No.946 2014/08/06(Wed) 10:26:47
*管理者メモ* これは 『(No Subject)』 こたろうさん No.931 2014/07/01(Tue) 17:20:52 へのレス 『Re:』 こたろうさん No.941 2014/07/25(Fri) 17:48:59 として入れて頂いたものを、この新規トピックとして移動させて頂きました。 今後も、話のテーマが変わった場合は新規で入れて頂くとよろしいかと^^。タイトルも適当に入れて頂くとなおよろし^^。
ありがとうございます。 仕事の部分の向かい方に関しては、まだ少しひっかかる部分があるので また少し考えて見ます。
また、スレッドが長くなってきてしまっているのですが、 入門編下巻の前半部からの質問になります。
●開かれた世界 =自分だけに注がれる特別の目がない。なぜなら「人物」をあまり問わない世界だから。 価値ある行動をすることができれば、人物を問うことなく評価されるが、その場限りである。 人々は「身内」ではなく、「他人」なのである。 それぞれが別の存在として、それぞれが唯一無二の方角へ向かっている世界なのですから。
であるからして
●閉ざされた世界 =身内と感じられる人々の中で、自分が特別な存在になりえる閉ざされた世界に 惹かれつづけてしまう。 具体的な思考を見失い、再び人の顔色が基準になりはじめる。
●閉ざされた世界で惑う時・・・・ =問題は、あるべき姿にかなえないこと、に感じられるが、 実際は違う。本当の問題は、「閉ざされた世界」における「愛に」、「嘘」が混じることになる。 そして「嘘」が許せなくなる。それはあるべき姿にそぐいようもない、まがいものですから。
●愛と嘘の表裏一体の罠 =愛されるために、ありのままの自分を隠して、別の人間を演じようとする。 そこに「嘘」がはじまることになる。 「嘘」だけはどんなに心が健康であろうとやんでいようと、心の根が善人であろうと悪人であろうと ほとんど変わること無く、人間が本能的な嫌悪を感じるものなのです。 かくして、愛されるために嘘をつき始めた心は、ほぼ必然的に破綻への道をたどります。
それは ●「あるべき姿」を演じるのが難しいからではなく ●愛されるためにでも「嘘を演じること」をしている、自分自身が嫌になってくるのです。
ありのままの自分を感じ取る感受性が損なわれていなければ、自分が求めているのは 愛であり、それを得るためには自分に嘘をつかなければならないという心の現実、 そしていかなる外面行動を行おうとしても、そこに「自分への嘘」がつきまとい、自分がそれを 激しく嫌悪していることを、感じ取るかもしれません。
あるべきものがある世界では、自分に嘘をつかねばならない。
であるからして、それに絶望して、
開かれた世界へと旅立つ。
その絶望とは「自分に嘘をついて愛することはできない」ということ。 自分に嘘をついた時、私たちは自ら愛する事が根本的に出来なくなる。 それは、価値を感じなくなってしまうということなのです。
<勝手にまとめてしまっている部分もありますが、以上引用>
という事ですが、 疑問となるのが以下の部分です。
●自分だけに注がれる特別の目がない。なぜなら「人物」をあまり問わない世界だから。 価値ある行動をすることができれば、人物を問うことなく評価されるが、その場限りである。 人々は「身内」ではなく、「他人」なのである。 それぞれが別の存在として、それぞれが唯一無二の方角へ向かっている世界なのですから。
⇒開かれた世界が人物を問わないというのがよくわからない。 定められた姿を守らなければいけない環境よりも、開かれた世界で自己の純粋な 個性を発揮できれば、元いた存在の規律のある世界の人々からは嫌われたり、 のけ者にされる事は考えられても、嘘のない姿に惹かれる人々が出てくる事が 考えられる。 そうならば、そこで生まれるつながりは「他人」というほど遠くない 、むしろ特定の「人物」として評価を受けるし、それは一過性の評価ではない事も 多いのでは?
