No.1017 2015/01/01(Thu) 16:33:07
社会行動においては、 どんな場合でも怒りよりも良い行動法がある、 という事で二つのケースでお尋ねします。
これは親子関係(親から子に対しての接し方)においても当てはまるのでしょうか?
僕は、親に怒りを向けられたから不満を持っているというよりは、 同じ目線に立って、話を聞いてもらったり、時には対決する事も覚悟の上で、 「向き合って」ほしかったという感覚が大きくあります。
確かに頭ごなしに自分の考えを押し付けられ、全く聞く耳を持たない態度で こられていたら、同じように大きな不満や憎しみをためていたでしょう。
しかし、問題をさらりと交わしたり、こっちが自分の意思をぶつけても、 まるでゴムに衝撃を吸収されるかのように取り合ってもらえず、 しばらくすると 何も問題は起こらなかったかのように、優しい態度でまた応対される。
真剣に話を聞いて、大人としての絶対に正しい意見というのではなく、 個人として「こう思う」という事をぶつけてほしかったと思うんです。 怒る事すらも面倒に思うほど、真剣に向き合う覚悟もないくせに、 お父さんは〜とかお母さんは〜とか言われても、そうはよびたくないという 根深い抵抗感があります。
いつでもかかってこい、というくらいの気構えでいてもらえたら、 反抗期を向かえる事も出来たのに。 信頼していないと反抗が出来ないというのに凄く共感できます。
これはヒステリックに自分が否定されたことに逆上するような怒りでは ないですが、相手と対決し、対等に向き合っているからこその怒りが あるのではないかと感じます。
次に、友人が危険を省みない行為を行う事に対して、です。
今回は、雪山登山でした。
島野さんも今年から雪山を始められたようで、ご存知だと思いますが 雪山登山には様々な危険がつきもので、道具類、知識、歩行技術など様々な 準備が必要です。
自分はもともと登山をしていて、雪山には登った事はないものの、 身近に登っている人がいたため、どれくらい危険であるかは肌で感じていた つもりでした。
友人は今年はじめて山に登ったにも関わらず、いきなり赤岳(八ヶ岳)に 一人で登ると言い張っていました。 僕はもっと低い山で歩行技術などを学んでから、最終的に今シーズンの 最後に目指せばいいじゃないか、といいました。 また、登山用品店に一緒に行き、店員から冬の赤岳の難易度などを 彼に聞こえるように質問したりしていました。
しかし「いける気がするからいく。」と聞きません。
終電電車でアクセスし、前日に買ったピッケルを持って登りました。 すでに厳冬期の時期なのに、保温性の無い3シーズン用の靴に 軽アイゼンをつけて登りました。 バスがないので登山口までも歩き、計18時間くらいの行程でこれまた終電電車で 帰宅。 天候が良かった事もあり、凍傷も免れ、帰ってきました。
会ったらどういう態度をとればいいのか迷いました。 なにバカな事してるんだよと怒りたい気持ちと、その行程や状況について 聞きたいという気持ちが混在していました。 また、「一人では危険だし、人といる事が怖い自分は、雪山に挑戦したい気持ちが どこかにありつつも、出来ないとくすぶっていたのに、ろくに勉強もせずに すぐに雪山に登りやがって、ふざけるな」 「18時間も歩きとおせる体力は自分には絶対にない」 「せっかく近しい友人が共通の趣味をはじめたと思ったら、 自分ではついていけないレベルの登山にどんどんのめりこんで行って、 凄い人たちとしか山に行かなくなるんじゃないか」 など羨望の気持ちも混ざっていて、錯綜状態だったともいえます。
結局「なにやってんだよ・・・死んでたかもしれないんだぞ・・・」 と静かに不機嫌な態度をとる結果になりました。 「次は絶対ツアーか雪上訓練受けろよ」と何度も言いました。
その後、 上記の行程を越える無茶な行程を組みました。 また終電でアクセスし、今度はもっと歩行時間のかかる登山口から登ると いうのです。
今回もつらつらと、そっち側は雪が多いからラッセル時間がかかるとか、 山荘のブログで、固い雪に新雪が積もって雪崩がおきやすくなっていると 書かれているとか、とめましたが、
「いや、いける」と聞きません。
最終的にイライラしてきて「もう知らないわ」と呆れて怒った風で 僕は背を向けて帰りました。 自分が登るわけでもないのに、コースの危険箇所などを調べている自分にも イライラしてきていましたし、どうとめたらいいのかに一日中右往左往していて、 他の事に手がつかない事にイライラしていました。
