しまのたかしハイブリッド人生心理学 島野隆ブログand掲示板
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●島野の著作そしてハイブリッド心理学に関する感想・質問・ご意見など投稿して頂けます^^。
●心の悩みのご相談
については、ハイブリッド心理学「取り組み実践」を進めるためのポイントヒントなどを、ここではごく簡潔アドバイスいたします。
*より詳しくアドバイスするとどのようなものになるのかは、
 
メール相談事例集実践編書籍など読んで頂くと参考になるかと思います^^。
返答入れて頂いた順に返していきます。日数がかかることもありますので、ごゆっくりお待ち下さい^^。


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(No Subject) / フウ 引用
No.952 2014/08/29(Fri) 18:59:37

 久しぶりに、読者広場等に目を通しました。
「開かれた世界」「閉ざされた世界」について、少し読者広場を見ました。

 島野さんは、このような深い内容を書かれていますが、これまでの経験で学び、自分で深めて言っているというような事を、以前読みました。
 今回思ったことは、このような学びの中、最近心理学関係の本を読まれていることは、ありますか。
 私は、興味を持った心理学関連の本を読んでいます。


 
最近の読書^^ / しまの 引用
No.953 2014/08/31(Sun) 16:01:58

心理学関連の本は、最近はほとんど読まないですね^^ゞ

僕の執筆活動にとって役に立った本は、『過去原稿』に載せている参考図書のようなものですが、それらではまだ足りず経験そのものから学んだことを書いていますので、書くために何かを読むこともなくなっている今日この頃です。書くために読むなら、まずは過去の僕自身の文章♪

読書一般について言えば、就寝前の寝つけ薬がてら何かしら読むようにしており、心理学関係何か面白そうなものがあれば・・とたまには目を配っているのですが、どうも言っている内容が論理的でなかったり、「感じ方の押し売り押しつけ」みたいのだったりばかりで、とても読んでられない・・と感じるものが大抵のため、結局読むものがない感じです^^;

ちなみに今読んでいる本は、村山斉『宇宙は何でできているのか』新田次郎『孤高の人』(山岳小説の中で人気が高いもの^^)です。後者面白すぎ寝つけ薬にならず神経が興奮してしまうので、日中にちびちび読んでいる次第^^。


 
Re: 本能と人について / フウ 引用
No.954 2014/08/31(Sun) 17:47:13

 島野さん、週末回答を読むことが出来ました。

 心理学の本も、昔からたくさんあることを感じています。そういった著者、大学教授など昔からあったことを最近になって出会います。

 島野さんは、最近は心理学関係は読まないとのことですが、以前は読んだのかもしれません。

 少子高齢化に関連して、人口減が言われていますが、本能として年齢を問わず妊娠してしまうことも自然に考えられることについて、やむなく中絶などがあるかと思われます。妊娠を予防することは、ある程度啓蒙できると思いますが、妊娠は授かり物という言葉を使う場合、何度も妊娠してしまう場合も授かり物であっても、何度も出産は環境的・体力的・経済的に現代は、余裕の無い社会とも感じます。また、結婚や出産ではなく、キャリアを持ち自己実現の生活を選ぶ生き方など多様です。
 私は、子供有無に関係なく、学ぶことはたくさんあると言えます。また、本能や家庭関係を寄り処というより、自分の学びたい学問に時間を使うことを大切にしています。

 妊娠、授かり物とのことについて、島野さんはどういう意見がございますか。
 
 


 
「妊娠」「授かり物」^^ / しまの 引用
No.955 2014/09/03(Wed) 10:34:46

妊娠出産という女性身体の機能については、「命」をつなぐための、極めて基本的身体機能だと、としては考えます。それは心臓と同じように、基本的な身体機能だと。

でそれが人の人生どのような姿になるかとして、「授かり物」と感じられるような幸せなものもあれば、望まざる悲劇のように感じられるものもある。
いかにその前者に向かうかに、個々人の生き方姿勢と行動法問われる、ということになると思います。そこにさらに「運」も絡むので、「授かり物」と感じられるような姿になることもあるだろう、と。
お答えになりましたかどうか^^。

以下でも「知恵とノウハウそして自己コントロール、自己管理が重要」といったをしていますのでご参考^^。
『欲について』 ジンさん No.696 2013/11/20
でのレス
『「自然の性」からの考察^^』 しまの No.704 2013/11/24


 
Re: 以前のレスを見ました。 / フウ 引用
No.956 2014/09/03(Wed) 19:32:57

それによりますと、
 より細かい話については、まあハイブリッド心理学ではあまり展開していないのが現状です。というのは、心の健康と豊かさに向かうごとに、性の問題はテーマとして重要でなくなってくるからです。
 あまり詳しい分析をするより、心の健康と成長への取り組みの中で、自然と、性衝動もごくシンプルで自己コントロール可能な身体的衝動に落ち着いていく、という理解を持っておくのがいい話になります。
 などありました。

 私は、様々ことに関心を持つことがあり、今回の質問もそうでした。
 
 生き方は、人それぞれであり、いろいろな方の生き方を目にすることがあっても、実際自分自身は何を選んでいくのかであること。島野さんの言うように、個々人の生き方姿勢と行動法が問われるとのことから、社会の関心というより、自分の確立に力を入る思考・行動に切り替えていこうと考えることになれました。

 ご助言ありがとうございました。島野さん、補足がありました時は、お願いいたします。



マンションの騒音について / oed 引用
No.950 2014/08/17(Sun) 06:33:03

分譲マンションの隣人の騒音に対して、意見を伺いたく存じます。
隣人は日曜大工が好きなようで、越してきた当初から騒音がひどい感じでした。しかも夜中に壁にトンカチで何かを打ち付けたり、床に落としたり、窓の開閉も時によると煩く、音に過敏な自分は起きてしまい寝付けなくなります。

持ち回りの管理組合当番も無視するような非協力的な人です。
管理事務所に訴えて張り紙をしてもらいましたが、相変わらずです。こちらは自衛出来る限りはしていますが、防音壁の調査など数万円では済まないです。なぜ迷惑してる方が払うのか理不尽ですし、想像力のない隣人に怒りが湧きます。

ハイブリッド的には、どのような考え方ができますか。
管理組合ができることはせいぜい張り紙どまりです。突然カンカン音がするのを録音でもして、弁護士に相談でしょうか。言って聞く相手とも思えません。
下手すると逆効果です。

ひたすら怯えて精神安定剤飲んで耳栓でもして我慢する「自衛」は、ストレスがたまります。
どうしたら望ましい環境を「建設」できるのでしょうか。
睡眠不足になると非常に体調を崩すので、睡眠を騒音で邪魔されて怒りを感じるなと言われても無理です。下手すると殺意が湧きます。

ぜひご意見をよろしくおねがいします。


 
Re: マンションの騒音について / しまの 引用
No.951 2014/08/26(Tue) 10:20:10

執筆の方でちょっと頭がふさがり気味で、遅くなりまして^^ゞ

また遅くなったのはアドバイスとしてもちょっと難しい案件であり、これは
「すでに望ましくない事態に出会った後」の対処法
問題ということで、
・いかに破壊的結末を避けるか
行動法として、「破壊」ではなく「自衛」「建設」という、「選択」「知恵」出てくる、というになると思います。

まず「選択」について言えば、「すでに出会った望ましくない事態」を、いかに望ましくないかの深刻さ度合い判断については、姿勢の「選択」、またそれに応じ多少の「知恵」出てくるということになると思います。

お勧めなのは、詳しい講釈(^^;)を省略手短に言えば、「様子を見る」のが良かろう、というものです。分譲マンションに来ての大工仕事騒音ということであれば、そういつまでも続くものではない。そのうち止むのを待つが良い、という^^;
これが単に騒音だけでなく、何かと因縁つけられ脅され金品要求されと、少し前刑務所内で自殺した、尼崎の連続不審死事件の角田美代子容疑者のような「攻撃的搾取者」に出会うという望ましからざる事態であれば、人生をかけていかに相手に意識されずに逃げるかが、対処法になるといったものになると思いますが、今回書いて頂いたものは、そこまでではないと察せられるかと。

