しまのたかしハイブリッド人生心理学 島野隆ブログand掲示板
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●島野の著作そしてハイブリッド心理学に関する感想・質問・ご意見など投稿して頂けます^^。
●心の悩みのご相談
については、ハイブリッド心理学「取り組み実践」を進めるためのポイントヒントなどを、ここではごく簡潔アドバイスいたします。
*より詳しくアドバイスするとどのようなものになるのかは、
 
メール相談事例集実践編書籍など読んで頂くと参考になるかと思います^^。
返答入れて頂いた順に返していきます。日数がかかることもありますので、ごゆっくりお待ち下さい^^。


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(No Subject) / こたろう 引用
No.768 2014/01/26(Sun) 00:33:43

はじめまして。12月頭からハイブリッド心理学を学び始めました。
一通り全ての文章に目は通したのですが、まだまだ理解できない部分も
多い事ご容赦いただき、質問させていただいたいと思います。

何から質問してよいか・・・という感じですが、
タイムリーなトピックと問題点がリンクしてそうなので、
これについてまず質問させていただこうかなと。

@
>我々は「人物印象型自己理想像」にまつわる感情動揺の不合理な面を解きほぐし捨て去ることで、そのインパクトを多少減らすことができたとしても、その自己理想を基準にして起きる動揺や否定感情(たとえば怖れや気力低下さらには抑うつ感情など)によって現実行動が妨げられるという事実は、もはや捨て去りようのない心の現実さらには真実でさえあるものになる、ということです。


>「理想像内容の不合理」つまり「動揺内容の不合理」を捨て去ることができたとしても、「動揺によって妨げが起きている事実」は捨て去れないというのは、「人物印象型自己理想」を抱く前からあった動揺と妨げが、前からそうであったのと何の変わりもない深刻さで、ほぼそのまま続いているものにすぎないのです。


これは、不合理だと理解して、「行動戦略型自己理想」につながる
「建設的行動法」を見据えて、現実行動に出ようとしても、
「人物印象方自己理想像」を持って同じ現実行動に出ようとした時と
同じような否定感情が沸かざるを得ず、現実行動が妨げられ、実行ができなくなる、
という事でしょうか?


>自分の心の未熟と妨げについて、「こんな自分になれれば」と「人物印象」として自己理想を抱いて、そうなれれば解決する、そうなれなければ駄目だと考えた思考と衝動の全体が、そもそも結局「空想の中の感情」であって、「現実における成長と問題解決」とは全く無関係なのです。
話は単純であり、当然なのです。「こうなれれば」「なれなければ」と考えている時の感情動揺の全てが、「現実」における成長や問題解決とは、関係ない。それでも「現実」において問題や妨げがあるのであれば、その問題や妨げに対して、直接、「現実」における克服と成長への取り組みをすればいいのです。


ここがよく理解できません。
「空想の感情」?つまり、こんな自分を演じられたところで現実における成長も
問題解決も出来ていないということでしょうか?
なぜならその「こんな自分になれれば」のもとになったのは、
その思考が生まれる前の来歴における基本的不安が原因であるから。

それでも現実において妨げがあるならば、直接「現実」における克服と成長への
取り組みをすればいい。

「行動戦略型自己理想」を組み立てるために「建設的行動法」をベースにした、
一つ一つの場面や問題に対しての言葉、行動を選択するということですか?


しかしそれに取組む事に対しての妨げは、
「行動戦略型自己理想」を作ったところで同じようにのしかかってくる、
のではないのですか?


「行動戦略型自己理想」が確かな物に感じられた上で、
現実に対した場面で、妨げの感情が沸き、行動できなかったという経験が、
進みようがない心を自覚させて崩壊に向かうということなのでしょうか。





A建設的行動法に対しての疑問


ハーバード交渉術も購入し一通り読みました。
原理原則型行動法は自尊心のためであり、
楽しみの共有は愛を守るための行動法。

理屈も納得ができました。


自分は2年前に、島野さんが「悲しみの彼方への旅」で書いていた、
合宿での精神的破綻と同じような状況になりました。

それまでは多くは無いですが大学に友人もいました(内面的なつながりはなかなか感じられませんでしたが)
しかし、いわゆる明るく、広い交友関係を作るタイプの人や、女子とは
話せず、内向的で関わりづらいイメージの目を向けられている印象を、同じ教室の
たくさんの人に対して抱いていました。

島野さんと同じように合宿に行くことになり、その同じ教室のたくさんの人と
普段は接していないのですが、グループ分けをして接することとなりました。


友人たちの数名も同じ合宿にいたのですが、彼らはその明るく、広い交友関係を
作るグループの人たちと馴染んでいきます。日中の作業が終わって、夕食の時間、
風呂の時間、みな大声をあげて笑っています。
普段、友達の前ではある程度明るく振舞っていましたが、
その時の取り残されていく感覚と、自分の中にある明るい人たちへの、近づきたいという
感情と、うすっぺらな人間だと軽蔑する感情がうずまき、自分の化けの皮が
どんどんはがれていく感覚で、時間がたつにつれてどんどん元気がなくなっていき、
顔から血の気が引いていく感じでした。
友人たちの「どうしたんだ?」という心配そうな顔や声がけに、「いや・・・」としか
答えられない自分。
その時は、あるがままの感情を感じつくせば、それを抜けられる、といった
スピリチュアルの実践をしていて、夜は寝たフリをしながらずっと自分の恐怖感を
感じつくそうと力んだり、逆にあるがままに流すんだと力を抜いたりを繰り返し、
朝になってしまいました。


その日に限界を迎え、合宿の引率の先生にか細い声で「かえらせてください」といって
別室にいくと、そこで大声でむせび泣いてしまいました。
こんなに泣いた事は10年ぐらいなかった、というくらい。
そのまま、合宿から帰ることになり、当時の友人たちにどう説明していいかもわからず、
心配して送ってもらうメールも全て無視し、そのまま大学を休学しました。

そこからはひきこもり同然の生活をしながら、瞑想合宿にいってみたり座禅をしてみたり、自然の中にでかけたりしながら、1年10ヶ月が経ってしまいました。


話が膨らんでしまったんですが、
合宿の時明らかに自分が破綻するような状態になったのですが、
ようは自分で破綻に誘導するようにはできないということですよね。

現実に対して向かい合う具体的な行動をたずさえて、
その行動が上手くできれば内面とのギャップからそれが破綻に向かったり、
行動が出来ないほどの妨げがあればそれがみえることで破綻に向かうなど。


復学する前に破綻を繰り返せれば、とか思うんですが、
そうはいかないと。

現実を生きる中で・・・そう考えると、また新たに作った人間関係が
全て崩れてしまう恐怖感がありすぎて、行動できません。

それが全て壊れるとわかっていながら現実に向かう・・・。


あ、そうではないですよね。壊れずに作れるという行動法が以上の
ものですよね。


しかし、お互いを理解しあうというものから、
楽しみの共有のほうが明らかに健康系だとわかっても、
その「楽しみの共有」の場を自分がぶち壊しにしているという
感覚に襲われます。


自分がその場に入ることによって、その場が悪いものになってしまう。

ぎこちないものになってしまう。


どこにも入らない事が一番世の中のためだ・・・
という感情。深刻系ですよね。


人の輪の場に入るたびにその感覚に打ちのめされ、しばらくひきこもり、
また別の輪に入ってみて打ちのめされ、しばらくひきこもり、を繰り返して
きてしまいました。


ようは、「建設的行動法」はトラブルの無い関係を作ることは出来ても、
「楽しみの共有」を取り合えず、表面的にでも維持できることは難しいという
印象を受けます。


その場合、例えば「会話術」「雑談術」などを学ぶことも
建設的な行動法になるのでしょうか。
穏やかにでも盛り上がる。

中間距離の人との雑談(バイトの業務での会話ではなく休憩など)などが
ダメダメです。


大学生という「ノリ」が関係に大切?な時代だから、もあると思いますが。


自分の場合は、そういった表面的な盛り上がりや雑談がもう少しできれば、
ある程度安定した関係性を築けるような気がするのですが。



具体的な不安としては

●2年前の同級生のほとんどは卒業するが、研究室のタテのつながりであうこともある。
また、ほかにも休学していた人がいて、その人たちと会ったら、自分の当時の状況と休学の2年をどう話して良いかわからない。

●少なくとも当時友達として毎日一緒に授業を受けていた人たちには会いたいし、
突然連絡もとれなくなったから、関係をまた作るには自分のことを説明するべきか。
それとも、対人恐怖感などは自分の中の感情として、適当な言い訳を作った方が
いいのか。


●新たな関係を築く事になる人たちは、年下だが、自分の状況、休学についてどう
話していいかわからない。また年齢や学年について、どういう関係性(学年が下だから下として敬語が良いか?)がいいのかわからない。

●そもそも、研究室などで継続的な関係を築ける気がしない、また自分が
斜にかまえて関わりづらく、空気を乱しているという感覚で、ろくに話せず
取り残されるとしか思えない。
⇒これに関しては今の感情で未来をとらえているので、
少なくとももう少し良い展望が抱けるくらいの人間関係作りを復学前にしておきたい。


B「楽しみと喜びの共有」について

人に対しての愛情を保つために、行動や発言は「楽しみと喜びの共有」へ。

心を開いて、では結果的に破滅的な結果にしかならない。
ということですよね。

上の質問のくくりでもあるのですが、(対人恐怖傾向を、なかなか人とうまくやれない、とカミングアウトしたほうがいいか?という疑問)
「自己開示」についてです。

楽しみと喜びの共有を中心にすえた人間関係においても、
「自分の弱さを認める」というのは、関係作りに積極的な価値を持つことが
あると思うんです。


例えば、人見知りだといわれれば人見知りの人は安心感を持つ場合がある。


相手もリラックスして「喜びと楽しみの共有」がしやすくなる。


こういう動機でのカミングアウトならば、「建設的な行動」といえるのでしょうか。


これが、「人見知り」だということを認めてもらい、閉鎖的な依存関係に
もって行きたい、という動機であれば、それは「愛を破壊する」発言といえる。


この理解はどうでしょうか。





まとまっていなくて申し訳ありません。


 
今問うべき「自立した心の世界の建設的行動法」^^ / しまの 引用
No.776 2014/01/30(Thu) 18:02:33

克服成長への心の仕組み

まず克服成長への心の仕組み理屈部分^^。

>@
>これは、不合理だと理解して、「行動戦略型自己理想」につながる「建設的行動法」を見据えて、現実行動に出ようとしても、「人物印象方自己理想像」を持って同じ現実行動に出ようとした時と同じような否定感情が沸かざるを得ず、現実行動が妨げられ、実行ができなくなる、という事でしょうか?

いえ、「人物印象型理自己想像」不合理だと感じ、意識思考の上では捨てたとしても、それだけではまだ「人物印象型理自己想像」働きを続けているかのような否定感情く、というです。
分かりやすいかもしれないストーリーで言えば、たとえば「主婦の理想像」の信念抱きながらもそうなれず「うつ」になる、といったケースカウンセリングを受け、そんな完璧な主婦などいないという言葉納得し、心が楽になったのを感じる。そうして意識思考の上ではもう理想信念は持たなくなるのだが、ふとまた自分よりもそうした理想像に近い他人を見かけた時、心が沈んでいき、無気力が起きてくる・・。そんな流れ
つまりでは「こんなマイナス感情に値する問題ではない」と思いながらも、はというか引き続きマイナス感情を起こす、というような話です。
まあこれは要は一言で、理想を捨てれば低い自己評価、自信のない状態が解決するというわけではないということだと言えるかと。理想を捨てればいい、ではなく、自信を持てるようになる何かを持てることが真の解決、と。

で、それについて「現実」における克服成長への取り組みをしましょう、というです。
それが「建設的行動法」になる、という
ですので、「建設的行動法」を見据えて現実行動に出れるようになってくれば、かなり話が違ってくると思います。

ただしこの2つつまり「不合理な自己理想を捨てる」「建設的行動法ができるようになる」には、かなり距離あります。一度に切り替えることができるようなものではありません。
まず「人物印象型理自己想像」不合理を理解し、それを捨て去ることで一段階がそれをどう受け入れられるかに、多少とも時間がかかるでしょう。
に、「建設的行動法」学ぶので一段階。それをどう理解納得できるかに、また多少時間がかかるでしょう。ここでもやはり、がそうした新しい心の世界向かうことができるかどうかが、問われてくるかも知れません。
実際の行動ができるようになるのがまた次の段階
年単位で、一歩一歩を歩んでいくものになります。


「自己理想」を問う前に行動法を学ぶ

>ここがよく理解できません。「空想の感情」?つまり、こんな自分を演じられたところで現実における成長も問題解決も出来ていないということでしょうか?

「演じる」とは、本当ははそうでないから(言葉は悪いですが)その振りをする、というになると思います。シナリオ作成から結果評価までをふんだんに「空想」を駆使して。
真の問題解決は、もはや何の意識も働かせる必要もなく、自動的に、安定したプラス感情が湧き出るようになることです。「これはどう?」と、人がどう思うかなどの空想を働かせる必要もなく、好ましい「結果」「現実」において生み出せることで。
そのために、「建設的行動法」学ぶことから始めるものとして、「現実における克服」向かいましょうという話。
ただし「演じる」というのが全く無駄ということではなく、「その場しのぎ法」としては役に立つ場面もあります。これも結構重要^^。

>「行動戦略型自己理想」を組み立てるために「建設的行動法」をベースにした、一つ一つの場面や問題に対しての言葉、行動を選択するということですか?