⇒続いて、自分に嘘をつくと人を愛する事ができないということについて。 それは、価値を感じなくなってしまうことだ、と。 これは、嘘をついて演じている自分で関わらねばならない人を愛せないということなのか? それとも、嘘をついている自分がいる以上、他人全般、あるいは世の中のほかの様々な物に価値を感じなくなるということなのか?
⇒さらに、頻出する「嘘をついて愛される」について改めて整理したいです。 これは、「あるべき姿」を演じなければならないという事。
まず、集団は
?@存在の規律のない集団(開かれた世界の集団) ?A存在の規律のある集団(閉ざされた世界の集団)
実際は相対的な違いなので、度合いの違いになるかと 思いますが、こう分けられます。
存在の規律の濃い集団、はそれぞれ規律の内容が違います。
それぞれの 集団内において、愛される事を目的にした時に、 存在の規律に合致した条件を持つ人物は自分に嘘をつく必要はありません。 なぜなら、ありのままの自分で愛されるから。 一方、集団において、存在の規律に合致した条件を持たない人物は、自分を偽る 必要があります。
⇒つまり、存在の規律に合致した条件を持つ人物は、 閉ざされた世界にいても自分に嘘をつかないでいられるということになりますね。 つまり、愛する事も出来る。
「偽る」というのは如何なるものか?
⇒「趣味?」「性格?」「キャラクター?」
ここで、存在の規律に合致しない人物は、 ?@集団内で自分を偽る事に成功する ?A集団内で自分を偽る事に失敗する のどちらかになります。
?Aの場合は、集団内で愛される事が出来なくなります。 ?@の場合は、集団内で愛される事は出来るが、 いくら愛されても「偽りの自己が愛されている」だけなので、 自分から愛する気持ちは持てません。よって、愛されている事にも 価値を感じる事が出来ないし、 嘘をついて愛されようとする「傲慢さ」に無意識に苦しみます。
そこで、どっちにしてもその現状を打破したいという 欲求が出てきます。その時、嘘をつかずにいれる集団に入る事が 考えられます。
?@「存在の規律」の条件が、自分の持っている条件に合致する集団に入る。 ?A「存在の規律」がない集団に入る。
?@が成功した場合、その人は自分を偽らずに済むので、閉ざされた世界に いながら、その集団の人を愛する事が出来ます。 ?Aの場合は、開かれた世界にいるので、人を愛する事ができます。
⇒ここまで整理して、開かれた世界に行かなくても、 より自分の性質に合致した閉ざされた世界にいれれば 愛されながら愛する事が出来るのではないだろうか?という疑問が沸く。 つまり閉ざされた世界にいながら「嘘」の自分じゃない自分でいられる ということです。
●自分の経験として、開かれた世界を価値観として持った集団は、 怖いです。なぜなら、そこではそれぞれの人が「何がしたいか」ということと 「自発性」を持って関わりあっていて、自分にはそれが欠けているからです。 いわゆる、学校で良い子ちゃんをしていたような人は少なく、 それぞれがそれぞれの趣味思考があって、芯があって。 「何をすればいいのか」という正解探しの姿勢では、浮いてしまう。 これは、僕には「自発性」「自立性」の「存在の規律」に感じられる。 「存在の規律」を人に対して課さないという「存在の規律」みたいな。
「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを認める」 ことが開かれた世界の性質だとすれば、上記のような感覚を持つ集団は 「開かれた世界」の集団ではないのかもしれません。
あるいは、「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを 認める」という性質を持っているのに、自分が勝手に人間として自分の方が 圧倒的に劣等だという見方をしてしまっているだけなのかもしれません。
●嘘を許す姿勢が、重要な選択になってくる。
人が弱く不完全な存在である時、どうしても「嘘」をついてしまう場面が 出てくることになります。 嘘を決して許すまいとしたとき、人は「嘘」をさらに「嘘」によって隠そうとし はじめるからです。「嘘」を許さない姿勢によって、「嘘」は深まるのです。