もちろんそうした非反撃的姿勢取るかどうか「選択」であり、書いて頂いたような「善悪の怒り」で対処するも、自由です。その場合書いて頂いたような、録音し弁護士に相談、といった対処法も、違法でもなく可能かと思います。
しかし、まず言って反撃的姿勢で対処するのは、事態を悪化させる可能性かなり大きいと思います。生活騒音というのは裁判でどうこうなる部類ではあまりないかも知れませんし、相手を怒らせさらに悪化させる可能性も。

僕ならどうするか参考までに書いておけば、まず多少の騒音はもうこの世に生きている限り避けられない腹をくくりその相手に対しては、極力特別な意識を持たない友好的態度で接する、といったもの。そしてただ何もせず騒音は止むのを待つ相手同じ人間です。そういつまでも、人に不快な事態、ということは自分にも多少は不快な事態を、続けるものではない。

・・まあそう聞いてすぐ受け入れられる話では多分ないと思います^^; まず言えるのは、そうした「怒りを捨てた」行動法や生き方姿勢は、今回のような出来事に出会って、それへの対処を考える中で導き出せるようなものというより、もっと定常的な日常生活、社会生活の全てを通して、「学び」「選択」通して至るものだということです。

ではその「学び」「選択」とはどんなものか。それに関心がおありでしたら、「怒り」の根本的有害性説明している『入門編上巻』などから、まず読んでみて頂くとよろしいかと思います^^。

つけたし: (8/26 12:15)
ということで今回の話そのまま当てはめられるような話ではないかと思いますが、

『暴漢に襲われた友人』 コジマさん No.765 2014/01/22へのレス
『「事故に遭わないための姿勢と技術」^^』 しまの No.772 2014/01/28
など、「徹底的な自衛の精神と行動法」として多少参考になると思います^^。



「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問 / こたろう 引用
No.946 2014/08/06(Wed) 10:26:47

*管理者メモ*
これは
『(No Subject)』 こたろうさん No.931 2014/07/01(Tue) 17:20:52
へのレス
『Re:』 こたろうさん No.941 2014/07/25(Fri) 17:48:59
として入れて頂いたものを、この
新規トピックとして移動させて頂きました。
今後も、
話のテーマが変わった場合新規で入れて頂くとよろしいかと^^。タイトルも適当に入れて頂くとなおよろし^^。


ありがとうございます。
仕事の部分の向かい方に関しては、まだ少しひっかかる部分があるので
また少し考えて見ます。


また、スレッドが長くなってきてしまっているのですが、
入門編下巻の前半部からの質問になります。


●開かれた世界
=自分だけに注がれる特別の目がない。なぜなら「人物」をあまり問わない世界だから。
価値ある行動をすることができれば、人物を問うことなく評価されるが、その場限りである。
人々は「身内」ではなく、「他人」なのである。
それぞれが別の存在として、それぞれが唯一無二の方角へ向かっている世界なのですから。


であるからして

●閉ざされた世界
=身内と感じられる人々の中で、自分が特別な存在になりえる閉ざされた世界に
惹かれつづけてしまう。
具体的な思考を見失い、再び人の顔色が基準になりはじめる。


●閉ざされた世界で惑う時・・・・
=問題は、あるべき姿にかなえないこと、に感じられるが、
実際は違う。本当の問題は、「閉ざされた世界」における「愛に」、「嘘」が混じることになる。
そして「嘘」が許せなくなる。それはあるべき姿にそぐいようもない、まがいものですから。


●愛と嘘の表裏一体の罠
=愛されるために、ありのままの自分を隠して、別の人間を演じようとする。
そこに「嘘」がはじまることになる。
「嘘」だけはどんなに心が健康であろうとやんでいようと、心の根が善人であろうと悪人であろうと
ほとんど変わること無く、人間が本能的な嫌悪を感じるものなのです。
かくして、愛されるために嘘をつき始めた心は、ほぼ必然的に破綻への道をたどります。

それは
●「あるべき姿」を演じるのが難しいからではなく
●愛されるためにでも「嘘を演じること」をしている、自分自身が嫌になってくるのです。

ありのままの自分を感じ取る感受性が損なわれていなければ、自分が求めているのは
愛であり、それを得るためには自分に嘘をつかなければならないという心の現実、
そしていかなる外面行動を行おうとしても、そこに「自分への嘘」がつきまとい、自分がそれを
激しく嫌悪していることを、感じ取るかもしれません。


あるべきものがある世界では、自分に嘘をつかねばならない。

であるからして、それに絶望して、

開かれた世界へと旅立つ。

その絶望とは「自分に嘘をついて愛することはできない」ということ。
自分に嘘をついた時、私たちは自ら愛する事が根本的に出来なくなる。
それは、価値を感じなくなってしまうということなのです。


<勝手にまとめてしまっている部分もありますが、以上引用>


という事ですが、
疑問となるのが以下の部分です。


●自分だけに注がれる特別の目がない。なぜなら「人物」をあまり問わない世界だから。
価値ある行動をすることができれば、人物を問うことなく評価されるが、その場限りである。
人々は「身内」ではなく、「他人」なのである。
それぞれが別の存在として、それぞれが唯一無二の方角へ向かっている世界なのですから。


⇒開かれた世界が人物を問わないというのがよくわからない。
定められた姿を守らなければいけない環境よりも、開かれた世界で自己の純粋な
個性を発揮できれば、元いた存在の規律のある世界の人々からは嫌われたり、
のけ者にされる事は考えられても、嘘のない姿に惹かれる人々が出てくる事が
考えられる。
そうならば、そこで生まれるつながりは「他人」というほど遠くない
、むしろ特定の「人物」として評価を受けるし、それは一過性の評価ではない事も
多いのでは?




⇒続いて、自分に嘘をつくと人を愛する事ができないということについて。
それは、価値を感じなくなってしまうことだ、と。
これは、嘘をついて演じている自分で関わらねばならない人を愛せないということなのか?
それとも、嘘をついている自分がいる以上、他人全般、あるいは世の中のほかの様々な物に価値を感じなくなるということなのか?



⇒さらに、頻出する「嘘をついて愛される」について改めて整理したいです。
これは、「あるべき姿」を演じなければならないという事。


まず、集団は

@存在の規律のない集団(開かれた世界の集団)
A存在の規律のある集団(閉ざされた世界の集団)

実際は相対的な違いなので、度合いの違いになるかと
思いますが、こう分けられます。


存在の規律の濃い集団、はそれぞれ規律の内容が違います。


それぞれの
集団内において、愛される事を目的にした時に、
存在の規律に合致した条件を持つ人物は自分に嘘をつく必要はありません。
なぜなら、ありのままの自分で愛されるから。
一方、集団において、存在の規律に合致した条件を持たない人物は、自分を偽る
必要があります。


⇒つまり、存在の規律に合致した条件を持つ人物は、
閉ざされた世界にいても自分に嘘をつかないでいられるということになりますね。
つまり、愛する事も出来る。

「偽る」というのは如何なるものか?

⇒「趣味?」「性格?」「キャラクター?」



ここで、存在の規律に合致しない人物は、
@集団内で自分を偽る事に成功する
A集団内で自分を偽る事に失敗する
のどちらかになります。

Aの場合は、集団内で愛される事が出来なくなります。
@の場合は、集団内で愛される事は出来るが、
いくら愛されても「偽りの自己が愛されている」だけなので、
自分から愛する気持ちは持てません。よって、愛されている事にも
価値を感じる事が出来ないし、
嘘をついて愛されようとする「傲慢さ」に無意識に苦しみます。


そこで、どっちにしてもその現状を打破したいという
欲求が出てきます。その時、嘘をつかずにいれる集団に入る事が
考えられます。

@「存在の規律」の条件が、自分の持っている条件に合致する集団に入る。
A「存在の規律」がない集団に入る。


@が成功した場合、その人は自分を偽らずに済むので、閉ざされた世界に
いながら、その集団の人を愛する事が出来ます。
Aの場合は、開かれた世界にいるので、人を愛する事ができます。


⇒ここまで整理して、開かれた世界に行かなくても、
より自分の性質に合致した閉ざされた世界にいれれば
愛されながら愛する事が出来るのではないだろうか?という疑問が沸く。
つまり閉ざされた世界にいながら「嘘」の自分じゃない自分でいられる
ということです。



