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No.1085 2015/08/10(Mon) 17:20:49
※二つ前の返信に対しての返信になります。
>一番キモになる部分の 「愛されるためにありのままの自分とは別人を演じる」という部分ですが、内面姿勢dの感情強制が発生しない以上は起こらない、という事でしょうか?
これはご質問がちょっと良く分からない(^^;)のですが、愛されるためにありのままの自分とは別人を演じようとしても、d)感情強制の内面ストレスによって心が破綻し行動不可能になる。だから愛されるために別人を演じようとする心の全体を抜け出す必要がある、という話を言っています^^。
→これは、感情強制のない「ありのままの自分とは別人を演じる」事もあるはずだ、という考えからの疑問です。本来は明るく天真爛漫な人が、おしとやかなフリをする。バラエティ番組をみて爆笑したいのに、親の前では何も面白くないかのように過ごす。文化祭など、皆で仲良く楽しみたいのに、そういう事を言うと調子に乗っていると責められるので、けだるそうにする中学生。逆であれば、親しさなどの感情を強制的に湧きあがらせるといった事はわかるのですが、この場合はむしろ「平静を装う」といった「ありのままの自分とは別人を演じる」です。 これらは、感情強制とは考えづらいですが、実際起こる事も多いかと思います。 わかりやすい例でいえば、今までやんちゃしてきた女の子が、 育ちの良いおぼっちゃんと交際する事になり、おしとやかな女性を演じる。
しかし、a,b,cにとどまっていれば「嘘をついた自分ではない」という表現(解釈が違っているでしょうか。)をなさったので気になりました。
後は、内面感情と外面感情はわけて考えるものだとして、 「偽の感情演技」には少なくともc、感情の自己演出が必要だと思うわけです。
>つまり感情の強制うんぬんよりも、自分の個性やキャラクターを偽るという事です。
自分を成長させる取り組みですので、「自分のキャラ」なんていう既存観念に縛られないことが大切ですね。行動法の選択取捨の結果として、性格や個性もより輝かしいものに変化していきます^^。
→よくわかりません。長い目でみれば、そうやって変化していくのでしょう。 しかし、今どう振る舞うのか、は急務の課題としてあります。その人の「自然体」でまずいい、という事ですが、 それすらもよくわからないのです。 この一つ前のレスで書きましたが、
時々感じるのは、前者の「少し甘えたところもある舌足らずな喋り方をする自分」が本来の自分で、その自分では「男らしくない」「嫌われる」と思ってしまった所から後者のような自分を作り上げて、 演じている。という可能性です。 つまりこれも「ありのままの自分で成長する事を放棄し、成長した後の外面印象だけを真似ている」可能性があるのではないか、と。
この部分。選択肢があるのです。自然体、どちらが自然なのかわかりません。 少なくともいえるのは後者は少し「作っている」という感覚があるという事です。 もっとわかりやすく言えば、前者は「僕」という一人称になり、 後者は「俺」という一人称です。前者は力が抜けながらもすっと背筋が伸びていて、 後者は首を少し出して腕組みをしている感じです。
実践編でD男さんは「もうガードを固めるのに疲れた。俺はこんな人間だーと叫びたい」 とおっしゃってました。ここから感じたのは、こういう感情がある、というよりも、こういう「弱い自分」みたいな人格が別で自分の中にあるイメージです。 |
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