん、
シャンプー、歯磨き粉をやめていますが、
(常在菌の生態系を保つという意味で)
問題ありません。むしろ腹は下さなくなっていますし、風邪もひかなくなりました。
関係ない話失礼しました...


 
Re: / こたろう 引用
No.937 2014/07/15(Tue) 16:00:29

具体的場面の質問です。

先日ティッシュ配布のアルバイトをしている時、
年配の男性に
「なんで帽子かぶらないの?」
と聞かれました。

自分としては帽子は逆効果だという
認識で被る必要がないと考えているので、
そもそも被ろうとする意思がなかったわけてすが、
炎天下の中で帽子を被らずに一日中仕事を
させられているという様にうつったようです。

しかし帽子が逆効果だとわざわざ言うと
そんな事はないと言われて口論になる可能性を
感じたので、

「そうですね、被った方がいいですよね」

とあわせておきました。

すると
「俺が上にいってやるよ、●●グループだろ?
株主だから」

と言われました。


咄嗟に、「いえ、自己判断で帽子は被っていないだけなので、大丈夫ですよ」と言ったのですが、
「俺がいってやる、上に言われてるんだろ」
の一点張りでした。


結論としては、そもそもその方が株主である
グループではなかったことがわかり、
「じゃーあだめだ」といわれて終わったのですが、
こういった場面での上手な行動方法はどうなるでしょうか。


後からわかったのですが、やはりスーツでの
配布とあってやはり会社(および親会社と業界全体)の規定で帽子は
禁止だったようです。知らなかったので、
自己判断で、と言うことになったのですが、
知っていたら正直に会社の規定で被れないんですよ、
と言っていた気がします。


なるべく嘘はつかないほうがいいという
漠然とした感覚でいるから、そうなるんですよね。

これを目的思考にして考えると、
会社で帽子が被れるようになることを仮に自分が
望んでいたとしたら、むしろその方が一言クレームを
つけて下さることが、ありがたい事にもなり得ると
思いますが、その場合にも下請けである配布会社の
アルバイトがクレームをつけたという話にすりかわれば、親会社から契約を切られてしまって、多大な迷惑をかけることになります。

今回はそもそもそれを望んでいなかったので、
とにかくその方の機嫌をそこねない事と、
親会社にクレームが入らないことが
目的となりました。

結果、帽子は被った方がいいですね、
と相手に合わせて、お気遣いありがとうございます、
今度は気をつけたいと思います、
といった言葉てやりすごしました。


そもそも今回の事は自分に対してのクレームではなく、
むしろよけいな気遣いへの
対処、という事になると思うのですが、
ほかにも頂いたものを使わなくなった時の
弁解に困惑することが多いです。


 
「仕事」と「価値」「魅力」「能力」^^ / しまの 引用
No.938 2014/07/17(Thu) 15:20:22

>なるほど、望ましい物事というのは 各々が違う趣向があるとして、ハイブリッドでいう建設、自衛、破壊というのはそれを実現するための手段としての行動様式を指しているという事ですね。

その通りですね^^。

>自分が産み出せる価値が与えられる喜びは、それを価値だと 感じられる感覚が共有できる人々と、産み出した価値の恩恵を直接、あるいは 間接的に受けられる人々に限られる。その価値を生み出したことによって 批判も受ける。

何を価値と感じるかは人それぞれで、その人自身と、その価値を共有する人々に限られる。それはその通りですね。
それでいいというになると思います。まさにそれに価値があると。つまり「一番価値があるのは、価値を感じる心」ということですね。これはデイブ・ペルザーから学んだ言葉

一方「批判を受ける」というのは話が大違いで、実際社会において批判を受けるのであれば、実際そこに何か対処すべき問題があるということでしょうから(批判の方が誤っている場合も含め)解決への検討必要になりますね。抽象観念論ではなく個別検討要


「仕事」「就職」と「価値」「魅力」「能力」

>だから、あっと驚く、常識を覆すような 価値にひかれる。そのものの価値というよりは、やはりそれに取り組む自分という 自己像が望みに思える分野も多々ありますが... そうではないとインパクトがないというか、価値を感じられない。しかしそういうものほど市場が薄くて 仕事として選ぶのはリスクが大きい。 もっと色んな社会のスタンダードな物事に価値を感じられれば、様々な職種を選択肢として 仕事をして社会で生きる自信を得たい!という動機になるのになぁと、思います。そう思えるヒントはないでしょうか。

「仕事」「就職」検討として、ここでは「価値」という言葉だけ書いておられますが、3つの面があると理解頂くと良いかと思います。
「価値」「魅力」「能力」

「価値」 ・・・ 何にとってどんな価値があるかという、多少とも論理的思考、およびそれを尊ぶ感情だと定義できるでしょう。多少とも論理的思考があるので、上記のように、「批判」には論理的思考で対処することができます。
にある「仕事」全てに、「価値」があります。違法な「仕事」でない限り。
一般に、人生体験を重ね心が成熟するごとに、人はより多くの「価値」を感じ認めることができるようになります。また一つ一つ「価値」大小を、あまり違わないもの感じるようになります。そして自分が生み出すことができる、ささやかな「価値」を生み出す地道な日々に、幸福を感じることができるようになります。

「魅力」 ・・・ 一つ一つ「価値」惹かれる衝動だと定義できるでしょう。これはもう理屈ではどうにもならず、ありのままに感じるしかない。
若く未熟であるほど、一つ一つ「価値」大小が、極端に違うものに感じてしまいがちです。そしてそれが得られなければ自分の人生は駄目だと早計な思考陥りがちですが、
・追い求めた「魅力」において挫折した時こそ、見えなかった「価値」が見えるようになる節目となる
という心の懐に入れておいた上で、まずは今魅力を感じるものへとまい進できるかどうか検討するが良い、ということになると思います。
ただし恐らくそれはすぐ次の話として現われるだろうということで。

「能力」 ・・・ 技能スキル行動力などにおいて、実際自分がその仕事なり職種なりできるかという現実的問題。当然若く未熟であるほどこの「能力」低く、一方「魅力」極端なものを感じがちなため、そこに途方もないギャップ現われなちです。
ならばそのギャップに、早いとこ向き合うのが正解です。
まず「社会に出る」という現実的課題が、猶予なく訪れます。「魅力」あるものなど手が届きそうになく、「価値」良く分からない、というところから、我々社会に出るわけです。
そこで重要なのは、「仕事の普遍的スキル」など、ごく実務的で着実な学びが可能なものを、まず身につけていくというアプローチです。


「現実解の模索」の積み重ね

以上3つの視点全て踏まえた上で、「今向かうべき現実解」模索へ、ということになると思います。

つまり、
>あっと驚く、常識を覆すような 価値にひかれる
については、目をそむけることなく、それはどんなものか具体的内容しっかり明瞭化することです。そのリスクも含めて。

>もっと色んな社会のスタンダードな物事に価値を感じられれば、様々な職種を選択肢として 仕事をして社会で生きる自信を得たい!という動機になるのに
「魅力を感じられれば」という問いにはもう答えがなく、感じるようにしか感じようがない(^^;)と思いますが、「価値を感じられれば」という問いであれば、「それはどういう価値か」について学ぶことができると言えます。
これについては『入門編下巻』以下のような(P.212)
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 「価値とは何か」について思考し、話すための、一大探究領域が、私たちの社会にはあります。「価値言葉」を使って、ものごとを思考し、人と会話をする練習をしてみて下さい。
 あの人はどうだ、この人はどうだ、という言葉の使い方をするのではなく、ここで生み出される価値とはこれこれです、これこれの価値を生み出すためにはこうすると良い、といった言葉の使い方をします。

 仕事、趣味、家庭と日常生活、その全ての場面にそれがあります。
 仕事であれば、「品質」や「効率」の向上、「お客様の満足」の向上、そのためのさまざまな工夫。「コンプライアンス(法遵守)」なんていう言葉がCMでも流れる時代です。覚えると良い言葉が沢山あります。
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そうした「価値」学び知っていくごとに、より広い職種選択視として視界に入れることができるようになると思います。動機づけにもなりますね。
ただしこれは実際仕事を体験する中で、「価値への知」増やしていく、というになるというのが、僕自身の社会人経験からも言えることです。

上述の通り、「価値」まだ良く分からず「能力」まだ低く「魅力」感じるもの自分の現実との、途方もないギャップ。そこからスタートするのですが、そこに「仕事の普遍的スキル」など、今まで学校で教わった「やる気」「協調性」とかの、実際に社会に出て役に立たない精神論とは違う、知恵とノウハウの正解を取り入れていくことに、前進の要素が出てきます。

そうしたものを全て込みにして、「今向かうべき現実解」を決めて向かうしかないわけです。
どれか一つを見ても進み先は分からない自分が関われそうな「価値」小さそうでつまらない、だから常識を覆すような価値惹かれる、だけどそれはリクス大きい、ならもっとスタンダードなものに価値感じられればいいのか、等々。
そうした思考の中で、どれか一つを見てうまくいかなそうなので、それを否定して別のものを・・という「取り消し思考」繰り返している間は、「成長」ありません。なぜなら、それは結局自分に嘘をつくことだからだ、と言えるでしょう。