●自分の経験として、開かれた世界を価値観として持った集団は、
怖いです。なぜなら、そこではそれぞれの人が「何がしたいか」ということと
「自発性」を持って関わりあっていて、自分にはそれが欠けているからです。
いわゆる、学校で良い子ちゃんをしていたような人は少なく、
それぞれがそれぞれの趣味思考があって、芯があって。
「何をすればいいのか」という正解探しの姿勢では、浮いてしまう。
これは、僕には「自発性」「自立性」の「存在の規律」に感じられる。
「存在の規律」を人に対して課さないという「存在の規律」みたいな。

「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを認める」
ことが開かれた世界の性質だとすれば、上記のような感覚を持つ集団は
「開かれた世界」の集団ではないのかもしれません。

あるいは、「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを
認める」という性質を持っているのに、自分が勝手に人間として自分の方が
圧倒的に劣等だという見方をしてしまっているだけなのかもしれません。



●嘘を許す姿勢が、重要な選択になってくる。

人が弱く不完全な存在である時、どうしても「嘘」をついてしまう場面が
出てくることになります。
嘘を決して許すまいとしたとき、人は「嘘」をさらに「嘘」によって隠そうとし
はじめるからです。「嘘」を許さない姿勢によって、「嘘」は深まるのです。


⇒上記、存在の規律、における「自分に嘘」をつく、
あるいはここの部分の「嘘」。「嘘」というのがよく出てきますが、
抽象的でわかりません。
ハイブリッドで述べられている嘘とは何なのでしょう。性格を偽ること?キャラクターを偽ること?思っているのと違うことを言うこと?自分の欲求をごまかすこと?
出てくるごとにバラバラなものを指しているのかもしれませんが、
「嘘」というワードになって漠然としてしまってわからない感じがします。



一連の「閉ざされた世界」から「開かれた世界」への選択、
「嘘」を許すというのはどんな時のどんな嘘をどう許すという事なのか?
例えばある特定の人物のストーリーとして、対比的に描かれていればより理解できる気がし
ます。

というのは難しいかもしれませんが・・・・


 
Re: 「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問 / しまの 引用
No.947 2014/08/06(Wed) 10:35:53

「2つの心の世界」

まず言葉の理解から整理しますと、「開かれた世界」「閉ざされた世界」というのは、
『入門編下巻』「5章 3つの心の世界」
書いているものになりますね。

でそれが何を言っている話かと言うと、
・人と人との絆を得ようと、あるいは保とうとする仕方に現われる「病み」と、そこから抜け出すためにまず目を向けるべき世界
という、かなり特定テーマについてのだと理解頂くとよろしいかと思います。

そこにおける「病み」とは、
・「こうであれば愛してあげよう。そうでなければお前は生きる資格がない」というような「存在の規律」「存在の裁判」という心の世界
であり、
それに適うよう、自分に嘘をつくことで愛され生きようとする心の世界
です。これが「閉ざされた世界」

そこから抜け出すために、「開かれた世界」目を向ける、というになります。
それは人物を問うことなく、生み出すものにおいて尊重される世界であり、一方、自分だけに特別に注がれる目のない世界だ、と。

これはあくまで、「病みからの抜け出し」の際に目にするものを描写しているものであり、「病み」なければ(気づかなければ)、あるいはそこから抜け出そうとしなければ、特にそうした2つの世界対比意識することもないかも知れない、というにはなりますね。


「3つの心の世界」

さらにを話しますと、そうして「閉ざされた世界」から抜け出すために「開かれた世界の行動法」学ぶのですが、「開かれた世界」「自分だけに特別に注がれる目のない世界」であり、そこで「愛」得ようとし、「自分だけに特別に注がれる目」再び欲した時、「閉ざされた世界」再び向かってしまう、という流れ説明しています。

つまりこの「閉ざされた世界」「開かれた世界」という2つの世界行き来だけでは、答えが出ないというです。
そこに第3の心の世界現われる、と。
それが「魂の世界」になる、という話になります。

かなり難解かと思いますが、その先説明しているのが
・『入門編下巻』のその後の部分
・『概説 - 4.心の成長変化(1〜4)』

とうことで説明はそちらに譲り

実践面においては、重要なのは、
「閉ざされた世界」と「開かれた世界」の対比をしっかりと見据え、外面においては「開かれた世界」の建設的な行動法で生きる模索を始める
という部分になると思います。
それによって「心の成長」始まり「心の成長」によってその人の心における「閉ざされた世界」「開かれた世界」「魂の世界」勢力関係の全体変化していく、という流れです。「魂の世界」次第に優勢になる、とここでは手短に言っておけるかと^^。


「2つの心の世界」への疑問質問へのコメント

まずはざっとそんな話の全体だという前提で、ご質問にそれぞれ簡潔にコメントしますと、

>⇒開かれた世界が人物を問わないというのがよくわからない。
>嘘のない姿に惹かれる人々が出てくる事が考えられる。そうならば、そこで生まれるつながりは「他人」というほど遠くない 、むしろ特定の「人物」として評価を受けるし、それは一過性の評価ではない事も多いのでは?

「人物を問わない」というのは、「閉ざされた世界」からの「抜け出し」局面(言わば直後)において鮮明になる様相だと言えます。
もちろん、「新たな場」時間が経つほど、「人物への認識」強くなってきます。そこで嘘のない面で評価され愛されるのであれば、それに越したことはない。
しかしそれで済まず、再び「愛されるための自分への嘘」直面し、再び「抜け出し」必要になるかも知れない。その繰り返しです。
そこで重要なのは「抜け出し」とは必ずしも外面においてその社会や集団を抜け出すということではなく、まずは内面において抜け出すということです。自らに積極的に自分に嘘をつく姿勢から抜け出すその上で、その社会や集団建設的な関係を続けることを、まずは模索する。
こうした模索の積み重ねで、心が成長変化します。


>⇒続いて、自分に嘘をつくと人を愛する事ができないということについて。
> これは、嘘をついて演じている自分で関わらねばならない人を愛せないということなのか? それとも、嘘をついている自分がいる以上、他人全般、あるいは世の中のほかの様々な物に価値を感じなくなるということなのか?

両方です^^。


>まず、集団は @存在の規律のない集団(開かれた世界の集団) A存在の規律のある集団(閉ざされた世界の集団) 実際は相対的な違いなので、度合いの違いになるかと 思いますが、こう分けられます。

「存在の規律」と呼んでいるものと、「組織の規則」あるいは「参加の条件」というもの一般違いを、まず理解すると良いでしょう。
「存在の規律」は、「こうでなければ存在を許さない」というもの。
「組織の規則」「参加の条件」は、ただ単に所属のための条件やルールそうでなければ、その組織や集団からは抜ける必要があるが、その先にどう生きるかは自由「存在の規律」は、そうした自由さえも認めないものです。
「存在の規律」強い集団は、病んだ集団です。「カルト宗教集団」そうしたの多いかもですね。


>⇒つまり、存在の規律に合致した条件を持つ人物は、 閉ざされた世界にいても自分に嘘をつかないでいられるということになりますね。つまり、愛する事も出来る。

これはその通りで、上述の「病み」なければ(気づかなければ)」の(気づかなければ)≠ノ該当するということになるかも知れませんね。
ハイブリッド心理学では、あくまで本人が病みに気づき自ら抜け出すという段階からを取り上げていますので、それについて特に言うことはありません。


>⇒ここまで整理して、開かれた世界に行かなくても、より自分の性質に合致した閉ざされた世界にいれれば 愛されながら愛する事が出来るのではないだろうか?という疑問が沸く。つまり閉ざされた世界にいながら「嘘」の自分じゃない自分でいられる ということです。

それができていれば上述の通りハイブリッド心理学から言うことは何もありません。
現にそうはできない、というところから、ハイブリッド心理学としては取り組みを始めます。


>自分の経験として、開かれた世界を価値観として持った集団は、怖いです。なぜなら、そこではそれぞれの人が「何がしたいか」ということと 「自発性」を持って関わりあっていて、自分にはそれが欠けているからです。
>これは、僕には「自発性」「自立性」の「存在の規律」に感じられる。「存在の規律」を人に対して課さないという「存在の規律」みたいな。