⇒上記、存在の規律、における「自分に嘘」をつく、 あるいはここの部分の「嘘」。「嘘」というのがよく出てきますが、 抽象的でわかりません。 ハイブリッドで述べられている嘘とは何なのでしょう。性格を偽ること?キャラクターを偽ること?思っているのと違うことを言うこと?自分の欲求をごまかすこと? 出てくるごとにバラバラなものを指しているのかもしれませんが、 「嘘」というワードになって漠然としてしまってわからない感じがします。
一連の「閉ざされた世界」から「開かれた世界」への選択、 「嘘」を許すというのはどんな時のどんな嘘をどう許すという事なのか? 例えばある特定の人物のストーリーとして、対比的に描かれていればより理解できる気がし ます。
というのは難しいかもしれませんが・・・・ |
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No.947 2014/08/06(Wed) 10:35:53
「2つの心の世界」
まず言葉の理解から整理しますと、「開かれた世界」「閉ざされた世界」というのは、 『入門編下巻』の「5章 3つの心の世界」 で書いているものになりますね。
でそれが何を言っている話かと言うと、 ・人と人との絆を得ようと、あるいは保とうとする仕方に現われる「病み」と、そこから抜け出すためにまず目を向けるべき世界 という、かなり特定テーマについての話だと理解頂くとよろしいかと思います。
そこにおける「病み」とは、 ・「こうであれば愛してあげよう。そうでなければお前は生きる資格がない」というような「存在の規律」「存在の裁判」という心の世界 であり、 ・それに適うよう、自分に嘘をつくことで愛され生きようとする心の世界 です。これが「閉ざされた世界」。
そこから抜け出すために、「開かれた世界」に目を向ける、という話になります。 それは人物を問うことなく、生み出すものにおいて尊重される世界であり、一方、自分だけに特別に注がれる目のない世界だ、と。
これはあくまで、「病みからの抜け出し」の際に人が目にするものを描写しているものであり、「病み」がなければ(気づかなければ)、あるいはそこから抜け出そうとしなければ、特にそうした2つの世界の対比を意識することもないかも知れない、という話にはなりますね。
「3つの心の世界」
でさらに先を話しますと、そうして「閉ざされた世界」から抜け出すために「開かれた世界の行動法」を学ぶのですが、「開かれた世界」は「自分だけに特別に注がれる目のない世界」であり、そこで「愛」を得ようとし、「自分だけに特別に注がれる目」を再び欲した時、心は「閉ざされた世界」に再び向かってしまう、という流れを説明しています。
つまりこの「閉ざされた世界」と「開かれた世界」という2つの世界の行き来だけでは、答えが出ないという話です。 そこに第3の心の世界が現われる、と。 それが「魂の世界」になる、という話になります。
かなり難解かと思いますが、その先を説明しているのが ・『入門編下巻』のその後の部分 ・『概説 - 4.心の成長変化(1〜4)』 とうことで説明はそちらに譲り、
実践面においては、重要なのは、 ・「閉ざされた世界」と「開かれた世界」の対比をしっかりと見据え、外面においては「開かれた世界」の建設的な行動法で生きる模索を始める という部分になると思います。 それによって「心の成長」が始まり、「心の成長」によってその人の心における「閉ざされた世界」「開かれた世界」「魂の世界」の勢力関係の全体が変化していく、という流れです。「魂の世界」が次第に優勢になる、とここでは手短に言っておけるかと^^。
「2つの心の世界」への疑問質問へのコメント
まずはざっとそんな話の全体だという前提で、ご質問にそれぞれ簡潔にコメントしますと、
>⇒開かれた世界が人物を問わないというのがよくわからない。 >嘘のない姿に惹かれる人々が出てくる事が考えられる。そうならば、そこで生まれるつながりは「他人」というほど遠くない 、むしろ特定の「人物」として評価を受けるし、それは一過性の評価ではない事も多いのでは?