まずは「建設的行動法」とはどんなものかを学ぶことからです。自己理想どう描けるか以前に。
その習熟豊富になるほど、やがて「行動戦略型自己理想」描けるようになってくる、という道筋です。

>しかしそれに取組む事に対しての妨げは、「行動戦略型自己理想」を作ったところで同じようにのしかかってくる、のではないのですか?「行動戦略型自己理想」が確かな物に感じられた上で、現実に対した場面で、妨げの感情が沸き、行動できなかったという経験が、進みようがない心を自覚させて崩壊に向かうということなのでしょうか。

順番で、自己理想(人物印象にせよ行動戦略にせよ)どう描くか以前のさまざまな「建設的行動法」習熟することで、妨げが減っていき、「行動戦略型自己理想」が描けるようになってきます。
「崩壊」については次の話の方に含めましょう。


「心の死と再生」・「依存」から「自立」の転換

>A建設的行動法に対しての疑問
>話が膨らんでしまったんですが、合宿の時明らかに自分が破綻するような状態になったのですが、ようは自分で破綻に誘導するようにはできないということですよね。

その通り基本的にはできません自分の足首つかんで足元さらって自分を転倒させられるかと言えば、できないと思います^^; それと同じです。
自分の意識破綻する可能性もある体験の場に、その可能性を想定した上で、勇気を持って向かうというのは可能ですね。ただしその場合でも、意識の破綻崩壊は、「破綻崩壊したい通りに破綻崩壊」などど安易に受け入れられるものとして起きるのではなく、感情としてはあらゆる面において受け入れられないものとして起きます。まさにそうであるからこそ意識が死んで再生するものであることを知っておき、耐えてやり過ごすことが大切になるわけです。

さらにただしそうした体験「再生」としての意味を持つのは、「依存から自立へ」という転換への姿勢持っている場合です。その時、今までの「依存」に根ざしていた心死に、「自立」の心の足場を一歩強めた心再生されます。
でないと、駄目な体験がまた一個、だけで終わってしまう^^;

この「依存から自立へ」という転換への姿勢については、まずは関連内容掲載途中ですが、
『入門 - 4.心の成長変化 / 「心の成熟」の法則』

3)「愛」を単一軸とした「心の成熟」
参照
そこで書いているように、その転換とは、「今までの心」のまま行動法を変える工夫というレベルのものではなく、「今までとは別の心」へと向かう、という転換であることが重要です。
そこで「大自然を生きる一匹の獣」というをしていますが、人間以外の動物は、「自意識」あまり持たないので、自然とその大きな転換向かいます。その最初の転換は、しばしば親獣から突き放されるというで。それは子獣にとってその時失意になったとして、「自意識」あまり持たない獣の心では、「命」が生み出す「自立」への力直接働きほどなくして「自立する心」へと切り替わるわけです。
人間「自意識」があるので、大抵「今までの心」にしがみつき、「今までの心」の中で思考しようとします。まあいつまでもを始めとする他人や社会の庇護の下で生きるという生活様式もあり。

それを超えることが重要になるわけです。つまり「今までの心」のまま行動法を変える工夫というレベルのものではなく、「今までの心」とは全く違う「新たな心」の芽が自分の中にあることを感じ取り、それに立って、新たな行動法に向かう、という取り組みになるわけです。もちろん社会の庇護から外に出るなんてことではなく(ターザンでもなし^^;)社会というものを自分が生きる大自然としてうまく使うものとして。


「依存から自立へ」の転換と共にある「建設的行動法」

ですので、「建設的行動法」一言でいっているものも、実は「依存から自立へ」という、「行動法」というテーマよりもさらに根本的根源的な、「依存から自立へ」というテーマを含んでいるものであることを、ご理解頂ければと思います。

それはつまり、即実行に移せるプラス行動法であると同時に、実行するしないに関わらず自分の中にある「新たな心」に気づくためのヒントでもあるということです。このような行動法をする心とは、どんな心なのだろうか。自分の中に、それはあるのか・・向き合うこととして。
そしてそうした行動法向かうことができる自分の心存在気づいた時、その行動向かうという新たな局面始まるでしょうし、そうではなくとも、そうした学び心の懐に入れながら、潜在的「依存から自立へ」という転換を受け入れ始めた時、今までの心ではもう先にいけないというどん詰まりの体験の中で「意識の破綻」「心の死と再生」になるということが、起き得るようにもなる、ということです。

ですので、我々意識実践として行うことができるのは、まずはとにかく「依存から自立へ」という姿勢を込みにしたものとしての「建設的行動法」を学び、その理解納得を問うことからになるわけです。
それが、
『入門 - 3.取り組み実践 / 「取り組み実践」の3ステップ』
で説明している、「応用の学び」「向き合い」という手順です。結局全てこれを通るんですね。

そこで妨げ軽ければ「建設的行動法」への理解納得がすんなり進み、行動に向かうことができるかも知れない。
妨げ深かった場合2パターンが考えられる。
a)今までの「依存」の心へのしがみつきが続いてしまうかも知れません。「建設的行動法」への理解納得ができない。これはハイブリッド心理学による取り組み進まないケース。その場合の他の取り組み方法は、僕は知らない^^; (僕の専門はあくまでハイブリッド心理学ということで^^)
b)そうではなく「建設的行動法」への理解納得ができ始める。「習熟」などはまだ遠く妨げが強く向かうこともできない。「崩壊」が起きることが考えられるのはこの段階です。つまり今までの心ではもう先にいけないことを、意識よりも深いところ心が感じ取る段階です。だからと言って「今までの心」が自分で自分を「新しい心」に入れ替えることなどできないわけです。だからそこで一度「今までの心」が死ぬということが起きます。そし新たな心再生されます。
『悲しみの彼方への旅』がまさにこの段階の様相を書いたものであるわけです。

ということで、結局「取り組み実践」としては、まずは今直面する問題課題についての、「依存から自立へ」という姿勢を込みにしたものとしての「建設的行動法」学んで頂き、まずそれについて自身の理解納得に向き合って頂く、というものからになるわけです。


理解納得できていない自分に気づくことが第一歩

そこで「自身の納得理解に向き合う」という段階で、重要なポイントを言っておきますと、
「自身の納得理解を問う」とは、「いかに自分は納得理解していないか」を自身に明瞭にすることから始まる。
ということです。
これは上記妨げが軽い場合も、深かった場合でもです。

というのは、まずは、心底での納得をしないまま、自分に当てはめてみるという思考姿勢始めるからです。
それで多少うまくいく面もあれば儲けもの。でもどうもやはり言われた通りには行かない。そこまで行って、初めて、入り口立つわけです。自分の心底での本当の感じ方考え方こうなのだ、と自覚することから始めるものとして。
そうして自分がいかにハイブリッド心理学が示す「建設的行動法の学び」とは違うものに向いているかを認めることができた時こそが、第一歩踏み出した時だと言えるでしょう。
まあこの第一歩の間に、起きるべき「崩壊」あるのなら起きているでしょう^^。


今問うべき「自立した心の世界の建設的行動法」

ということで、上記引用の文章に書いて頂いたお悩み内容については、その言葉一つ一つコメント入れるのではなく、ざっと全体を見て、ハイブリッド心理学から示すことができる「学び」はこうだ、というのをずばり短文で出しておきましょう。
それはこんな感じのものです。
     *     *     *     *     *
貴方がこれから(今)向かう人間集団は、特定の目的の下に運営されるものであり、その中における馴れ合い親しみの和は、第一の目的ではない。まずその「特定の目的」を果たすことに、徹しなければならない。学校であれば勉強。授業を受けること。
また、与えられた集団で馴れ合い親しみの和があり、その中に入れることを「あるべき姿」と感じるのは「ティーンの世界」までのことであり、まずはその世界に別れを告げなければならない。少なくとも外面行動としては。
人との親しみの和に加わりたければ、自分のことを話して分かってもらって、というものではなく、自分が心底から興味と楽しみを感じる、「自分」ではない「ものごと」についての話題を共有するという行動法のものによって、行わなければならない。それが見出せない、そこに加わることを心底から楽しめないのであれば、孤独を受け入れるべきである。
そしてそもそも、これからまず向かうべきは、人との和に入ることではなく、「社会に出る」ことを見据え、そのための情報を得ることなどから実際にその活動へと向かい、また社会を生きるスキルについても基本的な学びを得始めることである。

そうして一度今までの「依存の愛」から旅立ち、「社会で生きるスキル」による「自立の自尊心」を得てから、再び「愛」という人生の課題に向き合うと良い。その時、心はもう別のものへと変化しており、全てが、今とは違う見え方をするであろう。そこで「愛」に向かうことに再び妨げが現れたとしても、まさにその克服の模索によって、今の心からは全く未知なる答えが、見出されるだろう。
     *     *     *     *     *

といったものです。

まず言えるのは、「どうすれば談笑の輪の中にいられる自分に」というテーマに、心が虜の状態だと思います。しかし「今向かうべき成長」は、もうそれではないのだ、ということです。
それについて僕の感慨を書いておけば、「幸せなティーンの時代」を得るために、それは必須なものだと感じます。しかしそれを得る人間と、得ることができないまま人生の次の段階に向かわなければならない人間がいる。
後者でした。そしてこたろうさんも、今の段階では後者でしょう。それを受け入れず、そうした「幸せなティーンの時代」を得てから「社会に出る」という観念に、しがみついているという印象。でに、「談笑できない自分のままでは社会に出られない」なんていう恐怖感とらわれるようにもなる。そうして多数の若者が、社会に出ることにへの誤った不安恐怖あえいでいる昨今・・。

これから向かうべき成長とは、社会に出て必要となる「仕事のスキル」などであり、それは「談笑できること」なんてのとはもう全く別のものです。この点は今の学校教育が、そうした現実の社会を生きる術教えていないことに弊害があると感じるのですが・・まあ教師が実際社会を知らないのだから始まらない・・なんてはさておき。
この辺具体的な話は、この掲示板「仕事の普遍的スキル」なんてワード検索してもらえれば、どんな話多少つかめると思います。

まあその上で、「談笑できるようになること」なんて目標持っておくのもいいと思いますヨ。「仕事のスキル」得るとは、そこに必ず人とのコミューニケーション材料を、今までの学生時代の馴れ合いの輪の中の談笑とは全く違う形で、得ていくことでもあります。そこからに、仕事以外の場における人との交友への入り方というものも、見えてくるかも知れません。
それが、「幸せなティーンの時代を得なかった者が、やがて豊かな人間関係を築く」ための、僕が知る王道です。
「仕事」なんてまだピンと来ないという状況だとしても、大学に入ればもうその視野は持てる段階です。これについては、りょうたろうさんへのちょっと前のコメント
『「勝てる原理原則」は人生の駒を動かした先全てで学ぶ^^』 しまの No.744
2013/12/17

など読んで頂くとよいかと。


マイナス内面は表現しないのが基本

今回は以上をまずはアドバイスとし、まずそうした大きな話について、どう感じるか向き合ってみて頂くと良いかと思います。

ご相談文面後半は、そうした大きな視点を全く持たずに細かい話を書いて頂いているようなので、逐一コメントを返すのは省略し、ちょっと気づいた点、もしくは上記最初に言った「やり過ごし方として結構重要」な点などを書いておきましょう。上述大きな話向き合うことで、細かい点多少対処が見えてくると思うのですが・・。

>その人たちと会ったら、自分の当時の状況と休学の2年をどう話して良いかわからない。
>関係をまた作るには自分のことを説明するべきか。それとも、対人恐怖感などは自分の中の感情として、適当な言い訳を作った方がいいのか。
>新たな関係を築く事になる人たちは、年下だが、自分の状況、休学についてどう話していいかわからない。また年齢や学年について、どういう関係性(学年が下だから下として敬語が良いか?)がいいのかわからない。

「分かってもらう」ための説明など一切いらず、「つなぐための言葉」言えればよろしい。たとえば「ちょっと軽いうつで休学していたけど復帰し、今後授業の方頑張りたいのでまたよろしく」とか。とにかく話の向き先込み入ったことに向かないよう言葉を配置するのがポイントです。前向き言葉で終えるなど。この辺は「言葉の選び方」という人生の日常の学びですね。
面と向かって言いずらいが伝える必要のある言葉先にメールで送っておき、会った時にはもう触れない、というのがこういう場合一番洗練された行動法になると思います。まもっと熱い会話を好む人など、人による好みはあると思いますが(僕はあっさりドライな方が好き♪^^;)
新しい学年では、聞かれない限り話す必要はないでしょう。ごく一般的な敬語かタメ口でいいと思いますヨ。

最悪、「輪に入らない普通の人」「演じる」ことも考えるといいかもですね。あまりにビビってしまうなら、どうやって「会う」かは諦め、一人おとなしくするしかない^^;

>(対人恐怖傾向を、なかなか人とうまくやれない、とカミングアウトしたほうがいいか?という疑問)「自己開示」についてです。
>こういう動機でのカミングアウトならば、「建設的な行動」といえるのでしょうか。

「自己開示」しません「自己開示」という発想は、人に心を閉ざす感情によって妨げられている人が、明るく人と接する人というのは「心を開いている」のだと、誤ったイメージを抱いた結果観念です。明るく人と接する人は、「自分」を開示することでそうなるのではなく、話題となる、「自分」ではない「ものごと」が、心底から面白い楽しいと感じているからです。それだけのことです。心底から面白いと感じずに、話が盛り上がる人間になどなれないということです。

マイナスの内面は、「カミングアウト」のみでなく全ての形において、表現しないのが基本です。一度表に出した自分のマイナス内面は、必ず一人歩きを始め、おうおうにしてそれが自分の内面を回復する妨げになります。そうでなくとも、何らかの「後始末」が必ず必要になります。面倒この上ない。
回復したいなら、マイナスの内面表現しない回復しなくて固定させていいのなら、好きにしていい。(おざなりアドバイス^^;)

あっあとこれ。

>自分がその場に入ることによって、その場が悪いものになってしまう。ぎこちないものになってしまう。

「幸せなティーン」の絵「あるべき姿」という善悪思考にまで高めてしまった結果。これはよろしいですかな。


ともかくまずは大きな話からですね^^。


 
Re: / こたろう 引用
No.778 2014/02/02(Sun) 00:38:06

前半部分の、依存の状態では破綻が成長の糧にならない、などの記述、
参考になりました。
細かい向き合いに関してはもう少し深め、また質問したいことが出たら
お願いします。
今回は取り合えず後半部分の
「幸せなティーン」の部分に関して・・・


>人との親しみの和に加わりたければ、自分のことを話して分かってもらって、というものではなく、自分が心底から興味と楽しみを感じる、「自分」ではない「ものごと」についての話題を共有するという行動法のものによって、行わなければならない。それが見出せない、そこに加わることを心底から楽しめないのであれば、孤独を受け入れるべきである。

コレに関してはおおむね納得できるのです。が、輪の個人個人との付き合いが
深まっていく過程で、「ものごと」ではなく「自分」に関しての情報のやりとりが
増えていくと思うのです。
物事、に関しての話ばかりではなんだか自己閉鎖的で、とっつきにくい印象を
抱かれているような感覚がします。
そのうちに周りが仲良くなっていって、取り残される・・・という恐怖感で
その場から逃げ出してしまう、ということが多い。


大人同時の集まりでも、近況や「感情」の共有によって仲が深まっていっている
印象を受けました。

えと、これはそもそも「物事」と「自分をわかってもらう」という
会話内容についての区分があまりハッキリしていないのかもしれません。
それに関して、具体例などありましたらお願いします。


>で逆に、「談笑できない自分のままでは社会に出られない」なんていう恐怖感にとらわれるようにもなる。そうして多数の若者が、社会に出ることにへの誤った不安恐怖にあえいでいる昨今・・。

そうですね。実際、アルバイトでそういう雰囲気を感じました。
仕事のスキルに関してはほとんど問題なく(まぁ、アルバイトなので)
むしろ休憩時間や、お客さんが居ない時間の雑談、あるいは帰りに一緒に駅まで
歩く、といった状況の苦痛に耐えられずに、やめてしまった。という感じで。


>まあその上で、「談笑できるようになること」なんて目標を持っておくのもいいと思いますヨ。「仕事のスキル」を得るとは、そこに必ず、人とのコミューニケーション材料を、今までの学生時代の馴れ合いの輪の中の談笑とは全く違う形で、得ていくことでもあります。そこから逆に、仕事以外の場における人との交友への入り方というものも、見えてくるかも知れません。

こういうものは、いわゆる「雑談術」などのビジネス本から得るのでしょうか。
島野さん的なノウハウは何かありますか?