正真正銘の「閉ざされた集団」の方が、ずっと怖いと思いますヨ^^; カルト集団とか、暴力で支配された集団とか^^;
いずれにせよ、「自発性」があって関わることができるというのは、「存在の規律」とか「参加の条件」以前の、人間の宿命もしくは摂理、もしくは自明の法則とも言えるもので、まず自分が何をしたいかというものを持つにそれが集団「参加の条件」合致しているのであれば、大いに参加を検討すればいい。合致しないのであれば、その集団への参加諦めなければならない。
そうして、まず自分が何をしたいかという「自発性」「自立性」によって、自らの進路を定め歩んでいく、ということになると思います。それができるのが自由であり健康ですね。

いずれにせよ実践的には、「存在の規律」見えていたものを、自分自身の内面でそう解釈しただけものであり、実際の外界には「開かれた世界」の面があることを、まず捉えることからです。そして「開かれた世界の行動法」学び実践していく、という順番になります。


>あるいは、「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを 認める」という性質を持っているのに、自分が勝手に人間として自分の方が 圧倒的に劣等だという見方をしてしまっているだけなのかもしれません。

そいういうことだと思います^^。で、そうした内面感情については「ただ流し理解する」のみとし、「生み出すことによる自尊心」へと、姿勢論精神論ではなく、日常生活社会生活における具体的場面取り組んでいくのが実践になります。いつかそうした具体的場面ベースでの自尊心が、人と自分の比較による優越感劣等感といったものを超えていく、と。


>ハイブリッドで述べられている嘘とは何なのでしょう。性格を偽ること?キャラクターを偽ること?思っているのと違うことを言うこと?自分の欲求をごまかすこと?
>一連の「閉ざされた世界」から「開かれた世界」への選択、「嘘」を許すというのはどんな時のどんな嘘をどう許すという事なのか?例えばある特定の人物のストーリーとして、対比的に描かれていればより理解できる気がします。

「愛されるために自分に嘘をついていた」自覚されるもの全てです。
「嘘を許す」とはそうして「嘘をついたこそ」そのものへの批判糾弾は、しないということです。嘘によって起きた「実害」そのものについては、しかるべき処罰があったとしても。これは『入門編下巻』P.171説明した話ですね。

ストーリー一つあげるなら、こんな感じ。ある若者が、友達に好かれるようなキャラを演じていたが、そこに無理があり次第に苦しくなる。そしてそのキャラが、自分への嘘であったのを自覚する。そして友人達の輪に入るのが怖くなり、できなくなる。
「嘘を許す」とは、この若者に対してその友人達が、「なんだお前は、いかさま野郎だったのか、許せない」と攻撃を仕掛けてくるようなことはせずこの若者輪に入らないことをただ黙って見守る、ということです。そしてその若者は、無理をして友達の輪に入ることからはいったん退却し、本当が自分が何をしたいのか向き合う日々に、嘘のない自分で人と接することへと向かっていく。
そんなストーリーになりますね^^。
もちろん、それがその友人達の輪再び入るという結末になるのか、それはもうなかったという結末になるのかは、人それぞれ唯一無二の未知になりますね^^。


 
Re: 「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問 / こたろう 引用
No.948 2014/08/08(Fri) 17:12:27

下巻135ページより。


開かれた世界だけで生きる事に徹しようとした時、空虚となる。

深みを欠いた、刹那的、もしくは機械的で些末な事柄に心を奪われて生きるだけの繰り返しです。
それは人生を失うに等しいことです。


→なぜそうなるのでしょうか。
理由と具体例があればお願いします。


 
「開かれた心の世界だけで生きることに徹しようとする空虚」^^ / しまの 引用
No.949 2014/08/13(Wed) 12:04:57

「開かれた心の世界」とは「人物を問うことなく、生み出すことで尊敬される世界」であり、それは同時に、特定の相手との深いつながりは、まだない世界です。
ですので、「開かれた心の世界だけで生きることに徹しようと」という表現使うような姿になった時、それは誰とも深いつながりは持たないという生き方なってきてしまいます。
それは「空虚」だ、という表現
これで説明になりましたかどうか^^。

具体例で言えば、前コメント「ストーリー」として書いてみた話で言えば、友達に好かれるよう演じていたキャラに無理があり、苦しくなり、いったん友達の輪から離れ自分をみつめる
そこから、「開かれた心の世界」の中で、自分に嘘を演じることなく人と親しくすることを学んでいければいい。そこから再び特定の相手との深いつながり模索へと向かうことになるだろう。
ところがそこで、もう特定の相手との私的な関わりは面倒、仕事だけして生きていければいい、といった生き方思考になってくると、そこで言う「開かれた心の世界だけで生きることに徹しようとする空虚」になってきますね、といった具体例を言えます^^。
これで説明になりましたかどうか^^。



(No Subject) / こたろう 引用
No.931 2014/07/01(Tue) 17:20:52

実例はいくらでもあると思います。

例えばコストダウンによって
良質な衣服が貧困層の人々でも買えるように
なりました。
これは価値の産み出しといえます。
一方で、工場となる東南アジアでは
低賃金労働が問題になります。
あるいは機械が発達して労働が集約されれば
今まで働いていた人が失業するわけです。
明らかに産み出された価値によって生活が
破壊される人々かいるわけです。

豊かな食生活を送ることは
世界の飢餓人口を維持します。
肉に使われる飼料は人間と競合します。

サポート性の高い靴が足の筋肉を
劣化させます。

生活に関わる物事に家電やインフラが
整うことによって、家族の共同作業やそこから
産まれる喜びが破壊されるかもしれません。


マーケティングでは
いかにいらないものをいると思わせるか、
欲を煽るかという事が鍵になっていますよね。
必要がないものまで求めさせる事によって
資源や自然が余分に破壊されます。

そもそも生み出すためには何かを破壊
しなければならないはずです。


自分が望ましいものに取り囲まれるという事は
その分のものがどこかから移動してきているわけですし。


 
Re: / こたろう 引用
No.932 2014/07/01(Tue) 17:36:47

いくら生み出す事をしている本人とその
価値を享受する人間が純粋な気持ちで幸福だとしてもも、一方で
必ずその価値が破壊する物事や人々の生活がある。

これは事実だと思います。

しかし、もしかしたら全ての人や自然界や
物事にとって本当に幸福になれる何かが
あるのではないか、という完璧主義的な理想を
求めているのだと思います。
最大多数の最大幸福ですか。

これを高尚な理想として抱きながら、
安易に価値を生み出したと喜んでいる人々に
見下した目を向けてきました。
一面からみた価値を万物にとっての
価値のように思って、うわついている人を糾弾して
やりたいという欲求。
そしてこれが自己に向かい、生み出すという事に
向かえない一つの要因のようです。何かを破壊しているのに、
絶対的に良いことをした、
素晴らしいことをした、と喜ぶ自分が許せないからですね。


 
現実的で地道な「建設」から^^ / しまの 引用
No.934 2014/07/10(Thu) 18:40:10

執筆の方ちょっと手放せなくなり遅くなりました^^。


「建設」の不完全性

これはまず
>実例はいくらでもあると思います。
の下書いて頂いたもの、そして
>いくら生み出す事をしている本人とその 価値を享受する人間が純粋な気持ちで幸福だとしてもも、一方で 必ずその価値が破壊する物事や人々の生活がある。これは事実だと思います。

これは、「ある幸福の建設」他の「不幸」の「遠因」なり得る、あるいは何らかの望ましくない副産物同時に生み出す、ということですね。
それはもちろん、ということになると思います。

そもそもこの世界のものごとは、必ずどこかでつながっています。それをたどっていって全てがつながるのだから、ある者が幸福になる建設は、ある者を不幸にする破壊だという思考が、成り立ち得ます。
その点、我々生み出し得るものは、かなり「不完全」なものだと言えるでしょう。