それらが互いに矛盾し、対立し合っていたとしても、全部を、ありのままに認め、「多面を持つ見えない一つの本質」として、今自分が向かうべき道を決める
そこに「成長」始まります。全てをありのままに認めた上で成す一歩の歩みによってです。そして「成長」によって「多面」全体が、変化始めるわけです。「価値」少し見えてきて、「能力」一歩前進し、「魅力」がまた少し違った見え方をするようになる。

最後までそうした、「現実解の模索」の積み重ねになる、ということです。


まずは「能力」基準で

一方人生全体変遷としては、およそのような流れ見通しとして持っておくと良い、というアドバイスができると思います。
まずは低い「能力」にて「とにかくできること」で社会に出ることを始め、「能力」も高めていく中でより高い「価値」へと向かう、と。

「魅力」というのは、最後まで手に届く範囲にはならない可能性かなりあります。それが「仕事」というものだと思います。
まずは生計を立てるという「必要性」から始める。やがて結婚して家族を設けるという「望み」が加わるならば、「仕事」それ自体の「魅力」を動機にするというより、家族への「愛」のためのものとなる、というように。

いずれにせよ最初は、地味なものです(←断定調^^;)仕事とはどうあるべきかなんていう抽象観念論を回したところでどうにもならないようなものとして、どんな就職ができるかという地味な「現実」があります。ならば、できるだけ早くその「現実」うまく対処するための具体的ノウハウの方に、心のアンテナ切り替える方がいい。

「低い能力」始めなければならないことへの幻滅絶望もあるでしょうが(僕もそうでした)、それでどうやっていけるのか。その答えがあります。
社会それを受け入れる仕組みを、用意しているということです。その仕組みに、まずは素直に乗った方がいい。
高い能力を必要としない代わりに、給料も高くないという仕事からです。新入社員は皆そうしたところから始めるわけです。それ以前においても、まずはごく単純なバイトのようなものから、実社会体験の中で、学んでいくとよろしい。

まずはそんなものから現実的に始め、やがて20年といった先に、「自分が生み出すことのできる唯一無二の価値」といったものに目が向く時が訪れるかも知れない。
そうした見通し持っておくと良いだろう、ということになりますね。

そのように「とにかくできること」から始め「より高い価値へ」という向かい方流れについては、
『進路相談』 masaさん No.871 2014/05/01
へのレス
『「選択肢の正しい立て方」・「仕事」への入り方』 しまの No.877 2014/05/05

仕事はまず実践スキルで選ぶ
というところで、人生の段階として別のものになるという主旨説明していますので参考頂ければ^^。


p.s
No.937 2014/07/15で入れていただいたものについては、また後日^^。


 
「肯定形の断り方」^^ / しまの 引用
No.940 2014/07/22(Tue) 11:42:26

では引き続きNo.937 2014/07/15で入れていただいたものについて^^。

>これを目的思考にして考えると、・・(略)・・今回はそもそもそれを望んでいなかったので、とにかくその方の機嫌をそこねない事と、親会社にクレームが入らないことが 目的となりました。

「目的思考」実践ベリーグッドですね^^。
一言「波風を立てずに断る」のが目標になる行動場面、ということになると思います。今回「仕事場面」ですが、相手はっきり顧客にもなっていない、一般の通行人との接触ということで、出来事の重さとしてはそれほどでもない場面

いずれにせよ、仕事場面であれプライベート場面であれ、「波風を立てずに断る」ための行動法、ここでは言葉の使い方としては、
・「肯定形」で断る
というものが指針原則になりますね。一番基本的な例としては、お出かけ誘われたが断りたい時、「それには行かない」という言い方をするのではなく、「その日はこれに行く」「その日はこれをする」といった言い方実はその相手と一緒に行くのが嫌だというのが内心の理由であっても、まずそう言う^^;
これがあまりに度重なり、「その日は・・」という言い訳が難しくなってきた場合は、多少理由一般化した形で、それでもできるだけ「肯定形」なるような言い方を考える。当面節約のため外食は控えたい、とか。まこうしたちょっと状況が立て込んできた場合は、「肯定形の断り方」だけではない視点使う必要が出てくるかも知れませんね。

いずれにせよ、深い人間関係など絡まない一般的な場面においては、そうした「肯定形の断り方」基本で、さらにそこに
・ユーモアを加える
のが上級編となり、それで相手の機嫌を損ねることなく、相手の申し出を断るという行動かなり完成する、という感じになるかと思います。

今回のケースでは、「もう少し日焼けしてたくましい男になりたいので、いいんです♪」とかかなーと。

ともかくは、
・「肯定形」で断る、そこにユーモアを加えるとベスト
というものになりますね。

>ほかにも頂いたものを使わなくなった時の 弁解に困惑することが多いです。

についても、そうした指針で考えると色々と発想が出てきて面白いかと思いますが、まあ「頂いたものを使わなくなった」については、そうした話題に触れないで済めばそれに越したことはないですね^^。

いずれにせよ、以上のアドバイスは、「問題に深入りしないので良い」という場目状況であるのが前提です。問題をしっかり取り上げ、解決すべきものとして対処する場合は、「原理原則行動法」などが必要になってきます。


 
Re: / こたろう 引用
No.941 2014/07/25(Fri) 17:48:59

*管理者メモ*
トピックが結構長くなっており新たな話のテ−マということで、
『「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問』 こたろうさん No.946 2014/08/06(Wed) 10:26:47
として
移動させて頂きました^^。



「学び」の奥深さ / 引用
No.928 2014/07/01(Tue) 01:49:40

 こんにちは。
 前回の書き込みにおいて「本格的な学びに入ってきた」ということで、今までとは打って変わって本格的に前へ進めるようになる!という感覚のもとで過ごせることをまず期待するようになりましたが、しばらく経つと「実はハイブリッドに関して何もわかっていなかった自分」を自覚する、という感じになりました。
 先生のサイトの説明の中でそういう話にも触れられていたこともあり、幸いそこで動揺したり混乱するということはなかったので、落ち着いて身の回りのことについて自分自身の考えを持つことに専念しつつ日々を送るようにしています。

 典型的にミスってたことを実感したものとして、たとえば相手を説得する場面についてですが、理詰めでやるべきものなのだと無意識のうちに思い込んでいたことでした。
 カラオケの採点機能でそこそこのスコアが出るようになったのを世間話で知人にした時、そのうちの1人が、カラオケを教えてほしいなどと結構執拗に頼み込んでくるようになり、面倒だなあ…と感じつつ、まず自分は一人でカラオケに行くのが好きなことを前提として話した上で、採点とカラオケの上手さは別であることを、上手さとは無関係にスコアを上げる方法(実際にやってみると、かなり不自然で気持ち悪くなります。実際私も、自分の歌声に意識せず歌ってた頃は、点数が上がることで上達してると勘違いしてました^^;)なども交えて説明し、更に歌の教え方など具体的にはわからないということなどを結構理詰めで説明し、他をあたるよう説得したのですが、どうやら「一人で歌うことは寂しいことだ」という考えで居るらしく、なかなか引き下がってくれずにいい加減イライラした、ということがありました。仕方ないのでアプローチを変え「勝手に上手いと決め付けてついてこられても困るし、プレッシャーになるだけだから」と、感情面での根拠も伝えたら何とか引き下がってくれました。そう言えば以前仕事上で常連さんから無茶な要求をされた時にも、「ルールですので」というだけではなく「ルールを破ると最悪クビになりますので」という言葉などで、若干情に訴えるニュアンスも含まれていたように思えます。確かに理詰めでだけでは、特に相手が感情で物を考える習慣の強い人であれば、まずその理屈を理解できずに話が平行線を辿る可能性もあり、最悪の場合、理屈っぽい奴だということで怒りを向けてくる可能性も考えられるな…と。単に理詰めで説明して納得させるのではなく、その場に応じて、情理両面での材料が必要だというのを痛感しました。

 前回ご提案のあった「オープンな交友関係について再び考えてみる」ということについてですが、実際自分が経験したものや周囲で見聞きしたものをあわせて考えると、大抵の交友関係は、それぞれ千差万別な比率で「オープンさ」と、いろんなトラブル…はっきりした揉め事であったり水面下での陰口や誹謗中傷、不毛な争いのような「面倒くささ」をミックスしたようなものなんだろう、と、理屈の上で結論付けましたが、やはり「面倒くささ」に巻き込まれるのは嫌だなあ…という感覚は拭えませんでした。その後二つのことが思い浮かびました。
 まず1つは、「建設的な行動法について、今はまだ、人と接する場面ではそういう行動があんまり出来ていない。たとえば会話するときなどは、その話題に関することで頭がいっぱいになり、破壊型か建設型かをチェックしながら発言するということが出来ていないな」ということでした。平たく言えば「話題について考えながら建設型の文法を考える余裕が無い」自分が居る、と。
 もうひとつは、「そもそも、俺は人の輪に入ることありきで行動するのが好きな性分なのか?」という自分への問いでした。今のところ大抵は一人で完結できるようなものへの関心しか持てていない分、そうでなければ「付き合いのための付き合い」にストレスを感じるのは避けて通れないだろう、と。いろんな場面を考えましたが、やはり自分は一人でマイペースに行動できることに魅力を感じるので、まずは人と関わることを避けられない場面で、必要な行動と並行させてどれだけ建設的な行動について考える頭を確保するか、というのが課題になりそうに感じました。とりあえずは慣れが必要だな、と感じている次第です。
 また、進展があったらご報告いたします。