>とにかく話の向き先が込み入ったことに向かないよう言葉を配置するのがポイントです。前向き言葉で終えるなど。この辺は「言葉の選び方」という人生の日常の学びですね。


●「ちょっと軽いうつで休学していたけど復帰し、今後授業の方頑張りたいのでまたよろしく」

ここらへんと、自己開示、に関してもですが、ここの部分で「どこまで話せばいいのか」という部分で惑いがあって、結果関係をフェードアウトするパターンが多い事に
気がつきました。

2年間顔を合わせていないのに、いきなり軽いうつだったけど復帰したけどよろしく、
っていうのでは納得ができないのではないか?と感じます。
不信感を持たれるというか。

あるいは、その時にそう返して納得されても、また一緒になるタイミングで
聞かれることもあると思います。結局どういうことだったの?みたいな感じで。

いつそれを聞かれるかという恐怖におびえていたら、その人を避けることに
なりそうです。

そうなると、相手がある程度納得でき、不信感を抱くこともなく、
かつこれから気を遣いすぎないような言葉で伝えられたら
その後過ごしやすいと思うのですが。


それと、自分の全てを話せること自体に「強さ」を感じている感覚があります。
弱さをさらけ出せないのは自分を強く見せようとしているからだ、という自己処罰
感情が起こります。

おそらく自分の今の感覚では、自分自身の弱さや思考、惑いなどのマイナス面を
開示せずに、人に「信頼」や「親しみ」を感じてもらうことは難しいという感覚が
あります。


一方で、この感覚自体が少し歪んでいて、それによって、相手が別に「もっと心を
開いて欲しい」と思っていないにも関わらず、そうできない自分を責め、結果
勝手に「自分をさらけ出さないことで不信感をあたえて空気を悪くしている」という
感覚におそわれ、常に緊張しているという状況もあると思っています。



>一度表に出した自分のマイナス内面は、必ず一人歩きを始め、おうおうにしてそれが自分の内面を回復する妨げになります。そうでなくとも、何らかの「後始末」が必ず必要になります。面倒この上ない。

ここを具体例で説明していただけると助かります。
マイナス感情は全て出さないというのはやはり極端だし、そういう人は不自然だし
逆に人から避けられる気がします。良い人だけど人間味が無くて、とか。

そういうケースも多いが、それでも自分の内面の成長、を目的にするなら出さない方が
絶対に良い、というなら納得できると思うので、
どういう意味で「後始末」が必要なのか、「一人歩き」とはどういう事なのか
具体例があればお願いします。


 
「交友行動」が課題ではない人生の段階へ^^ / しまの 引用
No.783 2014/02/06(Thu) 11:52:22

2種類の交友行動法

これはまずは、ごく一般的な交友行動法として、「かなり深いつき合い」相手「まだ浅いつき合い」相手とでは、多少行動法が異なるということから考えると良いかと思います。

書いて頂いたように、
・「自分」についての情報のやり取りが増える
・ナイマスの内面を表現することも絆を深めることにつながり得る

のは、基本的には「かなり深いつき合い」相手ですね。家族親友恋人などごく少数相手

一方、社会に出て「まだ浅いつき合い」相手への一般的な行動法としては、
・自分のことばかり話すのではなく、相手と楽しめる話題があればそれについて話す
・マイナス内面は表現しない

というのが基本になると思います。そこから、いかに相手とのつき合いを深められるかは、自分が相手と心底からつき合いを深めたいと感じるか、相手がそう思っているかに、まずは拠りますね。どっちかがそう感じてないなら、ちょっと無理^^; まあこれは恋愛に限らず「片思い」というのが人生で体験するものですね。それを見分け、スマートな行動法にすぐもっていけるようになるのが、人生経験の積み重ねによってになってきます。
それもまずは、「まだ浅いつき合い」の相手への一般的な行動法ができることからだ、というになると思います。それができればまずは安全、というものとして。
はっきり共有することに楽しめるもの見出すことから。それがないなら無理に交友を強めようとする行動しない、と。

社会に出る、また「大学」という段階からは、「まだ浅いつき合いの相手」さらに「つき合いもしない相手」への、友好的な行動法というものが基本になると思います。
それに対して、小中高でまず最初に出会った友だちとの行動法でもって、大学以降の交友行動も考えると、とてもぎくしゃくしてしまうと思います。もちろん「大学」さらには「就職」においても、「最初に出会った仲間」とは、最初から「かなり深いつき合い」交友行動取れるケースもある。そんな相手ができるのは人生の賜物一つですね。
しかし、一度それを「逃してしまった」ら、深いつき合いはその形ではもう得られるものではなく、「まだ浅いつき合い」の行動法をしっかり取ることから始め、「かなり深いつき合い」にできかどうかをじっくり探るというモードに、切り替えなければならない、と言うことができると思います。


「まだ浅いつき合い」が行動法ベース

ということで、こたろうさん場合も、「かなり深いつき合い」の行動法だけで考えているのが一因ともなっている、ぎくしゃく度かなり重症(^^;)なものと言えると思います。
もちろん考え方だけではなく、来歴に由来する根深いマイナス感情の問題もあるでしょうが、その克服のためにも、まずは行動法を安定させることからになると思います。まず行動法を安定させ、それでできてくる余裕足場に、じっくり根深い問題にも取り組めるようになる。

重要なのは、「まだ浅いつき合い」の行動法ベースに考えるのみでなく、実際それをベースに行動できることです。それができて、その中で、どう深められるかを探り、そうできる材料をしっかり見つけたら、深めていく。
これは「行動学」からも、つまり行動法の効果理屈で考えても言えることです。実際
a)まず「まだ浅いつき合い」の行動法取ってから、「かなり深いつき合い」の行動法模索し向かうというのは、基本的対人関係の「豊かさ」に向かう方向性なのですが、これがに、
b)まず「かなり深いつき合い」の行動法行動法を取って、「まだ浅い深いつき合い」の行動法模索し向かうというのは、基本的には難しいことであり、そこでは関係が「破局破綻」そして「消滅」に向かうというものになります。

また、心理学からは、「まだ浅い深いつき合い」の行動法取れない状況で、「かなり深いつき合い」の行動法どう取れるか悩むというのは、まず言って相手がそれを求めている、自分はそれに応えなければという思考によってになるのですが、これは得てして「関係妄想」の原型と言えるものです。「現実」に出てそれが覆った場合、程度の深刻さバリエーションはあると思いますが精神的破綻が起きます。
まあそれがに、本人「依存」を脱し「自立」に向かう姿勢があったならば、「今までの意識の崩壊」による健康化つながる道になるのですが、そうではなく本人がたとえば攻撃性を伴う依存にとどまったままだと、ストーカー的行動へと道をそれてしまうことも出てきます。

そうした話を踏まえ、こたろうさんのケースで言えるアドバイスとしては、「かなり深いつき合い」の行動法多少とも検討し得るとしたら、相手からそれに相応しい働きかけが、今実際にある場合です。今現時点において、深く心配するような連絡があるのであれば、検討できる
しかし2年も会ってないということであれば、いったん全てリセットされたものとしてゼロから、という想定で、具体的行動法を検討するのがベスト、ということになると思います。


「目的ベースのコミュニケーション」と「雑談」

以上が考え方の、前回からの補足として、細かいご質問への返答など書いておきますと、

>えと、これはそもそも「物事」と「自分をわかってもらう」という会話内容についての区分があまりハッキリしていないのかもしれません。それに関して、具体例などありましたらお願いします。

僕自身の体験で言いますと、僕の場合心の健康化に大いに役立ったものとして、会社のスキー部への参加がありました。そこは基本的心が健康で明るい人々の輪でしたが、まずはスキーの話盛り上がるわけです。どの斜面どんな滑りとか。
まず「自分」のことから話す人はいない感じですね。
ごく短いこの話で、違いが多少分かるかどうか。

>>「仕事のスキル」を得るとは、そこに必ず、人とのコミューニケーション材料を、今までの学生時代の馴れ合いの輪の中の談笑とは全く違う形で、得ていくことでもあります。そこから逆に、仕事以外の場における人との交友への入り方というものも、見えてくるかも知れません。
>こういうものは、いわゆる「雑談術」などのビジネス本から得るのでしょうか。島野さん的なノウハウは何かありますか?

これについては、まず「仕事場面のコミュニケーション」については、
『はじめまして』 きてれつさん No.541 2013/02/10
への第2レス
『仕事場面への向かい方など』 しまの No.547 2013/02/21
=========
「100円ショップの商品の品出し」であれば、・・(略)・・
=========

のところなど読んで頂くと良いかと。「雑談術」というより、仕事の知識そのものですね。というか「雑談術」「ビジネス本」ではないような・・「自己啓発本」ではあるかも・・まどーでもいい話^^;

上述スキー部の会話、また仕事場面のコミュニケーションも、「楽しみ」伴うか否か違いはあるとしても、どちらも「目的」がかなりはっきりしたコミュニケーションです。前者スキーの楽しみ共有後者は仕事

それに対し「雑談」というのは、そうした「目的」がない会話ですね。
ごく手短に言えば、これはコミュニケーション術としては2番手になると思います。まず1番手目的ベースのものとして。
まずこの優先順位しっかり踏まえそうした「雑談術」が必要か、という問題からになると思います。
これもごく手短に言えば、にとってはそれはあまり必要なく、「雑談術」も特に持たない結果となった次第です。まあそれがあれば宴会が苦手とか克服できるのではと考えたこともありましたが、そんな漠然としたものより、スキー部への参加人生のパートナーの模索といった人生の歩みの中で心が成熟し、やがて執筆に心血注くようになったという経緯で、「雑談」というのは今は特に必要とも感じない次第です。というかちょっと時間の無駄を感じる面も・・^^;
まこれはあまり参考にならないコメントかもでしたね^^。


マイナス内面は出さない原則

>ここを具体例で説明していただけると助かります。マイナス感情は全て出さないというのはやはり極端だし、そういう人は不自然だし逆に人から避けられる気がします。良い人だけど人間味が無くて、とか。
>どういう意味で「後始末」が必要なのか、「一人歩き」とはどういう事なのか具体例があればお願いします。

「一人歩き」は、最近の言葉で言えば、「話が拡散する」というようなことです。
たとえば「対人恐怖傾向をカミングアウト」といったものが、話が拡散して友人知人にまず「対人恐怖の誰々さん」という認識のされ方になる可能性があります。人づてで面識を持つ際も、「あ、対人恐怖の誰々さんね」と、そうした話が先行する交際になる可能性があります。
一生それで良く、それで心が楽になる(?^^;)のであれば、カミングアウトするも良しということです^^。でない場合は、どうにかして、自分はもう対人恐怖ではありませんということを、知人友人に納得させる行動必要になってきます。これが「後始末」という話。

これも考え方の話に戻れば、マイナス内面の表出は、ごく限られた「かなり深いつき合い」では、場合によっては絆を深めることにもつながるかも知れません。
しかしそれも、それによってそのマイナス内面の克服の方向性がある場合はです。たとえば受験就職への不安などはそうした類かも知れません。

「対人恐怖傾向」の場合は、カミングアウトによって克服するものなのかは・・う〜んどうなんでしょうね(←長嶋さん口調?^^; いや無用なジョーク失敬^^;)
ハイブリッド心理学では、自己取り組みによって克服するものになりますので、少なくともハイブリッド心理学の取り組み実践するのであれば、カミングアウトはなしになります^^。

マイナス感情を出さない人不自然だと人に嫌われるなんてことはないと思いますヨ^^。実際の人の様子良く観察してみれば分かると思います^^。
最初の方で書いて頂いた

>例えば、人見知りだといわれれば人見知りの人は安心感を持つ場合がある。相手もリラックスして「喜びと楽しみの共有」がしやすくなる。

も、実際大抵の人むしろ緊張してしまうと思います。言わないでおくのが華です^^。


「交友行動」が課題ではない人生の段階へ

ということで、大きな話に戻って総括しますと、こたろうさんの置かれた状況においては、まず何よりも、「交友行動」が課題ではない人生の段階へ向かう、そのための知恵とノウハウを得ていく、という大きな視点何よりも重要になると思います。
そこにおいては、今交友行動がうまく取れないことも、妨げにはならないのだという心の視野得ることが、なによりも心の支えになるのではと。