「基本行動様式」

一方、ハイブリッド心理学「基本行動様式」として「破壊」「自衛」「建設」言っているのは、そうした「不完全さ」さておきそれぞれの者何かしら「望ましいもの」判断した上において、それについてどんな行動モードをするかの話になります。
「破壊」は、「望ましくないもの」判断したものに対して、攻撃破壊する行動
「自衛」は、「望ましくないもの」判断したもの出くわさないよう、先回りして避ける行動
「建設」は、「望ましいもの」判断するものを、自ら生み出す行動

ですので、ここでの「破壊から建設への選択」は、「全てがつながっているから建設も破壊だ」とはならない点、理解頂ければと思います。これはよろしいでしょうか。

つまり2段階選択判断過程が、そこにはあるわけですね。
1)何を「望ましいもの」と判断するか。
2)どの行動様式の行動をするか。



現実的で地道な「建設」から

ハイブリッド心理学からの指針は、一言次のように言えるかと。
抽象的観念論に陥らないよう注意しながら、ごく現実的で地道な「破壊から建設への選択」に取り組み、
その先に
「不完全性の受容」でもある「否定価値の放棄」を成す。
と。

つまり、
「それは望ましいことかどうか」
「そのための建設的行動法はどうか」

を、ハイブリッド心理学では、個別に学び取り組むものとして扱います。

例えばまずは、自分の部屋の掃除をすること。これがどう人の不幸につながる可能性があるという思考は、不要かと。この場合は、取り組みとしては掃除のノウハウへ。
例えば企業の生産活動何らかの「公害」を生み出している可能性がある。それについて検討したいなら、企業の生産活動とその「公害」と思われる現象の、人を納得させられるような、直接因果関係についての論理的思考検討する。

直接的因果関係ありそうであっても、社会全体がそれを選択していることを、まず認める必要があるものもある。
例えば衛生の向上が、アレルギー症の増加の、かなり直接的な原因であるという医学的見解最近出されるようになってきています。だから不衛生を選ぶかどうかは、多少個人の自由範囲がありがらも、社会全体を昔のような不衛生に戻すことが「望ましいこと」とは言いにくい

つまりこれはものごとに常に「良い面」と「悪い面」がある、その全体を見て、「選択」だということですね。
そこに、「良い面に目を向ける」という「姿勢の選択」も出てきます。

いずれにせよ、ハイブリッド心理学では具体的内容ベース検討します。
「一面からみた価値を万物にとっての価値のように」思うこともなくなると思いますので、その辺心配なくごく現実的で地道な「破壊から建設への選択」に取り組むと良いと思います^^。


 
Re: / こたろう 引用
No.935 2014/07/10(Thu) 20:37:27

なるほど、望ましい物事というのは
各々が違う趣向があるとして、
ハイブリッドでいう建設、自衛、破壊というのはそれを実現するための手段としての行動様式を指しているという事ですね。


全ての人や物事に対して
良いことを見つけなければいけない、
それをしなければいけない、
という思考がありました。


でもこれはきっと誰にも批判されたくない
からだと思います。

自分が産み出せる価値が与えられる喜びは、それを価値だと
感じられる感覚が共有できる人々と、
産み出した価値の恩恵を直接、あるいは
間接的に受けられる人々に限られる。
その価値を生み出したことによって
批判も受ける。
それは各人の思い描く理想や各人のの利害に
食い違いがあるから仕方がない。その限界の中で、自分は何を生み出す価値だと思えるのか。

●そこで自分が価値を感じられないなら、
いくらそれに向かっても自信にはならないと
いうことでしょうかね。

ここがやっかいだと感じています。
価値ではないとは思わない。なくなったら不便だと思うし、あったら便利。だけどそれに関わることで生み出す価値は、すごく小さく思える。または替えがきく。そう思える物ばかり
といいますか。
だから、あっと驚く、常識を覆すような
価値にひかれる。
そのものの価値というよりは、
やはりそれに取り組む自分という
自己像が望みに思える分野も多々ありますが...


そうではないとインパクトがないというか、
価値を感じられない。
しかしそういうものほど市場が薄くて
仕事として選ぶのはリスクが大きい。

もっと色んな社会のスタンダードな物事に価値を感じられれば、様々な職種を選択肢として
仕事をして社会で生きる自信を得たい!
という動機になるのになぁと、思います。
そう思えるヒントはないでしょうか。


アレルギーの話、以前牧場に行ったときに
聞きました。子供を牛舎に来させて免疫をつけさせる人もいる、と。
また近い話で、僕は二年以上せっけん、
シャンプー、歯磨き粉をやめていますが、
(常在菌の生態系を保つという意味で)
問題ありません。むしろ腹は下さなくなっていますし、風邪もひかなくなりました。
関係ない話失礼しました...


 
Re: / こたろう 引用
No.937 2014/07/15(Tue) 16:00:29

具体的場面の質問です。

先日ティッシュ配布のアルバイトをしている時、
年配の男性に
「なんで帽子かぶらないの?」
と聞かれました。

自分としては帽子は逆効果だという
認識で被る必要がないと考えているので、
そもそも被ろうとする意思がなかったわけてすが、
炎天下の中で帽子を被らずに一日中仕事を
させられているという様にうつったようです。

しかし帽子が逆効果だとわざわざ言うと
そんな事はないと言われて口論になる可能性を
感じたので、

「そうですね、被った方がいいですよね」

とあわせておきました。

すると
「俺が上にいってやるよ、●●グループだろ?
株主だから」

と言われました。


咄嗟に、「いえ、自己判断で帽子は被っていないだけなので、大丈夫ですよ」と言ったのですが、
「俺がいってやる、上に言われてるんだろ」
の一点張りでした。


結論としては、そもそもその方が株主である
グループではなかったことがわかり、
「じゃーあだめだ」といわれて終わったのですが、
こういった場面での上手な行動方法はどうなるでしょうか。


後からわかったのですが、やはりスーツでの
配布とあってやはり会社(および親会社と業界全体)の規定で帽子は
禁止だったようです。知らなかったので、
自己判断で、と言うことになったのですが、
知っていたら正直に会社の規定で被れないんですよ、
と言っていた気がします。


なるべく嘘はつかないほうがいいという
漠然とした感覚でいるから、そうなるんですよね。

これを目的思考にして考えると、
会社で帽子が被れるようになることを仮に自分が
望んでいたとしたら、むしろその方が一言クレームを
つけて下さることが、ありがたい事にもなり得ると
思いますが、その場合にも下請けである配布会社の
アルバイトがクレームをつけたという話にすりかわれば、親会社から契約を切られてしまって、多大な迷惑をかけることになります。

今回はそもそもそれを望んでいなかったので、
とにかくその方の機嫌をそこねない事と、
親会社にクレームが入らないことが
目的となりました。

結果、帽子は被った方がいいですね、
と相手に合わせて、お気遣いありがとうございます、
今度は気をつけたいと思います、
といった言葉てやりすごしました。


そもそも今回の事は自分に対してのクレームではなく、
むしろよけいな気遣いへの
対処、という事になると思うのですが、
ほかにも頂いたものを使わなくなった時の
弁解に困惑することが多いです。


 
「仕事」と「価値」「魅力」「能力」^^ / しまの 引用
No.938 2014/07/17(Thu) 15:20:22

>なるほど、望ましい物事というのは 各々が違う趣向があるとして、ハイブリッドでいう建設、自衛、破壊というのはそれを実現するための手段としての行動様式を指しているという事ですね。

その通りですね^^。

>自分が産み出せる価値が与えられる喜びは、それを価値だと 感じられる感覚が共有できる人々と、産み出した価値の恩恵を直接、あるいは 間接的に受けられる人々に限られる。その価値を生み出したことによって 批判も受ける。

何を価値と感じるかは人それぞれで、その人自身と、その価値を共有する人々に限られる。それはその通りですね。
それでいいというになると思います。まさにそれに価値があると。つまり「一番価値があるのは、価値を感じる心」ということですね。これはデイブ・ペルザーから学んだ言葉

一方「批判を受ける」というのは話が大違いで、実際社会において批判を受けるのであれば、実際そこに何か対処すべき問題があるということでしょうから(批判の方が誤っている場合も含め)解決への検討必要になりますね。抽象観念論ではなく個別検討要