 
「自らによる成長の歩み」へ^^ / しまの 引用
No.933 2014/07/10(Thu) 14:57:09

執筆の方ちょっと手放せなくなり遅くなりました^^。


「自らによる成長の歩み」へ

>しばらく経つと「実はハイブリッドに関して何もわかっていなかった自分」を自覚する、という感じになりました。

それこそがまさに真の理解への入り口になるという、
「パラドックス前進」
ですね^^。

>前回の書き込みにおいて「本格的な学びに入ってきた」ということで、

「本格的な学び」は、まずは取り組み実践の進め方そのものを、
「「最初の一歩」から「自らによる成長の歩み」へ」
というギヤチェンジするということになりますね。
それを念頭に、今回の材料についてコメントするならば、以下のような感じ。


「単に理詰め」ではない「原理原則行動法」

>典型的にミスってたことを実感したものとして、たとえば相手を説得する場面についてですが、理詰めでやるべきものなのだと無意識のうちに思い込んでいたことでした。
>単に理詰めで説明して納得させるのではなく、その場に応じて、情理両面での材料が必要だというのを痛感しました。

これはGoodな前進ですね^^。
その通り、まあ「論理的思考」から始まるものの、それは「一方理屈だけで考えるのではない」ゆえに、話が長くなると昨日のブログでも触れた通り^^。
話が長くなるとは、「学び」沢山出てくるということであり、そのそれぞれについてまず自身の理解納得を問うことに「実践」がある、というになります^^。

「原理原則行動法」などの「行動学」「単に理詰め」ではないことは、
・「場と相手に応じた原理原則」
重要になる、というのがまあ上級編(^^;)になってきますね。これについては、
『人間関係について』 にーなさん No.710 2013/11/27
トピックでの第3レス
『「目的思考」「自分自身への論理的思考」でまず現状の思考法行動法を確認する^^』
しまの
No.745 2013/12/18
具体例の中で、
======
場と相手に応じた原理原則出せるように取り組みます。この辺はちょっと上級編^^「知識」「言葉の選択」さらには「相手を見究める目」問われる場面もあり、まさに長期的な学びと実践の積み重ね重要になります。
======
触れていますので参考になるかと。まあこれが使いこなせるようになるのは、「成長の歩み」かなり後半になってからのように思います。それだけ沢山の経験積み重ねと、年季の先に、身についてくる。

まずは紋切り短絡でワンパターンにならずに、
「3種類の行動学」
どんな場面どれがベストかという学びと検討常に行うに、そうした積み重ねできる頭に入れておくと良いかと^^。


取り組みの方向

一方書いて頂いた後段は、「実践」始まりとなる「何が問題、課題、望みか」が、またそこから始めるアプローチそのものが、ややつかみ切れていない印象^^。
まとにかくは何でもかんでも(雑な言葉^^;)手近「学び」実践法にせよ成長の理解にせよ、
・継続的読書 ・・・ 自分の理解納得を問いながらじっくり読む
・日々の「実践」 ・・・ 「問題・課題・望み」に対応する「学び」を正確につかみ、これもまず自分の理解納得を問う

という
「一貫した「実践」の歩み」
しばらく続けてみることが、前進要領つかむためにも最短になると思いますので^^。

書いて頂いた後段については、やや断片的になりますが、僕からはこんなコメントができるかと。
そうした断片的な話全体を通して、自らの取り組み一歩の方向どう感じ取るかは、ご自身委ねられるということになると思います。

>大抵の交友関係は、それぞれ千差万別な比率で「オープンさ」と、いろんなトラブル…はっきりした揉め事であったり水面下での陰口や誹謗中傷、不毛な争いのような「面倒くささ」をミックスしたようなものなんだろう、と、理屈の上で結論付けましたが、

ミックスはできないと思います^^; それはまるで海外旅行について自分の望みを吟味しようとうする際に、まず海外旅行とはスイスの絶景中東の危険さアフリカの灼熱ミックスしたようなものだ、と考えて検討に入ろうとするような^^; 結果、まずどーも面倒・・とだけになるのが必至かもですね・・。
それぞれ別個の人間関係事象として、それぞれについて建設的対処法の詳しい「学び」に進むか、ということになるかと。

>その話題に関することで頭がいっぱいになり、破壊型か建設型かをチェックしながら発言するということが出来ていないな」ということでした。平たく言えば「話題について考えながら建設型の文法を考える余裕が無い」自分が居る、と。

具体的状況内容ごとでの、一つ一つの取り組み積み重ねになると思います。詳しい具体的状況内容を言っていただければコメント可能かと^^。

>「そもそも、俺は人の輪に入ることありきで行動するのが好きな性分なのか?」という自分への問いでした。
>とりあえずは慣れが必要だな、と感じている次第です。

こうした「自分への問い」は、「望み」への向き合いと、それに向かうための視点の「学び」どう経ているかによって、前進役割の有無と意味合い違ってくるということになると思います。
書いた頂いた文面からは僕からはその状況は分からず、それを自身で確認すると良いというになりますね。
「慣れ」というのは得てして問題の明瞭化をしないままの現状維持を意味するので、やや要注意。この辺がご自身でもちょっと何かつかみ切れていない部分のような印象も。

そこで明瞭化すべき問題とは何か。そのための糸口は、例えば

>今までとは打って変わって本格的に前へ進めるようになる!という感覚のもとで過ごせることをまず期待するようになりましたが、

ここで「前に進める」とは、何がどうなると期待したのか。そうした自己分析が、何よりも「パラドックス前進」つながると思います^^。


 
Re: 「学び」の奥深さ / 引用
No.936 2014/07/12(Sat) 17:43:04

アドバイスありがとうございます。

>後段は、「実践」の始まりとなる「何が問題、課題、望みか」が、またそこから始めるアプローチそのものが、ややつかみ切れていない印象^^。

読み返していると、確かに「交友関係」において何を望んでいるかがぽっかりと抜けているのを自覚しました。
一方、人の輪に入らないことで生じる問題も、嘘偽りなく考えると何も思い浮かばず、これじゃあ考えても何も進むわけがないですね。
今思い浮かぶのは、せいぜい、カラオケに関して、機械からの評価ではなく、自分は実際どのぐらいのレベルかという生の情報に僅かながら興味があるぐらいです。
より明確な「望み」が出てきたら再度考えてみます。

>ミックスはできないと思います^^;
んー…これについては、不毛なもめごとや陰口・誹謗中傷みたいなものと全く無縁な集団などあり得ない、という感覚はどうしても抜けません。
ちなみに、そういうものの標的にならない方法について調べても納得のいくものが見つからなかったので、「肯定型文法」から「建設的行動」まで身につけていく以外に今は手段がないのだろうな、という感じの流れにもなりました^^;

あと、「慣れ」については、「肯定型文法」への「慣れ」という意味合いでしたが、誤解させるような書き方で申し訳ありません。

>何がどうなると期待したのか。
自分の問題をガンガン解決していけるようになること、でしょうか。
あるいは、今までの取り組みでおそらく明確に出てこなかった「愛」へのアプローチも出来るようになる、とか。

このへんを考えるにあたり、最近、「愛されること」や「褒められること」は危険である、という感覚が次第に浮き彫りになってきました。
「愛される」「褒められる」というのは、そこに色眼鏡が入ることも珍しくなく、多少妄想に近いようなものも混ざってくるため、その分相手の妄想から外れないような振る舞いを強いられることになり、逸脱すると「そんなお前はお前じゃない!」という怒りを向けられるようになる、と。社会的によくあるのはスポーツ関連の報道ですかね。負けたら掌返してボロクソに叩く、というやつですが、それが身近な人間関係にまで蔓延しているのではないか、という恐れです。
まあ、「愛される」場面でなら、最悪の場合「あんたの妄想劇に付き合ってやる義理はない」と言って関係を断てば済む話ではありますが、仕事の場面で評価された場合、それで辞表を叩きつければすぐに文無しになってしまいますので、その辺は問題かもしれません。
まあ、意外なところから問題が浮上したので、どうアプローチしていけばいいか、再度調べてみようと考えてます。


 
Re: 「学び」の奥深さ / しまの 引用
No.939 2014/07/17(Thu) 16:14:53

検討を進めるとのことで、とりあえず押さえておくべきポイントコメントしておきますと、

>不毛なもめごとや陰口・誹謗中傷みたいなものと全く無縁な集団などあり得ない、という感覚はどうしても抜けません。

「集団」として世に成立するものとなるとそうかも知れませんが、重要なのはその中における個々人の行動法の違いですね。自身交友行動検討も、その把握ありきで前進可能になると思います。
あるケースで不毛なもめごとや陰口・誹謗中傷みたいなものが起きるものが、他のケースでは起きないという違い想定でき、それが個々人のどのような行動法や価値観の違いによる、というものがまず理解できればいいと思います。
できるだけ具体例ベース検討すると良いかと。