そのためには、当面の行動法については、上述の通り、交友関係かなりリセットスタートという前提で行動法を安定させ、安定した日常のリズム中で、ハイブリッド心理学の取り組み法についても時間の折にじっくり読んで学んでいく、という今後の進め方ができれば、というのがアドイバスになります^^。

あっあと、より大局的人生の歩み方として、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という流れの中にあるというのが一番大きな話になりますので、それについては『入門』今掲載中の部分(次に掲載予定の「取り組み実践による「心の成熟」への歩み」など引き続きじっくり読んで頂ければと^^。


 
Re: / こたろう 引用
No.787 2014/02/09(Sun) 18:11:13

>まず「かなり深いつき合い」の行動法の行動法を取って、次に「まだ浅い深いつき合い」の行動法を模索し向かうというのは、基本的には難しいことであり、そこでは関係が「破局破綻」そして「消滅」に向かうというものになります。

>また、心理学からは、「まだ浅い深いつき合い」の行動法が取れない状況で、「かなり深いつき合い」の行動法をどう取れるか悩むというのは、まず言って相手がそれを求めている、自分はそれに応えなければという思考によってになるのですが、これは得てして「関係妄想」の原型と言えるものです。「現実」に出てそれが覆った場合、程度の深刻さにバリエーションはあると思いますが精神的破綻が起きます。


すみません。「まだ浅い深い付き合い」とはどういうことでしょうか?
確かに、深い付き合いを求められているという感覚にすぐになってしまうのは
心当たりがあります。

「まだ浅い付き合いへの行動法」がよくわからないという部分もあると思いますが、
どちらかというとその距離感のまま安定(安心?)をある程度持って
その場にいる、というのが難しい感じがします。


「まだ浅い付き合い」だと認識していながら、一緒に行動するという
感覚に耐えられなくなってしまう。
これはやはり「自分を絶対に否定されたくない」「全て理解されていないとリラックスできない」、つまり自分の気持ちを自分で受け止めるのではなく、目の前の人に
受け止めてもらいたいという心の動きかたですね。


>僕自身の体験で言いますと、僕の場合の心の健康化に大いに役立ったものとして、会社のスキー部への参加がありました。そこは基本的に心が健康で明るい人々の輪でしたが、まずはスキーの話で盛り上がるわけです。どの斜面でどんな滑りとか。
まず「自分」のことから話す人はいない感じですね。
ごく短いこの話で、違いが多少分かるかどうか。

これは、わかるんです。
例えばスキーにしても「自分はこうこうこういうスタイルが好きだ」とか
「自分はこういうやりかたです」とかありますよね。
こういう話は「自分の話」とは括らないということですよね?

スキーに関しての自分の思いや知識を、スキーを共通点とした友人と
話す。

しかしそれだけでは間が持ちません、と思うのですが。

島野さんはスキー合宿にいって、スキーの話以外のコミュニケーションを
とらないんですか?

例えば自分は子供がいなくても、相手に子供が居た場合、
その子供の近況などの話を聞いたり、兄弟どうしてる?とか、
そういう話もしますよね。

あ、この場合は、「自分が子供に興味がある」から、その意味で
共通部分の楽しみという括りになるんですかね。


それに自分と趣味が全く異なるけど、その話を
聞いていることがそんなに苦痛じゃないこともありますし、
新しい発見をすることもありますよね。


これも「興味がある範囲で」「楽しめる範囲で」聞いて、
あとは積極的に取り上げない。


それを、相手の悩みを解決してあげたいとか、どんな悩みがあるのか
理解したい、一生懸命相手の好きなものの話を聞いてあげないと仲良くなれない、
とかいう風になってくると、徐々に不健康系になっていく、という感じですかね。


同じ空間にいるほかの二人が、
自分の入れない話題で盛り上がっていると、自分もそれに興味を持って
話を聞かなきゃいけないような気分になる、このケースが確かに多いです。
やはりどこかでどちらの人にも「一番に楽しい人間になりたい」という衝動が
根っこにありますね。
しかしこれは不可能ですし、全体を通して島野さんが今回言うように
「自己の重心」や「自立」にまったく背を向けた姿勢ですね。

そこは「孤独を受け入れる」ですね。
決して「興味を持って仲良くその場に入っていられない」から『仲間はずれ」ではなく、
その集団が健康ならば、あの人とはこの話、あの人とはこの話、といった感じになると。


その時に内面に「仲間はずれ、いないほうがいい」という感情が流れるとして、
頭の理解では「いや、そもそも共通部分以外は共有できなくても、それが最善の関係。」という理解をもつ、と。


 
Re: / こたろう 引用
No.793 2014/02/17(Mon) 15:12:02

やはり依存から抜け出せません。
もう復学してもまた同じようにひきこもりになるイメージしかわきません。
しかし3年間の休学になるともう仕事の選択肢が...
それどころかバイトも雇ってもらえないのではないかと
思うといかなくてはいけないのに、
もう無理...
破綻してるのに心はしがみついたままです。
質問になってないですね。

どうしたらいいんでしょう


 
「今なすべきこと」の優先順位づけから^^ / しまの 引用
No.794 2014/02/17(Mon) 18:03:09

>「まだ浅い深い付き合い」とはどういうことでしょうか?

「まだ浅いつき合い」打ち間違いです^^; コピペ使ったせいもあり^^ゞ

「交友が深まる中で出てくる話題」というのは、書いて頂いたような話として言えますね。その場の目的限定した話題から、徐々にプライベートな話題へ。
ただに、「出せば必ず交友が深められる話題」というのは、言えないですね。いきなりプライベートな話題をしても引いてしまう人もいるかも知れないし、いきなり悩みの語り合いを望むのはやっぱあまり健全形ではない^^;

結局、交友が深まるのは、かなり総合的な要因の結果だと思います。人間的な近しさや、互いにとっての魅力、そして一緒にいる安心感信頼感など。
ですので、基本的に、ストレスに駆られて交友を持とうと思っても、交友はあまり成立しない。これをしっかり心に踏まえることが大切になると思います。


「今なすべきこと」の優先順位づけから

・・・等々、書いて頂いた質問一つ一つアドバイスしようとしても収拾つかない雰囲気を感じましたが、一番重要なのは、「自分の人生で今本当にすべきこと、できること」見極めができていないのが問題ではないかと。
それで言えば、「会話でどう間を持たせられるか」なんてのは、今それどころではない状況ではないかと^^; どう会話できるかよりも、まずとにかく学校に出席するといった「優先順位づけ」重要です。

そうして「自分の人生で今本当にすべきこと、できること」の最低ラインから見極めて、行動する。その積み重ねで次第に心は成長し、心が成長すれば気持ちに余裕も生まれ、友人との会話といったことも考えられるようになるかも知れない。

>3年間の休学になるともう仕事の選択肢が...それどころかバイトも雇ってもらえないのではないかと思うといかなくてはいけないのに、

についてであれば、バイトのためには前レスでの

まず「仕事場面のコミュニケーション」については、
『はじめまして』 きてれつさん No.541 2013/02/10への第2レス
『仕事場面への向かい方など』 しまの No.547 2013/02/21
=========
「100円ショップの商品の品出し」であれば、・・(略)・・
=========


といった視点です。

結局、今はまず雑談など一切しなくてもできる行動というものを見極めるというになりますね^^。前の2つのレスもそうした優先順位づけのための知識です。

あるいは、「自分の人生で今本当にできること」とは、何かサポートを得ることかも知れない。大学の何かそうした相談機能とか。
それも含め、検討してみて頂ければ^^。



外面と内面 / りょうたろう 引用
No.782 2014/02/04(Tue) 20:24:45

先日は詳しい解説をありがとうございました。今回は主に内面について質問したいと思います。

前回の投稿をしてから数週間にわたって、私の内面感情は嵐のようでした。しかし起こったことを全て書いているとあまりに分量が増えてしまうので、要点と思われるところだけ書こうと思います。

まず最初にあったのは怒りの放出でした。あるとき、じっと座っていても何か頭を掻き毟りたくなるような衝動を感じ、これは何だろうと考えてみて「そうだ、怒りじゃないか」と気づいたのをきっかけに始まりました。それはもう凄まじいもので、何に対しての怒りかわからないままに脈打つような頭痛に襲われ、腹筋が激しく痙攣しました。そのため全身がのたうつような形になり、そのときは一人でしたが傍から見るとさぞかし異様な光景だったことでしょう。しかし不思議と「自分が怒っている」という感覚ではなく、怒りという一つの生き物が自分の中で暴れているような印象を受けました。私はただ好きなだけ暴れさせることを選びました。そしてじっと耐えながら、いろんなことを考えました。この嵐を乗り切ったら、自分はついに病んだ心を抜け出せるのだろうか。そしたら勉強も趣味もバリバリこなせるようになって、仕事だって…とそこまで考えたところで、何かが違うと感じました。人生の成功なんかじゃない、本当に望んでいるのは「何があっても自分自身でいること」だと。「健康な心になり幸せを手に入れること」ですらなく。その時はそう感じました。

しかし結論から言うと、一夜明けてもやはり心が生まれ変わっているなんてことはありませんでした。しかしやや頭はすっきりし、いろいろ気付いたこともあります。まず、普段から頭を占領している空想は怒り復讐という面を多分に持っているということです。自分が優れた資質(容姿でも頭脳でも性格の良さでも)を持っていて、それに対して周囲は参りましたと平伏す、そんなイメージです。また、人間関係や趣味その他、様々な活動を妨げることにかけては「怒り」は「恐怖」の比ではないとも思いました。

自分の今までの人生はまさしく怒りと復讐の人生だった。そんな感慨が起こりました。時折いつものように、周囲から賞賛を浴びて自分は「そんなことないですよ」と謙遜して…と空想が浮かんだところでハッと我に返り愕然とします。自分はこんな薄っぺらい姿を本気で理想として描いてきたのかと。

何だか生きるための内面においての前進力を失ってしまったような状態がしばらく続きました。しかし一方で外面においてはむしろ以前より向上している自分を感じました。例えば部活に関するメールのやり取りでは、何か自分に落ち度があった時に「ごめんなさいごめんなさい」ばかりでなく「代わりに自分はこうするつもりである」と自分から示すなどが身についてきました。またバイトでは、以前よりきびきびと動けて周囲とのコミニュケーションも円滑になっていました。

しかしここで一つ出来事がありました。ある日バイト先から電話がかかってきて、その内容は「先日の書類がまだ出ていないようだが、どうなっているのか?」というものでした。原因は私の勘違いです。ここで取るべき行動はまず謝罪し、何があったかを説明し、
今からでも大丈夫か尋ねる…といった感じになるかと考え、実際そのように対応しました。が、私の内面は激しく動揺していました。まず「あの書類まだ出してないよね?」と聞いた瞬間にまるで激しい糾弾を受けているように感じ、返事もままならないありさまでした。また自分の勘違いについて説明している間、呆れを通り越してもはや真面目に取り合う価値もないというような視線を向けられていると感じました。本当にぞっとするような、血の通った人間のものではない冷たい目というイメージです。しかしそれが自分自身の内面にあるものだということはもはや明らかでした。

そこからの数日感はもう感情というより体調の悪化で寝込んでしまいました。激しい頭痛と吐き気に襲われ、「死にたい」という考えも一瞬よぎりました。この時私に訪れていたのは、自分の醜さと罪という感覚です。少し前の投稿で「苦しみの中にいます」と訴えた時と同じ場所に再び私は立っていました。ただあの時と違うのは、私自身の社会に対する捉え方でしょうか。人はまずは自分のために生きているのであり、内面についてはその人自身の問題であると。人間関係において気持ちを道具として使い、いわば「矢面に立たせる」必要はないと。「罪」についても他人への害を基準に考えるものであることも、納得はできています。

しかしその上でなお、まるで叱られている子供のような気持ちで一日を過ごしています。これが今現在の私です。寝ている時でさえ、延々責められる夢を見ることもありました。
今でも時折空想が現れることがありますが、苦痛から逃れるためという側面が強いようで、以前のような「支配される」というほどの圧倒感はありません。

長くなってしまいましたが、以上が今の私の状態です。ここからどのように取り組みを進めたらいいか、お聞かせください。


 
Re: 外面と内面 / りょうたろう 引用
No.784 2014/02/06(Thu) 21:58:41

吐き気として現れる自己嫌悪感情はひとまず治まったようです。あとに残ったのは荒んだ怒りの感情でした。
望みを妨げられて憎悪に燃える自分の姿がはっきりと現れてきたように思います。

実は、私自身が「理想に立って現実を見下す」ことを「選択」した時のことは、かなり具体的な瞬間として思い出すことができます。あれはおそらく小学校中学年のときでした。
その日私が登校して教室に入ると、クラスメイトたちはいつものようにわいわい遊んでいました。自分もそれまではすぐさまその中に入っていたのですが、その日の私は違いました。「バカみたいに」ヘラヘラと笑っている周囲に冷ややかな視線を向けると、すました顔でまっすぐに自分の席へと歩いて行ったのです。その日から、感情を表に出ないようになり、また周囲を見下すということを始めたのもその時だったと思います。
「よくできた子だ」と言われました。「小学生とは思えないほど大人びている」とも言われました。しかしその時既に、心の根底には怒りがあったことが今になって思い出されます。

なぜそんなことをしたのか。楽しく笑いながら生きていくのではダメだったのか。そう考えた時、あの「冷たい目」のイメージが思い出されました。今の私でさえ足がすくむようなあの恐怖を自分は小さい時すでに持っていたのだとしたら、ありのままの現実を生きることは自己の存在を脅かすほど過酷なものだったのではないかと。そうしてまた思い出したのは、当時の私が周囲の楽しそうな同級生たちに向けていた感情です。それは次のようなものでした。「お前らはなぜヘラヘラと笑っている?なぜそんな自分を恥じない?」と。そしてそんな周囲に軽蔑の視線を向けながら、自分はいち早くその「間違い」に気付いて自分を律しているのだと優越感に浸るようになったのです。

