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No.621 2013/09/20(Fri) 16:25:13
島野さん、丁寧な回答をいただきありがとうございます。 ひきつづき、いくつか質問があります(**印)。長いですm(_ _)m。
>根源的自己否定感情が働く心の動きになるまいという姿勢がまさに根源的自己否定感情 の焼き直しになる *これは、あるべき理想を抱いて圧力を掛ける(例えば、暗い自分ではダメだからと無理に明るく振る舞うなど)ことが、さらなる恐怖の蓄積を生み出し、本当の自分(ありのままの感情)は置き去りにされることで、つまり見放された感覚はちっとも無くならない、というような状況を言っているという理解でよろしいでしょうか?* *「恐れ」「自己嫌悪」の克服あたりが最も軸になる” とのことですが、具体的な克服法としては、恐怖、自己嫌悪を感じる時がまさにチャンスとなるでしょうか?* *恐怖、自己嫌悪を感じる場面に直面した時、「学びの一覧表 – 内面向けテーマ- 悪感情の克服」の項目に真摯に向き合い納得理解し、建設的な行動を取る → その結果、心に変化が起き「根源的自己否定感情」に駆り立てられていた ”こうあらねば” という感情が無くなる(または、弱まる)ことが直接感じ取れる感情としては実感できる、というような流れになるでしょうか?*
>根源的自己否定感情自体が結構誰でも程度の差こそあれ持つものです。で、人に言われた>ちょっとした言葉がトラウマになるなんてのは、子供なんて大体そんなものだ程度 島野さんにこう言われて、親の間違いを探し、指摘し、責める姿勢の勢いが弱まった気がします。母がよく言う「そんな完璧な親はいない」という言葉も受け入れる余裕ができました。本当は自分も辛かったんです。子育てに問題が無かったとは言えないけれど、娘の幸せを思う気持ちには嘘は無いというのがわかるからです。ただ子供を幸せに導く術を知らなかっただけだと…残念ながらいまだにですが、それを突き詰めると怒りがぶり返し、メビウスの輪のように止まるところを知りません。 私が思うように私の心を理解してもらうことをどんなに求めても満たされることはないし、その必要もない、それが分かったから、私は心の自立に向かおうと思います。怒りの感情を無きものにしようとするのではなく、ありのままに感じ取り、行動はあくまでも建設的にですね。
>そうした心の動きをすぐ脱することが可能になるような思考が「学童期」に築かれるかが、重要になってくると 残念ながら「学童期」に築かれてなかったのだと思います。残念です、こんなに長引いてしまったなんて。正直、人生を失ったと思いました。でも、島野さんの心理学に救われました。そして、脱せなかったことを嘆き続けるのではなく、今脱することが大切なんだとやっと思えるようになりました。
「自死はいけない」というのは確かに、考えてみれば「道徳」でした^^; 。島野さんは、執筆のどこかで「実存を守れ」という言い方をされています。実存を守れ = 自死否定 と私が捉えてしまったと思います。*ちなみに、「実存を守れ」というのはどういう意味で使われたのでしょうか?* Wikiによると、「実存」というのは「本質存在」ということですから、言葉通り、自分の本質、もしくは主体といったことでしょうか? その場合、島野さんが例をあげた極限状態では、己の実存を守るためにCENSOREDもありなのかな、と思いました。
取り組み手順については、ブログに目を通させていただき、”内面姿勢” に取り組みながらも、基軸はあくまで ”外面行動” という理解をしました。 まだ学びの初期段階ですので、行動法や生き方の学びについては具体的な材料が出てきた段階で、事例集などサイトの中から探す、もしくはこのページで島野さんへ質問をさせていただくことで、確認を行いたいと思います。あまりハイブリッド心理学の理論に則っているかどうかに神経質になると、枠はめ法に陥る罠もあるかと思いますので、その辺りは自分の直感も信じて、楽しく学んで行くつもりです。
「失った愛への後悔」への向き合いの1) 2)について、自分でもここ数カ月考えていました。
>1)失って後悔している「価値」とは何だったかの見極め 1. 外見とか 2. 純粋さ 3. 一緒に過ごす時間、楽しみ (4. 人生: 一緒に生きること) 島野さんが ”愛ではないもの” の例であげた ”財産” はまず無いな、と思いました。ただ、容姿はかなり好みだったこともあって惹かれた理由のひとつになります。それと、安定した職業や学歴なども多少なりともあったかなとは思います。しかし、何よりも、ふざけ合っていた交流の中で時折見せる “純粋さ” “優しさ” “繊細さ” が好きでした。そして、失って後悔している最大の価値とは、島野さんが愛の定義としてあげている、「喜びと楽しみの共有」であったと思います。私の出方ひとつで、もっともっとそういう時間を共有することができたのに、という後悔です。4に人生としましたが、これは3の延長線上に来ると思うので、失った価値としてはかなり不確定と感じ()閉じとしました。依存したい気持ちがあったかどうかわかりませんが、あの精神状態の自分が実際に彼と付き合い続けた場合、間違いなく依存の関係になったであろうと思います。 従いまして、好きな気持ちが止まらない反面、*あんな精神状態の自分とは付き合わなかった方が彼にとっては正解だった、という気持ちもあります。でも、これは「後悔の気持ち」が収まるようにという姿勢になるのでしょうかね?*