>最近、「愛されること」や「褒められること」は危険である、という感覚が次第に浮き彫りになってきました。「愛される」「褒められる」というのは、そこに色眼鏡が入ることも珍しくなく、多少妄想に近いようなものも混ざってくるため、その分相手の妄想から外れないような振る舞いを強いられることになり、逸脱すると「そんなお前はお前じゃない!」という怒りを向けられるようになる、と。

これは「愛されていること」「褒められること」話というより「本当には愛されていないこと」「本当には褒められていないこと」の話というような^^;
相手を愛するではなく、自分の欲求の満足のために利用する。相手を本当には認めていないから、こっちの論理を押しつけるために褒める
これも、そうではない、本当に相手を愛する(愛される)本当に相手を認める(認められる)こととの違いというものを、まずは押さえてからの検討が良いかと^^。



運転トラブルの場面の建設的行動と反論の建設性について / wh 引用
No.925 2014/06/27(Fri) 14:19:41

自分が正当だと考えている行為で、他人に怒られたり非難されると非常にストレスを感じます。ストレスを感じすぎて、相手を憎み攻撃したい衝動に駆られます。

今回質問をしようと思ったきっかけは、今日の自動車の運転の際のトラブルです。
片道三車線の道路の左側車線を通行しており、交差点を直進しようと黄色信号の段階で停止線を越え交差点に進入しました。すると、対向車線の相手でその右側車線から右折しようとしている車の運転手から、「信号を見ろ、赤信号だろう」というジェスチャーをされました。こちらとしては黄色で停止線を越えたつもりなのに一方的に非難されてしまい、怒りがおさまらずその車を追いかけて警察で話をしたい、こちらの言い分をいいたいという衝動に駆られました。

運転中のトラブル(こちらとしては相手方の危険運転と考えています)で怒りの衝動に駆られることが時にあり、怒りが収まらず相手を追いかけてナンバーを控え警察に連絡したこともあります。

こういう行動は破壊的だと感じる一方、何もしないと理不尽な思いでどうしようもなくなり攻撃する衝動も否定しきれません。

運転場面での相手方の危険運転トラブルにあった場合における建設的行動について、お考えを拝聴したいです。

また、この怒りを分析すると、自分にも言い分があるにもかかわらず非難されるとなぜか言い返すことができないという性格が子供の頃からあり、一方的に悪者扱いされても悔しいが言い返すことができず、そういう自分に対しても悔しくて泣いてしまうということが思い当たりました。

相手に反論するという手段を持っていないためか、相手に一方的にいわれることに対して異常な悔しさを感じてしまうのかもしれないと分析しています。


言い返すことは、自分を護る、自分の見方に自分がなるということを自分に示すためにも必要な、建設的行動でしょうか?子供の頃からの性格からか、相手に言い返さないと負けた感じがして、自分でさえも自分の味方になっていないことにいいようのない怒り・悔しさ・憎しみが生じてしまう気がしています。


 
破壊型行動の「価値」と「勝算」を吟味するパラドックス前進^^ / しまの 引用
No.930 2014/07/01(Tue) 12:04:54

「パラドックス前進」

これは先日アップした中の
『5.歩みの道のり  (2)真の前進へ』 ・「パラドックス前進」
良い例となると思いますのでじっくり説明しましょう。

遠く先に見据えるものとはむしろ逆の方向へと向かっていき、その結果その変化へと近づく
というやつですね。
つまり「取り組み実践」では、

・「学び」の内容の正確な理解
・自分がどのようにそれとは違うものを取ろうとしているかの自覚
が、極めて重要になります。

前進はこの2つが揃った時においてこそ生まれるさえ言えるように感じます。その時こそ、「今」「前進すべき未来」とのギャップはっきりするからです。
そうしたギャップなく「自分はこれでいい」という意識でいる時というのは、「学び」の理解が不正確で「そのつもり」という浅い思考の中で前進しないままでいるか、もしくは前進できた後の状態かのどちらかです。
今まさに前進する
という我々の意識は、「前進すべき未来」「それとは違う今」はっきり捉えるという状態になるわけですね。

ですので実践的にも、むしろ「自分はどう学びを納得できていないか、学びとは違うものに心が向かおうとしているか」にしっかり向き合うことこそが、前進を早めるものになると言えます。


「自分に味方する」と「建設的行動」

で、まず今回検討内容がどんな「学び」対応するかの整理から言いますと、

>言い返すことは、自分を護る、自分の見方に自分がなるということを自分に示すためにも必要な、建設的行動でしょうか?子供の頃からの性格からか、相手に言い返さないと負けた感じがして、自分でさえも自分の味方になっていないことにいいようのない怒り・悔しさ・憎しみが生じてしまう気がしています。

まずここにある「自分を守る、自分の味方でいる」というのは内面姿勢のことで、もちろんそれは重要です。
時にこれが失われてしまうことがある。特に「善悪」の観念の中で、それを見失いがちだと言えるでしょう。で、「自分を責めてしまいます」なんて言葉をよく見聞きする。自分を責めたところで、何も良くならないのに。
まずそうした混迷の姿勢脱し「自分を守り育てる」ことをこれからの自分の進む道定める
これはもう全ての前提であり、『入門編上巻』でも「3章 自分を優しく育てる」タイトルに掲げたように、ハイブリッド心理学そのもの開始の宣言のようなものでもあります。

に、そのためにどうするかという、具体的「学び」テーマ出てきます。「自分を守り育てる」という姿勢についてはあくまで前提として、もうテーマにはならないものとして。
そこに、「破壊から自衛と建設への選択」とか「建設的行動法」といったテーマ出てきます。

ですのでまず、「自分を護る、自分の味方になる」という内面姿勢「建設的」という言葉を使うと、ちょっと言葉の使い方として混乱するので、話を分けるのがよろしいかと。
つまり自分を護る、自分の味方になることは全ての前提として大切
「言い返す」ことは、「行動法」としては破壊型の行動法。ま「言い返す」内容「相手の否定」として。
これはよろしいでしょうか。
これは「学び」としては
『概説 - 3.取り組み実践』 「学び」の主要テーマ / 2.行動の基本様式の転換 および 3.行動学
該当します。

一方「相手に言い返さないと負けた感じ」は、「自尊心」という内面テーマになってきますね。「価値観」とも言える、内面姿勢テーマです。
『概説 - 3.取り組み実践』 「学び」の主要テーマ / 4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法

「自分でさえも自分の味方になっていないことにいいようのない怒り・悔しさ・憎しみ」は、「悪感情」という「症状」。これについても対処姿勢「学び」出てきます。
『概説 - 3.取り組み実践』 「学び」の主要テーマ / 2.行動の基本様式の転換、5.悪感情への対処

なお「取り組み実践」では、こうした「学び」項目ごとに、一つ一つ「向き合い」を行います。外面の行動法はどうか。内面の価値観はどうか。湧いてくる悪感情その都度の対処はどうか。
全て自分を守り育てるためにです。

心が本当に変化するのは、このように外面行動法、内面価値観、湧いてくる悪感情への対処、まずこの3面全てが「学び」の方向へと本当に納得習得されてからです。
雨漏りするのであれば、家の濡れなくなるのは、その原因全てふさいだ後だというですね。屋根も。どれか一つふさいでも、どこかに抜けがあったら、そこからから水浸しになってしまうのと同じです。うんこれはいい喩え^^。


破壊型行動の「価値」と「勝算」を吟味する

ということで、今回書いて頂いた状況としては、
外面行動法 ・・・ こうした状況「破壊」ではなく「自衛」「建設」とはどのようなものか検討
内面価値観 ・・・ 現状「人にどう見られどう扱われるか」による「プライド」。それを「自ら生み出す」ことによる「真の自尊心」へという壮大な目標課題
悪感情対処 ・・・ 現状「流される」。それを、上の2つを足場自己分析解きほぐしによる解消ができるようにという、長い歩み
というまずは3面全体的な目標と言えると思います。

でまず手始め外面行動法ですが、最初に言ったように、「目指すべきもの」「それとは違う今」はっきり認識することが、「パラドックス前進」として重要になります。
破壊型行動「価値」吟味する、さらには「勝算」吟味する、という実践になってくるでしょう。

繰り返しますが「自分を守り育てる」という前提で、外面行動法「破壊」「自衛」「建設」という基本3様式が出てきます。
自分を守るための破壊型行動法として、「価値」があるというかもうそうするしかないのは、山でクマに出くわした時街で暴漢に襲われた時です。これはまごうことなく「自分を守るための破壊型行動法」課題になってきますね。「こらー!」とか大声を出して何でもいいから相手にダメージを与えられるようなもの投げつける、打ちつけるなど、そうした心の準備日ごろできているかが課題になります。「勝算」なくても、そうしなければならないということにもなってくるかと。

もちろんハイブリッド心理学「自衛と建設を100パーセントにまで」などど言っているのは、そうした特別な場面ではない、日常の社会生活においてのです。
今回の話も、この「ごく日常の社会行動場面」該当しますね。ちなみに昨日買い物で出かけたところ、一日で2度クラクション鳴らされるという珍しい羽目苦笑い^^ゞ