結局のところ、根底にあったのは「自分はありのままでは駄目だ」という思いでした。そして同じように駄目なはずの周囲が幸せそうなのを見て、「許せない!もっと自分を恥じろ!それが正しいんだ!」と憎しみを募らせていったのです。

素直に楽しむということをやめてしまったのは、紛れもなく私自身の選択でした。しかし、自己分析で辿り着けたのはここまでです。私のもともとの望みは何だったのか?以前苦しみの中で思ったように「ありのままの自分でいること」なのだろうか、と考えてもみますが、それで何が起こるわけでもありません。こういう時はおとなしく引き上げて外面に再び向かうのがよいかとも思いますが、「イヤイヤながら生きている」という感じが拭えないのも事実です。まあそんな内面とは関係ないのが外面行動法だと思うので、今はひとまずバイトや勉学以外での過ごし方については「楽しいと思えないことはやらない」ことを念頭においています。

以上、追加したいと思った点です。


 
「自分の内面感情の論理的理解と向き合い」の実践^^ / しまの 引用
No.788 2014/02/13(Thu) 14:12:39

>ここからどのように取り組みを進めたらいいか、お聞かせください。

これはずばり「自分の内面感情の論理的理解と向き合い」実践課題になると思います^^。

内面感情については、「感情と行動の分離」では「ただ流し理解する」と言っていますが、書いて頂いたのは、まずは「ただ流す」段階ですね。「理解する」についてはまだ手つかず
というか、ややあおり気味の感も^^; ま最初の段階はそんなものかと^^。「理解する」できるようになるのと平行して、「ただ流す」というものも本当にできるようになっていくと思います^^。


「内面感情の理解」によって行うこと

でまず「自分の内面感情を論理的に理解する」とは一体何を行うことかと、『入門』取り組み全体大局的整理がかなりでききたのも踏まえ、改めてまとめますと、大きく以下3ステップの流れ向かうための役割のものと言えるかと。

1)自分の感情(特に悪感情)を、「原因−結果」という論理的思考で理解する
これによって、感情を無理に変えようとするのではなく、感情の「原因」正しく対処することで、感情自ずと良くなるという基本的姿勢および実践身につける
重要なのは、「原因−結果」として「何々が悪いからこう感じた」という善悪思考(特に他人のせいにするもの)から、「自身の望み」を起点にした論理的思考考えることです。自分がこれこれを望んでおり、それがこのように妨げられたことで、これこれの悪感情が流れた、と。
これは心の外部の出来事論理的思考で考えるのと同じく自分の心の動きについても論理的思考で考えるという、心の成長への「礎」になります。
それがあって、が生まれる。

2)「成長」と「治癒」
「成長」として、「望み」を起点とした建設的行動法へ。これは「感情と行動の分離」外面軸であり、これがうまく行くようになれば自ずと感情も良くなる。
「治癒」は、そうした「成長」の外面軸基盤ができるのと並行して、悪感情解きほぐしを行い、不合理な悪感情自ずと捨て去られていくようになるというもの。
「成長」「治癒」のこの位置づけについては、
『入門 - 4.心の成長変化 / 「感情と行動の分離」の両輪が生み出す「成長」と「治癒」』
大まかに説明した通りです。

3)「魂の感情」への向き合い
建設的行動法を取ろうとしてもがある場合に、「失意を超えて望みに向き合う」ことで「魂の望みの感情」感じ取れるようになります。これが外面の成功というのとはちょっと別次元の答え生み出すようになります。
この流れが、
「心の業の捨て去り」と「魂の望みの感情」による心の成長の本格的前進
以降で説明している話になります。

ということで、「内面感情はただ流し理解する」における「理解する」とは、一言で、
自分の内面感情を、自身の「望み」を起点とした「原因−結果」の論理的思考によって理解することで、建設的行動法による「成長」や、悪感情の解きほぐしによる「治癒」、さらに「魂の感情」への向き合いによる「浄化」「成熟」「超越」につなげることを行うものである。
などと言えるかと。


感情が流れる場面に応じた「原因と結果」の検討ポイント

りょうたろうさんが書いてくれた感情内容ざっと見ますに、感情が流れる場面に応じた「原因と結果」の検討ポイントとして、ある程度定石的なものがありますので、それが参考になると思います。
まず視点列記してみますと、

1)現在場面における感情動揺
 a)動揺の内容と強さの合理性の検討
 b)他人イメージの内容の合理性の検討
2)人生について流れる悪感情
 c)どのような大元の「望み」があって起きたことか
 d)そこにおける妨げの責任は誰にあったのか

など。もちろんこれが視点全てではなく、りょうたろうさんが書いてくれた感情内容ざっと見て、必要思い浮かんだものです。

とまあ取り組み実践堅苦しい理屈の話を並べましたが、要はこういうことです。

>普段から頭を占領している空想は怒り復讐という面を多分に持っているということです。
>自分の今までの人生はまさしく怒りと復讐の人生だった。
何をどうされたことへの怒り復讐か。

>自分が優れた資質(容姿でも頭脳でも性格の良さでも)を持っていて、それに対して周囲は参りましたと平伏す、そんなイメージです。
そのイメージ現実性合理性どう考えるか。他人どれだけそれ(りょうたろうさんの資質^^;)に関心を持っていると思うかなども含め。

>が、私の内面は激しく動揺していました。まず「あの書類まだ出してないよね?」と聞いた瞬間にまるで激しい糾弾を受けているように感じ、返事もままならないありさまでした。また自分の勘違いについて説明している間、呆れを通り越してもはや真面目に取り合う価値もないというような視線を向けられていると感じました。本当にぞっとするような、血の通った人間のものではない冷たい目というイメージです。
同じく、そのイメージ現実性合理性をどう考えるか。
さらに上記も含め、現実の他人はどうだと考えるか。特に「健全形」として考えられる内容検討するのが重要になります。

>そこからの数日感はもう感情というより体調の悪化で寝込んでしまいました。
この辺はまあ論理的理解で切り込む部分ではない感じですね。問題は、感情に呑まれる強度ですね。
これは感情への論理的思考をはば広く持てるようになるにつれて、対抗力や耐性がついてくると思います。

>実は、私自身が「理想に立って現実を見下す」ことを「選択」した時のことは、かなり具体的な瞬間として思い出すことができます。あれはおそらく小学校中学年のときでした。
これ以降の部分も、まずは内面の感情材料出し段階の話ですね。「分析」は、なぜそのような流れになったのか、書いて頂いた以前の段階思い出すことです。これがかなり難しい可能性、つまり記憶から消されている可能性もありますが、それもまずは記憶を確認してからです。

>私のもともとの望みは何だったのか?
まずそれは「愛」にしたものであったであろうというのが、ハイブリッド心理学自己分析ガイドラインになります。そので、自分に向き合い、自分に問いてみる良いと。
これは
実践詳説 - 9章 「成長の望み」と「真実の望み」の導き / ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」』(P.169)
参照
「私たちの「望み」とは結局、・・」部分です。


まずは怒り復讐からの抜け出し

歩み方全体の方向性についてアドバイスしますと、まだ年齢若いと思いますので、先日アップした
・取り組み実践による「心の成熟」への歩み

「20歳前後という若い段階で取り組み始めた場合、・・」として書いている通り、心の変化性急に期待しても、そもそもそれはまだ準備されてないということが考えられます。
目標は、まずは外面目標に向かうことへの惑いの減少になりますね。内面の解きほぐしも、それに役立つものとしてあるのが若い段階です。
りょうたろうさんの場合は、僕が察するに、「怒り復讐」とは一体何をどうされたということかというテーマ片付けると、かなり心がすっきりするのではと推測する次第です。

それについては、
実践詳説 - 6章 心の成長の道のりに向かう / 心の成長のメインテーマ 「愛と自尊心」に向かう』(P.122)
でも、自分の感情を論理的に把握することで、やがて「愛」「自尊心」というテーマにいきつくという話をしており、そこで自分のこととして認めるのは結構手痛い話も書いていますが参考になるかと思います^^。



勉強法について / りょうたろう 引用
No.758 2014/01/06(Mon) 20:56:12

あけましておめでとうございます。
お礼が遅れてしまいましたが、前回の返信ありがとうございました。今回は最近の取り組みの報告と、新しい質問をさせていただこうと思います。

年末年始は地元に帰り、久しぶりに家族と過ごしました。その中で、内面と外面において変化が感じられる場面がいくつかありました。例えば私は兄とよく本の薦め合いをするのですが、今までと違って「お互い楽しめる本に出会えたらそれでいい、自分の貸した本が相手の好みに合わないならそれは仕方のないことだ」と思えるようになっていました。今までは相手を楽しませなければという力みがあり、貸した本がつまらなかったと言われれば自分が否定されたような気持ちになっていたものです。また、携帯電話の機種変更のためショップに行った時も、契約や質問事項を主眼にして店の人と応対し、同伴していた父よりも自分の方がしっかりしているという印象を勝手に持ったりもしました。そして今回の帰省で新しく気づいたのが、たとえ家族内であっても、原理原則に従えば信頼を得られるし楽しみの共有を意識すれば快適に過ごせるというのは変わらないんだなあということです。

また、「悲しみの彼方への旅」を改めて通読して、大きく感銘を受けました。最近では以前よりは確実に現実に向かって向上していることを感じはするのですが、そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。ただ最近は「今ここに現れている感情だけを感じる、去っていく感情は追わない」という姿勢が身についてきたせいか、感情が果てしなく悪化することはなくなってきたように思います。感情を想像によって再現しようとするのは途方もないエネルギーを使うことに気づいたための変化かもしれません。

最後に、少しアドバイスをいただきたいと思うことを書きます。勉強法についてです。
自分なりに調べて実際に検証してみた結果、「いくら頑張って憶えても繰り返さなければいずれ忘れる」「試験の合格だけを考える場合、網羅的な学習よりもいかに問題が解けるかが重要」といったようなことはひとまず勉強における原理原則と言えるかなあと考えています。こうして見ると当たり前のことのような気がしますが、目指したいのはこういうことをたくさん知っている人だなあと今はしみじみ思います。受験生時代は「この勉強法で一発逆転」などと謳うものに飛びついたものですが。
何か勉強法についてアドバイスがあれば、ぜひお聞かせください。

本当はアルバイトでの行動法についての質問もあったのですが、長くなってしまうので新規トピックで改めて質問させていただこうと思います。よろしくお願いします。


 
「動機づけ勉強法」^^ / しまの 引用
No.763 2014/01/15(Wed) 22:05:16

あけましておめでとうございます^^。
ここ数日雑用ですっかり忙殺されている中、『悲しみの彼方への旅』「心の圧制者」と呼んだものである「自己操縦心性」について再考している間にすっかり日が経っている今日この頃です^^ゞ

取り急ぎ「勉強法」について、3年くらい前メール相談「記憶法」についてアドバイスしたものを、そのまま転載します。

これは法律学校に通っていた方へのアドバイスです。一般の大学の場合、この中で言っている「想像力」働かせ方さらに工夫が必要になるかも知れませんね。
まずは取り急ぎ転載部分を。追加アドバイスなどまた後日^^。

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■記憶法

これはまず心理学的には、2段階を考えるのがいいと思いますね。
1)動機づけ
2)実際の作業法


1)動機づけについては、とにかく記憶力がモノを言う場面に自分を置くことです。試験の話ではなく、実際に役立つような場面の話として。
そうすりゃ、が勝手にいやおうなく記憶力を発揮し始めます。

まあ実際にそんな社会現場に立つの話としては、想像力を生かすことですね。
法律の話で言えば、例えば、『行列のできる法律相談所』のゲスト弁護士として自分が出演することになった場合のことを考えます。
次の収録は、遺産相続がらみの話らしい。となれば、いやでも民法の該当項勉強する気になりますね。

勉強する都度、次の勉強範囲について、そうした「動機の空想」などしてみて、やる気が高まってから取り掛かるという習慣にできれば、ベストだと思います。

まあ僕自身は、まとまった受験勉強という形でそうしたやり方を使った経験はあまりなかったですが、社会人になってからの知識吸収というのは常に「必要性動機」が強くあって行うという形となり、実際の作業法とも合わせ、かなりの記憶力でいったと感じています。

2)実際の作業法としては、棒暗記的な方法も一概に悪いとはいえず、極端な例ではサヴァン症のような話として単純記憶に秀でた人もおり、結局人それぞれが自分に最も合ったやり方模索するしかないと思います。
ただ、Aさん現時点そうした方法をあまり取り入れてないということは、合っていればとうの昔からやっていたであろうこととして、実際そうしたやり方がAさんにはあまり合ってないということだと思います^^; ま僕もそのタイプかな。

それとは対照的に、とことんしっかり理解しながら記憶していく進め方になりますね。
「深い理解」を携えながらがお勧めです。法律であれば、「法の精神」というものがあります。該当する法律における「法の精神」とは何かと、言葉で言えるようになって欲しい。まあ基本的には根本社会制度のようなことになるのだと思いますが。

該当する法律項目が、そうした精神から生まれていることを理解しながら覚える。一文一句も、分からない言葉を含んだまま次に進むのはお勧めではありません。そうした個所から記憶が後で崩れて消えていくんですね。
自分としての意見も持つことです。例えば刑法時効がありますが、廃止すべきだと考えています。そうした見の一方で、現法ではこうこうである、という、単に受身に覚えるのを超えた姿勢で勉強するのがお勧めです。

そうした姿勢漏れのない記憶を築いていくという勉強法は、最初は時間がかかるように一見見えますが、記憶の定着度バツグンに強いので、長い目ではアドバンテージがあると思います。棒暗記では5回読む必要があるのが、この方法だと2回で強く記憶されると思います。

最後にごく手先の作業法の話ですが、記憶を高めるためには、やはり目で追うだけではなく、手を動かすのがいいと思いますね。中高生が良く英単語の記憶をカードめくりでやっていますが、手を使う動作記憶の定着を促しているのだと思います。