>2)「失敗から学ぶ」という行動法の見直し 心については、怒りや劣等感が入り乱れたグチャグチャ状態だったと思います。人に相談したり少しは向き合おうという気配は見せましたが、若かったこともあり、ストレスを溜めなくていい他の道へと方向転換をしました。具体的には仕事や、もっと楽な異性との付き合いでした。望みを見失ったまま、完全に穴埋めの行動に走っていたと思います。仕事については、それなりに成果を出せたこともあり達成感も得ました。異性については、心はむしろ病んでいったと思います。この経験が、結果を問わず好きな相手に向かうことがどんなに大切なことかを逆に教えてくれました。姉に言われた「にーなは幸せをつかもうとしていない」という言葉が、自分が全く行動を起こしていないことを自覚するきっかけともなりました。
上記が現在思う限りですが、これを徹底的に行うということですね。引き続きやってみようと思います。
>思いっきり、「こうなれていたら自分はこんな幸せに」というプラス面の妄想にふけり、逃がした魚が大きかったと(^^;)一生悔しがればいい これもわかりますし、実際この2〜3か月程妄想にふけってみました。付き合っている状態が夢に出てきたこともあります。心が満たされる効果はあると思いました。 *ひとつ心配なのが、これを長い期間続けることによって、心が固定されストーカー化したりはしないのでしょうか?* また、余談ですが、この過去の恋愛に向き合ったことが、自然と初恋の感情を呼び起こすこととなりました。20代前半の恋愛は人生において最も大切なものと思えるのですが、そこには初恋の感情の焼き直しがあったと思いました。初恋の時は相手から好意を示されたにもかかわらず、それに答えることができませんでした。相手は単に振られたと思ったかもしれません。私にしてみれば、相手が素敵すぎて自分には資格がないと思い動けなかったんです。偶然にも島野さんと同じ小6の頃の体験で、その後は視線恐怖ならぬ赤面恐怖に怯える中学時代となりました。心を解き放って付き合っていたら…違う青春があったのか…。 実際には親や友達いろんな人が関わってくるので、あのような弱い心ではその後に襲ってくる試練を乗り越えられたか自信がありませんが^^;、ひとつ望みを乗り越えて強い精神になれたと仮定し(というか今の精神状態を借りてきて)プラス面の妄想にふけってみました。少女マンガの世界を超えるような満足感がありました。私はいつも少女漫画を読むと、自分がキラキラした世界から取り残されたような悲しさを感じていました。でもそれがもうありません。*自分がそういった青春を過去に持っていて、懐かしむような愛しい気持ちです。体験していなくても体験したような感覚です。これが実体験を凌駕するような、ということでしょうか?* 私は実は初恋の失敗以来、あの時感じた「透明な感情」、初恋の少年と見つめ合った時に感じた「世界が止まったような、突き抜けるような何か」に触れることができなくなった…という喪失感をずっと抱えていました。おそらく、あれは魂からの感情だったんだと思います。普段は日常生活に追われて忘れていましたが、好きな異性の目をバリア無しでは見詰められなくなってしまったような、分断されたような感覚が続いていました。妄想にふけることで、あの透明な感情が自分に戻ってきたと感じました。「今、愛へ向かうことができる人間へと成長できているかどうか」は実際に対象が現れなければわかりませんが…恐怖はまだあると思います。
>相手にせよ自分にせよ、どんな運命の変化があるかは分からないという目を持っておく ことですね。再び相手に近づく行動を考えるのも良し。ただし「外面行動は建設的に」 という指針の上でです。相手が家族持ちであれば、相手にも分かるような行動は不可 *これは、多面を同時に見るということでしょうか? 相手にも分かるような行動は不可とうのは、会うための連絡を取ること自体が不可ということでしょうか? 私は自分に友達以上の好意がある以上、会うことはもう無いと思いますが、相手に近づく行動というのは具体的にはどういったものになるでしょうか?* |
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