「人物を問わない」というのは、「閉ざされた世界」からの「抜け出し」の局面(言わば直後)において鮮明になる様相だと言えます。 もちろん、「新たな場」で時間が経つほど、「人物への認識」は強くなってきます。そこで嘘のない面で評価され愛されるのであれば、それに越したことはない。 しかしそれで済まず、再び「愛されるための自分への嘘」に直面し、再び「抜け出し」が必要になるかも知れない。その繰り返しです。 そこで重要なのは「抜け出し」とは必ずしも外面においてその社会や集団を抜け出すということではなく、まずは内面において抜け出すということです。自らに積極的に自分に嘘をつく姿勢から抜け出す。その上で、その社会や集団と建設的な関係を続けることを、まずは模索する。 こうした模索の積み重ねで、心が成長変化します。
>⇒続いて、自分に嘘をつくと人を愛する事ができないということについて。 > これは、嘘をついて演じている自分で関わらねばならない人を愛せないということなのか? それとも、嘘をついている自分がいる以上、他人全般、あるいは世の中のほかの様々な物に価値を感じなくなるということなのか?
両方です^^。
>まず、集団は ?@存在の規律のない集団(開かれた世界の集団) ?A存在の規律のある集団(閉ざされた世界の集団) 実際は相対的な違いなので、度合いの違いになるかと 思いますが、こう分けられます。
「存在の規律」と呼んでいるものと、「組織の規則」あるいは「参加の条件」というもの一般の違いを、まず理解すると良いでしょう。 「存在の規律」は、「こうでなければ存在を許さない」というもの。 「組織の規則」「参加の条件」は、ただ単に所属のための条件やルール。そうでなければ、その組織や集団からは抜ける必要があるが、その先にどう生きるかは自由。「存在の規律」は、そうした自由さえも認めないものです。 「存在の規律」が強い集団は、病んだ集団です。「カルト宗教集団」にそうしたのが多いかもですね。
>⇒つまり、存在の規律に合致した条件を持つ人物は、 閉ざされた世界にいても自分に嘘をつかないでいられるということになりますね。つまり、愛する事も出来る。
これはその通りで、上述の??「病み」がなければ(気づかなければ)」??の??(気づかなければ)?≠ノ該当するということになるかも知れませんね。 ハイブリッド心理学では、あくまで本人が病みに気づき自ら抜け出すという段階からを取り上げていますので、それについて特に言うことはありません。
>⇒ここまで整理して、開かれた世界に行かなくても、より自分の性質に合致した閉ざされた世界にいれれば 愛されながら愛する事が出来るのではないだろうか?という疑問が沸く。つまり閉ざされた世界にいながら「嘘」の自分じゃない自分でいられる ということです。
それができていれば、上述の通りハイブリッド心理学から言うことは何もありません。 現にそうはできない、というところから、ハイブリッド心理学としては取り組みを始めます。
>自分の経験として、開かれた世界を価値観として持った集団は、怖いです。なぜなら、そこではそれぞれの人が「何がしたいか」ということと 「自発性」を持って関わりあっていて、自分にはそれが欠けているからです。 >これは、僕には「自発性」「自立性」の「存在の規律」に感じられる。「存在の規律」を人に対して課さないという「存在の規律」みたいな。
正真正銘の「閉ざされた集団」の方が、ずっと怖いと思いますヨ^^; カルト集団とか、暴力で支配された集団とか^^; いずれにせよ、「自発性」があって関わることができるというのは、「存在の規律」とか「参加の条件」以前の、人間の宿命もしくは摂理、もしくは自明の法則とも言えるもので、まず自分が何をしたいかというものを持つ。次にそれが集団の「参加の条件」に合致しているのであれば、大いに参加を検討すればいい。合致しないのであれば、その集団への参加は諦めなければならない。 そうして、まず自分が何をしたいかという「自発性」「自立性」によって、自らの進路を定め歩んでいく、ということになると思います。それができるのが自由であり健康ですね。
いずれにせよ実践的には、「存在の規律」に見えていたものを、自分自身の内面でそう解釈しただけものであり、実際の外界には「開かれた世界」の面があることを、まず捉えることからです。そして「開かれた世界の行動法」を学び実践していく、という順番になります。