法律文で考えるなら、単語一つ一つ指やペン先で指さしながら読んでいくような読書法
また僕自身年齢を重ね、より短い時間有効に覚えるよう自然に身につけた方法ですが、ペンで書き込んでもいいコピーを取り、読む行レ印でチェックし、キーワードには下線を引くなどしながら読み進めます。どの行までどんなキーワードで読んだか一目瞭然で、中断後の再開スムーズですし、その紙しばらく持っておいて、後でちょっと再確認が必要な時に瞬時に必要個所が見つかるという風に役に立ちます。実はメール相談で受け取るメールもその方法で読んでいるんですけどね。
がそのやり方をするようになったのは、ITの仕事超有能なプロジェクトマネージャーがそうしているのを見てからだったかなー・・。
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「人物印象型自己理想」の克服への歩み(前) / しまの 引用
No.766 2014/01/25(Sat) 17:50:16

では引き続き、進み方全体についてのアドバイスですが、先日ブログ
2014-01-23『時間食ってます^^;』
お知らせした通り、ただアドバイスコメントというより、「自己操縦心性と人物印象型自己理想」などというテーマについて現時点での僕の考えを一通りまとめることになり、その結果あまりに文章量が増え、解説部分をブログ記事化など考えましたがいまいちすっきり抜き出せず、全部このトピック入れてしまいます。

まあ長い人生の歩み方要(かなめ)テーマになりますので、人生の参考書がてら心の懐に入れて頂くと良いかと。
それにしてもあまりに長いので、レス3つ分割しようかと。
まずおおよそテーマ理解部分『(前)』『(中)』で。


ということで、報告して頂いた頭の部分からです。最初の方は先に書いていたのですが、その後の話があまりに長くなり、「勉強法」についてワンポイントで入れておいた次第です^^;

「目の前の対処」と「長い目からの展望」

>今までと違って「お互い楽しめる本に出会えたらそれでいい、自分の貸した本が相手の好みに合わないならそれは仕方のないことだ」と思えるようになっていました。今までは相手を楽しませなければという力みがあり、貸した本がつまらなかったと言われれば自分が否定されたような気持ちになっていたものです。

一歩前進ですね^^。

>そして今回の帰省で新しく気づいたのが、たとえ家族内であっても、原理原則に従えば信頼を得られるし楽しみの共有を意識すれば快適に過ごせるというのは変わらないんだなあということです。

その通りですね。相手家族であろうと赤の他人であろうと、いかなる相手に対しても一貫として取ることのできる行動法です。
「対人行動と社会行動の全てを、これらの行動法で行うようにする」ことを指針謳っているゆえんです。
『入門』 - 3.取り組み実践 - 「学び」の主要テーマ - 3.行動学

多少追加アドバイスなど書いておけば、取り組み実践としては、
1)そうした「目の前の課題への具体的対処」というものと同時に、
2)自分が人生でどこに向かうのか、そこにおいて自分はどのように変化し得るのかの、「長い目からの展望」
持つようにする、というのをやると良いと思います。

それで言いますと、前段お兄さんやお父さんとの出来事については、それはそんな感じでいい話として、家族外との関わりになるとどんな感じになるかに、検討の目を広げることかな・・と。
まこれはまた具体的材料ありきにもなってきますね。


「心の圧制者」 (「自己操縦心性」)

一方、より「長い目からの展望」という観点でちょっとコメントしておきたく感じたのが以下について。

>そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。ただ最近は「今ここに現れている感情だけを感じる、去っていく感情は追わない」という姿勢が身についてきたせいか、感情が果てしなく悪化することはなくなってきたように思います。感情を想像によって再現しようとするのは途方もないエネルギーを使うことに気づいたための変化かもしれません。

まず「感情を想像によって再現しようとするのをやめる」「去っていく感情は追わない」という姿勢は、まずはいいと思います。「感情はただ流す」という方向性として。
また、そうして悪感情ただ蒸し返すのはやめる一方、一つの感情混在する要素感じ分けるために、「蒸し返し」ではなくとも多少「反復吟味」するというのが、自己分析の上級編(^^;)になると多少出てくる、という知識持っておくと良いと思います。まおいおいそんなことが必要になることもあるかも知れない、と。上記姿勢良いとして。

そこで重要になってくるのは、「追わない」かわり「何に向かうか」です。

ちょっと心の仕組み解説一緒に書いておきますと、『悲しみの彼方への旅』の中で「心の圧制者」と呼んだのは、ハイブリッド心理学用語(^^;)で言う「自己操縦心性」のことですね。
「自己操縦心性」については、最近ではNo.630などでも触れていますが、そこでは“根源的自己否定感情を原動力として、「もしこうなれれば」という空想の衝動によって意識・・というか精神の全体が支えられていた状態”とか書いていますね。
より手短に、「空想によって心が支えられている状態」とか言えるかと。

『悲しみの彼方への旅』でどう表現していたかと検索するに(電子書籍はこれが便利♪)
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今まで私の人生を支配し、そして苦しめ続けていた自己。失わされた世界を見返すために、なるべき自分の姿を掲げ、走り続けようとした自己。それは、ありのままの現実を生きようとして立ち上がり始めた無垢な自己に、その座をあけ渡すことを決して許そうとはしません。この心の圧制者は、そのためならば自らの人生を捨てることをささやくのです。(P.161)
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「空想によって心を支えている様子」描写ですね。
さらに自分で読み返して、より重要なポイント次の描写にあるかと。
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事実、「現実」こそが、心の圧制者の忌み嫌うものでした。
この下らない現実はお前の生きる世界ではない。お前が特別な存在であり続けることができる空想の世界こそが、お前の生きる世界なのだ。
そうして心の圧制者は、この人間に「自己像を生きる」という一つの人間の存在様式と、分裂した人格を強制します。栄光ある自己像を描けないのであれば、世界から迫害された異端者の絶望さえも望むところなのです。(P.210)
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心の圧制者が再び、現実世界を見下すことを私に囁きます。(P.212)
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つまり「自己操縦心性」とは、「自己理想像の空想によって心を支えている状態」であり、それはさらに「現実を見下す」ことによって心を支えている状態、ということになる。

余談ですが、「現実を見下すことによって心を支えている状態」なんていうとんでもないものであったことを、そこから抜け出して間もない頃だったからこそ書けた感じですね。自分を支えるために「現実」を見下しているのですが、それは同時に、「自分の現実」を見下すということでもある。自分を潰そうとするものから自分を守り支えるために行っていることが、自分を潰すものになるというメビウスの輪状態。
抜け出したことさえ記憶から薄れているとなっては、「自己操縦心性とは」と考えてもそこまで浮かばない。あれ、空想過剰程度のことだったかしら・・という感じ。
空想過剰程度ではない、人間の心の悲劇が、そこにあったわけですね。その中にいたからこそ書けた過去の文章(日記)が、これからの僕の執筆にとってのようになるだろうと感じる今日この頃です。

その結果、「自己操縦心性」というのは基本的「破綻」「崩壊」向かう性質を持っています。どんな自己理想を抱こうが、いざそれを実現しようと「現実」に出会った瞬間、大元にある自己否定感情が刺激されて、意識の全体が破綻し崩壊するするという心の構造としてです。
そしてそれが逆に、「心の死と再生」への大きな転換なり得るわけです。本人自我が、「現実における成長」強く望んでいた場合、ということになるでしょう。でなければ、「自己操縦心性の崩壊」なんとかやり過ごして心の安定化が多少生まれる程度、もしくは巻き込まれて本当に潰れてしまう、というおよそ3つの分かれ道現れるかと。
それが『悲しみの彼方への旅』主題でもありますね。ぎりぎり3つ目の道免れて、1つ目の道向かったわけです。僕自身の力だけでは、それはできなかった・・と目が潤む感^^;

そんな訳で、小説中「心の圧制者」と呼んだところの「自己操縦心性」自体は、かなり病的な心の状態指しているものでもあります。
その点りょうたろうさん場合

>そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。

は、文面の印象からはかつての僕の場合ほど(^^;)深刻ではないという印象^^「破綻」「崩壊」による「再生」といった話は、あまり一番手に考えず、そうしたことも起こり得るという知識程度心の懐に入れておくので良いかと思います。

(続く)


 
「人物印象型自己理想」の克服への歩み(中) / しまの 引用
No.767 2014/01/25(Sat) 17:57:13

(続き)

「人物印象型自己理想」と「行動戦略型自己理想」

いずれにせよ、コメントしたいと思ったのは、

>それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。

における「理想の自分」内容そのものです。

まず「自己理想イメージ」というもの全般について心理学的整理などしておきますと、
「自己イメージ」というのは、先日
『「自己イメージ」 概説^^』 しまの No.747 2013/12/22
解説したように、
1)基礎的自己イメージ(健全形)
2)評価づけした自己イメージ(健全形)
3)人の目の中の自己イメージ(煩悩・惑い・病み形)

という3層構造積み重なり複雑化するものとしてあります。

そこで「心の成長」観点からの位置づけなども書きましたが、要点まとめるとこのようになります。
はおおよそ「未熟」の中で、得てして膨張させた「人の目の中の自己イメージ(煩悩・惑い・病み形)」からスタートし、「依存」にとどまった場合はその惑いと病みをただ深める方向に向かい、「自立」へと向かう中で、より安定した「評価づけした自己イメージ(健全形)」へと移行していく。
それは「依存」の中で、「自己イメージ」「人の目」に映るために、得てして自分自身に嘘をついて「演じる」ために使われる傾向が強くなるのに対して、「自立」においては、まず重要になるのは具体的場面における「行動法」であり、「自己イメージ」はその達成状況について抱かれるという結果的なものとして、安定するごとにことさら意識するものではなくなってくる、とい位置づけ違いによる。
といった話になります。

そこにちょっとキーワード追加しておきたいのは、「人物印象型自己理想」「行動戦略型自己理想」というものです。
「未熟」というスタート地点から、「依存」姿勢であろうと「自立」姿勢であろうと、「自己イメージ」として「自己理想」描き、それに向かおうとするのですが、そこで重要なのは、姿勢によって「自己理想」の内容性質が方向づけられるのと同時に、「自己理想」として描くものの内容性質によって姿勢が導かれも、あるいはまた縛られもする、ということです。
「自己理想」描き方に、以下2種類があるものとしてです。

「人物印象型自己理想」は、人の目にこんな印象の人物として見られるという自分の理想イメージです。「容姿」「性格」組み合わせと言えるでしょう。「性格」としては、優しさ明るさ元気さ自意識過剰であるなし、などなど何でも
この「人物印象型自己理想」は、「未熟」と「依存」の中で抱かれやすく、同時に、そうした自己理想意識の中で心が「未熟」「依存」「病み」に縛られる傾向があります。
一方「行動戦略型自己理想」は、こんな行動をしてこんな結果を得ることのできる自分という理想イメージです。
これは人の心を、基本的「自立」と「成長」へと向かわせるものです。その「行動」が、目の前の場面のみではなく、「人生」という長い道のり視野に入れたものになるほどに。
またそこでの「行動」の方法とは、もちろん、「人物印象を演じる」というものではなく(これは「人物印象型自己理想」)、「行動学」「仕事の普遍的スキル」といった知恵とノウハウ実践であることがもちろんその条件です。

どうしてそうなるのか一言で言うならば、「心の成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」であり、それにどう向かうことができるかは、思考行動過程いかにそれに向くかの全て依存するのだが、「自己理想」の描き方というのが結局、思考行動過程始まりの要となるものであり、その後の意識過程もそれに従って大方方向づけられるからだ、とまずは言えるでしょう。


「人物印象型自己理想」の問題点

そこでの「人物印象型自己理想」問題点具体的に考えてみると、まずはざっと以下3つほどを言うことができます。

1)「どうすればそうなれる」という知恵を欠いている

それは基本的「人の目の中の自己イメージ」として描かれるのだが、「どうすればそうなれるか」理解知恵欠いたままでは、人物印象理想自分にただ押しつけるストレスと、「理想と現実」をめぐる動揺さらには心の病みの傾向(*)につながりやすい。
(*)心の底での深い自己イメージと、意識の表面の「人の目の中の自己イメージ」に、病んだ食い違いがあるもの。No.747コメント参照。

一方、「人物印象理想」を抱き、どうすればそうなれるという思考法行動法要件、そして何によってそうなるという心の成長歩みについての理解へと、分析展開して考えるのは良いことです。これは自ずと、「人物印象型自己理想」が、「行動戦略型自己理想」へと移行展開していくのが、健全、もしくは成長に向かうものだということになります。

2)「心の妨げ」の「症状」として生まれる

「人物印象型自己理想」さらには人の人物印象の理想像を抱くという心の動きそのものが、一般的何らかの心の妨げの表現もしくは「症状」として起きることです。
これはかなり難解な心理メカニズムも含んでいる話ですが、まず比較的分かりやすい話で言えば、幼少期に家族愛に恵まれなかった場合に、家族のような親しさで誰にでも接する人物印象に、強烈に惹かれるというものです。もう少し屈折したものだと、自分の自意識過剰に悩む人にとって、「心を開いて」人に接することのできる様子の他人が、あまりの輝きに見えて圧倒されてしまうといった感情が起きる。どちらも、僕自身多少とも、というかかなり強烈体験したものです。
こうした「引きつけ誘因」は、他人の内面について、偏った、あるいは病的な美化認識を起こすことがあります。またその逆パターンとして、そうした理想印象のない他人への、偏った、あるいは病的な軽蔑感情執拗に生み出す傾向があります。
『悲しみの彼方への旅』にも、そうして極端な「美化と軽蔑」の2極に彩られた心の世界(^^;)描写が出てきますね。以下など。
===========
他人であろうと自分であろうと、服装の着こなしに僅かでも欠点を見ると軽蔑を感じてしまう。
見るものの全てが、軽蔑に出会う。世界の全てに、軽蔑がまとわりついている。
あの子ただ一人が、そうした否定的まつわりを持たない唯一の人物として、象徴的な輝きを持っている。そして初恋の女性だ…。(P.252)
===========