今回例の「原理原則行動法」からの考え方

そうした「ごく日常の社会行動場面」において、「破壊型行動法」にもなり得るものが、実はハイブリッド心理学「行動学」にもあります。
上記リンク「行動学」で、「3種類の行動法」として言っている中の、
・原理原則行動法 ・・・ 相手人物に感じたことは一切言わず原理原則について話すという行動法

つまり「この場面での原理原則はこう」というものを前面に押し出すことで、「貴方が間違っている」と、相手を否定する行動出るというのもあり得る

>怒りが収まらず相手を追いかけてナンバーを控え警察に連絡したこともあります。
というのも、その先「原理原則による裁き」あることを期待して、ということになると思います。

そこで重要になってくるのは、自分が「社会で勝てる原理原則」の側に立つことです。それを持つことです。
そうすれば、社会が自分の味方になってくれるからです。すると、自分が腕力振るったり大声を出したりしなくても、社会が相手を制裁してくれる。相手バカでなければそのことが分かるので、相手の方から折れてもくるようになる。
ですので、

>自分が正当だと考えている行為で、他人に怒られたり非難されると非常にストレスを感じます。
という時、まず「自分がどう正当か」「原理原則思考」重要になってきます。

今回
>交差点を直進しようと黄色信号の段階で停止線を越え交差点に進入しました。すると、対向車線の相手でその右側車線から右折しようとしている車の運転手から、「信号を見ろ、赤信号だろう」というジェスチャーをされました。こちらとしては黄色で停止線を越えたつもりなのに一方的に非難されてしまい、怒りがおさまらずその車を追いかけて警察で話をしたい、こちらの言い分をいいたいという衝動に駆られました。

について言うと、かなりびみょうー^^;
「黄色信号」というのは、基本的には「赤信号」準ずるもので、「赤」絶対的通過はNG「黄」そのための猶予を与えましょうという話かと。基本止まりましょうという話であって、基本まだ通っていいヨではない、というになるかと。
ですので、警察に話を持ち込んだとして、勝てる見込みは難しいような。「お互い注意しましょうね」終わればまだいいとして、「悪いのは止まれる黄色で止まらなかった貴方の方ですよ」と言われる危険さえあるように感じます。「そうではなかった、止まるとなると急ブレーキだ」主張しようにも、ビデオ判定でもない限り分が悪い。
まずはこの辺の考え方どうなるかですねー。

さらに考えられるのは、「相手が悪い」ケースつまり原理原則として相手が悪いという話ではなく、相手の人間としての質が悪いケースです。つまり一般の人でないケース^^; 警察を出るや首をつかまれ、「お前なめとんのか、落とし前つけろ」と脅迫されるというケース^^;下手すると・・と、いくらでもその先に起き得る人生の悲劇想像膨らませることができるようににもなってきます。

まずはそこまで全部踏まえた上で、あとは「選択」ですねー、というになると思います。

「破壊から自衛と建設へ」転換取り組みは、そのように、「破壊型行動」「価値」「勝算」じっくり吟味するという、パラドックス前進極めて重要になる次第です。


完全な「自衛と建設形」だとどうなるか

行動法についての視点としてはそんな話として、「自尊心」についての内面価値観取り組みも、かなりここで重要になってくるでしょう。

上記の通り、「人にどう見られどう扱われるか」による「プライド」求めているから、人からのちょっとした批判などに過剰に心が反応してしまう。それを、「自ら生み出す」ことによる「真の自尊心」へと、目指す方向軌道修正する、というになります。

具体的「問い」としては、
・今回の出来事の中で、自分がどのように「人にどう見られどう扱われるか」による「プライド」を求めたか、の自己分析
まあ意味はあるとして、それよりも、
・普段の日常生活と人生の大きな方向性として、自分はどのように「自ら生み出す」ことによる「真の自尊心」に向かうことができているか
という問い、およびそれに基づく実践
より有効なものになると思います。
非難された場面で起きる悪感情解きほぐしだけでは、心の変化たかが知れています。「自ら生み出す」ことによる「真の自尊心」向かい、それが獲得されてきた段階で、今回のような動揺心の根底からなくなってくる、という流れになります。

その先に、今回のような車の運転中姿勢どうなるかについては、
『暴漢に襲われた友人』 コジマさん No.765 2014/01/22
へのレス
『「事故に遭わないための姿勢と技術」^^』 しまの No.772 2014/01/28
など参考になると思います。抜粋すれば
--------
これは一言でいえば、「交通事故に遭わないための運転姿勢と運転技術の全て」といったになると思います^^。
過度なスピード控える一方、流れに合わせられるということも重要になってきます。急発進急停止、急な路線変更など「乱暴な運転」を避ける。信号進む場合も、交差する道路から車が突っ込んでこないことを確認してから進む路肩の車路地の陰から、人が飛び出してくる可能性を考える。狭い道すれ違う場合は、相手に譲ることを基本とする。譲られたお礼の動作をする。など、とにかく手合い頭相手に不快な思いをさせないよう気を配る。などなど。

--------


「原理原則行動法」によって「破壊型」も「建設型」に変化し得る

また付け加えておけば、上述のように「選択の中にあり得る破壊型行動法」として「原理原則行動法」があるわけですが、これは洗練していけば、こちらから相手を否定する行動というよりも、相手が自らの誤りに気づき改善向上するのを手助けする行動というモードへと前進し得ます。
そこにおいて、「自分を守り育てる」という前提の下に、「行動法」から「破壊」ゼロになっていくという流れになる、という次第


とりあえず今回の話考慮するといいのは、ざっと以上のようなになるかと。
「取り組み実践」としては、今回の話にどう心の収まりをつけるかの問題というより、今回の話を発端に示される以上のような「学び」に、これからの人生を通して取り組む、になると思います。
まずはそんなものハイブリッド心理学「取り組み実践」です、ということで検討してみて頂ければ^^。



(No Subject) / こたろう 引用
No.889 2014/05/23(Fri) 14:07:47

前のレスが全く納得できていなかった
事がわかりました。
僕が立てた2つ前のスレッドの
行動における表情の1、2、3です。


まず、交友に関してではなく
全般的な関係においての質問でした。


今自分がどうかというよりは
感情と行動の分離において
建設的な行動法にでる場合の
心持ちがどうなのかを知りたかったわけです。


簡単に言うとこうです。

感情の強制なしに、
表情や外面印象を作ることは可能か?

表情や外面印象は建設的行道には
入るのか?入らないのか?


感情の強制→無酸素運動、続かない。
感情は流して建設的行動法。


という論理ですよね。


しかし、楽しみを生み出す事において
ぶすっとした無表情で建設的な行道を
してもそれはいい結果になるのか?
仕事などなら、まあわかりますが。



内面に感情を守ることが
感情と行動の分離ですが、
怒りが行動化するというのは
@肉体的攻撃
A否定価値をもとにした非建設的な批判
など、言葉の発言としての攻撃

はまず一つの安心材料になる。

表情にでるのはどうなのでしょう。


生物としてそこを完璧にというのは
厳しいと思います、
加えて否定言葉を使わずに肯定的な
発言をしているときの、声の調子や無理している
感じは伝わると思うのですが、
いかがでしょうか。


 
Re: / こたろう 引用
No.890 2014/05/23(Fri) 20:59:39

●小競り合いは破壊か?

小競り合いは破壊に入るのでしょうか?

じゃれあいのような。
昔から憧れがあったというか、
すましてお互いに良いことを言い合う
ようなスマートな関係よりも、
漫才の掛け合いみたいな、
小競り合いのある関係にひかれるというか。


もちろん本気で言い合いをするのではなく、
「あんたバカ?」「ばかじゃないの?」
みたいなやりとりですね。


親はスマートなやりとりしかなく、
お互いの悪いことを言わないわりに
そうやってふざけあうような小競り合いも
ないし、なんか嘘っぽいなぁって感覚を
もって見ていた事が大きいかな、と。



こういうのに楽しみを感じるのは
実はそこに根っことしての攻撃性が
あるのかな?
って気もします。


一方で楽しみの創造だとも思います。



あとは、議論?というのはどうなるのかな、と。


お互いの意見がぶつかり合うことによって
自分に新しい考え方が生まれたりしますよね。

例えばアイドルで誰が好き?
なんてのも議論が白熱して楽しかったり
...楽しいというより必死になってる
だけなのでしょうか?

共通部分だけに着目すると
違うところはノータッチが基本になると
思います。

一方で欧米では聞かなくても積極的に自分の
意見を話す事が当たり前だとも言います。


ある意味、違いを確かめても
それが当たり前だという文化があるから
日常として成り立つのでしょうか。


「相手が自分を理解する事を強要する」
という要素が内包された形の議論が
問題であって、
お互いがわかりあえないから、違っているからこそ
相手と自分の立場や考えを表明するという
目的にあれば、意見が違うことを話すのも
いいのかなと思うのですが、ハイブリッド的には
そこも徹底ですかね?