>あるいは、「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを 認める」という性質を持っているのに、自分が勝手に人間として自分の方が 圧倒的に劣等だという見方をしてしまっているだけなのかもしれません。
そいういうことだと思います^^。で、そうした内面感情については「ただ流し理解する」のみとし、「生み出すことによる自尊心」へと、姿勢論精神論ではなく、日常生活と社会生活における具体的場面で取り組んでいくのが実践になります。いつかそうした具体的場面ベースでの自尊心が、人と自分の比較による優越感劣等感といったものを超えていく、と。
>ハイブリッドで述べられている嘘とは何なのでしょう。性格を偽ること?キャラクターを偽ること?思っているのと違うことを言うこと?自分の欲求をごまかすこと? >一連の「閉ざされた世界」から「開かれた世界」への選択、「嘘」を許すというのはどんな時のどんな嘘をどう許すという事なのか?例えばある特定の人物のストーリーとして、対比的に描かれていればより理解できる気がします。
「愛されるために自分に嘘をついていた」と自覚されるものの全てです。 「嘘を許す」とはそうして「嘘をついたこそ」そのものへの批判糾弾は、しないということです。嘘によって起きた「実害」そのものについては、しかるべき処罰があったとしても。これは『入門編下巻』P.171で説明した話ですね。
ストーリーを一つあげるなら、こんな感じ。ある若者が、友達に好かれるようなキャラを演じていたが、そこに無理があり次第に苦しくなる。そしてそのキャラが、自分への嘘であったのを自覚する。そして友人達の輪に入るのが怖くなり、できなくなる。 「嘘を許す」とは、この若者に対してその友人達が、「なんだお前は、いかさま野郎だったのか、許せない」と攻撃を仕掛けてくるようなことはせず、この若者が輪に入らないことをただ黙って見守る、ということです。そしてその若者は、無理をして友達の輪に入ることからはいったん退却し、本当が自分が何をしたいのかに向き合う日々の先に、嘘のない自分で人と接することへと向かっていく。 そんなストーリーになりますね^^。 もちろん、それがその友人達の輪に再び入るという結末になるのか、それはもうなかったという結末になるのかは、人それぞれが唯一無二の未知になりますね^^。 |
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No.948 2014/08/08(Fri) 17:12:27
下巻135ページより。
開かれた世界だけで生きる事に徹しようとした時、空虚となる。
深みを欠いた、刹那的、もしくは機械的で些末な事柄に心を奪われて生きるだけの繰り返しです。 それは人生を失うに等しいことです。
→なぜそうなるのでしょうか。 理由と具体例があればお願いします。 |
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No.949 2014/08/13(Wed) 12:04:57
「開かれた心の世界」とは「人物を問うことなく、生み出すことで尊敬される世界」であり、それは同時に、特定の相手との深いつながりは、まだない世界です。 ですので、「開かれた心の世界だけで生きることに徹しようと」という表現を使うような姿になった時、それは誰とも深いつながりは持たないという生き方になってきてしまいます。 それは「空虚」だ、という表現。 これで説明になりましたかどうか^^。
具体例で言えば、前コメントで「ストーリー」として書いてみた話で言えば、友達に好かれるよう演じていたキャラに無理があり、苦しくなり、いったん友達の輪から離れ自分をみつめる。 そこから、「開かれた心の世界」の中で、自分に嘘を演じることなく人と親しくすることを学んでいければいい。そこから再び、特定の相手との深いつながりの模索へと向かうことになるだろう。 ところがそこで、もう特定の相手との私的な関わりは面倒、仕事だけして生きていければいい、といった生き方思考になってくると、そこで言う「開かれた心の世界だけで生きることに徹しようとする空虚」になってきますね、といった具体例を言えます^^。 これで説明になりましたかどうか^^。 |
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