まあそうした複雑な心理メカニズムなど考えなくとも、「人物印象の魅力」というのは、心の未熟から成熟へと向かう最初の方の段階ほど、抱くのがごく自然なものですね。
それをネタ(^^;)にするのがドラマ映画というものでもあるでしょう。大勢の人が、そこに登場する、たとえばクールで強靭、情熱的、純粋さ、太陽のような暖かさ優しさ、といった「人物印象」惹かれ、それらを見るわけです。
こうしたごく自然「人物印象の理想」抱かれる惹かれる感情も、
『入門 - 4.心の成長変化』 ・「心の成熟」の法則
「2)「自発的不幸」から「自発的幸福」へ」流れで考えることができます。
つまり人は「自発的不幸」段階にいるほど、自分に幸福を与えてくれるものとして他人の位置づけ大きく感じられ、その「人物印象」大きな問題として感じ取る感情強く生まれることになる、というものです。その延長で、自分の人物印象他人がどう感じるかを、過大に捉えるようになります。

心が成長成熟するごとに、それとはに、「人物の印象」というものは、重みを減らしていきます。
それはまずは、「自発的幸福」生まれ始め、そして増大するごとに、他人の位置づけ小さくなっていくという心の土台背景と、自分の生き方確立し、目標を持って生きていく時、日々意識の前景としても「人物の印象」よりも、もっと具体的な行動内容の方が関心事になってくる、という2つの側面によるものと言えるでしょう。

3)「人物印象」の不実と内容の誤り

まとめれば、「人物印象の理想」というものが、自分のことであれ、魅力を感じる他人のことであれ、人生歩み始め「未熟」段階において、しばしばそこで体験した妨げ反動のようなものとして、重要さ重みを帯びて、「どうすればそうなれる」という知恵を欠いたまま、抱かれる、ということになります。
その結果起きるのが、そうした「人物印象」だけで自分や他人のことを考えることがもたらす、「不実」「誤り」だと言えます。
「不実」とは、何の自己の成長も、人との関係の向上も、そして人や社会に接する行動能力の向上もたらすことなく、心を動揺させるという「不実」であり、「誤り」とは、そこで抱かれる「人物印象」が、実際他人自分「現実」そして「真実」からすれば、おうおうにして間違った内容のものであるという「誤り」としてです。

「印象だけで人を判断してはいけない」よく言うものです。それが印象だけで人への好き嫌いを抱き、対人関係が偏ったり狭まったりするうちはまだ害も少ない(?)として、下賎な話、詐欺に遭うのは大抵、「相手の印象は良かった」という状況においてです。印象で判断するようなものではない、別の堅固な思考体系と、それに基づく行動法持つことが重要になってきます。たとえば「原理原則行動法」が、ハイブリッド心理学からの代表的なその答えとして。
人を印象で判断すると、その本性を見誤る、とも言います。人に深く接した時、浅い接触の中で抱いた印象が、完全に誤りであったことを知る。これは人生経験重要な一駒です。そうした人生経験を積むごとに、人を印象では考えないようにもなります。人を印象であれこれ考えるのは、人生経験の浅さ表れでもあります。まあ歳が若いうちは仕方ないことでもあるでしょう。

「人物印象型自己理想」抱いたところで、なかなかその通りになるような向上が得られないのは、「どうすればそうなれる」という知恵を欠いているだけではなく、実はその理想像内容そのものが間違っている・・まず言って矛盾をはらんでおり現実には成立し得ないものであるのが大概だからでもあります。
たとえば「自意識過剰ではない気さくな人柄」自己理想とする意識を、この上ない自意識において抱く、というように。
これはに述べた「自己操縦心性」において鮮烈なものとなるのですが、結局「人物印象型自己理想」を抱く時は、同じ構図の矛盾の中でではないかと、僕としては感じています。たとえば、「人への思いやりができる人間」という自己理想を、実は人に「思いやりのある人間」として尊敬と愛情を向けて欲しいという、実に利己的自己中心的願望において抱く、というように。
これが「行動戦略型自己理想」として、こんな場面においてはこうした行動を取れる自分に、という自己理想であれば、そうした矛盾脱し本当に思いやりある人間へと自分を変え得るかどうかを、問える問題になってきます。この違いはよろしいでしょうか^^。


「人物印象型理想像」の「感情動揺の非現実性」と「妨げの現実性」

つまりここまでの話まとめれば、「人物印象型自己理想」というのは、心の未熟や妨げを背景として、内容的に矛盾しており現実には成り立ち得ないような絵に描いた理想像が抱かれ、それを基準に、そうはなれない自分への動揺を生み出すものだということになります。
結果、これは「なれようもない自己理想から、そうなれない自分への否定感情ばかりが起きる」というものに、おうおうにしてなるわけです。
多くの人が、この意識の理不尽漠然と感じ取り、自己理想を抱く意識、そして「自意識」全体から逃れよう、捨ててしまおうと考え始めるのも無理はありません。そうできさえすれば心が楽になれるのでは・・と。

とこれがそうはいかない面が、かなりあるんですね。
手短に言えば、こういうことです。我々は「人物印象型自己理想像」にまつわる感情動揺の不合理な面を解きほぐし捨て去ることで、そのインパクトを多少減らすことができたとしても、その自己理想を基準にして起きる動揺や否定感情(たとえば怖れや気力低下さらには抑うつ感情など)によって現実行動が妨げられるという事実は、もはや捨て去りようのない心の現実さらには真実でさえあるものになる、ということです。

実はここに、「人物印象型自己理想」とは一体何なのかの、本質へのがあります。
つまりそこで、「理想像内容の不合理」つまり「動揺内容の不合理」を捨て去ることができたとしても、「動揺によって妨げが起きている事実」は捨て去れないというのは、「人物印象型自己理想」を抱く前からあった動揺と妨げが、前からそうであったのと何の変わりもない深刻さで、ほぼそのまま続いているものにすぎないのです。
結論はこうです。自分の心の未熟と妨げについて、「こんな自分になれれば」と「人物印象」として自己理想を抱いて、そうなれれば解決する、そうなれなければ駄目だと考えた思考と衝動の全体が、そもそも結局「空想の中の感情」であって、「現実における成長と問題解決」とは全く無関係なのです。
単純であり、当然なのです。「こうなれれば」「なれなければ」と考えている時の感情動揺の全てが、「現実」における成長や問題解決とは、関係ない。それでも「現実」において問題や妨げがあるのであれば、その問題や妨げに対して、直接、「現実」における克服と成長への取り組みをすればいいのです。


以上、おおよそテーマ理解になります。
引き続き、取り組み実践ポイントについて話を続けます^^。


 
「人物印象型自己理想」の克服への歩み(後) / しまの 引用
No.769 2014/01/27(Mon) 15:21:11

続きです^^。

克服への歩みの道のり

もちろんそこで「ではどのような人物印象を理想と考えれば合理的で現実的か」と考えても全くの堂々巡りであり、そこに「学び」始まる、ということです。

「感情と行動の分離」からの指針明確です。それはつまり、「人物印象」として感じ考えることの全てを、「内面感情」の側の軸として扱うということです。
そして「外面行動」の側の軸として、今何が「実際に外面行動として対処すべき問題」なのかの見極めから、始めるのです。
まずはこれを基本考えるので良いでしょう。

歩みの道のりとして考えると、ポイント以下のようになるかと。全体としては5年10年、というよりももっと長いスパンの、生涯の歩みそのものとしてです。

1)成長への最初の段階

一言で言うならば、指針以下の通り。
自己理想以前の行動法の学びを得ていくと共に、「人物印象型自己理想」の先に自分が期待しているものを明瞭にし、そこにある不合理にも向き合うと良い。

「自己理想以前の行動法の学び」については良いかと。日常生活とで、自己理想を描くまでもなく出会う問題課題への対処法学ぶ沢山知恵とノウハウ心の外部にあり、かなりの範囲において「自分」という意識が無用であることを感じ取るのがミソになると言えます。若い時期にありがちな、病的なほど過剰な、「自分がどう」という自意識依存傾向軽減役立つでしょう。
上記「感情と行動の分離」からの指針の通り、「人物印象」に関連するものごと「内面感情」側の軸とし、「外面行動」側の軸として実際に対処すべき問題どのように捉えるかが、その始まりとして重要になります。

「人物印象型自己理想の先に自分が期待しているものを明瞭にし、そこにある不合理にも向き合う」は、上述「3)「人物印象」の不実と内容の誤り」言っているような「内容の誤り」自己分析するようなになります。自己理想内容「不実な誤り」自覚することは多少とも失意と幻滅を生み出すでしょうが、「現実における成長」へと向かうための通過点と言えます。

この最初の段階でどのように前進できるかは、それまでの心の状況によってかなり様相異なってくる部分でもあります。
心に抱えた妨げそれほど深くなかった場合、上述の進み方すぐ前進力を持つことも期待できる。
一方心に抱えた妨げ深かった場合、2つの隘路(あいろ)が考えられます。
a)自分から成長に向かうという姿勢があまり持てず、「依存」の姿勢の中にい続ける場合 ・・・ 「学び」内容への納得理解がなかなかできないというパターンに。
b)「自己操縦心性」が強度なケース ・・・ この場合は、本人「現実における成長」への望み持ち得るかどうか行き先分かれてくることが考えられます。持ち得ない場合は、「空想を生きる」という心の状態とどまる持ち得る場合は、「現実を受け入れる意思」によって「自己操縦心性の崩壊」が起き、「理由の不明確な絶望感」によって心が圧倒される状態起きる可能性がありますが、健康な心が再生される通過点であることを知っておき、ただやり過ごすことが大切です。

心の成長前半的な段階というのは、「人物印象型自己理想」として、「まさに実際にはそうでないからこそ抱く絵に描いた餅の自己理想」という構図なりがちだと思います。たとえば超ビビリ「動じない自分」という理想を描いたり、自意識過剰で緊張傾向の人が「気さくで親しみやすい自分」の理想を描いたりと。それで実際の場面になると、そうした理想の自分を演じようとしたもののあまりに食い違う自分の現実にガッカリ、といことになりやすい。
それを、上述「感情と行動の分離」両輪で始まる学びによって、社会向かうためにそうした理想像でなくても可能な行動法、たとえばビビッても可能な勝てる行動自意識と緊張バリバリでも行動できる親しみ行動といったものを見出していくことで、未熟ゆえの稚拙に絵に描いただけの自己理想の巨大なはりぼて構築物(^^;)を、まず取り崩していくのが道筋になるというのが、僕自身の歩みを振り返っても考えられるものになります。

2)中盤の段階

「感情と行動の分離」によって、「人物印象理想」内面感情側として扱う実践の歩み同じです。
以降、心の成長段階によって「人物印象型自己理想」感じ方どのように変化するのか流れを書いてみます。

とりあえずキーワードのレベルで書いておけば、実践の「習得達成目標」として「否定価値の放棄」大きな通過点になります。
これは特定「人物印象理想」「神」のような圧倒感とともに抱く感覚減少し、誰もが同じ人間という、人それぞれ長所短所の程度の差にすぎないという感覚へと移行するものと言えるでしょう。
「望み」大きく開放され、それを原動力とした人生の前進は、「人物印象型自己理想」よりも「行動戦略型自己理想」によって、大きく押し進められるものになります。
もちろん「人物印象型自己理想」持たなくなる、というのではなく、それは特に「愛」「望み」向かう時に、自分そうした理想どう近づくことができるか引き続き意識の上で重みを持つものになります。
言えるのは、この段階においては、自分の人物印象理想は、もはや「演じる」ことができるかと問うものではなく、自分が何をどのように感じどんな行動ができるかという、具体的側面に分解して問うものになってくる、ということです。

そうして具体的場面での建設的行動法習熟してくるごとに、自分の人物印象イメージは、格段に良くなってきます。これは
『「自己イメージ」 概説^^』 しまの No.747 2013/12/22
で、
============
「自己イメージ」位置づけが、
「自立」においては、自ら幸福へと歩む、そのためありのままの自分を受け入れ、現実世界を生きる知恵と能力を獲得していく、その達成状況について自己イメージが抱かれる
============

と書いたものとしてです。
やがてそれは、一般的対人場面社会行動場面においては、自分が理想的な人物印象の人間に、実際なれ始めているという自信感へと、高まっていくことが可能です。理想像を先に描いてそうなろうとするという結果としてではなく、行動法の理想を追求した結果、自ずと人物印象も理想的になってくるという結果としてです。

その先に、「人生で最も重要な愛」(人物であれものごとであれ)に向かうという、心の成長における山の頂のような課題控えていることになりますが、その最後の段階まで、ここで説明した流れ順調な前進で到達できるかどうか、多少の別れ道が出てくることが、再び考えられます。
順調な前進で到達できれば、無論それに越したことはない。しかしハイブリッド心理学は、心に躓きと妨げを抱えた来歴から始まり成長への前進に向かってもなお、心に残された妨げによって限界が現れ、さらにそれを超えるもの訪れるというに、異次元の世界への心の成長道筋があるのを見出します。

3)終盤の段階

そこで起きることとは、
『入門 - 4.心の成長変化 - ・「心と魂と命」の3次元的成長変化と最終ゴール』
で書いたように、
==========
「心」「魂の望み」受けとめ尽くした時、さらに異質「命の感情」現れる自己別の人間へと変化し、「魂の望み」感情役目を終え、消え去っていく。
==========
という変化流れです。
向かい方としては、上記中盤の段階でのもの同じ向かい方によって、「人生で最も重要な愛」向かった時に、内面もしくは外面壁や限界によって思い通りに「望み」を叶えられない時、その「望み」を通して自分が人生で望んだものは何であったのかにさらに向き合う、といったものになります。
そこで起きることポイントは、
『入門 - 4.心の成長変化 -  「心」と「魂」と「命」の意識の仕組み図』
において、中盤の段階まで「心」の領域で起きる変化であるのに対して、この終盤の段階は、「心」の底の仕切りを超え、「魂」と「命」に達する変化が起きる、というものです。