内容の重さにもよるかなとは
思うのですが、、、


別の考えや視点に触れるという
意味で議論は楽しかったりするので。



日本ではオフィシャル的な議論の場で
なければ


 
Re: / こたろう 引用
No.891 2014/05/25(Sun) 20:28:38

すみません、
途中で切れてしまいました。

<つづき>
議論をすることは
「お互いの違いを認め合う」というものでは無い
状況も多い気はするのですが、
健康な人の場合はむしろ意見が違うことを
違うものとして話すのも気兼ねしていないような感じもします。


 
Re: / こたろう 引用
No.892 2014/05/25(Sun) 20:48:50

●感情の強制および理想からの見下し

自己処罰によって何を得ていたか。
様々な行動を、「しなきゃだめだろ!」に
頼っていたことがわかりました。
特にただ簡単にできて楽しいことではなく、
やらないと後々マズいことになる面倒なことたちですね。

そこで、攻撃することをやめて、少しづつ成長しようという
目を自分に向けてみると、
一気にやる気がなくなり、まったく行動する気が失せてしまいました。

何も努力したくない、それでも自分はゆるされるべき、
もう何もやりたくない。

同時に、「興味がある」という感情の強制によって、
勉強をしようとしてきた部分が大きかった。
これは「興味がある自己像」を強制せずに勉強ができるかを
試みて、リアルにわかりました。

ありのまま自分が本当に興味があるかを問うてみると、
すべてのことが「どうでもいい」「考えるのが面倒」に
なってしまって、こちらもまったく行動にうつせなくなってしまいました。


やらなければいけないこと、やらないとマズいことをやらないのは
やはり「覚悟」の欠如なのでしょうか。


一歩一歩育てる姿勢を向けようとすると
「こんなことはしたくない。面倒。」


何をやっても人の中に入らなければならない時に
破滅する。それに向かってただ時間だけが過ぎていく。
だから何をやっても無駄。という感覚が根底にあるのかもしれません。



またありのままの感情に向き合おうとすると
背中がはって吐き気がして、頭がしめつけられる感覚になり、
こんな状態で人に会ったらという不安で外を歩くのも怖くなり、
頭がしめつけられるような感覚では
活字を読んでいくのが苦しいので勉強も手につかず、と
すべてが悪循環になってしまいます。



やはりこうなると自分を鼓舞するために
感情の強制を使うことになる・・・。


力を抜いてしまうと、
この自分は何も苦労する必要がないという
自己が出てきてしまう。

それに対してその姿勢でいると
どうなるのかという現実を誇示してみても、

そんなこと知らん。


といった感覚。


進めません・・・。


 
Re: / こたろう 引用
No.895 2014/05/29(Thu) 18:28:30

さらに重ねて質問失礼します。

望みの感情というのは、
少なからず幼少時代に
挫折を経験し、物心ついた時には穴埋めへの
望みになった状態であるという
事だったと思います。


しかし望みの成熟の結果、
出てきたより純度の高い望みというのは
自分の中に種として存在していた
というよりは生まれてからの
経験によって条件付けられるもの
だと思います。




島野さんの執筆への気持ちなどもそうでしょう。



こういう事を考えると、
時代が古くなればなるほど
選択肢が少なくなるので、
自分の望みへ向かえる人が少なかったことが
予想されます。
もちろんその時々の時代背景や
制度によってくるでしょう。

その中でも、そもそも未開部族のように
仕事の選択肢もない、娯楽の選択肢もないような
時代もあれば、
文明が進んで仕事や娯楽の種類は増えたが
身分制度などによって選択肢はほとんど
ないような時代もあったでしょう。


現代はその点で
それぞれの人がそれぞれの
興味や望みを追求する事がかなり容易になった
時代だと思いますが、
それがこれほどまでに心の病を量産している
のは現代のどういう部分がおもだった原因なのかなと。


親の宇宙の愛が欠如することによって
感情の膿が生まれるとして、
情緒道徳以外にも、宇宙の愛が欠如するに至る原因が社会の
仕組みや状況にあるのではないかと。


そう考えると、社会で産み出す価値が
むしろ社会の中の人間の幸福に対する悪しき
影響を持続させている事もある。


効率を追求して時間短縮する技術を買うために
金を払って、その金のために多大な時間を労働に使っている。ここにも、矛盾を感じたり。


そういえば
島野さんも学生時代は自分のような
心をやんだ人間を産み出した社会に
戦闘的な姿勢を持っていたという
記述がありました。
そこから社会人経験を積んで、
どうその価値観が転換したのか
聞いてみたいです。

上流階級にいくほど、
おおらかな心の持ち主が多かったという
記述がありましたが、
それ自体は社会というものは
戦闘的にみるほど悪いものではなかった
という説明にはなってない気がするのです。
そこらへんの話をもう少し聞いてみたいです。


 
「表情・外面印象」「小競り合い・じゃれ合い・議論」「面倒」「社会観」など^^ / しまの 引用
No.901 2014/06/14(Sat) 10:03:22

一通りざっと手短に^^。


「表情」「外面印象」と「建設的行動」

まずこの辺の話。

>感情の強制なしに、表情や外面印象を作ることは可能か?
>表情や外面印象は建設的行道には 入るのか?入らないのか?

ハイブリッド心理学からの指針は、教科書文として書くと以下の通り。
−−−−−−−−−−−−−
「表情や外面印象の作り方演じ方」は、ハイブリッド心理学の取り組みにおいては、単独の実践テーマにはならない
まずは
具体的場面ごとの建設的行動法沿った形で、ごく自然にできれば良い。そのためまずは、 場面に応じた建設的行動法納得理解先の話になる。
その上で、「ごく自然」難しい場合に、「うまく乗り切るためのその場しのぎ法」としてのそれは出てくるが、あくまでこれは自身の緊張不安低減ためのもの程度となる。

一方
建設的行動法内容を欠いたまま「表情や外面印象の作り方演じ方」によって相手や場面に対処しようとする姿勢になると、「人の目の中でこう見られる人間に」というストレスによって心を病む傾向が出てくるため、これを抜け出し場面ごとの建設的行動法理解するのがまずは取り組み課題になる。
−−−−−−−−−−−−−

ですので、上記質問について言えば、
・建設的行動法を心底から納得しており、それに合う本心からの偽りのない感情があれば、感情の強制などなしに、豊かな表情で行動するのも可能になる。そうでないものは、行動を避ける、もしくは感情をあまり表に出さないのが無難。
・表情と外面印象には、建設的行動法に含まれてくるものもあればそうでないものもある。これはもう具体的場面ごとの細かい検討問題。

となります。
「全般的な関係においての質問」とのことですので、具体的場面など書いて頂ければ、さらに具体的な説明ができるかと思います^^。

「感情の強制」心の健康に害がありますので、まずそれをやめることが指針です。
一方健康な範囲に含まれる「感情の演技」というのはあります。これについては、「パーティ」「葬式」など具体例も出して以下で多少詳しい説明をしていますので参考頂ければ^^。
『実践編上巻』 8章 人生をかけた取り組み−4 −「感情強制」の解除・内面の解放−
中ほどにある
「感情の監視操縦」への視点のまとめ

「感情の監視操縦」の基本機能
部分です。

>感情と行動の分離において 建設的な行動法にでる場合の 心持ちがどうなのかを知りたかったわけです。

について総じて言えば、
「表情や外面印象をどう演じるどう見られるか」という意識から、「相手との関係にあるものの中身内容の向上を生み出す」という意識への転換が、成長の道のりだと言えると思います。
これについては、詳しく書いているものとして以下などありますので一読されるとよろしいかと^^。

ブログ記事書籍No.2 愛と能力の成長課題
対人行動と対人感情
「対人感情と姿勢」の4型-1 〜-4

ブログ記事書籍No.8 心の成長と治癒の過程
詳説・心の治癒成長メカニズム
「宴会恐怖」「人の和アンビバレント」が完全に消えるまで-1 〜-11

「表情や外面印象という意識」からの抜け出しについては、
『取り組み実践詳説』
序章 ハイブリッド人生心理学とは / ハイブリッド人生心理学のアプローチ
5章 基本的な妨げへの取り組み / 心を病ませる4つの心理メカニズムからの抜け出し
などでも詳しく扱っています。それがもう主題そのものですね。

またそのように、「表情」「外面印象」行動するというのは、自分を見失い自分の中身を貧弱に、時に病ませもする一方、一方人から見ても結局、何か無理があり不自然で中身がないように大抵見えてしまうという、役にあまり立たないものという視点からも、そうした意識からの卒業まず課題だと言えると思います。


「小競り合い」「じゃれ合い」「議論」

「小競り合い」「じゃれ合い」「議論」について。
これも「建設的行動」入るか、また「交友」のための行動法なるか、という視点からのご質問のようで、手短に言うとこうなります。

まず言葉の話になりますが、「競争」「場面状況」ことであり、「行動法」ことではないですね。
一方「小競り合い」は、「ことさら競争を強調」し「もめごと」のように振舞う行動であり、「建設的」ではなく「破壊的」入ってくると思います。
「議論」も同じように、まずは「場面状況」であり、その中でどんな議論の仕方をするかに、「行動法」として建設的かどうかが出てくる。
「交友」のための行動法ということであれば、「競争」「議論」をまず「交友」のための行動法として、つまり競争を持ち出し、あるいは議論をふっかけることで友達になるというのは、あまり一般的ではないと思います。あくまで、共に楽しめるものであることが明瞭であるもの持てるかどうかになると思います。