「仕事」「就職」と「価値」「魅力」「能力」

>だから、あっと驚く、常識を覆すような 価値にひかれる。そのものの価値というよりは、やはりそれに取り組む自分という 自己像が望みに思える分野も多々ありますが... そうではないとインパクトがないというか、価値を感じられない。しかしそういうものほど市場が薄くて 仕事として選ぶのはリスクが大きい。 もっと色んな社会のスタンダードな物事に価値を感じられれば、様々な職種を選択肢として 仕事をして社会で生きる自信を得たい!という動機になるのになぁと、思います。そう思えるヒントはないでしょうか。

「仕事」「就職」検討として、ここでは「価値」という言葉だけ書いておられますが、3つの面があると理解頂くと良いかと思います。
「価値」「魅力」「能力」

「価値」 ・・・ 何にとってどんな価値があるかという、多少とも論理的思考、およびそれを尊ぶ感情だと定義できるでしょう。多少とも論理的思考があるので、上記のように、「批判」には論理的思考で対処することができます。
にある「仕事」全てに、「価値」があります。違法な「仕事」でない限り。
一般に、人生体験を重ね心が成熟するごとに、人はより多くの「価値」を感じ認めることができるようになります。また一つ一つ「価値」大小を、あまり違わないもの感じるようになります。そして自分が生み出すことができる、ささやかな「価値」を生み出す地道な日々に、幸福を感じることができるようになります。

「魅力」 ・・・ 一つ一つ「価値」惹かれる衝動だと定義できるでしょう。これはもう理屈ではどうにもならず、ありのままに感じるしかない。
若く未熟であるほど、一つ一つ「価値」大小が、極端に違うものに感じてしまいがちです。そしてそれが得られなければ自分の人生は駄目だと早計な思考陥りがちですが、
・追い求めた「魅力」において挫折した時こそ、見えなかった「価値」が見えるようになる節目となる
という心の懐に入れておいた上で、まずは今魅力を感じるものへとまい進できるかどうか検討するが良い、ということになると思います。
ただし恐らくそれはすぐ次の話として現われるだろうということで。

「能力」 ・・・ 技能スキル行動力などにおいて、実際自分がその仕事なり職種なりできるかという現実的問題。当然若く未熟であるほどこの「能力」低く、一方「魅力」極端なものを感じがちなため、そこに途方もないギャップ現われなちです。
ならばそのギャップに、早いとこ向き合うのが正解です。
まず「社会に出る」という現実的課題が、猶予なく訪れます。「魅力」あるものなど手が届きそうになく、「価値」良く分からない、というところから、我々社会に出るわけです。
そこで重要なのは、「仕事の普遍的スキル」など、ごく実務的で着実な学びが可能なものを、まず身につけていくというアプローチです。


「現実解の模索」の積み重ね

以上3つの視点全て踏まえた上で、「今向かうべき現実解」模索へ、ということになると思います。

つまり、
>あっと驚く、常識を覆すような 価値にひかれる
については、目をそむけることなく、それはどんなものか具体的内容しっかり明瞭化することです。そのリスクも含めて。

>もっと色んな社会のスタンダードな物事に価値を感じられれば、様々な職種を選択肢として 仕事をして社会で生きる自信を得たい!という動機になるのに
「魅力を感じられれば」という問いにはもう答えがなく、感じるようにしか感じようがない(^^;)と思いますが、「価値を感じられれば」という問いであれば、「それはどういう価値か」について学ぶことができると言えます。
これについては『入門編下巻』以下のような(P.212)
--------
 「価値とは何か」について思考し、話すための、一大探究領域が、私たちの社会にはあります。「価値言葉」を使って、ものごとを思考し、人と会話をする練習をしてみて下さい。
 あの人はどうだ、この人はどうだ、という言葉の使い方をするのではなく、ここで生み出される価値とはこれこれです、これこれの価値を生み出すためにはこうすると良い、といった言葉の使い方をします。

 仕事、趣味、家庭と日常生活、その全ての場面にそれがあります。
 仕事であれば、「品質」や「効率」の向上、「お客様の満足」の向上、そのためのさまざまな工夫。「コンプライアンス(法遵守)」なんていう言葉がCMでも流れる時代です。覚えると良い言葉が沢山あります。
--------


そうした「価値」学び知っていくごとに、より広い職種選択視として視界に入れることができるようになると思います。動機づけにもなりますね。
ただしこれは実際仕事を体験する中で、「価値への知」増やしていく、というになるというのが、僕自身の社会人経験からも言えることです。

上述の通り、「価値」まだ良く分からず「能力」まだ低く「魅力」感じるもの自分の現実との、途方もないギャップ。そこからスタートするのですが、そこに「仕事の普遍的スキル」など、今まで学校で教わった「やる気」「協調性」とかの、実際に社会に出て役に立たない精神論とは違う、知恵とノウハウの正解を取り入れていくことに、前進の要素が出てきます。

そうしたものを全て込みにして、「今向かうべき現実解」を決めて向かうしかないわけです。
どれか一つを見ても進み先は分からない自分が関われそうな「価値」小さそうでつまらない、だから常識を覆すような価値惹かれる、だけどそれはリクス大きい、ならもっとスタンダードなものに価値感じられればいいのか、等々。
そうした思考の中で、どれか一つを見てうまくいかなそうなので、それを否定して別のものを・・という「取り消し思考」繰り返している間は、「成長」ありません。なぜなら、それは結局自分に嘘をつくことだからだ、と言えるでしょう。

それらが互いに矛盾し、対立し合っていたとしても、全部を、ありのままに認め、「多面を持つ見えない一つの本質」として、今自分が向かうべき道を決める
そこに「成長」始まります。全てをありのままに認めた上で成す一歩の歩みによってです。そして「成長」によって「多面」全体が、変化始めるわけです。「価値」少し見えてきて、「能力」一歩前進し、「魅力」がまた少し違った見え方をするようになる。

最後までそうした、「現実解の模索」の積み重ねになる、ということです。


まずは「能力」基準で

一方人生全体変遷としては、およそのような流れ見通しとして持っておくと良い、というアドバイスができると思います。
まずは低い「能力」にて「とにかくできること」で社会に出ることを始め、「能力」も高めていく中でより高い「価値」へと向かう、と。

「魅力」というのは、最後まで手に届く範囲にはならない可能性かなりあります。それが「仕事」というものだと思います。
まずは生計を立てるという「必要性」から始める。やがて結婚して家族を設けるという「望み」が加わるならば、「仕事」それ自体の「魅力」を動機にするというより、家族への「愛」のためのものとなる、というように。

いずれにせよ最初は、地味なものです(←断定調^^;)仕事とはどうあるべきかなんていう抽象観念論を回したところでどうにもならないようなものとして、どんな就職ができるかという地味な「現実」があります。ならば、できるだけ早くその「現実」うまく対処するための具体的ノウハウの方に、心のアンテナ切り替える方がいい。

「低い能力」始めなければならないことへの幻滅絶望もあるでしょうが(僕もそうでした)、それでどうやっていけるのか。その答えがあります。
社会それを受け入れる仕組みを、用意しているということです。その仕組みに、まずは素直に乗った方がいい。
高い能力を必要としない代わりに、給料も高くないという仕事からです。新入社員は皆そうしたところから始めるわけです。それ以前においても、まずはごく単純なバイトのようなものから、実社会体験の中で、学んでいくとよろしい。

まずはそんなものから現実的に始め、やがて20年といった先に、「自分が生み出すことのできる唯一無二の価値」といったものに目が向く時が訪れるかも知れない。
そうした見通し持っておくと良いだろう、ということになりますね。

そのように「とにかくできること」から始め「より高い価値へ」という向かい方流れについては、
『進路相談』 masaさん No.871 2014/05/01
へのレス
『「選択肢の正しい立て方」・「仕事」への入り方』 しまの No.877 2014/05/05

仕事はまず実践スキルで選ぶ
というところで、人生の段階として別のものになるという主旨説明していますので参考頂ければ^^。


p.s
No.937 2014/07/15で入れていただいたものについては、また後日^^。


 
「肯定形の断り方」^^ / しまの 引用
No.940 2014/07/22(Tue) 11:42:26

では引き続きNo.937 2014/07/15で入れていただいたものについて^^。

>これを目的思考にして考えると、・・(略)・・今回はそもそもそれを望んでいなかったので、とにかくその方の機嫌をそこねない事と、親会社にクレームが入らないことが 目的となりました。