詳しい話『入門』引き続きの部分などに譲り、ここでは「自己理想意識」どうなるのかと言うと、「自己理想意識」というもの自体基本的「心」領域「自意識」によってつかさどられているものであり、結果、「自己理想意識」というもの自体が消えていく方向に向かい始める、ということです。
「人物印象」というものを、自分のことであれのことであれ、思い浮かべることも減ってきます。これは「自発的幸福」増大により、基本的他人の位置づけが小さくなってくることによるものと思われます。「否定価値の放棄」による「不完全性の受容」流れの先のものとして、「無条件の愛」「豊かな無」といった感情増大してくるということからも、「人物印象」あれこれ評価することなどなくなってくるというのが理解できるかと思います。
「人物印象」ではなく、ごく外面の理想、また「行動戦略型自己理想」引き続き役割を果たすでしょうが、人生でやるべきことを尽くしたという満足感増えるほど、「理想」という意識の全体が薄れてくると思われます。手前味噌ですが僕自身最近は多少そんな感じになってきています。まこの体験談(?^^;)はいつか『日記ブログ』などで^^。

まとめれば、
成長への最初の段階 ・・・ 「学び」得ながら「人物印象型自己理想」不合理な側面捨てていく
中盤の段階 ・・・ 「否定価値の放棄」成し「望み」開放させ、「行動戦略型自己理想」によって人生の前進
終盤の段階 ・・・ 「心と魂と命の3次元的変化」によって「自己理想」意識そのもの役割を終え消え始め
ということになります。

「自己理想」をめぐる心の惑い動揺克服への流れということで説明しましたが、その最終的な答えとは、自己理想基準にしてどうなるか、にではなく、自己理想への向かい方によってやがて導かれるものとしてある、ということになります。
自己理想を基準にしてどうなるかとは全く違うところにある答えが、ですね。


「今向かうべき学びと成長」を問う意識から

ということで、以上が、

>そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。ただ最近は・・(略)・・

について、「目の前の対処」「長い目からの展望」という2つ持つのがいい、というにおける「長い目からの展望」のために必要な知識になる次第です。
「目の前の対処」としては、そこで報告頂いたように「去っていく感情は追わない」というのでまずは良し
一方「長い目からの展望」は、ここでの説明全体を、心の懐入れる必要が出てくる。

まあ実は単刀直入な話、上記文章を読んで僕がアドバイスしたくなったのは、

>男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく

という「理想の内容」について、ちょっとケチつけたく(^^;)なったわけです。それをただケチつけるコメントだけ書いてもあまりに無骨(「洗練されていないこと。無作法なこと」の意^^)なため、どんな視点からそんな話になるのかを一通り整理すると、そうした話になるというのをまとめた次第です。「自己操縦心性」位置づけも含め。

その理想内容について言えば、
・男前を鼻にかけないことを理想と感じることにおいて、鼻にかけ(ようとし)ている
ちょっと説明加えておくと、男前を理想にするのは大いに結構。一方鼻にかけるかけないといった話は、「自意識過剰」克服として、「浄化」なども含め別の流れの話になってきます。)
・そうした人間になって、その先どうなるという話か。社会に出てからは、そうした「理想的人物」も、もう大した理想とも扱われず、それだけでは仕事もできないし収入も得られない
、といった^^;
ところが「自己操縦心性」は、そうした「人物印象理想」を、そうなれれば全ての人の尊敬と愛情が捧げられる栄光像のように、熱狂と共に描こうとするかも知れない。まずはその不合理面にも向き合いながら、まずは流すことだ、
といったになる次第です。
(それはまだ社会に出ていない若さでの「馴れ合い」世界の中でこそ理想像になるものと言えます。)

これは上記最初の段階での、「学びを得ながら、人物印象型自己理想の不合理な側面を捨てていく」における、不合理な側面を捨てるための検討視点ということです。
一方で、「学びを得る」は、「人物印象」とは全く別の問題としてある行動法の知恵とノウハウを、これもまた自己理想がどうかに関わらず出会う生活人生の課題において学んでいくということであり、この点ではりょうたろうさんは上記勉強法なども含め、まさに向かい始めているので心配ないかと^^。
その先に、いずれ「自己理想」というテーマは、人生の中大きな変遷をしていく。そうした長い目での展望持っておく良いという話になります。

もちろん、先を急いで、成長の先の段階を自分に当てはめるという姿勢ではなく、こうした知識心の懐に持っておいたで、「今向かうべき学びと成長は何か」自分の心に、さらには自分「命」問いかけていくという姿勢によって、その時その時において向かうべきもの見えてくると思います^^。
まあはもちろん、「社会に出る」という大きなテーマの下で、おおよそ全体を考えるので良いかと^^。

(終わり)(^^; ハハ・・)


 
Re: 勉強法について / りょうたろう 引用
No.775 2014/01/28(Tue) 19:35:08

極めて詳細な解説をどうもありがとうございました!
実は自己操縦心性の話は私にとって非常にタイムリーな話題で、この投稿をしてからの間に私のほうでも激しい内面の動きがありました。そこで起こったことについてまた質問したいので、
まとまり次第また投稿させていただこうと思います。よろしくお願いします。



暴漢に襲われた友人 / コジマ 引用
No.765 2014/01/22(Wed) 22:40:06

数日前に友人が暴漢に襲われました。駅のホームで偶然目が合ったと言う理由で問答無用に殴られたみたいなんです。友人は鼻を折られる重傷を負ってしまいました・・・。友人は、もう二度とこんな目には合いたくない!何か良い自衛方法があれば教えてくれ!と相談されました。私なりに自衛方法は考えてはあるのですが、もし、島野さんだったらどのような自衛方法を取るのか知りたくなりました、友人にアドバイスを伝えるさいに参考にしたいのでご回答頂けたら幸いです(m_m)ちなみに細かい状況を言いますと、時刻は午前10時でして友人が電車から降りる時に乗るのを待っていた人間に暴力を振るわれたとの事です。さっき目が合っただろ、調子乗ってんじゃねぇよ、殺すぞと言われた後、胸ぐらを掴まれ顔面を思いっきり殴られたとの事です。ちなみに、友人の年齢は35の男性で、加害者は20代の男性です。


 
「事故に遭わないための姿勢と技術」^^ / しまの 引用
No.772 2014/01/28(Tue) 17:46:06

これは一言でいえば、「交通事故に遭わないための運転姿勢と運転技術の全て」といったになると思います^^。
過度なスピード控える一方、流れに合わせられるということも重要になってきます。急発進急停止、急な路線変更など「乱暴な運転」を避ける。信号進む場合も、交差する道路から車が突っ込んでこないことを確認してから進む路肩の車路地の陰から、人が飛び出してくる可能性を考える。狭い道すれ違う場合は、相手に譲ることを基本とする。譲られたお礼の動作をする。など、とにかく手合い頭相手に不快な思いをさせないよう気を配る。などなど。

それらに匹敵する気配りを、電車においてはするということになると思います。まあ雑踏の中一般で言えることになりますね。

なら、まず人に絡みそうな人間察知したら極力距離を取るように・・というのは書いて頂いた状況には当てはまらないかもですね。
相手ごく見分けのつかない人々として、まず人と目は合わないようにしますね。人の顔は、基本正面から見るものではない。(攻撃されるので猿と目を合わさないようにという話と基本同じ。アハハ・・^^;)
電車から降りる時であれば、まずホームの地面を見てしっかり足を下ろすと思います。自然に行動していれば基本目は合わず、さらに、目が合うのはあまり好ましいことではないと思っていますので自然に行動する以上に目が合わないと思います。
また、電車乗り降りなど雑踏を通る時は、極力穏やかな表情で、そこにいる人達には何の意識も持っていないことを表情で示すようにします。全く関係ない理由で苦い表情をして人ごみとすれ違うと、どこで「何か文句あるのか!」と因縁つけられるとも限らない^^;

外面行動法としては、ざっと書くとそんな感じ^^。
あとは内面感情としても、基本的人へのトゲトゲしい気分は持たず、誰に対しても穏やかな親しみ感を持てるようになっている結果、そうした外面行動法べつに神経を使うものではなく、穏やかな内面感情をそのままうまく外部にも向けるという、ストレスないものにできている次第です。これは心の成長全体歩みの話になりますね。

ということで、まあ内面感情の要件なんてことはさておき、「交通事故に遭わないための運転姿勢と運転技術の全て」という例え話で考えて頂くので良いかと。
もちろん「自衛しようのない事故」という災難もあるのは交通事故同じでしょうが、そうした姿勢と技術持つと持たないとでは、話が大分違ってくると思いますので^^。


 
Re: 暴漢に襲われた友人 / コジマ 引用
No.774 2014/01/28(Tue) 18:28:26

ご回答して頂きありがとうございます!非常に参考になりました^^以上の内容を参考にしたアドバイスを友人に伝えようと思います^-^



対象について / ピヨ 引用
No.761 2014/01/11(Sat) 19:20:05


 島野さんの本の中で。

「本当に愛するもの」とは、命の重みにおいて愛する、生涯で出会うただ一人の人物のような相手を指す。ただその相手に近づくことを願う「魂の愛への望みの感情」。

『悲しみの彼方への旅』で描写した私の心の激変も、「あの下級生を見ることの輝きを知る、等々。
 
 これまで、愛する気持ちの対象になったきっかけで、生涯で出会う人物とは、島野さんの本の中では、下級生ということでしょうか。本の内容が、膨大なこともあり読み込めていないのですが、再認識して内容を深めたいと考えました。


 
/ ピヨ 引用
No.764 2014/01/19(Sun) 08:19:15

 ここ最近、夢を見るようになりました。熟睡している時は、夢は見ないと言われています。心当たりは、最近早めに就寝して時間の余裕があること。もうひとつは、ハイブリッツド心理学の実践をして脳が変わっている最中だからなのかと感じています。

 脳が変化していった時は、島野さんは夢などは見る日が多かったでしょうか。それとも、熟睡でしたでしょうか。


 
「生涯で出会う相手」「夢」^^ / しまの 引用
No.771 2014/01/28(Tue) 16:39:36

先日ブログ状況報告の通りお待たせしました^^。

「生涯で出会う相手」

>命の重みにおいて愛する、生涯で出会うただ一人の人物のような相手

『実践詳説』「序章 / 人間の真実」で言っている、「心の成長の山の頂きに向かう尾根にある2つの峰」のうちの一つですね^^。(P.30人間の真実

重要なのは、「愛」「欲」違いしっかりと見据えることで、すると本当の「愛」というのはそう相手無差別に乱発(^^;)できるものではなく、相手が限られてくる、という話。「欲」はいくらでも相手無差別に発情し得(^^;)ますね^^;
以前『「愛」と「欲」と「絆」』 しまの No.664 2013/10/20などでも言った^^。

そうして限られてくる、本当に愛する相手に向かうという、人生の宿題があるという^^。

>これまで、愛する気持ちの対象になったきっかけで、生涯で出会う人物とは、島野さんの本の中では、下級生ということでしょうか。

『悲しみの彼方への旅』で書いた大学時代では、そうだったということになると思います。
ただその頃心を病んでいた傾向があまりに妨げになっており、その「下級生の子」への思いも、「現実」の中の感情というより「空想」の中の感情だった感じですね。
それでも「本当に愛する感情」呼び覚ましてくれた、他に変えられない出会いだったということになります。

その後の、健康な心回復した僕の人生において、一番の役割を果たした「生涯で出会う相手」は、他の執筆の中で多少(ごく短くバラバラに^^;)触れていますが、結局初恋女性になっている次第です。これはいずれ『日記ブログ』で、僕の心の歩み全体の流れとして書いていく予定です^^。


「夢」

>ここ最近、夢を見るようになりました。熟睡している時は、夢は見ないと言われています。心当たりは、最近早めに就寝して時間の余裕があること。もうひとつは、ハイブリッツド心理学の実践をして脳が変わっている最中だからなのかと感じています。

まさにそうだと思いますね^^。
「夢」については、
『実践詳説』「終章 「真の望み」への道 / 「純粋な愛への望み」の感情は「自分」と「現実」を超えたものへ」で、
それはおうおうにして、心の変化を先取りするようなものとして現われる
と書いた通り。
P.251「純粋な愛への望み」の感情は「自分」と「現実」を超えたものへ

ですので、印象的な夢日記など書いておくと、後から読み返して、心の変化流れ実に絶妙な前後関係があるのが感じられて面白いと思います一つの立派な執筆作品になる感じ^^)

>脳が変化していった時は、島野さんは夢などは見る日が多かったでしょうか。それとも、熟睡でしたでしょうか。

比較的浅い睡眠の傾向のせいか、ちょーをよく見ます。ま脳が変化するというほどのだけでなくても、僕の今までの人生心の変化が絶えることがなかったこともあり。
この辺『実践詳説』の上記部分書いていますので^^。「夢」僕にとって「もう一つの人生」だったと感じられるほどだった、と。
でも(まだ心が変化中?^^)よく、印象的な夢を見ます。しばしば、まるで映画のような芝居がかったストーリーの夢を見て、自分でも感心している感じです。これも今後『日記ブログ』などで紹介していければと^^。


 
Re: 対象について / ピヨ 引用
No.773 2014/01/28(Tue) 18:12:43

「本当に愛する感情」を呼び覚ましてくれた、他に変えられない出会いだったということになること。

 その後の、健康な心を回復した僕の人生において、一番の役割を果たした「生涯で出会う相手」は、結局初恋女性になっている次第ですとのこと。

 が分かりました。いずれ『日記ブログ』で、僕の心の歩みの全体の流れとして書いていく予定ですとのこと。
 
 ぜひ、読みたいです。

「夢」

 心当たりは、最近早めに就寝して時間の余裕があること。もうひとつは、ハイブリッツド心理学の実践をして脳が変わっている最中だからなのかと感じています。

まさにそうだと思いますねとは、うれしく感じています。

『実践詳説』の「終章 「真の望み」への道 / 「純粋な愛への望み」の感情は「自分」と「現実」を超えたものへ」で
それはおうおうにして、心の変化を先取りするようなものとして現われる

 印象的な夢は日記などに書いておくと、後から読み返して、心の変化の流れと実に絶妙な前後関係があるのが感じられて面白いと思いますとのこと。

 睡眠をよく取るようにしていること、夢をみることは楽しみです。

 今後『日記ブログ』などで紹介も、ぜひ読みたいです。

 ご意見を聞くことができて、良かったです。ありがとうございました。




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