「じゃれ合い」というのは、「からかい合う」「ふざけ合う」「いたずらし合う」といった要素を含む親密さ様子、と言えるでしょう。
これは回、「喧嘩するほど仲が良い」といった言葉で言ったように、「様子」として魅力を感じるということであり、「行動法」にするのは無理があると思います。楽しみだと思ったとしても、相手によっては大きな不快感を感じる危険もありますね。また年齢を重ねるほど、いきなり「じゃれ合い」しようとするような態度を取ると、人は引いてしまうようになってくると思います。

>もちろん本気で言い合いをするのではなく、「あんたバカ?」「ばかじゃないの?」 みたいなやりとりですね。
これはあからさまな「破壊の言葉」ですので、本気か否かを問わず無論NGです。


「面倒」への対処

>そこで、攻撃することをやめて、少しづつ成長しようという 目を自分に向けてみると、一気にやる気がなくなり、まったく行動する気が失せてしまいました
>やらなければいけないこと、やらないとマズいことをやらないのは やはり「覚悟」の欠如なのでしょうか。
>一歩一歩育てる姿勢を向けようとすると 「こんなことはしたくない。面倒。」

この辺については、具体的内容による取り組みになってきます。何をすることについて面倒というか。
何か取り組みたい材料書いて頂ければ具体的アドバイスできるかと。
話の流れとして出ている話かも知れませんが、推測で話を始めるとキリがないため、お手数ですが都度書いて頂ければ^^。


時代社会と心の病

>現代はその点で それぞれの人がそれぞれの 興味や望みを追求する事がかなり容易になった 時代だと思いますが、それがこれほどまでに心の病を量産している のは現代のどういう部分がおもだった原因なのかなと。

たしかにというのは、戦争やら飢饉、疫病など大変な時代もあり、人それぞれ「望み」向かうことが難しかった時代もあったと思います。その点現代かなり恵まれていますね^^。
それにもかかわらず心の病量産されることについては、社会の何が生み出したというより、「心を病む」ということがもう人間の心のメカニズムとして備わっていると、としては考えています。外面の何がきっかけでそれが発動するとは、もう一律には言えないものだ、と。

『入門編下巻』ではそれを次のように書いています。(P.238)
-----------
 健康な心は、健康な心の下に育つのだと、私はこの心理学の整理を始めながら考えていました。しかし今では、それは間違いだと考えています。
 健康な心とは、必ずしも健康な心の下に育てば得られるというものではないのだと。
 順調に健康に育った心でさえも、時に人間と人生の真実を見失う。それが人間の不完全性なのです。そしてその下に育った子供の心が病むのです。
 自らの病んだ心に向き合ってこそ得られる、心の健康がある。その下で、子供の心は健康に育つことができるでしょう。この不定形の輪廻が、人間の心で続くのです。私はこれを思う時、なぜか目に涙が浮ぶのを感じます。
-----------


ですので、としては社会の何が原因、という考え方しないです。原因がどうだったというより、克服への歩みについて扱うのがハイブリッド心理学になります^^。

>島野さんも学生時代は自分のような 心をやんだ人間を産み出した社会に 戦闘的な姿勢を持っていたという 記述がありました。そこから社会人経験を積んで、どうその価値観が転換したのか 聞いてみたいです。

これは一言で、高校時代そうした姿勢から、大学進学心の破綻といった経験を経て、克服のために社会がどうというより心の仕組みそのもの関心が深く向かったというのが最初の流れです。
またその流れの中で、僕の中「心の自立」始まっていたということでもあります。「心の依存」の中で、まず人や社会の悪い面への不満ばかりが膨らみます。「心の自立」が始まることで、それよりもまず自分が成長しなければ、という意識になってくる。
そしてその先に、

>上流階級にいくほど、おおらかな心の持ち主が多かったという 記述がありましたが、それ自体は社会というものは 戦闘的にみるほど悪いものではなかった という説明にはなってない気がするのです。

という「社会観の変化」に至っということについては、
「社会に対し戦闘的」という姿勢は、上述のように「心」と「自分の成長」に意識が向いた時点で終わり
「現実の社会」それまでに考えていたものとは違う、というのは実際の社会人体験通してのことです。
一言で、「ノルマとストレス」で動いていると想像していたものが、「価値の生み出しと愛」で動いている、と。
これについては、これを読んでのことかと思いますが、結構具体的に書いていますので再度確認頂き、また疑問点などあれば質問頂ければと思います^^。
過去掲示板 2006.02
「太陽と惑星」の社会構造 No.909 2006/02/21

なお今回ご質問の全体が、やはり「心の依存から自立への転換」という大きなテーマの中にあると思います。
これについて『概説』昨日アップしたものがそれを主テーマにしていますので、ぜひじっくり読んで頂ければ^^。


 
Re: / こたろう 引用
No.906 2014/06/16(Mon) 18:06:29

価値の生み出しと愛、という部分で、
それを目標に取り組む人そのものは
そういう意識だとしても、
現実に物事のニーズに応えていった結果
忙しなく、ゆとりのない時代になったと
感じます。
効率や利便性を追及していった先に
商店街がつぶれ、街の個性がなくなり、
といった
ローカルとグローバルの問題も
そうですが、失われていったものも
多くあるのではないでしょうか。


社会に価値を産み出すというときも
見方によっていくらでも何がいい、悪い
というのは変わりますよね。
自然破壊も深刻ですし。


これに関しては、
経済発展というものの
否定、というよりは自然を守るという
価値の生み出しという見方もできますよね。

なにかの価値を産み出す裏で
廃れていくものや壊れていくものが
ある
これは仕方ないのかもしれないですね。



あとはその廃れていく側のものに
自分が本当に興味をもっているのか
ですかね。
世の中の流れに反対勢力を
持っていたい、みたいな動機もある
かもしれないですし。


あと、島野さんの理論だと
田舎の閉鎖的な人間関係では人々は
精神的に成熟できないような印象を
受けるのですが、未開部族であったり
昔の自分の進路に選択肢がないような
コミュニティの人々は現代人よりも幸福な印象が
あります。
インディアンやアイヌの人々にも
心理障害は蔓延していたのでしょうか。
人間の仕組みとして病むことはわかるのですが、
どうせなら人が病まないような生き方ができる社会に向かっていく
ような価値の産み出し方を社会でしていきたいと
思うのです。


しかしふわふわと考えているだけで、
現実をみていない思考かもしれません、、。



やる気が全く起きなくなってしまうのは
勉強に関してが顕著です。
興味があるという自己像をおしつけて
勉強をしては、漏れ出すように本当はどうでもいい、
なんでこんな事を覚えなきゃいけないんだ、
どっちだっていいんだけど、、、
という気持ちが反動のように出てきて、
一気にスイッチが切れます。

ワークショップなどに参加してもそうです。
興味があると思って参加してみると、
興味がある自己像を自分に当てはめて、
まるで参加してる人と知識比べを
しているような会話になっています。
ふっとどうでもいいんだよなぁという
気持ちになります。


物事をうまくやることもそうです。
試行錯誤や探求心を持って取り組む人に
なりたいと思いつつ、たいしてこだわりを
持って技術を向上させるのが面倒になり、
てきとーでいいか、と。

楽器や、料理や、タスク管理や、
野菜栽培など、
とにかく興味をもって試行錯誤している
自己像を当てはめて取り組んでいるだけで、
しばらくするとふっと全部てきとーで
どうでもいいわ、という気持ちに負けるんですね。


ノウハウはいくらでも仕入れられるのですが。


 
「やる気」のための基本など^^ / しまの 引用
No.911 2014/06/18(Wed) 18:05:20

>あと、島野さんの理論だと 田舎の閉鎖的な人間関係では人々は 精神的に成熟できないような印象を 受けるのですが、未開部族であったり 昔の自分の進路に選択肢がないような コミュニティの人々は現代人よりも幸福な印象が あります。インディアンやアイヌの人々にも 心理障害は蔓延していたのでしょうか。

時代と社会の影響については、僕自身あまり本格考察テーマにしておらず、前コメント程度以上にはちょっとノーアイデアです^^; インディアンやアイヌの人の状況も、知らないです^^;
心の問題への社会要因の影響については、ハイブリッド心理学としてあまりテーマにしておらず、他の心理学や社会学などそうしたものがあるかも知れませんね。この辺ご了承あれ^^。

>人間の仕組みとして病むことはわかるのですが、どうせなら人が病まないような生き方ができる社会に向かっていく ような価値の産み出し方を社会でしていきたいと 思うのです。

そうした視点とても良いものと思います。そうした視点からの社会活動、ボランティアなども結構あるのではと^^。


「やる気」のための基本

>やる気が全く起きなくなってしまうのは 勉強に関してが顕著です。興味があるという自己像をおしつけて 勉強をしては、
>興味がある自己像を自分に当てはめて、まるで参加してる人と知識比べを しているような会話になっています。
>試行錯誤や探求心を持って取り組む人に なりたいと思いつつ、
>楽器や、料理や、タスク管理や、野菜栽培など、とにかく興味をもって試行錯誤している 自己像を当てはめて取り組んでいるだけで、

これらはどれも「自己像」「こんな人」を自分に当てはめるという姿勢進めようとしているのが原因ですね。自分に当てはめ枠はめすれば、反発が起き、やる気が失せるのは自然な心の反応ですね。

「目指す人物印象像」ではなしに、自分が将来何をしたいかという「具体的な将来目標」から、今何が必要か、いずれ役に立つかといった視点から、必要性魅力度を検討するのが良いかと。
「やる気」のための基本ですね。
これは
『実践編上巻』 7章 人生をかけた取り組み−3 −痛みをただ流す・感情への知性の目−
などで、
「やる気」に頼らない行動習慣
として、メール相談事例結構具体的に説明していますので参考になるかと^^。


 
Re: / こたろう 引用
No.915 2014/06/19(Thu) 08:05:34

そうですか、、、
現代は宇宙の愛が損なわれやすくなっている
という記述があったので
気になったのですが、やはり損なわれた
ものが少なからずある不完全な世の中で
自分の望みに向かうっていう
取り組みになるんですね。

産み出す、っていうことの
向上や楽しみっていうのが
一方で破壊するものがあるというのは
どうですか?