「目的思考」実践ベリーグッドですね^^。
一言「波風を立てずに断る」のが目標になる行動場面、ということになると思います。今回「仕事場面」ですが、相手はっきり顧客にもなっていない、一般の通行人との接触ということで、出来事の重さとしてはそれほどでもない場面

いずれにせよ、仕事場面であれプライベート場面であれ、「波風を立てずに断る」ための行動法、ここでは言葉の使い方としては、
・「肯定形」で断る
というものが指針原則になりますね。一番基本的な例としては、お出かけ誘われたが断りたい時、「それには行かない」という言い方をするのではなく、「その日はこれに行く」「その日はこれをする」といった言い方実はその相手と一緒に行くのが嫌だというのが内心の理由であっても、まずそう言う^^;
これがあまりに度重なり、「その日は・・」という言い訳が難しくなってきた場合は、多少理由一般化した形で、それでもできるだけ「肯定形」なるような言い方を考える。当面節約のため外食は控えたい、とか。まこうしたちょっと状況が立て込んできた場合は、「肯定形の断り方」だけではない視点使う必要が出てくるかも知れませんね。

いずれにせよ、深い人間関係など絡まない一般的な場面においては、そうした「肯定形の断り方」基本で、さらにそこに
・ユーモアを加える
のが上級編となり、それで相手の機嫌を損ねることなく、相手の申し出を断るという行動かなり完成する、という感じになるかと思います。

今回のケースでは、「もう少し日焼けしてたくましい男になりたいので、いいんです♪」とかかなーと。

ともかくは、
・「肯定形」で断る、そこにユーモアを加えるとベスト
というものになりますね。

>ほかにも頂いたものを使わなくなった時の 弁解に困惑することが多いです。

についても、そうした指針で考えると色々と発想が出てきて面白いかと思いますが、まあ「頂いたものを使わなくなった」については、そうした話題に触れないで済めばそれに越したことはないですね^^。

いずれにせよ、以上のアドバイスは、「問題に深入りしないので良い」という場目状況であるのが前提です。問題をしっかり取り上げ、解決すべきものとして対処する場合は、「原理原則行動法」などが必要になってきます。


 
Re: / こたろう 引用
No.941 2014/07/25(Fri) 17:48:59

*管理者メモ*
トピックが結構長くなっており新たな話のテ−マということで、
『「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問』 こたろうさん No.946 2014/08/06(Wed) 10:26:47
として
移動させて頂きました^^。



「学び」の奥深さ / 引用
No.928 2014/07/01(Tue) 01:49:40

 こんにちは。
 前回の書き込みにおいて「本格的な学びに入ってきた」ということで、今までとは打って変わって本格的に前へ進めるようになる!という感覚のもとで過ごせることをまず期待するようになりましたが、しばらく経つと「実はハイブリッドに関して何もわかっていなかった自分」を自覚する、という感じになりました。
 先生のサイトの説明の中でそういう話にも触れられていたこともあり、幸いそこで動揺したり混乱するということはなかったので、落ち着いて身の回りのことについて自分自身の考えを持つことに専念しつつ日々を送るようにしています。

 典型的にミスってたことを実感したものとして、たとえば相手を説得する場面についてですが、理詰めでやるべきものなのだと無意識のうちに思い込んでいたことでした。
 カラオケの採点機能でそこそこのスコアが出るようになったのを世間話で知人にした時、そのうちの1人が、カラオケを教えてほしいなどと結構執拗に頼み込んでくるようになり、面倒だなあ…と感じつつ、まず自分は一人でカラオケに行くのが好きなことを前提として話した上で、採点とカラオケの上手さは別であることを、上手さとは無関係にスコアを上げる方法(実際にやってみると、かなり不自然で気持ち悪くなります。実際私も、自分の歌声に意識せず歌ってた頃は、点数が上がることで上達してると勘違いしてました^^;)なども交えて説明し、更に歌の教え方など具体的にはわからないということなどを結構理詰めで説明し、他をあたるよう説得したのですが、どうやら「一人で歌うことは寂しいことだ」という考えで居るらしく、なかなか引き下がってくれずにいい加減イライラした、ということがありました。仕方ないのでアプローチを変え「勝手に上手いと決め付けてついてこられても困るし、プレッシャーになるだけだから」と、感情面での根拠も伝えたら何とか引き下がってくれました。そう言えば以前仕事上で常連さんから無茶な要求をされた時にも、「ルールですので」というだけではなく「ルールを破ると最悪クビになりますので」という言葉などで、若干情に訴えるニュアンスも含まれていたように思えます。確かに理詰めでだけでは、特に相手が感情で物を考える習慣の強い人であれば、まずその理屈を理解できずに話が平行線を辿る可能性もあり、最悪の場合、理屈っぽい奴だということで怒りを向けてくる可能性も考えられるな…と。単に理詰めで説明して納得させるのではなく、その場に応じて、情理両面での材料が必要だというのを痛感しました。

 前回ご提案のあった「オープンな交友関係について再び考えてみる」ということについてですが、実際自分が経験したものや周囲で見聞きしたものをあわせて考えると、大抵の交友関係は、それぞれ千差万別な比率で「オープンさ」と、いろんなトラブル…はっきりした揉め事であったり水面下での陰口や誹謗中傷、不毛な争いのような「面倒くささ」をミックスしたようなものなんだろう、と、理屈の上で結論付けましたが、やはり「面倒くささ」に巻き込まれるのは嫌だなあ…という感覚は拭えませんでした。その後二つのことが思い浮かびました。
 まず1つは、「建設的な行動法について、今はまだ、人と接する場面ではそういう行動があんまり出来ていない。たとえば会話するときなどは、その話題に関することで頭がいっぱいになり、破壊型か建設型かをチェックしながら発言するということが出来ていないな」ということでした。平たく言えば「話題について考えながら建設型の文法を考える余裕が無い」自分が居る、と。
 もうひとつは、「そもそも、俺は人の輪に入ることありきで行動するのが好きな性分なのか?」という自分への問いでした。今のところ大抵は一人で完結できるようなものへの関心しか持てていない分、そうでなければ「付き合いのための付き合い」にストレスを感じるのは避けて通れないだろう、と。いろんな場面を考えましたが、やはり自分は一人でマイペースに行動できることに魅力を感じるので、まずは人と関わることを避けられない場面で、必要な行動と並行させてどれだけ建設的な行動について考える頭を確保するか、というのが課題になりそうに感じました。とりあえずは慣れが必要だな、と感じている次第です。
 また、進展があったらご報告いたします。


 
「自らによる成長の歩み」へ^^ / しまの 引用
No.933 2014/07/10(Thu) 14:57:09

執筆の方ちょっと手放せなくなり遅くなりました^^。


「自らによる成長の歩み」へ

>しばらく経つと「実はハイブリッドに関して何もわかっていなかった自分」を自覚する、という感じになりました。

それこそがまさに真の理解への入り口になるという、
「パラドックス前進」
ですね^^。

>前回の書き込みにおいて「本格的な学びに入ってきた」ということで、

「本格的な学び」は、まずは取り組み実践の進め方そのものを、
「「最初の一歩」から「自らによる成長の歩み」へ」
というギヤチェンジするということになりますね。
それを念頭に、今回の材料についてコメントするならば、以下のような感じ。


「単に理詰め」ではない「原理原則行動法」

>典型的にミスってたことを実感したものとして、たとえば相手を説得する場面についてですが、理詰めでやるべきものなのだと無意識のうちに思い込んでいたことでした。
>単に理詰めで説明して納得させるのではなく、その場に応じて、情理両面での材料が必要だというのを痛感しました。

これはGoodな前進ですね^^。
その通り、まあ「論理的思考」から始まるものの、それは「一方理屈だけで考えるのではない」ゆえに、話が長くなると昨日のブログでも触れた通り^^。
話が長くなるとは、「学び」沢山出てくるということであり、そのそれぞれについてまず自身の理解納得を問うことに「実践」がある、というになります^^。