その時買いたての雪山用登山靴を持っていたため、 それを一時的に奪ってしまう事も出来ました。
結局、強行的スケジュールで、夜間に尾根から滑落して、 遭難状態になりました。ほとんど寝ずに二日間行動し、幻覚を見たりも しながら何とか自力下山しましたが、軽度の凍傷や打撲などの後遺症が残りました。
一歩間違えたら本当に死んでいました。
「嫌われたくない」という思いがもっと小さければ、 馬鹿な事するんじゃないともっと強く言えたと思います。 頬を引っぱたいても良かったんじゃないかと思います。
でも同時に、ほとんど唯一の友人ともいえる彼に依存しすぎている 面も大きく感じ、それは別途課題だとは思ったのですが。
どういっても理屈や論理では通じない時に、 怒りが心を動かす事もあるんじゃないかな?と思うケースでした。
今回は、友人という立場、また本人が心配をかけたいとかいう心理ではなく、 純粋に危険を認知していない、でも行きたい、というケースでした。
しかし例えば非行少年を息子に持った時に、同じように危険な事に 向かっていってしまう事もあるかもしれません。 そういう時、真剣に声を荒げて叱ってくれる、止めてくれる事を求める 心理がどこかにあるのではないでしょうか。
上記は自己保身のためのヒステリックな怒りではなく、 他人に対して自分の身を切って真剣に向き合う時の「怒り」だと思いますが、 こういったものも使わない方が良い結果につながるのでしょうか。 |
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No.1021 2015/01/13(Tue) 10:00:47
ちょっとどんなアドバイスにしようかと時間食いましたが、ごく結論のさわり(?^^;)だけ手短に。
>社会行動においては、どんな場合でも怒りよりも良い行動法がある、という事で二つのケースでお尋ねします。これは親子関係(親から子に対しての接し方)においても当てはまるのでしょうか?
もちろんそうですね。 親子関係であっても、何か具体的問題(たとえば家事の分担とか互いの生き方とか)があるのであれば、互いが別の人格であることを尊重し、行動学を駆使した建設的行動法がお勧めになります。これは問題の内容いかんになります。 そうした具体的問題というよりも、親が自分にとって何か理想的なあり方でなかったことへの怒りといったことであれば、完璧な親などいないという不完全さとして受け入れ、「何もしない」のがより良い行動法だということになると思います。
>上記は自己保身のためのヒステリックな怒りではなく、他人に対して自分の身を切って真剣に向き合う時の「怒り」だと思いますが、こういったものも使わない方が良い結果につながるのでしょうか。
まずは「遭難しそうな行動を怒る」よりも、「どうすれば遭難しないかの知恵を伝える」のがより良い行動法だということになると思います。 それでも相手が聞かない時どうするか。 一般に、自分にとって大切な相手が、愚かな行動によって自らを滅ぼそうとしている時、それに対して「怒り」を表現して止めることは、意味のあることだと思います。まあ相手は知恵のある行動ができない結果がそれなので、知恵をアドバイスするというのが得てして功を奏さない、切羽詰った場面ということになると思いますので。
ただし相手の愚かな行動を怒りによってどう変えられるかは、もうあまり言えることはなくなってきますね。結局相手自身が、知恵のある行動を目指すのでないと。 建設的行動法が通じない相手を、怒りで変えようとしても限度があり、究極的には、相手がそんなことをしない一番確実なのはその相手をCENSOREDことなんてことにもなってくる。まあ実際殺人事件の一部は、そうした思念の下に起きるのかも知れませんね。
ですのでやはりこれも、最後は相手の自己責任自己判断に任せ、それ以上「何もしない」という以外には答えがない場面があることも、受け入れるのが良いかと思います。
いずれにせよ、書いて頂いたような、結構特別な場面への検討だけでは最終的な答えは見出せず、対人関係全体そして人生全体への取り組みを通して、長い歳月を経て、心が落ち着く答えが、向こうからやってくる、という長い目を持つのが良いかと思います^^。 |
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