これに関しても善悪が相対的であるように
絶対的な価値はないということですよね?


ありかとうございます。
えーと、何度も読み込んでます。
具体的な目標を描けないので、
とりあえず就職、卒業を目指して
いるのですが、そこまで必要だと
認識しても行動が進まないから
やる気や自己像をあてはめてやるしか
なくなってるんですよね。


あと今の心で考えているから、
ってことになると思うのですが
電車などで若い社員と上司らしき人が
自然に会話しているのを聞いていると、
自分は借りに入社できても無愛想で、
ぎこちなくて、不快感を与えて邪魔物として
扱われ、すぐやめるんだろうな。
そしたらよけいに親を憎むんだろうな、
これ以上荒んでいくの嫌だな、
なんでこんな人を好きになれないっていう
でかすぎるハンデで糞みたいな人生を送らなきゃいけないのでしょう。
人と関わってみんな成長してるのに、
その機会が持てない、この年相応の
コミュニケーションもとれない、
どうせ無理なら勉強なんかしても意味ないし、
あーーー。


頭痛、、、っていう感じで、
具体的に将来ってのが
みえない、またひきこもるんだろうな、
と思いながら積極的に勉強はできないですね、、


最終的に到達できるはずだという
希望がないと具体的な行動にエネルギーが
わかないのは基本だと思うんですが、
未知というものを想定してそれを
目標?にしてそこからエネルギーを得る
と言う、ことでしょうか?


がんばれない人間はやはり
変わらないんだろうな、でも絞り出す意外に
どうやればいいのか、というところで
グルグルグルグルです。


 
「価値」と「選択」・「自己像あてはめ」でないもの^^ / しまの 引用
No.920 2014/06/26(Thu) 11:51:51

「価値」と「選択」

>産み出す、っていうことの 向上や楽しみっていうのが 一方で破壊するものがあるというのは どうですか?これに関しても善悪が相対的であるように 絶対的な価値はないということですよね?

「善悪」相対的であるように、「価値」相対的。その理解良いと思います^^。
「善悪」は、何の目的のためには、という相対的なもの。ですので「目的」の明確化重要になります。「目的思考」ですね。
「価値」は、どんな時どんな場面で誰にとって、という相対的なもの。ですので人真似ではなく自らの「望み」に向き合うことが大切という

そうして絶対的ではなく相対的なものごとについては、「選択」になってきますね。そして「選択」は自由です。これがハイブリッド心理学基本的スタンス
その上で、どれを選択すると、その先にどんながあるというができます。
「破壊から自衛と建設への転換」も、「選択」であり、ハイブリッド心理学「建設の選択」先にあるを説明する心理学です。その行くかどうかは、もうそれぞれの方お任せするとして。

今回アップ以下部分該当する話になるかと^^。
『概説 5.歩みの道のり (2)真の前進へ』 ・「実践」とは何をするものなのか
---------
1)「学び」への「自分の考え」をはっきりさせる
ハイブリッド心理学からの「学び」をできるだけ正確に、たとえば「感情に流されない」「理屈だけで行動する」ことかといった曲解誤読をすることなく正確把握し、それについて「言われた通りに」ではなく、「自分の考え」ではどうかはっきりさせることに取り組みます。
「これについて自分はそうは思えない」というのが明確になることは、むしろ前進につながります。
「パラドックス前進」として。
ただし「基本行動様式」として
「破壊から自衛と建設へ」という最初の基本テーマについては、心底からの納得ができることが、全て前進始まり前提になるでしょう。もしこれに納得できない、つまり「破壊こそ力」「怒りこそ力」といった考え本心からのものであるならば、つまり先の描写のようにそんな感情があるというレベルでなく、「生き方思想の主張」としてはっきりそう考えるような場合、それはもうハイブリッド心理学全体納得できないというであり、ハイブリッド心理学が言う心の成長道のり向かうこともないというになります。これはもう仕方のないことですが、それが「自分の考えをはっきりさせる」ことだったのならば、全てがそこから始まる、ハイブリッド心理学入り口選択になるとも言えるでしょう。
---------


また「破壊」価値を感じてしまうのは「心の依存」産物でもありますので、「心の依存から自立への転換」についてじっくり向き合ってみると良いかと^^。
『概説 5.歩みの道のり (2)真の前進へ』 ・「心の依存から自立への転換」


「自己像あてはめ」でないもの

>具体的な目標を描けないので、とりあえず就職、卒業を目指して いるのですが、そこまで必要だと 認識しても行動が進まないから やる気や自己像をあてはめてやるしか なくなってるんですよね。

「やる気や自己像をあてはめる」のではない進め方説明したのが前のレスになります^^。
それでもうまく行かないのでまた別の方法・・というのはもうハイブリッド心理学から言えるものは残念ながらありませんので、『概説 5.歩みの道のり』説明の、より基礎的な思考姿勢などへの取り組みから、ということになってくると思います。上記「心の依存から自立への転換」なども。

>自分は借りに入社できても無愛想で、ぎこちなくて、不快感を与えて邪魔物として 扱われ、すぐやめるんだろうな。

社会に出るにおいては、これは以前も指摘したかもですがハイブリッド心理学からは「やる気」「外面印象」ではなく「仕事の普遍的スキル」「価値の生み出し」といった視点になります。
以下など参考
『悪口の回避について』 seroriさん No.583 2013/07/20 のトピックの中での
『「仕事の普遍的スキル」 ちょー入門^^』 しまの No.586 2013/07/23

>最終的に到達できるはずだという 希望がないと具体的な行動にエネルギーが わかないのは基本だと思うんですが、未知というものを想定してそれを 目標?にしてそこからエネルギーを得る と言う、ことでしょうか?

「未知」はあくまで想定しようもないものですので、そうしたものもあるというのを最後の心の支えとし、具体的な意識においては、目の前のことを一つ一つ前進させていく、ということになると思います。
「自己像あてはめ」ではなく、「そこにある課題への対処」積み重ねですね。


 
Re: / こたろう 引用
No.922 2014/06/26(Thu) 17:20:09

ちょっと間違って伝わってしまっているかもしれません。
自分にとって、建設的、自衛的、破壊的だという
事と別に、


自分にとって建設的な行動であったり、
自分にとっての価値の生み出しが、
誰かにとって、またはなにかにとって、
長い目でみた社会にとって、は破壊であるという事は
往々にしてありえる、という事を確かめたかったのです。


あなたが自分の望みに向かって、
建設的に行動することによって、
苦しむ人もいれば、維持されつづける
世界の不幸もあるし、失われる誰かにとっての価値もある、と言っていただければ気持ちよいのですが。


 
建設的行動による不幸・・?^^; / しまの 引用
No.929 2014/07/01(Tue) 11:38:35

>自分にとって建設的な行動であったり、自分にとっての価値の生み出しが、誰かにとって、またはなにかにとって、長い目でみた社会にとって、は破壊であるという事は 往々にしてありえる、
>あなたが自分の望みに向かって、建設的に行動することによって、苦しむ人もいれば、維持されつづける 世界の不幸もあるし、失われる誰かにとっての価値もある、

いえそれはないと思いますヨ^^;
「建設」ハイブリッド心理学では、自分幸福のために「望ましいものに囲まれる生活基盤を自ら築く」という行動様式
『概説 - 3.取り組み実践』 「学び」の主要テーマ 2.行動の基本様式の転換

それが誰かや長い目で見た社会にとって破壊であるとは、それを「望ましいもの」と感じることに誤りがあるということになると思います。それは「反社会的行動」もしくは「社会行動として不適切」なものですね。
もしくは、誰かの建設的行動によって自分や社会が不幸になると考えるのは、「逆恨み」もしくは「曲解」という誤りになると思います。

具体的どんなことを言っているのか書いて頂ければ、それについて僕の考えお伝えすることはできると思います^^。
また新規トピックなどでがよろしいかと^^。




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