「原理原則行動法」などの「行動学」「単に理詰め」ではないことは、
・「場と相手に応じた原理原則」
重要になる、というのがまあ上級編(^^;)になってきますね。これについては、
『人間関係について』 にーなさん No.710 2013/11/27
トピックでの第3レス
『「目的思考」「自分自身への論理的思考」でまず現状の思考法行動法を確認する^^』
しまの
No.745 2013/12/18
具体例の中で、
======
場と相手に応じた原理原則出せるように取り組みます。この辺はちょっと上級編^^「知識」「言葉の選択」さらには「相手を見究める目」問われる場面もあり、まさに長期的な学びと実践の積み重ね重要になります。
======
触れていますので参考になるかと。まあこれが使いこなせるようになるのは、「成長の歩み」かなり後半になってからのように思います。それだけ沢山の経験積み重ねと、年季の先に、身についてくる。

まずは紋切り短絡でワンパターンにならずに、
「3種類の行動学」
どんな場面どれがベストかという学びと検討常に行うに、そうした積み重ねできる頭に入れておくと良いかと^^。


取り組みの方向

一方書いて頂いた後段は、「実践」始まりとなる「何が問題、課題、望みか」が、またそこから始めるアプローチそのものが、ややつかみ切れていない印象^^。
まとにかくは何でもかんでも(雑な言葉^^;)手近「学び」実践法にせよ成長の理解にせよ、
・継続的読書 ・・・ 自分の理解納得を問いながらじっくり読む
・日々の「実践」 ・・・ 「問題・課題・望み」に対応する「学び」を正確につかみ、これもまず自分の理解納得を問う

という
「一貫した「実践」の歩み」
しばらく続けてみることが、前進要領つかむためにも最短になると思いますので^^。

書いて頂いた後段については、やや断片的になりますが、僕からはこんなコメントができるかと。
そうした断片的な話全体を通して、自らの取り組み一歩の方向どう感じ取るかは、ご自身委ねられるということになると思います。

>大抵の交友関係は、それぞれ千差万別な比率で「オープンさ」と、いろんなトラブル…はっきりした揉め事であったり水面下での陰口や誹謗中傷、不毛な争いのような「面倒くささ」をミックスしたようなものなんだろう、と、理屈の上で結論付けましたが、

ミックスはできないと思います^^; それはまるで海外旅行について自分の望みを吟味しようとうする際に、まず海外旅行とはスイスの絶景中東の危険さアフリカの灼熱ミックスしたようなものだ、と考えて検討に入ろうとするような^^; 結果、まずどーも面倒・・とだけになるのが必至かもですね・・。
それぞれ別個の人間関係事象として、それぞれについて建設的対処法の詳しい「学び」に進むか、ということになるかと。

>その話題に関することで頭がいっぱいになり、破壊型か建設型かをチェックしながら発言するということが出来ていないな」ということでした。平たく言えば「話題について考えながら建設型の文法を考える余裕が無い」自分が居る、と。

具体的状況内容ごとでの、一つ一つの取り組み積み重ねになると思います。詳しい具体的状況内容を言っていただければコメント可能かと^^。

>「そもそも、俺は人の輪に入ることありきで行動するのが好きな性分なのか?」という自分への問いでした。
>とりあえずは慣れが必要だな、と感じている次第です。

こうした「自分への問い」は、「望み」への向き合いと、それに向かうための視点の「学び」どう経ているかによって、前進役割の有無と意味合い違ってくるということになると思います。
書いた頂いた文面からは僕からはその状況は分からず、それを自身で確認すると良いというになりますね。
「慣れ」というのは得てして問題の明瞭化をしないままの現状維持を意味するので、やや要注意。この辺がご自身でもちょっと何かつかみ切れていない部分のような印象も。

そこで明瞭化すべき問題とは何か。そのための糸口は、例えば

>今までとは打って変わって本格的に前へ進めるようになる!という感覚のもとで過ごせることをまず期待するようになりましたが、

ここで「前に進める」とは、何がどうなると期待したのか。そうした自己分析が、何よりも「パラドックス前進」つながると思います^^。


 
Re: 「学び」の奥深さ / 引用
No.936 2014/07/12(Sat) 17:43:04

アドバイスありがとうございます。

>後段は、「実践」の始まりとなる「何が問題、課題、望みか」が、またそこから始めるアプローチそのものが、ややつかみ切れていない印象^^。

読み返していると、確かに「交友関係」において何を望んでいるかがぽっかりと抜けているのを自覚しました。
一方、人の輪に入らないことで生じる問題も、嘘偽りなく考えると何も思い浮かばず、これじゃあ考えても何も進むわけがないですね。
今思い浮かぶのは、せいぜい、カラオケに関して、機械からの評価ではなく、自分は実際どのぐらいのレベルかという生の情報に僅かながら興味があるぐらいです。
より明確な「望み」が出てきたら再度考えてみます。

>ミックスはできないと思います^^;
んー…これについては、不毛なもめごとや陰口・誹謗中傷みたいなものと全く無縁な集団などあり得ない、という感覚はどうしても抜けません。
ちなみに、そういうものの標的にならない方法について調べても納得のいくものが見つからなかったので、「肯定型文法」から「建設的行動」まで身につけていく以外に今は手段がないのだろうな、という感じの流れにもなりました^^;

あと、「慣れ」については、「肯定型文法」への「慣れ」という意味合いでしたが、誤解させるような書き方で申し訳ありません。

>何がどうなると期待したのか。
自分の問題をガンガン解決していけるようになること、でしょうか。
あるいは、今までの取り組みでおそらく明確に出てこなかった「愛」へのアプローチも出来るようになる、とか。

このへんを考えるにあたり、最近、「愛されること」や「褒められること」は危険である、という感覚が次第に浮き彫りになってきました。
「愛される」「褒められる」というのは、そこに色眼鏡が入ることも珍しくなく、多少妄想に近いようなものも混ざってくるため、その分相手の妄想から外れないような振る舞いを強いられることになり、逸脱すると「そんなお前はお前じゃない!」という怒りを向けられるようになる、と。社会的によくあるのはスポーツ関連の報道ですかね。負けたら掌返してボロクソに叩く、というやつですが、それが身近な人間関係にまで蔓延しているのではないか、という恐れです。
まあ、「愛される」場面でなら、最悪の場合「あんたの妄想劇に付き合ってやる義理はない」と言って関係を断てば済む話ではありますが、仕事の場面で評価された場合、それで辞表を叩きつければすぐに文無しになってしまいますので、その辺は問題かもしれません。
まあ、意外なところから問題が浮上したので、どうアプローチしていけばいいか、再度調べてみようと考えてます。


 
Re: 「学び」の奥深さ / しまの 引用
No.939 2014/07/17(Thu) 16:14:53

検討を進めるとのことで、とりあえず押さえておくべきポイントコメントしておきますと、

>不毛なもめごとや陰口・誹謗中傷みたいなものと全く無縁な集団などあり得ない、という感覚はどうしても抜けません。

「集団」として世に成立するものとなるとそうかも知れませんが、重要なのはその中における個々人の行動法の違いですね。自身交友行動検討も、その把握ありきで前進可能になると思います。
あるケースで不毛なもめごとや陰口・誹謗中傷みたいなものが起きるものが、他のケースでは起きないという違い想定でき、それが個々人のどのような行動法や価値観の違いによる、というものがまず理解できればいいと思います。
できるだけ具体例ベース検討すると良いかと。

>最近、「愛されること」や「褒められること」は危険である、という感覚が次第に浮き彫りになってきました。「愛される」「褒められる」というのは、そこに色眼鏡が入ることも珍しくなく、多少妄想に近いようなものも混ざってくるため、その分相手の妄想から外れないような振る舞いを強いられることになり、逸脱すると「そんなお前はお前じゃない!」という怒りを向けられるようになる、と。

これは「愛されていること」「褒められること」話というより「本当には愛されていないこと」「本当には褒められていないこと」の話というような^^;
相手を愛するではなく、自分の欲求の満足のために利用する。相手を本当には認めていないから、こっちの論理を押しつけるために褒める
これも、そうではない、本当に相手を愛する(愛される)本当に相手を認める(認められる)こととの違いというものを、まずは押さえてからの検討が良いかと^^。




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